【14】 鉄分補給名松線&アルコール分補給2010.5.29

 乗務員をやっていると、盆正月でも仕事は普通にありますし、休みも取りにくいものです。その習性かどうか定かではありませんが、普通の仕事をしている今でも、我が家には正月に初詣に行く習慣がありません。そもそも混雑の中に身を置くことを好みませんから、少し空いたころに、思いつきで「初詣」に出かけるのです。行先は決まっていないのが普通です。今年も初詣に出かけないまま5カ月が過ぎようとしていますので、家内と伊勢神宮へ初詣?に出かけてきました。  伊勢まで行くのであれば、その途中に私としては寄り道したいところがあります。    家の晩酌用の酒がなくなってきたので、日本酒の買い出しに行く必要があるのです。通常1日1合未満しか飲めない(体が受け付けない)アルコール不耐症ではあるものの、ないとさみしいので出かけた先で地酒を買ってくるのですが、最近遠出をしていないので補給が必要です。  そんなわけで、買っておきたい酒があるのです。名松線の終点伊勢奥津の駅近くに酒蔵があるのを一昨年乗りに行ったとき確認をしてあったものの、昨年の豪雨で名松線の家城~伊勢奥津間が長期不通となってしまいました。その後JRはこの不通区間廃止の意向を地元に伝えてきたのでした。代行バスは運転されていますが、本数も少なくて行けるときに行っておかないと、行けずじまいになりそうなのです。  そんなわけで家内と二人、松阪で途中下車し名松線家城行の乗客になりました。松阪からの乗客は6人で、その内訳は我々2人のほかに明らかに乗り鉄とわかる男性…

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【13】 日本酒のラベル

 鉄分が多いと、必然的によく出かけることとなります。よく出かけることは自動車が好きな人も同じでしょう。  私も鉄道が好きで、国鉄在職中はなぜか自動車も好きだったために、モノレールしかない沖縄県以外はすべての県に足跡をしるした人間です。ただ私が住んでいる東海地方とその周辺部以外は、移動手段(←目的だったりします)が鉄道である場合がほとんどなので、その地へ行けばほとんどの人が必ず立ち寄るような有名観光地には、あまり行っていないのが実情で、言わば「駅前旅行者」です。このへんの事情が自動車で出かける人たちとの違いでしょう。自動車ならサービスエリア、ドライブイン、郊外の有名観光地も自由気ままに訪問でき、その土地の名産品やおみやげに出会えるのです。  今や、地方の駅前商店街は寂れ、駅前スーパーも閉鎖といった場面によく出くわすものです。日本は交通機関の発達と情報網の発達で狭くなり、地方色が薄れました。「その土地でしか流通していないもの」=「来訪した記念品として買うべきおみやげ」だと思うのですが、そういったものも少なくなっていると思います。 そんな中、駅前あるいは駅からの徒歩圏内に、多く存在するのは酒屋です。観光地でない小駅に降り立ってもみやげ物屋はないけれど酒屋は意外にあるのです。そしてそこには土地の人たちのための、着飾ることもない日本酒の地酒が置いてあることが多くあるのです。  いずれも個性的な毛筆の文字で商品名が書かれ、写真や絵が描かれ、芸術的な趣さえ感じさせます。 上から、青…

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【12】 自動車

 国鉄在職中には、仕事で鉄道に乗っている反動からか、鉄道には天敵である自動車の魅力に取りつかれた時期がありました。自動車の免許を取得すると格段に行動範囲が広がります。通勤をはじめ、列車で行けばいいところを、わざわざ自動車を運転して出かけたり、用もないのにドライブに出かけたり。用もないのに乗り鉄するのと同じ感覚でしょう。  深夜や早朝の電車のない時間帯に仕事が終わったときも自動車があると便利でした。貨物列車に乗務していた頃には、深夜3時ごろ勤務が終わることがありました。こういう勤務のときは職場の休養室で朝まで寝てから帰るのが普通でしたが、自動車があると渋滞もなく夜明け前には家に帰ってゆっくり寝られました。  そもそも国鉄職員には勤続年数や職歴によって、その範囲は違ってはいるものの急行自由席までなら無賃で乗れる乗車証が支給されていたのに、高いガソリン代を負担して出かけたりしたものでした。それでも自動車は単なる移動手段でなく運転することが楽しみになっているのです。そんなわけで国鉄在職中には鉄道旅行はあまりしていません。20代でまだ若かったせいもありましょう。たいてい旅行は自動車利用でした。  鉄道写真の撮影には自動車は重宝しました。 これは中央西線のEF64ですが、飯田線などの撮影では少ない列車の追っかけができましたから自動車は特に有効でした。中央自動車道恵那山トンネルの完成で飯田が近くなると、自分の中では豊橋か辰野経由で長時間電車に乗ることなく、中京地区からは鉄道とくらべものにならな…

