【29】 国鉄貨物列車の編成例(関西本線263列車)

 前回記しましたように、国鉄では全国ネットで貨車1両単位での営業をしていました。  実際に、当時乗務した列車の編成を記録してありますので、ご覧に入れます。実にさまざまなところからの貨車が集まって一つの列車を形成しているのがおわかりいただけるかと思います。 昭和55年10月19日~20日 263列車 東海道本線~関西本線 稲沢~亀山間乗務 DD51   890(稲1)  ヨ     8589 (新ニソ) ワラ   15498  速 星―阿田和 ハワム183448  北 見―奈 良 ワキ   5645  宮城野―松 阪 コトラ  49052  小野新町―新 宮 ハワム186520  宮 下―伊勢市 トラ   70926  焼 津―松 阪 ワム  65784  倶知安―宮 川 ハワム 88926  倶知安―宮 川 ワフ  35667  名古屋―加佐登・亀山 ハワム282625  辰 野―伊賀上野 ハワム285877  辰 野―伊賀上野 ワム   6018   黒 井―新 宮  ヨ    8651 (金トソ) 今見て、私でも、どこにあるのかわからない駅名が続出です。 で、一応調べてみますと発駅はいずれも東日本方面で 速星は高山本線 北見は石北本線 宮城野は東北本線 小野新町は磐越東線 宮下は福島臨海鉄道 焼津は東海道本線 倶知安は函館本線 名古屋は東海道本線 辰野は中央本線 黒井は信越本線 の駅です。 着駅はいずれも…

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【28】 列車掛1:国鉄時代の貨物列車

 車掌も列車掛も、運転上の保安要員として乗務していることがお解りいただけましたでしょうか。保安要員ということであれば、貨物列車に乗務していた列車掛は乗客が乗っていないから、走行中何も異常事態がなければ何もすることがないのでしょうか。 実はそのとおりなのです。  現在走っている貨物列車のように、行き先が列車ごとに決まっていて編成もほぼ毎日決まっているような貨物列車だと何もすることはないのです。当時も、コンテナ専用列車のほか石油、セメント、石灰石など1列車にまとめられるような大口の貨物は専用列車として運転されていました。そのような列車の場合に限って言えば、乗務中は何もすることがなく「ときどき列車の状態に注意」していればいいのでした。  今、JR貨物は大口の荷主だけを対象として特定の線区の特定の駅でだけ貨物営業をしています。指定列車で指定の貨物を輸送し、着駅への到着時刻が明確になっているわけですが、国鉄時代はそうではありません。当時は、相当多くの駅において貨物の取扱いをしていました。貨物取扱駅であれば日本全国どこへでも貨車1両単位での輸送をしていたわけです。 昭和51年 東神奈川駅ホームから見たEH10貨物列車です。さまざまな行先のさまざまな種類の貨車が連結されています。  貨物列車は多くのローカル線でも設定されていて、操車場や分岐駅ではその中継のため貨車の切り離しと連結作業(入換作業)が行われたのはもちろん、貨物営業駅を各駅に停車して入換作業を繰り返す貨物列車が必ず設定さ…

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【27】 貨物列車に列車掛(車掌)は必要?

 列車掛とは、車掌業務に検査業務を加えたものというのは、以前に記しましたが、そもそも貨物列車に乗務する列車掛の仕事とは、どんなものなのでしょう。  そのまえに、電車の車掌の仕事って、どんな仕事かと思いますか?  多くの人は、「切符拝見」とか「車内放送をする」「ドアの開け閉め」が思い浮かぶのではないでしょうか。  乗客の乗らない貨物列車には前述のような仕事は必要がありませんので、車掌や列車掛の必要性がないことになってしまいますね。事実貨物列車や回送列車など乗客の乗らない列車は合理化の過程の中でワンマン化で車掌(列車掛)は廃止されていきました。車掌や列車掛のもっとも大きな存在理由は、以前にも触れましたが「運転業務」なのです。ハンドルを握って運転するのではないですが、列車の異常がないことを確認して運転士(機関士)に発車の合図したり、非常時には列車を停止させる。要するに列車全体の責任者であるのです。運転士も車掌の発車合図による指示がないと動いてはいけないということです。  特に重要なのが「列車防護」です。運転業務を行う車掌あるいは列車掛は、たとえば踏切事故や脱線転覆した場合などに、隣接する他の線路を、転覆した列車やぶつかった自動車など障害物が支障して、併発事故の恐れがあるときは、直ちに定められたマニュアルに従って、併発事故を防止する手配を取るのです。通常、列車の後ろに乗務している車掌または列車掛は後方の防護を担当し、運転士または機関士が前方の防護を担当します。他の線路を支障してしまうような事故…

