【75】 乗務した車両:113系電車(1)

113系にはよく乗務したものです。 中京地区では、普通電車の主力として活躍していました。東海道本線では165系や117系が主に快速運用にはいっていましたが、中央西線では113系も快速に使用されていました。 国鉄の直流区間なら111、113、115系の一連の系列のどれかが活躍しているといってもよいくらい一般的な系列でした。国鉄時代の外部色はそのほとんどが橙色と緑色の湘南色か、クリーム色と紺色の横須賀色と通称されるもので、地域的な特色も目立たず珍しいものではありませんでした。 そのなかで初期の少数派111系にも乗務していました。 113系とは実際には111系の出力アップ改良型であり、111系の製造が打ち切られ113系に移行してもモーターを持たないクハは111の形式をそのまま通番で名乗っていますし、新規で起こされた中間車サハも111を名乗っています。 その111系は私が乗務していたころには、静岡運転所に配置されていました。中京地区の運用は大多数が大垣電車区と神領電車区所属の113系電車で賄われていましたが、東海道線本線の一部列車に静岡運転所の電車が入ってきていたので、ときどき乗務することがありました。 昭和59年12月20日 東海道本線 1542M クハ111-10 静シス モハ111-9  静シス モハ110-9  静シス クハ111-385静シス クハ111-28 静シス モハ111-12 静シス モハ110-12 静シス クハ111-386静シ…

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【74】 乗務した車両:103系電車(3)

103系にはドア扱いのスイッチ(車掌スイッチといいます)に付属して「再開閉スイッチ」が装備されていました。中京地区にはそれまでなかったもので、その機能は、ドアに何かがはさまって閉まらない場合、「再開閉スイッチ」のボタンを押すことによって、その閉まらなかったドアだけが再び開き、ボタンから手を離すとそのドアが再び閉まるというものでした。カバンや乗客の体の一部が挟まってしまったとき、再開閉スイッチを操作することによって、他のドアは閉まったままでそのドアだけが開くので、挟まったカバンを引っ張り込むなり、挟まった乗客は乗車するなり、降りるなりできるわけです。 このスイッチがない113系や165系などでは、この場合全部のドアを開閉しなければなりません。危険でもあるし、他の開いたドアから、乗るのをあきらめたホーム上の客が乗り込もうとするので、また挟まったりして列車が遅延します。便利な装備でしたが、閉まらないドアが前のほうだと、ほんとうに機能しているのかわからないのでちょっと不安でした。 民営化が翌年に迫った昭和61年春、豊田電車区から、新たに4両が転属してきました。すでに東京口の中央快速線では201系が活躍していたと思われますので、この4両は転属直前は青梅線や五日市線を走っていたものと思います。転属後しばらくは橙色のままでしたので、非常に目立ちました。 神領電車区での撮影です。所属表記も最初のうちは西トタのままでした。 さっそく乗務の機会がありましたが、神領電車区在来の103系のように暖房強…

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【73】 乗務した車両:103系電車(2)

中京地区は首都圏や京阪神と比べると格段に田舎です。移動手段は自動車が主流で、通勤通学輸送が一段落する時間帯は閑散となります。そもそも通勤時間帯でも、国鉄時代は列車本数は大変少なかったものです。103系電車には必ずしも適した線区とは言い難いところがありました。その中で、あえて適した使用線区としては、沿線の宅地開発が進んているものの、並行する私鉄もなく混雑する中央西線でした。 転属後は6両と4両の編成を連結して10両で運用され、日中には6両編成もありました。民営化が迫った昭和61年11月のダイヤ改正を機に7両と3両の編成に組み替えられました。このため日中には3両編成も登場し、ローカル色が濃くなりましたが、列車本数は増加しました。 中央西線も高蔵寺を過ぎると、写真のような玉野川の渓谷を走ります。首都圏のビル群を走ってきた103系には明らかに場違いでした。 そもそも、103系電車は都市部の通勤輸送用として、短い駅間を高加速高減速で運転するのに適した性能を持っていました。中央西線は首都圏に比べて駅間距離は長く、クモハに乗務していると、80キロを超えると苦しそうなモーター音が響きました。もとの線区では高速で走ることもなかったでしょうから、103系には過酷な仕事だったのかもしれません。 春日井から名古屋までノンストップの回送電車に乗務したときのことですが、列車が遅れていたので運転士も全力で回復運転に努めていました。いつもは80キロくらいで走っていましたが、その日は当時の制限速度である時速95…