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【11】 さようなら日本国有鉄道

 これまでのブログをご覧いただいた皆さんには、10年ちょっとの年月の間に私が数々の列車に乗務員として勤務してきたことをおわかりいただけることと思います。まさに国鉄が国民の足としての地位が凋落していく時期に在職していたわけで、鉄道好きではありましたが、ひととおりの列車に乗務できたことと、鉄道の将来性、労働条件その他を考慮し、転職の途を選ぶことにしました。今にして思うと貴重な体験ができたと思うし、なにより自分の好きな道であったことができて有意義な年月であったと言えましょう。  ご覧いただいている皆さんは昭和62年3月31日をどのようにお過ごしだったのでしょうか。  あの日私は年休でした。最終乗務はすでに3月28日に終えていました。国鉄最後の日の列車を記録するような元気もなく多くのテレビ局が国鉄最後の日の特集番組を組んでいましたので私もその多くを録画しておりました。  自分はJRの社員にはならないわけで、今後のJRの行く末には特段期待も持っておらず、国鉄が無くなること自体に悲しく悔しい気持とともに、翌日から勤務する新しい職業への不安も同時に持っていたのでした。  このオレンジカードは退職者も含め、このとき名古屋鉄道管理局に所属していた職員に配られたものです。後日給料の受け取りだったか何かの手続きのため国鉄清算事業団中部雇用対策室という「所属」へ行ったときに渡されました。私の場合、民営化後1年間は国鉄清算事業団からの派遣扱として某会社に勤めておりましたので、その間は国鉄清算事業…

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【10】 最後の乗務

 昭和62年3月28日、私にとって最後の乗務の日でした。前日の特急しなの15号で長野に来ていましたので、長野発6時04分発「しなの2号」で名古屋までの乗務でした。春休み中とは言え、早朝の列車なので長野を発車して車内へ入ると、乗客の数は少なく、その中に種村直樹さんと思しき方が乗っておられました。(お声を掛けたわけではないので違っていたかもしれません)  今でも忘れられないのは、その車内でつまづいて転んでしまったことです。車内で転んだというのは、初めてではないかと思います。しなの号は振り子式車両といって、車体と台車の間にコロがあり、振り子の原理でカーブでも高速で走ることができる電車でしたので、構造上、大変よく揺れる電車でした。走行中に通路を歩くとよろけます。しかしプロの乗務員が転ぶのはちょっと恥ずかしい話です。乗客が少ないのがせめてもの救いでした。  最後の乗務の記念に、乗務終了直前に車内補充券を自分のために発行しました。(もちろん自分で料金は支払い売り上げとして計上しています。)こうした車内補充券も今では見られなくなって久しいものです。  終着駅名古屋には9時24分に着き、売上金を引き継ぎ、いつものように帰着点呼を受けてすべてが終わりでした。  乗務を終えてもまだ午前中ですので、支給されている無料の職務乗車証を使って最後に関西線で桑名まで往復してきました。特に桑名に用事などはないのですが、今後はどこへ行くにも「運賃を支払わないと列車には乗れない」のです。なじみの深い165…

