【156】 三陸鉄道36形模型と三鉄銀河カード

早いもので、私が三陸鉄道に乗ってから、12年が経ちました。 三陸鉄道の開業は1984年。その翌年にTOMIXから、この鉄道の36形ディーゼルカーのNゲージ模型が発売されました。第三セクター鉄道では、このほかに同時期に樽見鉄道のレールバス(ハイモ180)も発売され、これらは国鉄形模型がほとんどであった当時のNゲージ鉄道模型界では珍しいことだったと思います。 三陸鉄道といえば、私のような遠くに住む者にとっては馴染みのないはずの鉄道でしたが、国鉄の赤字廃止対象路線を鉄道として残し、未開通部分までも新たに営業するという第三セクター鉄道第一号として開業し、廃線となるべきローカル線が救われることに、非常に興味深く感じました。 その当時、私は本物の列車に乗務していましたので(というわけでもないのでしょうが)鉄道模型からは遠ざかっていた時期でした。そのため三陸鉄道36形の模型を買うこともなく国鉄を退職してしまいました。 この36形の模型には、国鉄退職後、今から20年ほど前に名古屋市内の模型店で出会いました。 私は、見たことも乗ったこともない私鉄の模型など買ったことがなかったのですが、小型レイアウトにも使えそうだしカラフルな塗装に惹かれ手が出てしまいました。 しかし小型用のレイアウト製作も思うようにいかず、以後36形は「棺桶」の下にある段ボール箱に眠っているのです。 三陸鉄道完全復旧を夢見て、久しぶりに取り出してみたのが、今回の画像です。 架線柱があったりして変ですが目を…

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【155】 臨時列車の乗務(3):165系回送電車

しばらく中断してしまいましたが、予備勤務のときに乗務した列車を、模型で再現しながら当時のことを振り返ってみたいと思います。 昭和59年11月13日 東海道本線回9116M(運転区間:大垣~品川)  乗務期間 名古屋0:53~浜松2:44 - ク ハ165-159 名カキ - ク ハ165-179 名カキ - ク ハ165-169 名カキ 8  クモハ165- 46 名カキ 7  モ ハ164-505 名カキ 6  ク ハ165- 66  名カキ 3  クモハ165-104 名カキ 2  モ ハ164- 68  名カキ 1  ク ハ165- 8   名カキ 東海道本線で大垣から上ってきた列車を名古屋で乗り継ぎ、浜松で他区乗務員に引き継ぎました。 165系にはいつも乗務する機会があったので、このときも何の変哲もない165系に思えたのですが、乗務してみて初めて少しく様子が違うことを感じ取りました。 そもそも9両というふだん見られない編成で、そのうち運転室がついている車両は7両と異常に多いです。 前3両のクハには号車番号札が入っていないだけでなく、貫通ホロもつながれていませんでした。運転室の向きもこの3両は同じで、その後ろ(4両目)のクモハも合わせて4両が同じ方向を向いて連結されているという変な編成美?でした。 転属か、何かの改造かと推察され、そういうことだと、いつも乗務していて見覚えのある3両のクハにはもう会えないかなと思って乗務を終えま…

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【154】 長野県西部地震があった日「名古屋地下鉄乗りつぶし」

<<前回からの続きになります>> 長野県西部地震があった日の話を続けようと思いますが、その前に・・・。 上の画像はその日のものではありませんが、国鉄時代のしなの号です。バックに小さく見えている雪化粧の山が、そのときの地震の震源地である木曽の御嶽山です。高さは3063メートル。国鉄時代のしなの号ではこの御嶽山についても車掌が車窓案内放送をする場合もありました。地震の5年前の1979年(昭和54年)10月28日 には、この御嶽山が有史以来の初めての噴火(水蒸気爆発)を起こして、噴煙が上がり、その付近では降灰の被害もありました。 さて、長野県西部地震があった日に戻りましょう。 「しなの7号」は、始発駅の名古屋で乗客を降ろした後、神領電車区へ取り込むため回送扱として春日井駅まで運転されました。春日井駅から神領電車区までは、出入庫線を列車としてではなく入換車両として、運転士が入換信号機の現示に従って運転していきますので、私の乗務はここまでです。 春日井から車掌区に電話すると、とりあえず便乗で名古屋へ戻るよう指示があったので、普通列車に便乗して名古屋へ戻りました。名古屋発車前に別れた車掌長と特改車掌は車掌区で待機していました。復旧状況によっては、便乗で長野まで行き、長野からの1018Mしなの18号に乗務する必要があるからです。 しかし、鉄橋のズレ以外にも情報が入ってきており、木曽福島駅のホームが崩れているとのこと。その日のうちの復旧は難しそうでした。前日からの乗務で長野に居…

