【223】 発掘!!1951年のアルバム

先日拙ブログ記事の「【217】 亀山駅の荷扱(゜o゜)業界用語???」で「TOKYO WEST」様から、「昭和58年頃に出た『大阪車掌区史』にも、荷扱乗務員が使う符丁について触れていました。」とのコメントをいただきました。 私が勤務していた国鉄末期に、名古屋鉄道管理局管内の現場で、こうした歴史を追った書物が刊行されたことはあったのでしょうか。私はまったく聞いたことがないので、もしあるなら見てみたいものです。自分が勤務する以前の職場の歴史を、もっと知っておきたかったと思います。 そのコメントを拝見してから、その類のものが身近にないか実家で発掘調査?を始めました。 その結果、そういう車掌区史的なものではありませんでしたが、名古屋車掌区の記念アルバム的なものを父親が保管しておりました。 表紙は「1951」と年号が入った濃紺B5サイズの冊子ですが、「JNR NCO」と動輪マーク上に書かれた図案のほかには、なにも書かれていません。 「JNR」はみなさんご承知のように「Japanese National Railways」の略で日本国有鉄道を意味します。 「NCO」とは? 私の想像では「Nagoya Conductor Office」すなわち名古屋車掌区だと思われます。 表紙をめくると次のような表題がありました。 「平和記念 おもかげ 名古屋車掌区」とあります。 この冊子の中身は残念ながら車掌区史ではなく、当時の在籍職員のアルバムでありました。 一人ずつ顔写真が載っており、巻末に…

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【222】 (-_-;)失敗作(-_-;)

先回は古い下津井電鉄の写真をご覧いただきましたが、こうして古い写真を見ていますと、何じゃこりゃ!というような写真も出てまいります。今回は陽の目を見ない写真たちに、あえて登場してもらうことにします。 オジサン! しゃがんでいてくださいねって言っといたのに! 自分が撮ったらいきなり立ち上がるんですから・・・ 他人が原因の失敗作 中央西線 中津川~落合川 あ!!シャッターが落ちん!フィルムの巻き上げ忘れたぁぁ。 気付いて巻上げてこんな写真に・・・ 中央西線 落合川~中津川 自分が原因の失敗作 と、ここまでは人為的な失敗作 臨時?遅れ?下り列車を待っているといきなり反対の上り列車が通過。しかも重連。 10段式ヒョロヒョロの三脚ごとカメラを反対側に向け、ファインダーを覗くとなんか変。ピントが合わん!! とりあえずシャッターを切った。 通過してからファインダーを見るとファインダーの接眼レンズが割れていた(-_-;) 実はこの直前、下り列車に合わせて10段式ヒョロヒョロの三脚にカメラをセットしておき、ちょっと目を離し、戻ってくると三脚ごと地面に倒れていたのでした。そのときの衝撃で割れたに違いありません。付近には何人か撮影者がいて、三脚も付近にパラパラ並んでましたから、誰かが蹴っ飛ばしたのか、突風によるものか不明ですが、この日は意気消沈して、このあとすぐ帰ってきました。突然の重連に、ビックリした人も多かったようで、この写真でもカメラすら構えず見送る人がいるのがわ…

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【221】 鉄道あちこち訪問記8:下津井電鉄1975年

下津井電鉄は国鉄宇野線の茶屋町駅から児島を経て瀬戸内海に面する港町下津井を結んでいた全長21kmの軽便鉄道でした。 宇野線開通により、鉄道による四国連絡が宇野~高松ルートになったことで、それまで主要なルートであった下津井~丸亀ルートを存続させるために敷設されたのでした。 私が訪問した1975年(昭和50年)の3年前(1972年)には、このうち国鉄接続駅である茶屋町から児島までの間が廃止になり、残っていたのは末端区間の児島~下津井間6.5kmだけでした。 私鉄の部分廃止の例としては、国鉄接続部分が生き残り、末端部分が廃止されるのが通例ですが、下津井電鉄の場合は異例でした。これは道路事情によるようです。 この鉄道に乗るためには、茶屋町から児島までバスに乗る必要がありました。 私は岡山から初めての宇野線に乗って国鉄茶屋町駅に降りたちました。もちろん当時は瀬戸大橋などない時代ですから、国鉄茶屋町駅は本四備讃線との分岐駅ではありません。児島には鉄道駅はなかったのです。この茶屋町駅も今のように高架駅ではなく地上駅でした。この駅に隣接して、下津井電鉄部分廃止後に転換された児島行きのバス乗場がありました。 そこは明らかに廃止となった下津井電鉄の駅跡でした。右側は国鉄駅です。画面奥に小さくバスが写っているあたりがホーム跡です。この広場には、おそらく線路が何本も敷かれていたのでしょう。そこからの道路を辿ると、田んぼの中の廃線敷に続いていました。 乗ったバスは小型のバスでした。そもそも岡山方面から…