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【26】 MICRO ACE シキ800と昭和55年4月10日の岡多線の大物車

 地元でシキ800が動く姿を見て、貨物列車が気にかかるようになってきました。 そこで自宅でマイクロエース製のシキ800の写真を撮ってみました。  牽引はKATO製のEF64です。JR貨物色ですが模型はブルーが濃淡に分かれているタイプなので、今回実際に見たものとは少し違いますが、雰囲気は似たようなもんです(^^ゞ MICRO ACEというメーカーさんはユニークな車両を模型化してくれます。シキ800も一時期は市場から姿を消し、オークションサイトでプレミア価格で取引されていた時期がありましたが、近年再生産があり、この後はだぶつき気味なのか、量販店でディスカウント価格で売られているのを見ました。  私が列車掛をしていたときには、このシキ800ではありませんが大物車の乗務に当たったことが1度だけありました。残念ながら写真は撮っていませんが編成の記録は残っています。そのときの編成は以下のとおりです。 <<昭和55年4月10日>> 岡多線683列車 (運転区間乗務区間とも岡崎~北野桝塚)  EF65 37 (稲二)   ロ シキ 100     (発駅)日立 (着駅)北野桝塚   ヨ  13824 長シオ (発駅)日立 (着駅)北野桝塚   ヨ  14286 天シク   -        - (車票なし) 岡多線は現在は愛知環状鉄道の一部となっています。 機関車はEF65で稲沢第二機関区所属。当時は稲沢第一機関区にディーゼル機関車とその乗務員…

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【25】 仕事としての鉄道

 どれだけ鉄道が好きだといっても、仕事で「乗らされる」のと自分の意思で「乗る」とは大きく違います。行きたくないときに乗りたくない列車に乗らされるのは辛いことです。 乗務員の仕事は不規則極まりないものです。正月・お盆・連休など世間一般が休日を楽しむときは、むしろ書き入れ時で交通機関は混雑しますから、国鉄も臨時列車や増結で対応します。 これは国鉄最後の年末年始に運転されたカートレイン名古屋です。遊休の荷物車と当時の新鋭ジョイフルトレインであるユーロライナーの組み合わせで、乗客と自動車を同時に運ぶ、いわば陸のフェリーでした。JR化されたあとも何年かは多客期に運転されていました。  私がこの列車に乗務したわけではありませんが、このように臨時列車が運転される多客期は貨物列車を除けば仕事は忙しいし休みも簡単には取れないわけですから、出勤する時の気分がいいわけはありません。そういう時でなく、ふつうの日でも、1日が終わって皆帰宅する時間に夜行列車に乗務するために、出勤するときも同じような気持です。  不規則な勤務は家族をも犠牲にします。学校の運動会などの行事、自治会やPTAなどの役員会などが通常日曜日に開催されることがほとんどですが、乗務員の仕事は決まった曜日が休みではないですから、出ることができず、家族に出てもらったり欠席したりすることになります。子供を連れての家族旅行も、学校を休ませるわけにはいかないので、なかなか行くことができないものです。  もっと辛いのは、病気のときです。休めば…

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【24】 鉄分補給2010.6.19 大物車シキ800その後

 前回記しましたように、17日にシキ800のトランス積込作業の様子を目撃しまして、その後が気になり、18日朝出勤時に様子を見にいくと、すでにトランスが積みこまれているのを確認しました。  昨日19日は土曜日で仕事は休みでしたので、春日井駅へ行き偵察してきました。  まず午前中の春日井行き貨物列車673列車が愛知機関区EF64と新鶴見機関区EF65の異形式による重連でした。通常は新鶴見機関区EF65だけが牽引してくるのですが、このEF64がシキ牽引のために春日井へ送り込まれたようです。  春日井駅で転線入換作業中の673列車。こうしてみるとEF64とEF65はよく似ています。国鉄時代は塗色で遠くからでも判別できたものですが。  このあとEF65は折り返し670列車として王子製紙から発送のワムやコキを牽いて12時30分過ぎには発車してゆきましたが、EF64のほうは春日井駅構内でパンタグラフを下ろしたまま取り残され動く気配がありませんでした。  13時30分ごろには、トランスを積載して待機していたシキ800が専用線から王子製紙工場の入換動車に牽かれて春日井駅構内へ入ってきました。 入換動車はすぐ切り離されて工場へ戻ってゆき、切り離されたシキとヨはホームからよく見える位置に取り残されました。  間近にみると、不思議な車両で、飾り気のない貨車ならではの機能美???を感じます。安全運行を願ってのことでしょうか。積荷に神様が祀ってありました。関係者の方々の願いが伝わ…

