【188】 樽見鉄道との付き合い 2 :第三セクター化後(前篇)

樽見鉄道が第三セクターとしてスタートしたのは比較的早く、昭和59年でした。 導入されたレールバス(ハイモ180)の姿は乗務中に大垣駅でよく見かけました。 そのいかにも小さい車体は、鉄道としての使命を全うできるのか半信半疑でしたが、さすがに小さすぎたとみえ、その後はより大型の車両が増備されていきました。 第三セクター化後の樽見鉄道は貨物輸送が好調だったことから黒字経営でした。その多くはセメント輸送で、本線上はTDE10とTDE11という機関車が活躍していました。 荷主であった大阪住友セメントが2006年(平成18年)に鉄道輸送から撤退したことで、貨物輸送は廃止されてしまい、樽見鉄道は現在非常に厳しい経営に陥っています。 神海から先、樽見まで延長開業できたのも、貨物営業が好調だったからこそだったのでしょう。 下の写真は延長開業前(右)と延長開業後(左)の切符です。 元気だったころの樽見鉄道では、JR西日本からC56160を借り入れて臨時に運転したことがありました。 1990年(平成2年)の8月のことです。そのとき、私は、そのC56160を見るために2回樽見鉄道を訪問しました。1回めは自動車で家族そろって出かけました。子供たちを連れて行き、蒸気機関車というものを実感してほしかったのです。 2回目は、高校生の同級生で、このブログにコメントをいただいたこともある「北恵那デ2」さんと2人で、列車での訪問になりました。このときが、第三セクター化後初めての乗車で、前回の乗…

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【187】 乗務した車両:レムフ10000

私が列車掛だった昭和50年代中期、東海道本線の高速貨物列車は運転速度が時速100km(高速貨A)の10000系の列車が2往復のほかは、時速95㎞(高速貨B)のコキ50000系と時速85km(直行貨)のコキ5500やワキ5000が主流でした。高速貨Aの緩急車にはコキフ10000とレムフ10000が限定で使用されました。高速貨Bにはコキフ50000が、直行貨にはヨ(2000を除く)が用いられました。 もともと絶対数の少ない10000系の高速貨Aの列車は、このときすでに減少傾向でした。 このうち、私が所属した「車掌区」では高速貨Aは上り1本のみの受持ちでした。残る上り1本と下り2本は「貨車区」の列車掛が乗務していました。 我々車掌区の乗務員のなかの噂話で、高速貨A(10000形式)は特殊な装備があるために、故障時の対応が技術屋集団である貨車区の列車掛でないと務まらないが、お情けで車掌区にも1本だけ受け持ちがあるのだということでした。 列車掛は、車掌業務以外に貨車の検査業務があり、そのなかで応急修繕もしなければなりません。そのために列車掛の養成課程では車掌関係で3カ月、検査業務(構造)関係で1カ月半の計4カ月半を全寮制の教習施設で過ごすのですが、この10000系貨車のブレーキ構造は複雑で、滅多に乗務しない車両のために多くの時間をその高速貨車の教習に割いていました。   私が所属した車掌区で受け持っていたのは、幡生から鮮魚を首都圏に送り届けるレサを連ねた5050列車で、乗務区間はその一部…

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【186】 樽見鉄道との付き合い 1 :国鉄樽見線時代

今回から木曜日の更新は3回に分けて樽見鉄道のお話をします。 では第1回目をスタートしましょう。 樽見鉄道は東海道本線の大垣駅から分岐している第三セクター鉄道です。旧国鉄特定地方交通線転換線である樽見線(大垣~美濃神海(現 神海))を昭和59年に引き継ぎました。その後、平成元年に、ほぼ工事が完成していた旧日本鉄道建設公団建設線である延長区間(神海~樽見)を開業して現在に至っています。 私の実家があるのは岐阜県で、樽見線鉄道も同じ岐阜県内にあって、しかも旧中山道でつながっているのですが、私が住んでいたのは県の東端。この鉄道は西端になります。離れていることもあって、子供のころからこの鉄道を利用するような用事は全くなく、利用する機会がありませんでした。 国鉄に就職して車掌になった時でも、同じ大垣駅を起点としている美濃赤坂線には乗務していたのに、なぜか国鉄樽見線は乗務範囲には入っておらず、樽見線では「車掌区」ではなく大垣「駅」所属の車掌が乗務していたのでした。 そんな縁の薄い樽見鉄道でしたが、国鉄樽見線時代から、私のこれまでの関わりについてお話したいと思います。 関わりは薄いようで、それでも鉄道としての面白味もあったので、思い出はいくつかあるのです。 国鉄樽見線と私との初めての関わりは、昭和47年4月で、私は中学3年生になったばかりでした。 当時は全国のあちこちで蒸気機関車が姿を消していく時期で、その前月に樽見線からもC11の貨物列車がディーゼル化されDE10に置き換えら…