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【220】 鉄コレ「下津井電鉄モハ103・クハ24」

下津井電鉄は1911年(明治44年)に設立された軽便鉄道会社でした。 鉄道そのものは1990年(平成2年)に廃止されましたが、現在も会社は「電鉄」の文字を頑なに固持したまま、バス事業などを運営しながら存続しています。会社が今年で創立100年を迎えたことで、鉄道コレクションシリーズとして、かつて活躍していたモハ103とクハ24の模型の2両セットが、この下津井電鉄株式会社から発売されました。 私は高校生のときに、この電車に乗ったことがあったので、懐かしさから、この模型を購入しました。 下津井電鉄のインターネットサイトから注文し、宅配便で代金引換で受け取るシステムでした。 商品が届くと、その箱の小ささに驚きます。他の鉄道コレクション2両セットの外箱より二回りは小さいのです。鉄道コレクションの中でも小型車の部類となる銚子電鉄のデハ301と501のセットとの比較です。 箱だけでなく車両そのものも、軽便車両らしく小さいのですが、もちろん他の鉄道コレクションシリーズと同じ150分の1サイズですので車体の縮尺は同じです。 付属の線路は、この模型の実車が軽便鉄道車両なので軌間は762mmと狭くなっているため、他の鉄道コレクション付属の線路とは違っていて、線路の幅も非常に狭く作られています。 それにしてもあまりに狭いので、測ってみると、5mmくらいです。762mm÷150=5.08mmで、リアルです。 ちなみにNゲージは1435mm軌間を基本にした9mmゲージで日本の1067…

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【219】 鉄分補給2011.11.13:美濃太田車両区

昨日11月13日、JR東海の美濃太田車両区へ行ってきました。 JR東海のウォーキングイベントである「さわやかウォーキング」で、この日は「美濃太田駅開業90周年記念 みのかも文化の森と美濃太田車両区見学」というコースが設定されたのでした。 展示されていた車両はロングレール輸送用のキヤ97と除雪用ラッセル車DE15でした。 いずれもふだん見られない車両ですので、間近に見るといかにも事業用らしい機能美が感じられます。 JR東海でのDE15による除雪は今シーズンで終わりのようです。 あくまでもウォーキングイベントの一部としての公開だったので、車両区公開スペースは少しだけで、物品の販売等もありませんでした。鉄分の多い方が興味を示していたのが、展示されている車両とは別に、車両区のはずれに放置状態で保管されている車両群でした。これは周囲の公道から見ることが可能です。 手前の黄色いのはキヤ97系の中間車(キサヤ96)ですが、その奥には、左からクハ165、キハ180(JR四国色)、旧型客車、キハ82、キハ30、キロ80、キハ28の姿が見えます。 こちらは手前から、カバーが掛けられているトキ900と思われる車両、キハ80、キロ28、クモハ103、モハ381です。 いずれもかわいそうな外観ですが、貴重な国鉄車両の生き残りです。リニア・鉄道館に保存されなかった「残り」ということになるのでしょうが、今後の処遇はどうなるのでしょう? 車両区には、かつての臨時列車に使用されたヘッドマークが…

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【218】 鉄分の多いお菓子(4):「秘電最中」と「かなえ饅頭」