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【72】 鉄分補給2010.9.23 EF66 27@中央西線

私は長年、中央西線沿線に住んでいます。そういう者から見ると、ここを走る電気機関車と言えばEF64なのです。それも0番台。 EF65やEF66は東海道筋の機関車であって中央西線とは縁のないものと思っていたのですが、民営化になってからは、臨客を引いてJR東海のEF65が中津川まで入線したり、ついに定期貨物列車で多治見や春日井までEF65やEF66が入るようになりました。 現在のダイヤでは、多治見まで1往復設定されている貨物列車が吹田機関区のEF66の担当です。 時にはEF64やEF210の代走もあるようですが、地元でEF66を見るということの違和感がいまだに抜けません。 私は国鉄贔屓?なので、EF66でもJR後に製造された100番台とかEF210だと、時代が変わったなあと思うだけですが、国鉄型のEF66だと思い入れが深いからか、さらに別の感情が入ってきます。鋭角の直線でデザインされ、往年のコキやレサ10000系を引いて東海道山陽本線のフレートライナー牽引機として君臨した名機を地元中央西線で会えるとなれば、ぜひ見て写真に撮りたいと思うのです。 その貨物列車は朝の9時台に通過していきますが、もはや66も100番台のほうに会う確率のほうが多いのが現状です。 国鉄色で知られるEF66 27号機が来るといいなと思いつつ、なかなか出かけずにいたのですが、ネットでの情報でどうやら27号機は22日夜には稲沢に来ているようでした。運用順は全く当てにならないので、中央西線に翌23日に入ってくる可能…

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【71】 乗務した車両:103系電車(1)

国鉄時代の中京地区では、首都圏や関西圏での使い古した中古車両が多く運用されていました。中央西線を例に挙げれば、電化されたときは中央西線電化完成置換え用として113系が発注されますが、その新車は横須賀線に投入され、横須賀線の新性能化がはかられます。実際に中央西線に投入されるのは、横須賀線で不要になった70形電車であるわけです。 中京地区の103系も同様で、それまで走っていた72形(これも中古でした)の取替用として、昭和52年に首都圏でATC化に対応した新車の103系が投入され、そこで不要になった103系初期車が転属してきたのでした。 首都圏に新製配置されたATC対応車は上の写真のように高運転台でした。 (この写真はすでに山手線や京浜東北線での役目を終えて、川越線に転用されたあとの撮影です。川越線初乗りのときに行き違い待ちのホーム上で撮影したものです。) 以上のような経緯で中京地区の103系は低運転台なので,このATC車とは顔がちがいます。 上の写真が中央西線 新守山~勝川間の103系電車です。 国鉄時代の中央西線では当初6両または10両編成で運用されていました。元の線区の色のまま、黄緑色と水色の車両が混じっていましたが、私が乗務するころには水色に統一されていました。 写真は転属から間もない頃の混色編成です。名古屋駅での撮影です。 中京地区での103系使用線区は、国鉄当時に限って言えば、並行する私鉄がなく朝夕の混雑が激しい中央本線だけで、トイレがないこと…

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【70】 鉄道・船・バス「伊勢湾一周」:2010.9.18

