【206】 中山道宿場巡りで見た鉄道風景(2):倉賀野宿~追分宿

鉄道好きなオッサンが鉄道に乗るために、その目的を中山道宿場巡りとして、列車に乗り歩き、撮り歩いただけの内容です。 今回は、倉賀野宿から追分宿までの行程と、そのときに出会った列車の写真などを紹介することにします。 【204】 中山道宿場巡りで見た鉄道風景(1):日本橋~新町宿の続きになります。 ****************************** 【第3日】 2005年6月17日 12.倉賀野宿~13.高崎宿~14.板鼻宿~15.安中宿~16.松井田宿 今回も1泊の行程でした。 名古屋から東京まで東海道新幹線。山手線で上野へ、高崎線快速アーバンで前回乗り降りした駅を通り過ぎて、倉賀野駅まで行き、倉賀野宿から宿場巡りを始めました。 倉賀野宿は駅から近くですので、すぐ訪問できました。そのあとは高崎宿ですが、高崎は城下町でもありますので、駅を降りて高崎城址を見てから宿場跡へ行き、次の板鼻宿へ向かうことになるのですが、板鼻宿には対応する駅がありません。信越本線の群馬八幡駅とその次駅安中駅の中間あたりが宿場の中心部になるのです。そこで高崎宿のはずれにある下並榎という群馬バスの停留所から、バスで板鼻宿の入口に当たる板鼻下町入口バス停まで移動しました。このあたりから公共交通機関が不便になってきます。次の安中宿までは徒歩にせざるを得ませんでした。安中宿があるのは段丘上で、安中駅は板鼻宿との中間地点の段丘下にありますので、列車に乗ってさらに次の宿場である松井田へ行くには、安中宿か…

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【205】 乗務した車両:マニ60、マニ61

マニ60は旧型客車のなかでも鋼体化客車と言われるグループに属します。 簡単に言うと、古い木造客車の主要パーツを再利用して車体の上回りだけ新製したわけで、台車、台枠などは非常に古いのです。鋼体化改造で直接荷物車として誕生したもののほか、鋼体化改造で、いったんオハニ、オハユニなど、客室と荷物室や郵便室の合造車として誕生したものを、後に全室荷物車に再改造したものがあります。そういう再改造車のほうが数としては多いというのもこの形式の特徴と言えましょう。総数565両のうち再改造車は360両に及びます。 こちらの写真は鋼体化改造で直接荷物車として誕生したタイプの模型です。 すべて正方形の窓なのが特徴です。 そして次の写真は合造車として誕生した車両を全室荷物車に再改造したタイプの模型です。 こうした生まれの違いから、外観からは幅が1mと広い元客室部分にあたる窓が一部に残っているのが合造車からの再改造車であることが判別できました。 荷物室内は他形式を含めてマニに関してはどれも大差はありませんでしたが、乗務員室はいろんなタイプがありました。私はそのタイプの違いを車両別に調査したわけではないのですが、所属する管理局(または入場する工場)によって徐々に改良されていったと思われる車両があると思えば、まったく改良されずに放置されている車両もあったように思われました。 オリジナルと思われる車掌室の座席配置は、便所部分との間仕切壁に向かった机付の荷扱専務車掌の1人用座席と、その木製で低い背もた…

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【204】 中山道宿場巡りで見た鉄道風景(1):日本橋~新町宿

最初に申し上げますが、このタイトルのブログ記事では、特に中山道を歩く方や歴史を訪ねようとされる目的で検索エンジンからお越しの方には申し訳ありませんが、まったく参考になりません。 鉄道好きなオッサンが鉄道に乗るために、その目的を無理やり作って列車に乗り歩き、撮り歩いただけの内容だからです。 その辺をご理解の上で、ご覧ください。 今回は、日本橋から中山道を順に訪れたときの行程と、そのときに出会った列車の写真などを紹介することにします。 【202】 中山道宿場巡りの旅:はじめにの続きになります。 ***************************** 【第一日】2005年5月27日 日本橋~1.板橋宿~2.蕨宿~3.浦和宿~4.大宮宿~5.上尾宿~6.桶川宿 東海道新幹線で東京駅へ。八重洲口から出て、日本橋まで歩いて起点である日本橋へと向かいました。 重厚な日本橋は1911年(明治44年)に造られた石造2連のアーチ橋で19代目に当たるそうです。 ここから中山道が始まりました。神田駅まで中山道を歩いて、神田からは中央快速線で新宿に向かいました。 この後池袋で成田エクスプレス253系に出会いました。 現在成田エクスプレスは後継車E259 系によって運転されていますが、自分の中では253系はJR化後の「新しい」車両と思っています。 埼京線で板橋駅下車。1キロくらい離れたところが板橋宿なので歩いて宿場へ行った後は板橋駅に戻らず十条駅へと歩きました。埼京線で赤…

