【180】 北恵那鉄道13:その廃線跡(11)中津町へ

この鉄道に関する直前の記事は 【178】 北恵那鉄道12:その廃線跡(10)木曽川鉄橋 です。 木曽川を渡り、続いて支流の中津川を渡った北恵那鉄道はその中津川に沿って谷間を走りますが、中津川市の中心市街地は目前です。 上の写真の画面奥が下付知側で、沿う川は中津川。赤線部分が線路跡です。 線路はカーブして画面左端からは、そのまま鉄橋で中津川を渡ります。 この写真を撮った場所は廃線後にその鉄橋の直上に交差するように架けられた道路橋上です。写真左下にその道路橋の影が少し写っていますので、交差している位置関係がおわかりいただけますでしょうか。 上の写真の左上斜面に耕地と民家が見えますが、その辺りから現役時代の鉄橋を撮ったのが次の写真です。 鉄橋はカーブしています。この直上に新たに道路橋が架けられているのです。同じ位置から撮るといいのですが、私有地のようでしたのでやめて、下のほうから撮ってみました。 次の写真は道路橋の下(左岸上流側)から見た鉄橋です。 道路橋の上から見下ろすとこんな具合です。 この鉄橋を過ぎると製紙工場敷地の縁を回るようにして起点の中津町駅へ線路跡が続きます。 最終日に中津町駅のはずれから、進入してくる電車を撮ったのが次の写真です。 下の写真が現況です。左には製紙工場の塀があります。線路跡は右に曲がっていき、お寺の下のほうにある雑草のなかへ入っていきます。 この写真を撮った場所が中津町駅構内のはずれですが、のどかな雰囲気でし…

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【179】 乗務した車両:ワフ21000・ワフ22000有蓋緩急車

今回からは、列車掛時代に乗務していた「緩急車」「車掌車」について,形式別に触れていきます。 最初は、非常に古いタイプの有蓋緩急車(ワフ)2形式についてです。ついでにその形式が連結されていた貨物列車の編成もご紹介しておきます。 私が子供の頃、貨物列車の最後部にぶら下がっていたのは、片側デッキで縦長3枚窓、貨物室の大きな引戸が目立つワフ21000かワフ22000がいちばん多かったように思います。小学生の低学年の頃は、もちろん形式はわかりませんが、その特徴ある形状から間違いありません。 この2形式は外観が酷似しているので、私には識別できませんでしたが、ワフ21000が鉄道省時代の戦前製で、ワフ22000のほうが戦後製です。両者は車軸の種類が異なっていて、戦前製のワフ21000は、標準軌に改造可能な長軸を採用しているのに対し、ワフ22000は短軸を採用しています。 こちらはワフ21000です。 こちらはワフ22000です。 非常によく似た形態なのがわかります。 この2形式の外観上の特徴は前述の縦長窓のほか、埋め込まれていない尾灯でした。 設備上の相違点は電気設備で、室内灯や尾灯の電源とするための発電機が、他のワフやヨに装備されていたような本格的な車軸発電機ではなく、簡易発電機と呼ばれるものが使用されていました。製造当初は電気設備さえなかったようです。室内には非常に小さく暗い蛍光灯しかなく、蛍光灯が「ピー」と音を出していたのが印象に残っています。発電機の故…

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【178】 北恵那鉄道12:その廃線跡(10)木曽川鉄橋

この鉄道に関する直前の記事は 【176】 北恵那鉄道11:その廃線跡(9)恵那峡口です。 さて、恵那峡口駅を出ると電車はいよいよ大河木曽川を長い鉄橋で渡ります。 航空写真でもわかりますが、東西に流れる木曽川本流に南側から「中津川」という支流が流れ込む場所に鉄橋が架けられ、その中津川から流出した土砂で出来た河原を利用して建設されているようです。この鉄道最大の構築物で、最高の見せ場ともいうべき場所とも言えましょう。 そういう場所というのは保守管理も大変なもので、昭和38年(1963年)には木曽川の河床上昇による冠水の恐れが出たことから橋脚の嵩上げ工事をしています。その間はバスで代行運転をしたというのですが、私はそのことは後で知りました。河床が上がった原因は、北恵那鉄道誕生の理由となった大井ダムの影響によるのですから皮肉なものですが、廃止後も、この嵩上げ工事によって冠水して流失することなく現在まで北恵那鉄道最大の遺構が残されているとも思えます。 ここはほんとうに景色のいい場所で、中津川市街地からも近く、ここで北恵那鉄道の有名撮影地として当時の写真も多く紹介されています。 それでは、現役時代と現況の写真をご覧ください。 並行する道路橋の玉蔵橋の歩道からの撮影です。下流に向かってカメラを構えていますので画面右側背後の山は城山で、その右下あたりの集落に恵那峡口駅がありました。左側が中津町方向です。 この木曽川に架かるトラス橋はたいへん古いタイプで、もともと転用されたも…