最近、各地からフェリーの存続問題が聞こえてくる。 そもそも私は地に足がついていない乗り物は好きではない。飛行機にしても船にしても天候その他の条件で大きく乗り心地や運行時間が左右されやすい。 そういう嗜好が災いして、私が乗る気になる前に航路が廃止されてしまい、青函連絡船も宇高連絡船も乗ることができなかった。 そんな後悔をしつつ、これまで宇野高松間のフェリーには3回乗った。乗ってみると瀬戸内海は穏やかで意外と安定しているし、島々が次々と現れて退屈もしないし、1時間程度の程よい時間はなかなかよかった。 それで、2010年9月18日、廃止問題が出たものの、つい最近になって関係自治体が株式の大部分を買い取る形でそれが撤回されたばかりの鳥羽と伊良湖を結ぶ「伊勢湾フェリー」に家内と2人乗りに行った。 コースは 名古屋からJR関西本線~(伊勢鉄道経由)~紀勢本線~参宮線で鳥羽。 伊勢湾フェリーで伊良湖岬。 豊橋鉄道バスで三河田原。 豊橋鉄道渥美線で豊橋。 豊橋から名古屋へJR東海道本線。 以上のような左回り一周である。 JRの切符はこれ。この1枚でこの日のJR線はすべて乗車できるだけでなく、鳥羽までの途中に経由する第三セクター鉄道の伊勢鉄道も追加運賃不要で乗車できる。 名古屋から乗るのは、快速みえ1号で、車両はJR東海キハ75系のディーゼルカー。 3連休初日の朝だから立ち客もあったが、そのほとんどは伊勢市までに下車して終点の鳥羽の手前では…

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【69】 遮光幕

 電車の運転室の背後、客室との間の間仕切りにあるガラス窓から前方を眺めたり運転士の運転の様子を眺めるのは、鉄道好きのみならずおもしろいものでしょう。かぶりつきと云われるもので、最近の電車では子供はもちろん大人も楽しんでおられます。  この窓には遮光幕とよばれるカーテンが付いていて、夜間やトンネル区間で車内の照明がフロントガラスに写りこんで前方確認ができなくなるのを防いでいます。 これは中間車に組み込まれた車両の様子ですが、向かって左側のカーテンが下ろされているのがおわかりかと思います。  国鉄時代は昼夜を問わず先頭車の遮光幕が閉められていたものでした。運転する身となれば、背後の視線が気になるのはよくわかります。でも運転士は乗客と視線が合わないですからいいですが、車掌の場合は視線がぶつかります。  その遮光幕開閉の是非はともかく、後部に乗務している車掌は接客の仕事がありますので、遮蔽幕を全部閉める理由はまったくないのです。それでも乗客との視線が合ったりしてお互いに気まずく、お互いいつも見られているのも決していい気がしませんので、国鉄時代は左右と中央ドアの3か所の窓の遮光幕のうち1か所(運転席側の後ろ)だけを閉めて乗務するのが一般的でした。いつでも用事のあるお客さんは訪ねて来られるし、車掌からは車内の様子がわかるし、ほんのわずかではありますが乗客から見えないプライベートスペースが作れるというわけです。しかも運転席の椅子に座っていても客室から目立たない。    そのわずかな死角ス…

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【68】 指差確認

 鉄道員が指さし確認しているのは、よく見かけるものです。  「しさかくにん」といい、安全教育課程で最初に教え込まれます。間違いを防ぐため意識を持った行動をするため効果はあるものと思います。これに「○○オーライ」「○○よし」とか対象によって唱呼が付くので、かっこいいと思われる方もあろうかと思います。いうまでもなく間違いを防ぐためにやっていることであり、恰好をつけているわけではありません。下の画像は国鉄の車掌区報の一部です。車掌区の職員に毎月定期的に配布されるほか、必要に応じて随時配布され、職務上周知徹底させる事項などが掲載されていました。  テレビドラマなどでの俳優さんの演技で、指差確認や敬礼とかの動作を見ていると実際に見る動作とは違い、どこか不自然に思ってしまうことがあります。自然な動作は自ずと日常から生まれていくもので、どんな俳優さんでも、本物になりきるのは相当に難しいことでしょう。RAILWAYSの中井貴一さんは上手にこなしていました。    指差確認の行動そのものだけが無意識に出て、実際は意識を持って確認すべきことを確認していないということに思い当たることもあります。指差確認の行動だけが、繰り返される作業として無意識に体が反応しているのでしょう。  国鉄に就職後しばらくして自動車運転免許を取りました、乗務員の不規則な勤務の合間を縫って不定期に自動車学校の予約を取ってのことゆえ、補習も多くはなかったものの、毎日通うことができないので普通の人の倍くらいの期間がかかりまし…