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【203】 乗務した車両:マニ35、マニ36

まずマニ35についてです。マニ35は少数派の荷物車で落成総数46両でした。すべて改造車として誕生したもので、改造種車によって車両番号が以下のように区分されていました。 0番台=スハニ31からの改造車 50番台=スハニ32からの改造車 200番台=スハニ35からの改造車 220番台=スハニ40からの改造車 ということになっていて、すべて種車は客荷合造車であったことがわかります。 写真は過去のブログ記事の再掲ですが役目を終えて亀山に留置されているマニ35です。 荷物輸送の専用列車化が推進されていた時期に、全室荷物車を増やすには客室部分を荷物室に改造すればよいので手っ取り早いという背景があったのでしょうか。しかし、客荷合造車の荷物関係乗務員の乗組基準が荷扱専務車掌1名と乗務掛1名の計2名が一般的だったのに、全室荷物車では乗務掛が2名乗務となり、計3名が乗務しますので、スハニ時代の狭い乗務員室では無理があったものと思われます。私が目にした雑誌に紹介された図面を見る限りはそう思えます。そういう理由かどうかは知りませんが、比較的早く廃車や救援車への再改造が進んでいて、私が乗務していた昭和50年代前半には総数が十数両にまで減少していて、滅多にお目にかかれない形式でした。そんな中で向日町運転所京都支所のマニ3568、マニ3570と長野運転所のマニ352066の計3両に乗務する機会を得ました。いずれもスハニ32からの改造車でした。 これら乗務した車両に限って言えば、車掌室は拡大改造された…

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【202】 中山道宿場巡りの旅:はじめに

旧中山道は旧東海道とともに江戸と京都を結ぶ道で、五街道の一つです。 明治初期に東京~京都間の鉄道を建設するにあたって、当初は旧中山道ルートで計画され、途中で東海道ルートに変更されたという経緯があります。垂井以西草津までの東海道本線は関ヶ原越えで中山道ルートに沿うように敷設され、旧東海道は遠く離れて関西本線の亀山経由で鈴鹿越えをしていますので、東海道本線という名称はこの区間に限っては実態に合っておらず、中山道本線とすべきかもしれません。そういう事情もあってかJR西日本では東海道本線のこの区間に「琵琶湖線」と愛称を付けています。 この中山道は私の実家がある岐阜県の東濃地方を通っています。通っていた中学校から歩いて10分程度のところにひっそりとある、自動車の行き違いもできないような細道が中山道で、社会の授業では実際に中山道にある馬頭観音を見に行ったりしましたし、同級生に明治天皇の通行の折に休憩された旧家の方がいたりしました。 また、近くには古い街並みが残る妻籠や、幕末から明治維新の激動の日本を伝える長編小説「夜明け前」の舞台となり、その著者島崎藤村の生家がある馬籠がありました。そのため私は中山道を身近な道と感じていました。 鉄道開通の前、徒歩交通が主だったころの主要幹線道路であった中山道の宿駅のすべてを、列車で訪れるというのも一興かと思い、私は2005年に中山道の宿場巡りの旅を開始しました。この時点では中山道を「線」として踏破するという目標は持っておらず、69ある宿駅と両端の江戸日本…

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【201】 乗務した車両:荷物列車について

国鉄に就職してから最初は乗務掛をしていまして、いつも荷物車に乗務する仕事でした。 マニをはじめとする荷物車は分類上客車なのですが、乗客が利用するわけではないので、一般にはなじみが薄い客車です。これまで続けてきた「乗務した車両」シリーズで、これから荷物車についてお話するにあたって、荷物車がたくさんつながった「荷物列車」について、ちょっと触れておきましょう。 荷物車と乗務掛の仕事の概要は、かつての拙ブログ記事で「【17】 乗務掛2:荷物車について」の記事をはじめ、いくつか紹介しました。 (パソコンでご覧いただいている場合は、画面右側の「ブログテーマ」の中の「荷物列車」の文字をクリックすると荷物列車関連の記事だけが抽出できます。) 貨車の緩急車が北海道と四国以外をランダムに運用されていたことに対して、客車である荷物車や郵便車は一般の客車同様きちんと運用表に従って運用されていました。その運用線区によって電気暖房の設備がある車両が限定使用されました。 客車の多くが編成単位で運用されるのに対し、荷物車は1両ごとに運用されていました。荷物は人間様と違って終点でも勝手に乗り換えてくれませんから、荷物車の場合は積みかえの手間を省く意味でかなりの長距離運用が存在し、連絡船による航送運用もありました。 こうした1両単位の運用車両をつなげたのが荷物列車です。荷物車は、もともと旅客列車の端っこにつながれていることが多かったのですが、旅客列車が電車や気動車に置き換わって、こうした専用列車化が進んでいっ…