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【153】 長野県西部地震があった日「しなの7号 春日井行」

1984年(昭和59年)9月14日に長野県西部地震が起きました。 震源近くに御嶽山があり、この地震で南側の山体が崩壊したことによって大規模な土石流が発生して地形が変わってしまうほどでした。温泉宿が流されたりして亡くなった方も29人にのぼりました。この人数のなかには、今も大量の土砂の下になっていると思われる行方不明の方々も含まれていると思われます。 この日、私は乗務でした。 1007M「しなの7号」で名古屋から長野 休息のあと1018M「しなの18号」で名古屋 折り返し回1018Mで神領電車区への入出庫線がある春日井まで その日は神領電車区内にある乗務員宿泊所で泊り 翌日は回1005Mを名古屋まで送り届けて勤務終了 という予定でした。ところが実際にはそうはいきませんでした。 しなの7号の名古屋発時刻は10時ちょうど。車掌区への出勤時刻は9時10分でした。 車掌区へ出勤し、着替えをしているところに地震がきました。 今、ネットで調べてみますと発生時刻は8時48分となっています。そして震源からは離れているとはいえ名古屋地方では震度3でした。 車掌区のテレビで地震情報を見て、この地震が長野県木曽郡王滝村を震源とするM6.8の直下型地震であることや、これから乗務する予定のしなの号が向かう長野県木曽郡木曽福島町(現長野県木曽郡木曽町福島)では震度5(当時は震度5強と5弱に区分されていなかった)であったことがわかりました。 現在、中央西線は名古屋から塩尻の直前…

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【152】 鉄道あちこち訪問記7:仙石線・石巻線・米坂線ほか 2001.9.7~9

<<東北地方鉄道各線の早期完全復旧を願って・・・の訪問記>> 私は三陸海岸地方に足を踏み入れたことが2回ある。私は鉄道が好きだから、その2回ともが、まだ乗ったことがない鉄道路線に乗りたいというだけの動機だった。したがって観光名所巡りをしたわけでもないし、列車の車窓から流れる景色を眺めてきただけのことだ。 動機はどうであれ、とにかく行ったので、今回はその2回目の写真をお目にかけながら、この行程をたどってみたい。 時は2001年(平成13年)9月7~9日だった。 7日(金曜日)の夕方、中央西線から名古屋で東海道新幹線(「ひかり238号」300系)に乗り継ぎ、まずは首都圏を目指す。中途半端な時刻に家を出たのには訳がある。理由は、これまで東北地方の旅で愛用してきた「ウイークエンドフリーきっぷ」が発売されなくなり、かわってフリー乗車区間から北東北の部分を除外した「土・日きっぷ」が登場したことによる。 この切符はフリー乗車区間が狭まったばかりでなく、使用当日の発売をしない。JR東日本の企画乗車券なのでJR東海エリアでの発売もされていない。それで、前日に切符を買っておくためにJR東日本エリアへ入っておく必要があるわけだ。 私は東京都区内のはずれである赤羽駅で京浜東北線から降り、この「土・日きっぷ」を買って、その晩は大宮で泊った。 翌8日は大宮から東北新幹線「やまびこ1号・こまち1号」に乗って仙台下車。仙石線に乗り換えるが、乗り残し区間を作らないように、いったん仙石線始発駅の「あおば通」…

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【151】 鉄道あちこち訪問記6:利府線・三陸海岸縦断1998.11.21~22