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【185】 乗務した車両:ヨ6000・ヨ8000車掌車

ヨ6000はヨ5000の後継車で、1962年(昭和37年)から1969年(昭和44年)までに新製されています。 これまでの車掌車と基本的構造は変わりません。しかし実態に合わせたのか、車内は事務机が小さくなり2人分(ヨ5000は3人分)となり、長椅子も短くなっていました。 外観もヨ2000とヨ5000は側窓が4つ、ヨ6000が3つだったので、外観からすぐ区別がつきました。 これまでご紹介したワフとヨには、いずれの形式にもトイレがありませんでした。また、暖房方式は石炭ストーブ(だるまストーブ)が標準でしたが、室内の石炭置場の位置に石油タンクを取り付け、だるまストーブに石油のバーナーを設置して石油ストーブに改造した車両のほか、ストーブそのものをポット式の新品に交換した交換した車両も増えていきました。ワフ21000、22000、ヨ2000といった古い形式では石炭ストーブ車しか見たことがありませんでしたので、廃車間近の車輛にはこうした改造はされなかったものと思います。 昭和55年7月18日 関西本線 5295列車 運転区間 (関)富田~亀山操 乗務区間 (関)富田22:30~亀山操23:28 DD51 820(稲一)  ヨ  14340  (北オオ) コタキ 71998 東藤原~宮川 コタキ112461 東藤原~宮川  ホキ 25732 東藤原~宮川 コタキ112458 東藤原~宮川  ヨ   6477  (北オオ)   現車 6 延長 8.0 …

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【184】 鉄分の多いお菓子(3):ミニトレイン

鉄道をモチーフにしたお菓子は、大手の菓子メーカーからローカルなものまで、いろいろ存在します。 過去にも 【139】 鉄分の多いお菓子(1):チロルチョコほか 【141】 鉄分の多いお菓子(2):JR電車チョコ と、2回にわたって紹介しました。 今回のは、2004年ころに買ったものです。 明治製菓の「ミニトレイン」というもので、チョコレート菓子です。 箱が鉄道車両の形をしているのは、以前UPした黒谷商店の「JR TRAIN 」と同様ですが、 箱が外箱と内箱とが一体となっていて、内箱を引っ張り出すと2両編成のようになるのが特徴です。 同じ商品を2個買うと4両編成1本になるように考えてあるようです。 このほかにも車種はいくつかありましたし、時期によって新幹線のシリーズもあったようですが、自分が購入したのは国鉄形113系と地元中央西線の313系8000番台セントラルライナーでした。ついでに、電車でなく機関車と客車であることが気に入って買ったのがカシオペアです。 大手菓子メーカーが、セントラルライナーのようなまったくローカルな車両を題材にするところが気に入ってしまったところです。 (他にどんな車種があるか興味のある方は「ミニトレイン 明治」でグーグル検索していただくとコレクターの方のサイトが引っ掛かります。) 毎度のことですが、自分ではコンプリート収集する意欲はあまりないので、鉄道物は一応買ってみるものの、「お気に入りの車両があればそれでよし」という程度の…