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【200】 レジェンドコレクション381系「しなの」

KATOからNゲージの381系電車が発売されました。 ずいぶん前からKATOからの381系模型化について噂されながら、やっと実現です。それもメーカーの謳い文句を引用すれば『日本の鉄道史上に燦然と輝く「名車」をシリーズ化』した「レジェンドコレクション」として、国鉄時代のしなの号を9両フル編成のセットにしての発売です。 実際にこの電車に乗務していた私としては買わないわけにはまいりませんので、早々と予約してありました。 私は模型を自分で作ったり、加工したり、改造したり、そういうことはあまりしないほうで、こだわりは少ないほうだと思っています。見てその雰囲気を楽しめればそれでよいみたいな部分が多いわけですが、自分で乗務していた車両となると、そういうわけにもいかず、いろいろ気になることがあります。 そんなことで、上に掲げた最初の写真は、お遊びで国鉄時代の実車の先頭部と、今回発売された模型の比較写真です。実車写真のほうは特にいじっていないですが、模型写真のほうは、ほんの少し縦横比をいじって、ボンネットの天端と連結器位置を合わせました。実車写真とは撮影した角度が違いますし、カメラの焦点距離の違いによって遠近の表現も違いましょうから、少し離れた位置にある運転室、屋根、スカートなどの大きさも、模型と実車とでは違って見える部分もあることをお断りしておきますが、下ぶくれのプロポーションは模型ではよく表現されていますし、ライト類、タイフォンの位置関係も妥当であることがわかります。 巷で、違和感があると…

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【199】 乗務した車両:381系電車

381系は国鉄では唯一、カーブでの高速走行を目的として車体を傾斜させる振子装置を装備した営業車両でした。 全国に先駆けて、1973年(昭和48年)7月に全線電化工事が完了した中央西線にデビューしました。 その車体や塗色は、当時の国鉄の特急列車の標準的な装いですが、振子装置を装備していることから、同年代に製造された183系や485系とは多くの相違点が挙げられます。主な相違点は次のとおりです。 ◎ 軽量化が必要なので車体は鋼製でなく、アルミ合金製であること。 ◎ 重心を下げる必要性から冷房装置を床下に装備しているため、   屋根が低く、屋根上は非常にすっきりしていること。 ◎ 車体を傾斜させるため、車体裾が大きく絞ってあるので、   正面から見ると下膨れのオタフク顔であること。 こうした振子式独特のスタイルを持った381系は当初長野運転所に配属されていました。そして山岳路線で急カーブが連続する中央西線と篠ノ井線のしなの号としてデビューしたのです。 国鉄では「客専」(専務車掌(客扱) 通称「カレチ」)にならないと特急列車には乗務できませんでしたが、車掌でも回送列車には乗務していました。まだ特急列車には乗務できないこのようなときでも、特急型車両に乗れるのは、やはりうれしいものでした。 1981年(昭和56年)5月22日 中央本線 回1002M 運転区間 名古屋~春日井 乗務区間 名古屋11:33~春日井11:54 1 クハ381-121 長ナ…

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【198】 保存鉄道車両訪問6: D51201 ・ D51209 ・ D51245

中津川機関区に所属していた機関車で保存された機関車3台について、お話したいと思います。 *************************** 初めはD51201号機 中津川機関区で廃車されたあと、愛知県蒲郡市の蒲郡市博物館に保存されました。 撮影は1997年です。客車(オハフ33)が連結されています。中津川機関区の晩年の標準装備だった長工式集煙装置が外されることなく保存されています。 <<履歴>> 昭和13年10月31日  鉄道省浜松工場で誕生 昭和13年10月31日  浜松機関区 昭和20年11月20日  多治見機関区 昭和25年10月13日  名古屋機関区 昭和34年4月 1日  高山機関区 昭和44年10月 1日  稲沢第一機関区 昭和46年4月29日  中津川機関区 昭和48年5月31日  廃車 中部地方を転々と渡り歩いてきた機関車です。 南木曽駅での撮影です。画面右側が201号機です。本線の列車に追い越されるところです。 ***************************** 続いてD51209号機 撮影は1997年です。 中津川機関区で廃車されたあと、長野県伊那市の伊那公園に保存されました。 中津川機関区の晩年の標準装備だった長工式集煙装置は外されています。 露天での展示です。写真を撮りに冬場に訪問したところ、全身をシートで覆われていました。寒冷地のため冬場は雪害から守るための措置だと思われまし…

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