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【177】 乗務した車両:貨物列車の緩急車

列車掛になったとき、乗務する貨物列車には「緩急車」が連結されていました。 今では貨物列車はワンマン化されて、めったにその活躍を見ることはないですが、列車掛が機関車の後部運転台に乗務するようになった昭和60年3月のダイヤ改正までは、一部の例外を除いて貨物列車の最後部には「緩急車」がぶら下がるように連結されていて、列車掛はその「緩急車」に乗務していたのです。 ※「列車掛」については拙ブログ「【3】貨物列車」に簡単に解説しています。  また、「緩急車」については、拙ブログでは以前にも「【30】 列車掛2:乗務範囲と緩急車」で、その概要をご紹介していますので、そちらもご参考にしてください。 写真の模型は16番ゲージのワフ22000です。かなり前にホビーモデルのプラキットを組んだものです。 ベーカーカプラが何とも言えないですがお許しください。他の古~い貨車との互換性重視でこのようなことになっています。ナンバーもまだ表記できないまま実家に放置されています(^_^;) そもそも緩急車とは何でしょう? それは国鉄が定めた運転取扱基準規程に、定義が明確にされています。 【「緩急車」とは、貫通ブレーキ用のブレーキ・シリンダ、車掌弁、圧力計、及びハンド・ブレーキを備えた車掌の乗務室の設けてある旅客車又は貨物車をいう。】 このような車両のことで、連結位置は一部の例外を除いて原則最後尾とされています。私が乗務しているころの貨車の緩急車には規定上の設備のほかに、尾灯、手歯止め、列車防…

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【176】 北恵那鉄道11:その廃線跡(9)恵那峡口

北恵那鉄道廃線跡の続きになります。 この鉄道に関する直前の記事は 【173】 北恵那鉄道10:その廃線跡(8)苗木・山之田川 です。 中津町行の電車は山之田川駅を出ると目の前の山を避けて右へカーブします。 下の写真は山之田川駅構内中津町方のはずれで、中津町方向から駅へ進入してくる電車を撮ったものです。 その後、田んぼを横切り、細い川沿いにうす暗い谷間へと分け入っていきます。険しい地形で、こうした地形を利用して、近くには苗木藩遠山氏の居城であった苗木城址があります。線路はその苗木城があった城山のすぐ下の谷間を走ります。そして谷間を出る直前に、高いところに架けられた鉄橋を渡りました。 この鉄橋は当時のまま残っていました。 この鉄橋を過ぎて少し行くと進行右側の景色が明るく開けてきます。木曽川のほとりに出たのです。そしてここに恵那峡口駅がありました。 背後の山が、「苗木城」があった城山です。 電車が駅を発車して降車客が歩いて行くところを撮影したものです。 下の写真は、ほぼ同じ位置の、線路だったところをはさんだ反対側から駅跡を写しています。 ここは無人の小駅でしたが、木曽川の「奥恵那峡下り」遊覧船への乗換駅でした。 中津町寄りに少し歩くと遊覧船の乗り場がありました。 現況はこんな具合で、もう遊覧船はありません。 この遊覧船は意外なことに今でもJTB時刻表にも掲載されています。もちろん時刻が載っているわけではなく「休航中」となっています…