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【67】 またチョコボール。そしてキャラメル

先日、私のブログhttps://shinano7gou.seesaa.net/article/201008article_14.htmlでチョコボールのお話をしましたが、また新しい箱絵のチョコボールが発売されていました。 景品の「おもちゃのかんづめ」は「宇宙缶」というヴァージョンに変わったようで、箱絵のキョロちゃんが宇宙人みたいな服装になっています。 こういうのを見つけてくるのは、例によって家内ですが、この前、全種コンプリートで買ってこなかったことを反省してか、ちゃんと3種類のほかダブルチョコという新ヴァージョン(右端)も買ってきてくれました。ちゃんと学習していることを褒めたたえなくてはなりません。 たかが子供のお菓子ではありますが、チョコボールは古くからある商品で、その間の箱絵の変遷もおもしろいので、気が向くと買ってきます。 子供の菓子といえば、チョコレートのほかキャラメルがありますね。 キャラメルもさまざまな種類があります。地域限定のキャラメルが結構あって、これはスーパーやデパートの物産展でよく売られていますが、旅先の土産物屋でもよく見かけます。特に北海道に昔から多いようです。それでは一部をお目にかけましょう。 いかすみ・・・たしかに黒いキャラメルでした。 <塩ラーメン・・・すこしはラーメンのスープっぽい味だが言われなければわからない。 これもビールって言われてもわからない普通のキャラメル。 サッポロビールみたいな箱がおもしろいだけ。 …

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【66】 乗務した車両:旧型客車(3)

旧型客車の乗務では、貨物の列車掛と同様に必ず携帯用無線機を持ちました。これも気動車や電車の乗務では必要のないものなので、旧型客車が車掌に嫌われる一因でもありました。 無線機は客車に備え付けておけばいいようなものですが、盗難の恐れがあるので、乗務のたびに、職場から持ち出し、乗務終了後は返納するのです。盗まれて使用されると列車の運行に影響があります。国鉄時代でも、現実に妨害電波で周辺の列車が非常停車した事例がありました。 今の無線機なら小型軽量なのでしょうが、当時の無線機は重いし、何より管理に気を使います。車補のような有価証券のほかに、無線機も持ち歩くというのは気が重く、出先での拘束時間内に食事に出る時などにいちいち預けたり、場合によっては充電も依頼する必要がありました。 無人駅など運転取扱がない駅では車掌が機関士に対して無線機を使用して出発合図を送りました。電車や気動車のように電気的な引き通しが機関車との間にはありませんので、無線機に頼ります。 これは旧型客車に限らず、新型の12系14系ほかの客車も同様です。もちろん機関士とそのほかの連絡を取るのにも使用します。 客車列車の場合は、電車や気動車とは異なり運転取扱をする有人停車場を発車するときの出発合図は当務駅長が行いましたから、逆に車掌は楽なわけです。しかし無人駅と運転取扱要員がいない駅では乗降終了と時刻、出発信号機の現示を車掌が確認してから、無線機を使用して出発合図を送ると「ピョ~~」と汽笛で応答するといった手順でした。 …

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【65】 乗務した車両:旧型客車(2)