<<東北地方鉄道各線の早期完全復旧を願って・・・の訪問記>> 私は三陸海岸地方に足を踏み入れたことが2回ある。私は鉄道が好きだから、その2回ともが、まだ乗ったことがない線路に乗りたいというだけの動機だった。したがって観光名所巡りをしたわけでもないし、列車の車窓から流れる景色を眺めてきただけのことだ。 海岸地方に行くために、新幹線が走る内陸部からの距離は遠く、険しい山地を越えていかなければならず、私の住む中部地方より西の者にとっては、あまり縁がない地域と言ってもよいと思う。乗ったことがない線路がそこにあるという理由がなければ一生涯行く用事もないところであっただろうと自分では思う。 動機はどうであれ、とにかく行ったので、今回はその1回目の写真をお目にかけながら、この行程をたどってみたい。 時は1998年(平成10年)11月21~22日だった。 中央西線、東海道新幹線(「ひかり」300系)と乗り継ぎ、「ウイークエンドフリーきっぷ」を東京駅で買った。この切符でJR東日本の範囲内は特急も自由席なら2日間すべて乗り放題になった。 東北新幹線(「MAXやまびこ」E1系)で、まずは仙台を目指した。 最初の目的は、仙台から先の岩切から分岐する未乗の通称「利府線」だった。 この線の終点は利府駅で、行き止まりになっているが、この線は「線路の戸籍」上からいうと東北本線の一部であって、その昔は利府駅の先に線路が青森へ向かって北へ延びていた。戦中輸送強化のため、これより先の急勾配区間を…

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【150】 宮脇俊三が著した三陸地方の鉄道いろいろ(後篇)

今回の大震災で大きな被害を受けた東北地方の太平洋沿岸。 故宮脇俊三さんは何度かこの地を訪れて、この地域のことを著作の中でいくつも遺している。 前回に引き続き、思いつく著作をいくつかご紹介しよう。 「全線開通版 線路のない時刻表」 当時、既開業部分が国鉄改革で廃止宣告をされ、未成部分が建設中断していた「三陸縦貫線」について書かれている。 「沿線の地形はまことに複雑である。南寄りの三分の二は溺れ谷の連続するリアス式海岸で、長く突き出た岬と深い湾とが交錯している。湾の奥には、わずかな平地があり、集落があるのだが、それぞれが隔絶していて、いまだに交通の便には恵まれない集落がある。」と記し、この著書でも、津波による被害はもとより交通の途絶で被害をさらに大きくしてきたこと、そのために鉄道誘致運動の歴史があり、それに生涯を捧げた人たちがいると説明している。 当時は未開通区間だった三陸鉄道北リアス線の普代~田老間と南リアス線の釜石~吉浜間を鉄道建設公団の職員の方と一緒に未開通区間を巡り、田老で宿泊している。過去の田老での津波被害と高さ10メートルの大防潮堤を「城壁」と記している。 この著書には別に「三陸鉄道奮闘す」という章を設けていて、三陸鉄道開通後の旅行記も収められている。この中で一ノ関から大船渡線で気仙沼を経てやってきた宮脇さんは、「陸前高田を過ぎると、ようやく右窓に三陸の海が現れた。」と書いた後、津波についての記述から、既設国鉄部分の廃止に揺れた地元が第三セクター鉄道を立ち…

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【149】 宮脇俊三が著した三陸地方の鉄道いろいろ(前篇)

今回の大震災で大きな被害を受けた東北地方の太平洋沿岸。 故宮脇俊三さんは何度かこの地を訪れて、この地域のことを著作の中でいくつも遺している。 思いつく著作をいくつかご紹介しよう。 「時刻表2万キロ」 最終章である第14章 「気仙沼線―開通の日」。その前の第13章で、足尾線の末端区間に乗車したことによって国鉄全線完乗を成し遂げ、どこへも出かけなくなった宮脇さんが、昭和52年新規に開業した気仙沼線の柳津~本吉間に、その開業当日に乗りに行ったときの様子を記している。 その中で、志津川町民による鉄道敷設の陳情は明治時代からあり、津波のたびに交通が途絶え食糧不足を経験し、鉄道への願いは切実であったと記している。志津川町とは現在の南三陸町の中心部である。そして志津川駅での華やかな開業セレモニーや、その先の清水浜、歌津の歓迎の様子も描いている。 そのあとで、当時は未開通であった他の建設中の路線の遅々とした工事の進捗状況に対するいらだちを語り、結びの文へと入っていく。 「汽車旅12カ月」 この著作は1月から12月まで月ごとに歳時記風に進められる。 「6月」の章で会社の「鉄」でない2人を伴って、花巻から釜石線で釜石、山田線で宮古、田老まで宮古線、宮古へ戻り陸中海岸を見物しながら普代に至り、久慈線に乗るという行程で、その様子を書いている。宮古線、久慈線は、いずれも現在の三陸鉄道の一部にあたる。当時は両線とも国鉄線で、田老~普代の間は未開通だった。 朝の釜石駅で、…

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