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【175】 臨時列車の乗務(10):455系回送電車

引き続き、予備勤務のときに乗務した列車を、模型で再現しながら当時のことを振り返ってみたいと思います。 昭和59年12月4日 東海道本線回9109M(運転区間:品川~大阪)  乗務区間 浜松2:02~名古屋3:31 クモハ455-22 仙セン  モ ハ454-22 仙セン サ ロ455-45 仙セン サ ロ455-36 仙セン ク ハ455-4   仙セン 東海道本線で下ってきた列車を浜松で乗継ぎ、名古屋で他区乗務員に乗継ぎました。 455系というのは中京地区では全く見かけることがない車両です。こちらは交流区間でも60Hzですから、馴染みがあるのは475系になります。 「仙セン」と表示があることから、東北方面から継送されてきたものと思われます。 乗務が決まった時に、これは楽しみだと内心思いました。しかもサロ455が2両も連結されているではありませんか。 以前のブログ記事で、115系や165系の改造のための回送列車に乗務したことをお伝えしましたが、今回も何のための改造かは不明なものの、サロ2両が改造されるのだろうと、乗務前から想像はつきました。 この時期には、身近な存在であった名古屋と北陸を結ぶ「しらさぎ」でも、2両連結されていたグリーン車が1両減車され、11両編成になりました。翌春に予定されていた60.3ダイヤ改正に向けて車両改造するための減車でした。短編成化のため必要となる運転室の取付改造など、ダイヤ改正後の転用に備えていたのです。 さて、…

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【174】 トトロの森の1年

私がほぼ毎週実家へ行くようになって、もうすぐ1年になります。 その経緯は、昨年ブログ記事「【85】トトロの森」に書きました。現在は両親とも、特に困ったこともなく過ごしています。 今日も行ってきました。 駅から数分のところにある、小さな神社にある杉の大木とその周囲の木々や竹藪で形作られたところを、私が勝手に「トトロの森」と名付けたわけですが、実家へ行くたびにこの神社に参拝していくのが常となっています。 昨年は暑い夏でしたが、秋が来てコスモスの花が咲き、 稲刈りが終わり、秋が深まると、木々も色づいてきます。 そして冬、恵那山も雪化粧をします。 里にも雪が積もります。 厳しい寒さもやわらぎ、桜の花が開花。 田んぼには水が張られて、田植えの準備。 そして次に訪れたときには、田植えが終わっていました。 あれから1年。 その1年が以前より早く感じます。 また、これからの1年も、同じように過ごせるのでしょうか。 こうして家族が無事に過ごしていけることに感謝です。

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【173】 北恵那鉄道10:その廃線跡(8)苗木・山之田川

北恵那鉄道廃線跡の続きになります。 この鉄道に関する直前の記事は 【170】 北恵那鉄道9:その廃線跡(7)上苗木 です。 上苗木駅の先も、ずっと田んぼの中に線路が敷かれていたのですが、廃線跡がわからなくなっています。圃場整備事業で田んぼの一部分になってしまったのでしょう。 次の駅は苗木です。 少し離れた道路には同名のバス停があります。画面奥の家が建てこんでいる付近に駅がありました。 苗木駅の跡地は、以前はゴミ捨て場のような様相になっていた時期があったのですが、昨年末に行ってみると何軒もの住宅が建っていました。以下の写真に赤い線を入れてみましたが、正確な駅の敷地範囲をを示すものではありません。線路の敷かれていた方向がわかりやすいようにしただけですのでご承知願います。 上の写真は苗木駅跡地の中津町寄りから撮ったものです。その反対側を撮ったのが下の写真です。 横切る道路のところが踏切跡で、その手前までが駅跡です。 中津町寄りの線路跡が道路となって続いています。 この苗木という街は、現在中津川市の一部にすぎませんが、江戸時代には遠山氏が治める苗木藩の中心で近くの木曽川畔に城もあった城下町なのです。 次に進みましょう。次の駅は山之田川です。 ここは国道と並行する位置にあって、駅跡のすぐ目の前に同名のバス停があります。 バス停の後ろの草地は駅敷地跡です。更地となって、駐車場として利用されているようでした。 上の写真は廃止直後の様子で…

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【172】 臨時列車の乗務(9):名古屋のお座敷列車「ナコ座」