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【23】 鉄分補給2010.6.17 大物車シキ800

いつも通勤にはコンデジを持つ習慣ができてしまいました。 昨日は仕事の休憩時間にこんなものが見れました。 最近はめったに見ない車掌車「ヨ」と大物車「シキ」です。 トランスの輸送のため、これから積載作業を始めるようです。 「シキ」は前後に2分割され、その間に積載物を挟み込むようにして輸送します。 私が見たときには、すでに2分割された状態でした。 上の写真は、左奥に分割されたシキとトランスをここまで運んできたと思われるトレーラのキャビン部分。中央はトランスを吊り上げるクレーン車と積み荷のトランスです。手前は中央本線の線路で、高い金網フェンスがあるのでうまく写せません(-_-;) 分割されたシキ800.こんな姿は初めて見ました 積込作業をして、2~3日後にはどこかへ輸送されると思われます。

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【22】 夢を持っていたいけど現実は・・・・

 私は2年くらい前、いつまでたっても今の仕事では喜びは見いだせず毎日の出勤がいやでたまらなくなりました。そこで、JRの電車を掃除する会社のホームページに求人がないか調べてみたのでした。宮脇俊三さんやRAILWAYSの主人公のように社会的に認められるような地位も技術も財産もないので、現実にこの齢で鉄道に触れていたいも思っても、電車の掃除の仕事くらいしか働く場はないと考えたからです。その清掃会社のホームページにはそのとき求人がありました。ほんとうに応募してみたいと思いました。電車が車庫に入ってからの掃除ですから、勤務時間は深夜に及びそうですし、なにより待遇は契約社員。給料も今の3分の1以下に下がりそうでした。  家内に毎月の生活費がいくらかかるか書き出してもらって可能性について考えましたが、とても生活していけそうもありませんでしたので断念しました。給料など安くていい。自分の電車に触れていれば、見た目は汚い仕事でも、たとえ知ってる人に見られて、え~、なんでそんな仕事やってんの?って言われても恥ずかしくないほどに笑顔で仕事ができそうな気がしたのです。  その後、リーマンショックをきっかけに、日本も就職難に陥りました。その会社のホームページを後日のぞいてみましたら、条件がわるくても求職者が殺到したのでしょうか。求人は打ち切られていました。 そういうわけで、ときどき鉄道に慰められながら!?の生活です。 先月の樽見鉄道です。映画RAILWAYSのマーク付きで現れたのは、思わぬ地で第二…

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【21】 宮脇俊三とRAILWAYSの主人公

 故宮脇俊三さんをご存知でしょうか?  平成15年2月に亡くなるまで「時刻表2万キロ」をはじめとする数多くの著作を遺され、鉄道紀行を文芸の一ジャンルとして確立した作家でした。  宮脇俊三さんは長年中央公論社に勤務し、「中公に宮脇あり」と言われるほどの名編集者で常務取締役まで上り詰めました。激務の中、休日を利用して当時の国鉄全線に乗りつくすために全国に出かけ、昭和52年までに国鉄全線に完乗されました。翌昭和53年、51歳にして中央公論社を退職し、そのデビュー作「時刻表2万キロ」を世に出し、一躍脚光を浴びたのでした。   私は宮脇文学が大好きで、そのほとんどを読みました。  51歳にして一流出版社の取締役の座を捨て、著作の道へ方向転換するには相応の覚悟があったことでしょう。当時まだ小学生のお子さんが2人いらっしゃったのですから、なおのことです。  この転職は映画RAILWAYSの49歳の主人公に通じるところがありましょう。自分と周りを客観的に見つめ「今が夢をかなえる最後のチャンス」と決断するには50歳前後というのは適齢期なのかもしれません。仕事もある程度の役職で責任ある立場になって、会社のためにわが身を粉にして働くサラリーマンが、いろんな意味で自分の生き方に疑問を感じる年頃なのかもしれません。  私は若いころ国鉄に就職し、民営化を機に中途で今の会社に採用されたわけで、学歴もなく仕事も人並みですから、現在の会社で定年までに行きつくところは目に見えています。仕事上で行き…

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【20】 人生と仕事:RAILWAYSについて思う・・・