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【9】 初めて発行した切符

 RAILWAYS試写会に行ったことは前回記しました。 主人公は東京にある大手企業の取締役ポストを目前にしたエリート社員でリストラも担当していました。島根で一人暮らしの母が倒れ、時を同じくして、同期で親友の工場長(主人公がまかせられたリストラでその工場は閉鎖された)が交通事故で死亡するといった事実に出会ったことをきっかけに会社を49歳で退職し、子供のころ夢だった故郷島根の一畑電鉄の運転士になるのでした。  映画の中で、主人公が運転士になって初めて運転した電車が終点に着き、指導の運転士が改札口で集札した使用済みの切符を主人公に初乗務の記念に渡すというシーンがありました。なんの変哲もない1枚の切符ですが主人公の家にはそれが大切に飾ってありました。自分も同じように車掌になって初めて発行した切符は今も保存しています。  これです。私の車掌になって2行路目(武豊線乗務の初日)、私の列車に乗っていて無人駅の尾張森岡駅で降りるお客さんが、乗り越し不足額の精算をした切符です。自分で発行し自分で無人駅で集札したので手元に残すことができました。このように車掌が発行する切符は「車内補充券」といって、手書きであらゆる種類の切符が車内で発行できる様式になっていて、控え片との2枚複写方式でした。本来は控え片とともに無人駅で集札した切符も乗務終了後職場で回収されるのですが、記念に1枚いただいたものです。  当然ながら、控え片は売上金とともに乗務終了後に職場へ引き継ぎますので、絶対もらえません。控え片と現金の…

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【8】 鉄分補給 RAILWAYS 2010.5.18

 5月18日 名古屋へJR東日本の「いろどり(彩)」が先週に続き顔を見せました。  私はコンデジ使いなので、ろくな写真が撮れないことはわかっているのですが、構わず出勤途中に寄り道をして、撮ってきました。  朝から鉄しての出勤もいいものです  でもこの色彩感覚・デザイン感覚 私にはどうも  485系の車体形状そのものに、かつての特急時代の面影が残っているから、なおさら私にはなじめない。私は昭和の国鉄人間?なのでしょうかね。  それにしても、ふだんお目にかかれないお客さんの来訪はちょっとうれしいですね。 そして仕事の後はこれです! 今月29日ロードショーのRAILWAYSの試写会に行ってきました。 49歳で電車の運転士になった男の物語です。 感想などは後日ということで。 昨日は充実の一日でした

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【7】 臨時列車

 私の所属していた職場では、専務車掌になると臨時列車も乗務することになっていました。  臨時列車は多客期に運転される波動輸送対応の列車のほか、試運転や車検の際の工場入出場列車、新車の所属基地への回送、ダイヤ改正時ほかの車両の転属、廃車回送、修学旅行等の団体列車など多くの種類があります。  たとえば以下のような列車なのですが、今回貼らせていただいた写真の列車は、いずれも自分が乗務したものではありません。休日等を利用して撮影したものです。 団体列車の例で、これはお座敷列車です。写真の列車は悲運のお座敷列車「みやび」です。国鉄末期の昭和61年12月、山陰本線の余部鉄橋上で強風にあおられて転落し、乗務員と下敷きになった工場従業員の方々が死傷し、車両もデビューから1年もたたずに廃車となりました。事故当時私も現役専務車掌であり、また退職を決意していた時期でもあったので強く印象に残っています。 新車の試運転列車の例で、これは国鉄末期に四国で使用するために新製されたキハ185系特急気動車です。メーカーから回送されたあと、東海道本線で試運転をしたときの1枚です。試運転の内容は知りませんが性能試験ではなかったかと思います。撮影場所は名古屋駅で東海道線下り方面に向かい、再び名古屋へ戻ってくるダイヤだったように記憶しています。 これも試運転列車ですが、新車ではありません。通常は紀勢本線で運用されている日根野電車区の381系電車が中央西線に入線し、台車やパンタグラフなどの機器を改良…

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【6】 特急列車・急行列車

普通列車の車掌を約3年務めたあと、同じ職場で「専務車掌(客扱)」の職名になりました。 車掌の延長線上にある職務で、特急・急行列車にも乗務することになりました。長距離列車の勤務が加わるわけで、乗務範囲も広がり、接する乗客のみなさんも通勤通学客や近距離の用務客とは異なり長距離を「旅行」する方々と接する機会が増えてきます。規則、駅名や線名、乗継駅をはじめ、これまで以上の知識が求められるものでした。 退職直前に着用していた腕章です。年月を経て汚くなっていますが、乗務当時のまま、あえてクリーニングなどせず保管しているものです。 私の場合は当時まだ20代で駆け出し専務でしたので、通常は相変わらず普通列車や快速列車主体でしたが乗務する範囲は支線系がほとんどなくなり、幹線系が主となりました。特急列車の乗務は通常、月1度381系しなの号1往復だけでした。 しなの号は当時9両編成。グリーン車にある乗務員室に、列車全体の責任者車掌長と車内改札を専門に受け持つ専務車掌(運用上車掌長職)が乗務し、最後部車両運転室に私ども専務車掌が乗務して「運転業務」を兼務していました。国鉄分割民営化によって乗務員を辞めるまで、特急列車に関してはこの381系しなの号を主に乗務しました。急行列車はもうこの時点では特急に格上げされてかなり減少していましたので、実際に乗務したのが臨時の「きそ」165系ぐらいです。それでも当時の中部地方には、新潟行きの「赤倉」、高山線の「のりくら」などが急行列車として長い編成で走…

