【197】 乗務した車両:211系0番台

211系が中京地区に配置されたのは、昭和61年11月のダイヤ改正時でした。 国鉄末期の新型車両として、神領電車区に4両編成が2本だけ配置されたのでした。首都圏に配置されたものとは仕様が少し違っていて、目立つ外観はステンレス無塗装車体に、青と白のラインが入ったものでした。 (写真は分割民営化後の撮影です。) 当時の国鉄らしからぬ、いかにも民営化を意識した車両に思えました。 この青と白のラインにはどのような意味があったのでしょうか? このころは、すでに国鉄の分割民営化は事実上決まっていましたし、「東海会社」は「東海道新幹線」を経営することも確定していましたので、100系新幹線のカラーを意識したものだったように思っていました。事実はどうなのかは知りませんが、ダイヤ改正を記念して、名古屋駅の駅弁の掛紙にも100系新幹線とともに211系が登場していました。 211系は中央西線にある神領電車区に配置されましたが、中央西線での定期運用は回送だけで、東海道本線の浜松~大垣間の快速運用が中心でした。分割民営化を意識して名鉄に対抗しようというものだったのでしょう。 乗務員室は大型ガラス張りの間仕切りで、金魚鉢の中にいるようでした。 乗務記録 <<昭和61年11月9日>> 回844M~425M 運転区間 春日井~名古屋~大垣 乗務区間 春日井5:22~5:40名古屋5:55~大垣6:39 1  ク ハ210-8  名シン 2  サ ハ211-14 名シン 3  モ …

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【196】 保存鉄道車両訪問5: D51200

先週に引き続きまして、中津川機関区に所属していた機関車で保存された機関車について、お話したいと思います。 **************************** D51200は皆さんもよくご存知のとおり、梅小路蒸気機関車館に動態で保存展示されている機関車です。 1972年同館開設時から在籍しています。この機関車は全国に数あるD51のなかで動態保存機に選ばれたもので、それまでは中央西線の中津川機関区に籍を置き、中央西線で活躍していたのです。 梅小路へは何回か訪問していますが、火が入った状態で展示運転している姿をよく見かけます。国鉄末期には動態のまま車籍が抹消された時期がありましたが、車籍も復活しています。 <<履歴>> 昭和13年10月6日  鉄道省浜松工場で誕生 昭和13年10月6日  稲沢機関区 昭和18年 3月 9日  米原機関区 昭和20年11月27日 大垣機関区 昭和25年 5月10日 中津川機関区 昭和47年10月4日 梅小路機関区 私は梅小路蒸気機関車館ができてから、かなり早い時期に訪れています。まだ中学生の頃でした。地元中津川では、まだ現役で蒸気機関車が走っていたのに、他の見たこともない形式の蒸気機関車を見たかったのです。そしてその中に、かつて出会ったことがあるD51200号機に再会したのです。青いナンバープレートは黒に塗り替えられておりましたが、この機関車の特徴でもあった形式「D51」と製造番号「200」の間が詰められ、「D51 2…

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【195】 H君のこと~明知線の車内補充券・381系最終しなの号

先週の続きになります。 稲沢鉄道寮に住んでいたH君は転勤希望がかなって、寮を出て家に近い恵那駅勤務となり、地元明知線の車掌を務めました。 明知線も樽見線同様、車掌区の車掌でなく「恵那駅」所属の車掌が専門に乗務していたのです。私は例によって車内補充券を集めていたので、明知線の「恵那駅乗務員発行」の車内補充券を発行してもらいました。 彼の直筆の車内補充券です。 参考までに国鉄時代の明知線では、樽見線同様駅名式の車内片道乗車券もありました。 寮から出てしまうと、私は彼と顔を合わす機会はめったになくなってしまい、さらには私が国鉄を退職したことで全くの疎遠になってしまい、以来年賀状だけの付き合いになってしまいました。彼は明知線が第三セクター化され経営が明知鉄道に転換されたとき、再び転勤して中央西線の車掌としてJRに残りました。 私が国鉄を退職して数年後、青春18きっぷで飯田線に乗りに行ったときのことです。豊橋から飯田線を乗り通したその帰路、塩尻から乗った中央西線の165系普通列車の車掌が偶然にも彼でした。国鉄を退職した後、通勤時などで知り合いの車掌に出会うことはよくあったのですが、ふだん、あまり乗る機会のない区間で知り合いに出会うとお互いにビックリします。さらにこのときは運悪く落雷による信号機故障で途中の薮原駅で1時間以上足止めされてしまったのでした。こんなところで出会うとは…と、その薮原駅で発車までの時間にホームで立ち話をしました。これも何かの縁だったのでしょうか。 その後、彼は運転…