 子供のころ母親にバタデンの運転士になるっていったら、庭から手を振るっていってたなあ・・・と主人公は思い出し、娘に、自分はいままで夢に一度も挑戦することがなかったことを伝え、49歳にして運転士になる。 「私自身をリストラしようと思います。」 リストラを担当する取締役候補のエリート社員の主人公がそう言って辞表を提出する。そのあと、線路の分岐器(ポイント)が切り替わる映像。自らの意思で49歳にしての人生の転轍機を切り換えた。  線路は「人生の長いレール」にたとえられることがある。それだけではない。2本のレールが、協調する夫婦にたとえられることがあると思えば、決して交わることのない平行線として逆の意味を持つこともある不思議な存在だ。 いずれのたとえであっても、線路はとても長いものであるとともに、必ず終点がある。どの終点にたどり着くかは、分岐点の選択で大きく変わる。誰もがいくつかの人生の分岐点を、あるときは自らの意思で、またあるときは外的な圧力によってしかたなく、または無意識に越えていく。 そしてそれは、決して戻れない旅。鉄道は道路に比べて極めて不自由で融通が利かない宿命を負っている。だからこそ、趣味としての面白さがあるのではないだろうか。  車庫のデハニ50形をバックに、エリート社員の座を投げ出し、ほんとうにやりたい仕事として一畑電鉄に就職した主人公と肘の故障でプロ入りを断念した元高校野球のエース投手が並んで座っている場面がある。 主人公が、今が自分の夢に向き合う最…

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【19】 乗務員と家族:RAILWAYSについて思う・・・

 鉄道をモチーフにした映画RAILWAYS。なかなか好評のようです。  私は2回見てしまいました。  作品の構成上、抑揚をつけるための伏線で現実には難しいんではないかと思われるところはあるものの、さまざまなシーンで共感でき、鉄道全般に対しては、いたって忠実に描かれていました。フィクションで、夢を追う大人のファンタジーでありながら、古い一畑電鉄のデハニ50形をもう一つの主役に据えて、リアリティをも追及した佳作でした。  元鉄道員としてみると、個々の描写にも目が向き、思うことがあります。  終盤で母親が沿線の病院で臨終を迎えたとき、主人公は乗務中でした。その日は電車を見下ろす病室の窓に母親の姿がないのを運転しながら無表情に横目で病室の窓のほうを見ながら、通り過ぎていくシーン。  乗務員はたとえ肉親の急病でも、すぐに帰ることはできない仕事でした。交代要員が来るまでは帰ることはできないわけで、地上勤務ではないので、その交代要員もすぐには来ません。特に長距離乗務の場合は知らせを受け取っても、すぐには帰れない。 でもそれは当り前のように思っていました。  私の長男は私の乗務中に誕生しています。それは朝の中央本線上り103系の普通列車に乗務中、千種駅を発車した時刻だったことは今でも覚えています。当時は携帯電話もなくて、乗務終了後、自分から家内の実家へ電話するまでその事実はわかりませんでした。  転職後の会社では、有給以外に「配偶者の出産」を理由に特別休暇がありました。次男の誕生に当たっ…

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【18】 乗務掛3:荷物車の中は…

実際に営業している荷物車の車内の写真です。  荷札みたいなものが荷物に括りつけてあります。これは「切符」です。小荷物切符と言って、発駅・着駅・運賃・品名ほか必要事項が書かれています。これを見て仕訳作業をします。  始発駅では2mもある大きな荷物室扉から無造作に荷物が放り込まれますので、乗務すると発車前から作業が始まるのです。写真は行き先別に積みなおしたあとの姿です。ホームの左右を考慮し、取卸し駅の順に並べられ、途中駅で停車時間内に荷扱が完了するようにします。終点まで卸さない荷物は扉から一番遠い位置に固めます。 車両の向きが毎日ランダムで車掌室の位置が決められていないので、最初のうちはホーム側とは左右まったく正反対に置いてしまうという失敗があったものです。  荷物の積み方にもコツがあります。長年やっておられる先輩が積んだところは、列車の振動で荷物が崩れたりしませんが、駆け出しの私が積んだ荷物はすぐ崩れるのでした。  荷物が多いと車掌室から車内の天井直下を這うように荷物室へはいったものです。新人は車掌室から一番遠いところまで這ってゆき、先輩は車掌室側から、それぞれ車内中央に向かって荷物を仕分け積み上げながら車両の中央当たりで出会うといった作業でしたが、先輩の手際良さには到底かなうはずもなく、車内の3分の1を仕分けられればよいほうでした。駅名など多少知っていても、最初のうちは役に立たず一緒に乗務した先輩諸氏にご迷惑を掛けたものでした。