前回記しましたように、車掌のほとんどが好まない旧型客車でしたが、私を含め、鉄道好きの車掌は楽しんで乗務しているのがわかりました。全国的にみれば、客車でも50系が増加してきていましたし、客車そのものが減る傾向にあったのに、昔ながらの汽車の面影を濃く残した関西本線の旧型客車に乗務できることで、たいへんうれしい思いをしていたのです。 面倒な操作の一つ一つも、自分がこの列車を動かしているという実感が湧くのです。 客車列車では貨物列車同様、運転取扱駅では駅の助役が発車合図をしてくれます。機関車はピョーと汽笛一声。自動連結器特有のガックンという振動のあと、しずしずと走りだすのです。自動ドアではないのでドア扱いも不要です。その点は車内巡回中でも乗務員室へ戻ってドア扱いをする必要のない客車は落ち着けます。 客車独特のゆっくりした加速のなか、乗務員室の列車監視窓からホームの助役に敬礼し構内を出るまで監視をします。車内巡回中だと中間の開け放たれたデッキで監視することもありました。直立不動の助役が立つホームが遠ざかっていくのは映画の1コマみたいで風情があります。 主要駅では発車してポイントを渡るガタゴトと不規則な振動がなくなったころに、あの「ハイケンスのセレナーデ」と呼ばれるチャイムを鳴らしてから車内放送を始めるのです。これは現在でもわずかに残るブルートレインを含む客車で生き残っているメロディーです。メロディーが思い当たらない方は「ハイケンスのセレナーデ」でクーグル検索すると試聴できるサイトに行…

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【64】 乗務した車両:旧型客車(1)

私が車掌になった昭和56年には関西本線名古屋口は電化工事中で余命わずかな旧型客車列車が残っていました。当時でも名古屋という大きな駅から旧型客車がDD51の牽引で発車していくのは、いかにも時代遅れの光景でした。 写真は関西本線の名古屋行です。就職当時は関西本線の客車列車もほとんどが荷物車併結で、私はその荷物車に乗務していたのですが、客荷分離が進み、荷物専用列車が設定されたために、私が車掌として乗務したときは客車のみの編成に変わっていました。 車掌仲間は客車列車の乗務を決して好みませんでした。自動ドアではないことや、無人駅など運転取扱をしない駅では、無線機で機関士に発車合図をしなければならないこと、機関士には列車掛のときに使用した貨車解結通知書(略称 カケツ)のかわりに旅客車編成通知書(略称 編通(ヘンツー))によって現車数と換算両数を通知したり、さらに冬は暖房用の蒸気を機関車から供給を受けるために気温によっては機関士とその供給圧力を調節してもらったりと、電車や気動車ではやらなくていいことや簡易にできることが客車の場合は手間がかかるのでした。 旅客車編成通知書の様式です。 旧型客車の場合、たとえばナハとオハとスハといった重量が異なった車両が共通で運用されたりしているわけで、その場合、現車数は同じでも換算両数は変わってくるので、乗務するたびに確認を要するのです。換算両数は車体に積と空に分けて書いてあるのを確認転記し、合算します。関西本線の場合、編成は長くても7両で牽引定数には余…

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【63】 釜戸泊りでのできごと(3)

  釜戸の駅ではこんなこともありました。  電車のコンプレッサだかブレーキだか忘れたのですが、とにかく調子が悪いらしく、朝の入換前の停車中に運転士が、「車掌さん、ちょっと降りて機器の作動状態を見てくるから、運転室でブレーキをかけたりゆるめたりを繰り返してくれんか」と頼まれました。いつも後部の運転室に乗務しているとはいえ、ブレーキ弁ハンドルは抜かれているので、普通は車掌が操作できない機器です。動いていない電車とは言え、それを操作する機会をはからずも与えられたのです。  操作の仕方と圧力計の目安は何キロと教えてもらって、本物の電車のブレーキ弁ハンドルを握ったのでした。 <リニア鉄道館に展示してあるクハ111の運転室画像を加工して掲載しています。>  ブレーキをかけると圧力計の針がスーッと上がる。さらにブレーキをゆるめるとエアの抜ける音がする。その圧力計の針の動きやエアの音は乗務中の運転台で何度でも見た当たり前の光景でしたが、自分で操作するとその感覚はまた違うものがありました。これを何回も繰り返すとコンプレッサが作動してコトコトコトと音が聞こえてきて電車が生きているという実感が湧いてきます。  何回もエアの音が続くのを不審に思ったのか駅員が運転室を覗きに来て、車掌がハンドルを握っているから、またびっくりしたのかもしれませんが、事情を説明し、そのうちに運転士も戻ってきて異常なしとのことだったので、私の模擬運転士体験は終了(修了?)したのでした。  マスコンには触れていない…