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【183】 乗務した車両:ヨ2000・ヨ5000車掌車

「ワフ」について2回にわたって書いてまいりましたが、今回お話する「ヨ」は車掌車であり、形式上も事業用車として区別されていました。外観上は両側にデッキがあることが特徴です。 写真はヨ2000です。 ヨ2000が時速75km対応なのに対し、ヨ5000とヨ6000は時速85km対応となっていました。 ヨ2000は戦前製の非常に古めかしい車両で、リベットが多く、4つの側窓がやや高い位置にあって中央に寄っていました。デッキの連結面も鋼材の丸棒で造られていたのが、この形式の特徴でした。この形式では石油ストーブ装備の車両を見たことが一度もなく、すべて石炭ストーブを装備していたものと思われました。 《2016.8.7追記》 私が乗務していた1980年前後に、他形式の緩急車に石炭ストーブから石油ストーブ化した改造車が増えつつありましたが、旧型車であるヨ2000とワフ21000・22000に石油ストーブ車を見たことは一度もありませんでした。ところが、Kiyo様から、石油ストーブ車を示す白線があるヨ2000の画像が残っていることをコメント欄でご教示いただきました。戦後装備した石炭ストーブを石油ストーブ化改造したものと思われ、石油ストーブ装備のヨ2000は存在したことになります。 ヨ2000は他形式の「ヨ」に比べて少数でしたから、あまり乗る機会がありませんでしたが、その編成例です。 昭和55年8月21日 東海道本線(名古屋港線)1678列車 運転区間 稲沢~名古屋港 乗務区間 稲沢17…

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【182】 北恵那鉄道14:その廃線跡(12)中津町駅

北恵那鉄道廃線跡の続きで、今回が最終回になります。 この鉄道に関する直前の記事は「【180】北恵那鉄道13:その廃線跡(11)中津町へ 」です。 中津町駅は北恵那鉄道の起点駅でした。 時刻表には連絡駅として「中津川」と表示されていましたが、実際には国鉄の中津川駅とは離れていて、国鉄から乗換の乗客は直接乗換ができませんでした。 それも国鉄の中津川駅から、駅前広場を横切って市街地を左に曲がり右に曲がりといったことを繰り返し、ついには中央西線のガード下をくぐって駅裏にのほうへ出るとこの中津町駅にたどり着くという、たいへん乗換には不便な駅で、6~7分くらいは歩かねばなりませんでした。 この駅にはまるで学校か役場のような木造2階建ての駅舎があって2階は北恵那鉄道の本社でした。 現在は駐車場として使用されていて、面影は残っていません。 駅からはこの地方のシンボル恵那山が見えました。 現在も駅裏には製紙工場がありますが、北恵那鉄道ではこの製紙工場の専用線的な役割も担っていて、貨物専用ホームがありました。旅客用ホームは駅舎前の1本だけでした。 国鉄の貨車が乗り入れて、専用ホームで積込作業が行われていました。 乗客は前述のように国鉄との乗換には歩かねばならないのですが、貨物は専用の連絡線が設けられていて、機関車または電車が国鉄中津川駅まで乗り入れて貨車の授受をしていました。 下はその連絡線を中津町駅側から撮ったものです。途中1か所に手動の踏切がありました。自動車…

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【181】 乗務した車両:ワフ29000・ワフ29500・ワフ35000有蓋緩急車

乗務した「ワフ」のうち、ワフ29000、ワフ29500及びワフ35000有蓋緩急車について書いてみます。 この3形式は外観、室内、装備ともよく似ています。 私も、実際に乗務していた頃は、その違いを意識せずに乗務していました。 写真はワフ29500です。 外観上、ワフ29000とワフ29500は、側窓の数が左右で違っていて、片側3つで反対側が2つ。ワフ35000のほうは両側とも2つであることが識別ポイントでした。 上の写真ではどちらも2枚窓ですが、両者の向きを変えると このように窓の数が違います。上下とも、左はワフ35000、右がワフ29500です。 同様に先週ご紹介したワフ21000またはワフ22000も3枚窓ですが、窓の形が縦長か横長かで容易に区別できました。 左がワフ22000、右がワフ29500です。 しかしながら、ワフ29000とワフ29500の相違点が判りませんでした。 そこで調べてみますと、 ワフ29500は1955年から新製された車両で貨物積載量5トン。 ワフ29000は1954年から新製された車両で貨物積載量7トンであったが、1966年以降貨物積載量5トンとしてワフ29500とほぼ同一の車体に改造。 と、生まれによる違いのようです。 要するにワフ29500は新製車両。ワフ29000は改造によってよく似た形態になったのでした。 一方、ワフ35000は1936年から新製されたワフ25000の改造車で、この非常に古…

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