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【17】 乗務掛2:荷物車について

 今の若い方々には荷物列車とはどういうものかわからないと思います。そもそも宅配便というものは昔はありませんでした。調べてみるとちょうど私が国鉄に入った年に宅配便の歴史がスタートしたようなことがウィキに書かれています。小口の荷物を送る場合には、軽量なものが郵便小包で、重く大きいものは「鉄道小荷物」という手段が一般的でした。  重さや大きさの制限があり、鉄道荷物では最大で30㎏、3辺の合計が2mまでのものを取り扱っていました。このほか乗客が手荷物として別送する「手荷物」がありました。いずれの場合も、駅留といって駅まで客が荷物を取りに来る取り扱いと、別途配達料金を加算して日通など通運業者が家まで宅配するサービスもありました。  現存する荷物車は極めて少ないと思いますが、横川駅の近くにある「碓氷峠鉄道文化むら」にオハユニ61という郵便・荷物・客席の合造車が保存されています。数年前に室内の写真を撮ったのでお目にかけます。 手前は荷物室です。奥は郵便室です。荷物室の床には通路の部分を除き木製の桟があります。これは水物の荷物(魚類など液体の入っている荷物)の水分が漏れた場合に他の荷物への濡損被害を防ぐための設備です。この上に行先別に荷物を積んでゆきます。棚には小さい荷物を載せます。荷崩れを起こしてもガラスが割れないよう窓には鉄製の保護棒が取り付けられています。 荷物室から車掌室を見たところです。机と椅子が見えます。この車両は合造車で荷物室は車両の4分の1程度なので乗務員は1~2人…

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【16】 乗務掛1:乗務範囲など

 国鉄入社後、最初に就いたのが乗務掛(荷扱)でした。これに対し、乗務掛(客扱)といった職種もまだ残っていました。  荷扱は荷物車に乗務するのに対し、客扱のほうは、寝台車に乗務してベッドの組立や解体とその乗客を起こしたり案内に当たっていました。ホテルのボーイさんに当たるといえばわかりやすいでしょうか。その昔はお客さんからチップがもらえて、この金額は給料より多かったこともあると聞いたことがあります。客扱のほうが見た目にもいいわけですが、これは昭和50年代初めにはすでに合理化で廃止される運命でした。そのため新規採用で補充されるような状況ではなく、私が配属された職場では、客扱の方々の乗務列車は夜行寝台特急「金星」と、当時まだ寝台車が連結されていた夜行急行「きそ」だけになっていました。じきに客扱は廃止となり、寝台のセットや解体は外部委託化され、案内業務は専務車掌の増員で廃止後のサービス低下をカバーする方式で合理化されたのでした。乗務掛(客扱)の方々は多くが車掌の試験を受けて車掌になり、希望によっては駅へ転出される方もありました。  さて、荷扱のほうは、以前にも記しましたように、荷物車の中で、荷物を行き先別に仕訳をするものでした。乗客相手ではありませんから、自分で手を掛けてやらないと勝手に着駅で降りていってはくれませんので、労務職でした。 私は決して体格がいいわけでもなく、筋肉もついてないし、明らかに向いているとは思えませんでしたが、幸いにも、趣味の世界のおかげで、主な線名駅名はかなり判っていました…

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【15】 Nゲージ EF65 500(F形)

私は自分が乗務で関わった車両のNゲージ模型が発売されると買ってしまいます。 KATOからFE65 500(F形)が発売されましたので買ってしまいました。 運転室窓上にヒサシがついているタイプの模型化で、重連装備も外観上の特徴です。 後ろにはコキ50000系列が続きます。自分が乗務した列車を再現したつもりです。コンテナの積載状況は適当です。当時は米原や沼津に500番台国鉄特急色の配置があって、それに当たるとなにかうれしく感じたものです。 この模型のようにF形の一部にはヒサシ付があって、他のEF65とは別の機関車みたいで個性的です。 <<参考>> 昭和55年12月28日 東海道本線4069列車の編成 EF65521(米) コキフ 50191 隅田川  →笹島(北スミ) コ キ 50437 梶ヶ谷(タ)→笹島 コ キ 51120 梶ヶ谷(タ)→笹島 コ キ 52396 梶ヶ谷(タ)→笹島 コ キ 51818 梶ヶ谷(タ)→笹島 コ キ 52648 梶ヶ谷(タ)→笹島 コ キ 51824 梶ヶ谷(タ)→笹島 コ キ 51826   - コ キ 51214   - コ キ 52243 隅田川 →笹島 コ キ 50444 水戸 →笹島 コ キ 52171 日立 →笹島 コ キ 51702 日立 →笹島 コ キ 51567 土浦 →笹島 コ キ 52011 土浦 →笹島 コキフ 50188 土浦 →四日市(北スミ) コ キ 51062 …

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