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【5】 普通列車・快速列車

 約1年半貨物列車に列車掛として乗務したあと、転勤があり旅客列車の車掌になりました。  東海地方の主な国鉄線に乗務していました。すべてが今とは隔世の感があります。いずれ詳細は改めてご紹介することとしますが、時期的には関西線の亀山電化、東海道本線に117系電車「東海ライナー」運転開始、そして名古屋始発だった581・583系「金星」号が廃止された前後のことでした。 国鉄時代の117系。当時として画期的な車両として迎えられました。乗客はもちろん乗務員からも歓迎されました。 まだ現在も現役なのがうれしいです。写真のように当初は中京地区でも6両編成で登場しました。 こちらは、113系。これが当時いちばんポピュラーな車両でしたが、非冷房車が大多数でした。  接客業務と車内切符の発行精算、無人駅での切符の回収など、基本は列車掛の養成課程で教わった事でしたが貨物列車の1年半を経ていますし、また1から覚えるようなものでしたが、「車掌」の白い刺繍の文字が入った赤い腕章を着用しての乗務は晴れがましいものでした。 国鉄時代に発行されたオレンジカード。下の図柄には車掌の腕章がデザインされています。駅長はじめ駅の助役や運転主任が着用した帽子の赤い色も車掌の腕章の赤と同様、運転業務担当の意味があるものと思われます。  車掌にはなりましたが、乗務できたのは特急急行といった「優等列車」ではなく、快速、普通、回送列車ばかりでした。ただ回送ではありましたが、381系しなの号の入出庫列車もありま…

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【4】 連休明けの時期

この時期は天気が変わりやすいですが、晴れると過ごしやすい気温で湿度もそれほど高くなく、特に信州などに行くと、残雪を頂いた山々と咲き誇る幾種類もの花々に彩られる時期です。  こういう時期の乗務は清々しくてよいものです。 国鉄に就職した年、4月は机上講習で、5月のこの時期には荷物列車で見習乗務中でした。東奔西走おっかなびっくり冷や汗たらたらでした。教導の先輩に「若い衆!これがリンゴの花だぞ」と教わった姨捨。白い花がいっせいに咲いていて、はるか下には千曲川が流れているのでした。    この時期になると長野に行ってみたくなるのです。姨捨の展望は日本三大車窓の一つとされています。その高い所にある駅のさらにそのまた上に、今では長野自動車道ができ、サービスエリアからさらにすばらしい展望が楽しめるようになりました。でも鉄道びいきの私は、スイッチバックに惹かれ、いつも鉄道の旅です。ただ今年は風邪がちっとも治らないので出かけられず、画像は何年か前の姨捨の展望ですがリンゴ畑は写っていません。  信州は四季を通じてそれぞれ見所があります。そんな中を自分がしなの号に乗務して、車内改札も終わって最後部の乗務員室から眺める山河に心が癒されるものでした。  信州のなかでも大糸線沿線の山々は最高ですが、残念ながら大糸線へ乗務することはありませんでした。381系しなの号は白馬まで、時には南小谷まで直通運転されていましたが、我々乗務員は松本で交代でした。 画像はしなの号ではなく、スーパーあずさです。3年前の連休…