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【194】 保存鉄道車両訪問4: D51101 ・ D51125 ・ D51155

中津川機関区に所属していた機関車で保存された機関車3台について、お話したいと思います。 初めはD51101号機 中津川機関区で廃車されたあと、静岡県島田市の中央小公園に保存されました。 撮影は1997年です。よく見ると転落防止用の金網が羽のように溶接されています。中津川機関区の晩年の標準装備だった長工式集煙装置は外されています。 <<履歴>> 昭和13年6月2日  汽車會社で誕生 この間、昭和22年9月15日一関水害のため不明 昭和22年8月1日   一関機関区 昭和34年11月7日  酒田機関区 昭和47年10月28日 中津川機関区 昭和48年       用途廃止 中津川では最末期に転属してきた機関車で、もともと東日本の機関車です。履歴簿が水害でなくなったらしく、昭和22年以前の履歴は不明です。炭水車上部サイドのS字の切り欠き形状が他機より深いのが特徴でした。 最終期の臨時快速「木曽路」でよく使用され、1日だけデフにつばめマークを貼りつけて運転されました。 ******************************* 続いてD51125号機 これは中津川機関区で電化直前まで活躍後、長門機関区へ転属し山陰の地で廃車になっています。 その後、新製当時の活躍地である首都圏の船橋市の郷土資料館に保存されました。 <<履歴>> 昭和13年7月22日  日立製作所で誕生 昭和13年7月31日  新鶴見機関区 昭和19年8月18日  …

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【193】 H君のこと~ワサ2・稲沢鉄道寮

稲沢鉄道寮は東海道本線と操車場を横切る陸橋のそばにありました。陸橋のほうは広い操車場を横切る主要道路で、自動車は深夜でも多く走り、鉄道のほうは幹線である東海道本線なので、深夜でも列車は行き交います。加えて操車場の入換作業も24時間行われているので、列車と自動車の騒音で、うるさいところでした。夏場はエアコンも部屋にはありませんでしたので、ベランダのドアを開けていますと、蒸し暑さも手伝って熟睡できませんでした。 寮の同じフロアにH君が住んでいました。彼は私がこの寮に入る前からこの寮に住んでいました。 私が鉄道が好きで国鉄に入ったことを知っているH君が、私の部屋へ来て「寮の前にワサが止まっとるぜ」と私に教えてくれました。何のことだろうと思って、カメラを持って寮の正面玄関から外へ出ると、目の前の線路上に、なるほど「ワサ」が止まっていたのです。 形式は「ワサ1」でその2号車に当たります。 一見、ありきたりのワム80000に見えますが、車長がちょっと長くて、屋根がリブ付きでなく、ツルンとしています。 べつに鉄道が好きだったわけでもない彼でしたが、よく気が付いたものと思います。 写真の手前がワサで奥がワムです。 そして最も特徴的なのが、足回りです。ワサは3軸車なのです。 こういう形式があることは知ってはいたのですが、実際に近くで眺めたのは後にも先にもこの時だけでした。 試作車的な車両だったので製造されたのはわずか2両、そのうちの1両は試験車「ヤ81」に改造されて3軸車ではなく普…

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【192】 3両目のヨ6000

ひさしぶりに鉄道模型のお話をしましょう。 先日まで拙ブログでは国鉄貨車の緩急車について連載しておりましたが、【185】乗務した車両:ヨ6000・ヨ8000車掌車のなかでご紹介した形式「ヨ6000」について、気になった写真がありました。 再掲しますが、下のNゲージ模型の写真です。 どのあたりが気になるかと申しますと、本来は左のヨ5000(窓4つ)より右のヨ6000(窓3つ)のほうが、車体が一回り小型であるはずなのに、模型ではヨ6000のほうが背も高く大型になっている点でした。 写真の模型はいずれもKATO製ですが、ヨ6000のほうは1972年に製品化したものです。同じ金型で今も発売されているのです。一方ヨ5000は2005年の製品化で、その間なんと30年以上の開きがあります。 より精密化していく模型の世界で、この時の流れによる差は大きく、縮尺もより正確になっていった例と言ってよいでしょう。 ところで先月、KATOに競合する形でTOMIXからもヨ6000が新製品として発売されました。 私のブログ記事のアップまでにその新製品を入手できなかったので、そういう怪しい写真を公開することになったわけですが、先週末に遅ればせながら、我が家に3両目のヨ6000として新製品TOMIXのヨ6000を導入しました。それが、この記事の一番上に掲載した写真です。 これまでも、我が家にはKATOのヨ6000がすでに2両在籍していました。 それが次の写真です。 箱からおわかりかと思いますが…

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【191】 私は番外地に住んでいた!?