これまで、他所から遠征してきた臨時列車にばかり乗務してきたのですが、ここへきてやっと地元、名古屋客貨車区所属のお座敷列車に乗務する機会を得ました。 1984年(昭和59年)12月2日 中央本線 回9621列車~9622列車 運転区間 名古屋~多治見~名古屋 EF64 41(篠) 変A32(12/1) 1.スロフ12 915 名ナコ 近江 2.オ ロ12 829 名ナコ 飛騨 3.オ ロ12 830 名ナコ 美濃 4.オ ロ12 831 名ナコ 伊勢 5.オ ロ12 832 名ナコ 尾張 6.スロフ12 916 名ナコ 三河 (名臨402)片山津温泉と味覚と名所めぐりの旅(220名)        大曽根~名古屋(加賀温泉) 乗務区間 名古屋7:22~多治見8:01        多治見で折り返し9622列車(牽引機同じ)        多治見8:40~名古屋9:24(多治見~大曽根間 回送) この名古屋鉄道管理局のお座敷列車には特に愛称がなく、単に「お座敷列車」と呼ばれていました。国鉄時代の車掌区では、鉄道ファンの間の通称「ナコ座」とか呼ばれることはなかったのですが、他所のお座敷列車との区別の必要性から、ここでは以後、通称の「ナコ座」と表記します。 (実物の写真は、乗務時のものではありませんが、国鉄時代の名古屋客貨車区での撮影です。) 12系座席車から改造されたナコ座には大きな特徴がありました。両端のスロフが展望車となり、オープン…

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【171】 昨日のできごと~ささやかな幸せ

昨日の金曜日(6月3日)、いつものように昼休みの「お楽しみ」春日井貨物を見に行きました そうするといつもの私の定位置に先客の撮り鉄2名 今日は場所を変えて春日井貨物670列車を待ちました。 いつも、「お楽しみ」として、特に私は情報収集をこまめにやっていないので、あまり考えずに散歩に出かけるのですが、やってきたのは、EF65 1041 国鉄特急色に切り抜き文字ナンバーの4次車で、昨年4月からのウォーキングを兼ねての撮影では初めての出会いでした。 大きなPS17パンタグラフも今となっては珍しいです←串パン気にせず。 この場所で見るEF65PFは、そのほとんどがこれまで6次車以降(1056番以降)ばかりでありました。長距離運用には、経年が浅い新しい機関車を運用させているのかと、この1年以上通って思ったことでしたが、よくぞこの中央西線まで足をのばしてきてくれたものです さて、その日の仕事を終えた後は、例の「50代5000円でGO」のメンバー3人でちょっと一献でした。 行った先の全国チェーンの某居酒屋で、こんな芋焼酎が。 このチェーン店のオリジナルだそうで、ボトルで980円と格安(キープ期間1カ月) 生ビールのあと、こいつにしましたが、そのうちボトルはカラッポになりお開き。 それにしても「心の診療所」とはユニークなネーミングじゃありませんか。 1週間のつら~いお仕事が終わり、心の病を患わぬように飲みに行って「心の診療所」というお薬を服用してリフレッシュする…

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【170】 北恵那鉄道9:その廃線跡(7)上苗木

北恵那鉄道廃線跡の続きになります。 この鉄道に関する直前の記事は「【167】 北恵那鉄道8:その廃線跡(6)関戸・並松」です。 並松を出ると電車は上り勾配で丘陵地帯を越えます。下付知から連れ添ってきた付知川とからは遠ざかってゆくのです。現役当時の北恵那鉄道は、この勾配区間の頂上付近が切り通し区間となっていました。ここには旧街道の橋が線路上に架かっていて、その橋の上から電車を見下ろすことができました。その場所が下の写真で、中津町方面を向いて撮ったものです。 現況はどうなっているかと申しますと、私の場合は橋に気が付かず、自動車で現場を通り過ぎてしまいました。戻ってみると、気がつかないもの当然で、その切り通しは埋められてしまっていたのです。上の写真と全く同じ位置に立つと下の写真のようになっています。 埋められた後、橋のあった位置から中津町寄りに分岐する道路になっているのでした。 反対の下付知側には橋の欄干が残っていましたが、こちら側も埋め立てられて、橋とは言えない状況になっていました。この橋の下を北恵那鉄道の電車が走っていたのです。 こうして丘陵地帯を抜けると田園地帯に入り、やがて上苗木駅です。 近くを通る国道には同名の停留所があります。 このバス停近くにあったはずの上苗木駅跡を探してみますが、さっぱりわかりません。 それもそのはずで、この付近一帯は廃線後に圃場整理事業が行われたのです。いわば田畑の区画整理で、田畑はもちろんのこと、用水路や道路の位置まで変わって…

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