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【3】 貨物列車

 荷物列車には約3年乗務し、その間に「列車掛」の養成課程の試験を受けました。列車掛とは車掌と検査掛を統合した国鉄の合理化による産物で、それまで貨車区の検査掛が行っていた貨物列車の始発時と途中駅での足回りを始めとする点検や故障時の応急修理を乗務員である車掌に行わせるという職種でした。  車掌は国鉄の職種を大きく分類すれば営業職に当たりますが、列車掛は技術職の一面をも持ち合わせるわけで、その養成は4カ月半に及び全寮制の教育施設で行われました。この課程を修了すると列車掛見習として貨物列車に見習乗務することになります。列車掛になれば、検査業務のない車掌もできるわけで、専務車掌、車掌長といった道が開かれたことになります。列車掛も車掌も、これまでの乗務掛と大きく違うのは「運転業務」を担うことにあります。「運転業務」といっても直接列車を運転するわけではありません。列車の運転上の責任を負うことを言います。いわば列車の運転上の責任者となりうるわけです。これまで乗務してきた荷物列車には専務車掌(荷扱)という職名の方が1人運転業務を兼務していました。車掌のことを部内の電報略号で「レチ」と言いますが、「列車長」が語源のようです。 現在の貨物列車には車掌も列車掛も乗務していませんが、当時の貨物列車には緩急車が最後尾に連結されて列車掛が乗務していたものです。緩急車とは緊急時などに乗務員がブレーキ操作できる設備のある車両で、車掌室と緊急停車させるための車掌弁や後部標識灯(テールランプ)など必要な装備がされていました…

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【2】 荷物列車

私が国鉄で最初に就いた職種は「乗務掛(荷扱)」でした。荷物車に乗務して車内で荷物の仕訳作業をする仕事でした。 今では、その存在すら忘れられた「荷物列車」。貨物列車ではありません。 貨物列車は最低単位として車両1両単位(今はコンテナ1個単位)で荷主があるわけですが、荷物列車は営業上も車両構造上も分類は貨車ではなく客車になります。その昔、乗客の大型手荷物を乗客と同時にその列車に併結の荷物車両に積んで運んでいたのが起源でありましょう。その積載余力で荷物だけを「小荷物」として1個単位で輸送するサービスもありました。今の宅配便に当たります。その後は客車列車の電車化気動車化で荷物車の旅客列車併結が困難になったり、荷物の積卸時間がかかるのでスピードアップの妨げになること、手荷物の需要が減り小荷物の割合が増し、乗客の動きと荷物の動きが一致しなくなったことなどで、「荷物列車」として単独で運転されることが増えてきていました。 当時の荷物専用列車です。 中央西線の坂下~田立間での撮影です。EF64電気機関車が5両の車両を牽いています。機関車直後は郵便荷物車スユニで後4両は荷物車マニです。スユニは半室が郵便室で、ここには国鉄職員ではなく郵政省職員である鉄道郵便局職員が乗務していました。 時代背景がわかるよう、このとき撮った他の写真を貼ってみましょう。 80系電車です。当時の…

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【1】 はじめまして(^o^)丿

本日、ブログデビューしました どうかよろしくお願いいたします。  幼少のころから鉄道好きで、当時の国鉄に就職し、10年少々。昭和62年の国鉄分割民営化を機に思い切って退職いたしました。まったくの畑違いの職業に就き現在に至っていますが、鉄道好きは変わりません。    国鉄が解体され23年。写真や手持ちの資料・模型を交えて、国鉄当時の仕事の内容や、思ったこと、さらには最近の鉄分補給状況や、まったく鉄道とは関係ない自分の趣味の紹介も含め、徒然なるままに進めたいと思っております。 ところで今日で大型連休も終了です。2年前の2008年は5月6日が大型連休最終日でした。そして神領車両区(国鉄当時は神領電車区)所属の381系が最後の運行を終えた日でもありました。晩年はほとんど毎日車両区の片隅で隠居している身で、多客期の臨時や団体輸送だけに活躍していました。お別れの行事もなく、静かな最期でしたが、その日私は多治見~名古屋間の短区間ではありましたが乗車してお別れをしてきました。381系は私が国鉄在職中最後の乗務列車となったので思い入れがあるのです。 2008年5月6日、この日最後となるしなの号の運用に就く381系です。また国鉄の面影が消えてゆきました。 臨時列車で、走りはのんびり。振子車両らしい走りはありませんでした。 翌5月7日朝、浜松工場へ帰らぬ旅に出たそうです。

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