番外地という言葉をきくと網走刑務所を思い浮かべるのではないでしょうか。 私のコレクション、キャラメルの空き箱です。北海道土産の定番?……ではないようです(^_^;) 実は私はほんとうに番外地に住んでいたことがあります(゜o゜) ただし網走ではありません。 ふつう住所は○丁目○番○号、または○番地というように数字による住居表示や番地があるものです。 しかし国鉄在職中に私が住んでいた独身寮は「番外地」だったのです。 以前、「樽見線」の初乗りの時のブログ記事で、すこし書きましたように、私は稲沢鉄道寮に住んでいたことがありました。そこは国有地であったため、ここには番地がなかったのです。 具体的に住所を示しますと、「愛知県稲沢市下津町 稲沢鉄道寮」(町名は「おりづちょう」と読みます。)となります。 私の古い住民票に記された前住所地の欄にはご覧のように番地がありません。 国有地は登記がされないことから、土地の「地番」がないため住所にも「番地」がないのでした。その国鉄関係の国有地は分割民営化によって売却されたり、JRに承継されたりして国有地ではなくなっていくとともに、住居表示の実施や区画整理事業によって、地名そのものが変わっていきました。「愛知県稲沢市下津町」という地名は今でも存在するのでGoogle Mapで検索すると表示はされますが、番地を入力しない状態では、寮があった位置とは全く関係のない場所が表示されます。稲沢鉄道寮はすでに取り壊されていますが、寮が実際にあ…

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【190】 樽見鉄道との付き合い 3 :第三セクター化後(後篇)

貨物輸送があったころの樽見鉄道には平日の朝、客車列車が1往復運転されていて、ディーゼル機関車が客車列車を牽く列車がある珍しい第三セクター鉄道でもありました。 下の写真は、その通学輸送に使用されていた元JR東海の14系客車です。 最初のうちは白帯が2本の国鉄色でしたが、のちに白帯は窓下の1本だけになりました このほか、4月の薄墨桜への観光客輸送では、「桜ダイヤ」として特別ダイヤを組んで、ディーゼル機関車が客車を牽いて活躍をしていました。写真はその「桜ダイヤ」のときに走った客車列車のすれ違いです。 神海駅の大垣方での撮影です。 この桜ダイヤの時期に合わせて名古屋から直通の快速「ナイスホリデー薄墨桜」がJR東海の14系客車で運行されている時期がありました。機関車と客車に薄墨桜の絵入りマークも取り付けられていました。 下の写真は樽見鉄道線内の撮影ではなく、東海道本線尾張一宮駅での撮影です。DD51が牽引していますが、大垣で切り離され、樽見鉄道線内は自社のTDE10またはTDE11が牽引していました。 貨物用のディーゼル機関車があってこそ客車を牽くことが可能だったのであって、貨物輸送がなくなれば、機関車も客車も維持することもできない経営状態でしたので、2006年(平成18年)貨物輸送廃止後はディーゼルカーだけで多客輸送をこなすようになりました。 写真は谷汲口駅での撮影で、撮影時期はまだ客車列車も活躍していた頃です。 貨物輸送が廃止された同じ2006年には、第三セクター開業時…

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【189】 乗務した車両:コキフ50000

最高時速100kmで走行可能な10000系貨車に代わって製造されたのがコキ50000とコキフ50000でした。 10000系では電磁ブレーキ用の電気配線と元空気ダメ管の引き通しが必要だったのに対し、一般貨車同様ブレーキ管だけの引き通しで時速95kmと一般客車並みの高速で走行できるよう、CL形という新しいブレーキ装置を持っていました。10000系に比べ、電気回路がなくブレーキ装置も簡素で故障例も聞きませんでした。 台車も空気ばねをやめ、コイルばねにしたことから、かなりコストダウンが図られていると思われます。 積載するコンテナも、新規格になった5トンコンテナ(C20以降の国鉄型コンテナ)に合わせて、それまでのコキ5500やコキ10000より車長が伸び、コキ50000では新規格の5トンコンテナを5個積載でき、10トンコンテナにも対応し、10トンコンテナは3個まで積載できるようになりました。コキフ50000でも5トンコンテナ4個、10トンコンテナ2個積載可能でした。積載効率もよく、牽引する機関車も選びませんでしたから使い勝手がよく、次々に増備され東海道本線のコンテナ列車の主役となって、10000系貨車は徐々に減っていったころに、私は列車掛としてコキフ50000に乗務していました。 車掌室内の設備はレムフ10000とほぼ同じでした。ボルトで固定された5トンコンテナ1個分のスぺースでした。ポット式の石油ストーブとトイレ付の車内は居住性はよいはずなのですが・・・・ このコキフ50000は前…

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