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【62】 釜戸泊りでのできごと(2)

 釜戸駅周辺は大きな町でもなく、駅前広場からの道はすぐに旧「下街道(したかいどう)」に突き当ります。        ひなびた釜戸駅前です。        正面突き当りを左右に通じている道路が下街道です。  下街道は中山道大井宿(最寄駅中央西線恵那)の近くの峠から名古屋へ分岐する街道でした。国道19号線の一部に当たり、中央西線も明治時代には恵那(当時の駅名は大井)以西が、この下街道に沿うような形で敷設されています。 旧下街道の様子です。現国道19号線は駅裏を通っています。旧街道は明治時代に中央西線が開通したときに道筋が変えられたのでしょうか。調べたことはありませんが、このあたりの旧下街道は駅の前後で中央西線と交差して、釜戸駅を避けるように通じています。  いずれの写真も2006年冬の撮影です。4年前になりますから今はまた様子が違っているかもしれません。列車から見える範囲だと、1枚目の写真中央、自販機のある茶色い商店はすでに取り壊されています。    冬の釜戸といえば、とても寒い朝の入換でこんなことがありました。  中央西線も釜戸まで来ると冬場はかなり冷えることがあります。  一晩留置している間に架線には霜が付着します。本線は深夜も貨物列車が走っているので架線の霜も削り取られているのでよいのですが、留置してある下り1番線の本線にでるまでの架線と、いったん引き上げたあと入線する中線の架線には霜がびっしり付着していました。その日はすごい霜で真っ白でした…

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【61】 釜戸泊りでのできごと(1)

 前回、釜戸の入換のことを書きましたら、いろいろ思い出に残る話があるので続けさせていただくことにします。  夜の入換が終わるとその日の勤務時間が終わりますが、翌朝6時過ぎにはここで入換をしてから乗務が始まります。そのため勤務時間ではないが「拘束時間」となっており、家に帰るわけにはいきません。乗務員の仕事は不規則で、ほとんどが泊り勤務です。釜戸では翌朝まで駅のそばにある乗務員宿泊所(略して乗泊)で運転士と2人で泊るのです。釜戸駅は小さな駅で、今では電車の留置もなく駅員も日中しかいないようなところです。 (お断り)以下の写真はいずれも4年前に改めて撮影したもので、乗務当時のものではありません。  釜戸の乗泊は昔の鉄道官舎の空き家を利用したものでした。 現在は取り壊されて駐車場の一部となっています。 入換が終わると、運転士は転動防止の手ブレーキの緊締、手歯止め装着、パンタグラフ降下など留置手配をしてから作業終了となるので、その間に車掌は乗泊のカギを駅へ借りに行き、そのついでに駅の近くの酒屋へ晩酌の缶ビールを買いに行くのが常でした。 上の写真は、乗務当時はいつも遅くまで店を開けていた酒屋の4年前の写真ですが、すでに廃業して久しいようでした。 入換のときに運転士には「今日は何本?」と聞いておいて、この酒屋で車掌が2人分買ってくるのです。そのあと車掌は乗泊へ先に行って風呂の湯を張り、冬はコタツ、夏はエアコンのスイッチを入れて運転士を待ち、運転士が来ると…

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