鉄道をモチーフにしたお菓子は、大手の菓子メーカーからローカルなものまで、いろいろ存在します。 過去にも 【139】 鉄分の多いお菓子(1):チロルチョコほか 【141】 鉄分の多いお菓子(2):JR電車チョコ 【184】 鉄分の多いお菓子(3):ミニトレイン と、3回にわたって紹介しました。 今回はローカルな鉄道「飯田線」の、これまたローカルな和菓子の登場です。 ***************************** 飯田線はJR東海が経営する鉄道で、東海道本線の豊橋から中央本線の辰野を結ぶ長大なローカル線です。ここには119系という国鉄時代に製造された電車が今なお活躍しています。 上の写真はいずれも119系です。左側のアイボリーのほうは飯田線でふつうに見かける電車です。いっぽう、右側の水色に塗装されたほうは、2009年に国鉄デビュー当時の外部色を再現した電車で、1編成2両だけが存在します。 飯田線は人家がほとんどないような山間部を通り抜けていますので、「秘境駅」と呼ばれる駅がいくつも存在します。それを目当てで飯田線に乗りに来られる方も少なくありません。 まずは「秘電最中」を紹介します。 「秘境の電車」を略した「秘電」と「秘伝」を掛けたネーミングなのでしょうか。 最中の箱には国鉄時代の旧型国電から、現在活躍中の新型まで電車の絵がいくつも描かれています。 肝心の最中のほうは、1つずつ最中の皮と餡が別々に包装され、自分で餡を皮の…

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【217】 亀山駅の荷扱(゜o゜)業界用語???

おそらく、どの業界でも、その業界でないと一般には通じない言葉や用語があると思います。 私が現在勤めている会社でもそれらしいものはあります。同じ業界であっても、その会社でないと通じない言葉もありましょう。国鉄でも同じで、その職場、その駅でないと通用しない言葉がありました。 私が国鉄に就職してすぐ乗務掛(荷扱)になったわけですが、駅名を覚えていざ乗務しても、亀山駅で荷物車に荷物を積み込む威勢のいい日本通運のオジサンの言葉は全くわかりませんでした。 (上の写真はJR化後の亀山駅です) 亀山駅の手小荷物扱いは私が国鉄に就職した1976年(昭和51年)には、日本通運に業務委託されていました。亀山駅は関西本線、紀勢本線が分岐するターミナル駅であることは、鉄道に詳しい方であればお判りかと思いますが、荷物の場合はさらに中継駅としての役割は大きかったのです。 それはどういうことかと言いますと、この駅は、実際には多気で分岐する参宮線方面への事実上の始発駅でもあり、伊勢市、鳥羽方面への直通列車が出ていました。そのため関西本線と参宮線相互間の荷物も多気でなく亀山で中継(積み替え)していたのです。 写真は亀山駅付近の鈴鹿川を渡る参宮線直通列車です。参宮線への荷物は客車列車ではなくディーゼルカーで輸送され、キロハ25改造のキユニ26という荷物郵便気動車が使用されていました。 さらに、関西本線の柘植から分岐する草津線では、そのころは列車による荷物輸送をせず、関西本線、紀勢本線と参宮線方面と、草津線方面(東…

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【216】 少し前の天浜線

前回は国鉄時代の二俣線に関わる写真をアップしました。今回は第三セクター移管後、訪問したときの写真です。先日の訪問を含めると、第三セクター移管後に3回訪れていますが、いずれも部分的な訪問でした。 最初の写真は20年以上前の三ケ日駅で、1990年12月2日の撮影です。 会社の旅行での帰り、現地解散になったので、寄り道をして東名三ケ日で東名高速バスから降り、そこから歩いて天浜線の三ケ日駅まで参りました。ここから天浜線の列車に乗って新所原を経由して帰路についています。 この駅舎は現在、国の登録有形文化財になりました。下の写真は現況です。 20年以上過ぎていますが、基本的にはほとんど変わっていません。 *************************** その7年後、1997年8月9日に掛川から列車に乗って天竜二俣へ参りました。 天竜二俣駅のそばにある貨物側線の跡地と思われるところに、雨ざらしの車両が何両も置かれていました。 次の写真では、手前の線にクハ111の先頭運転室だけカットした部分とDD13が置かれ、隣の線に、キロ80、ナハネ20、キハ20、オハ47?が置かれていますが、状態は最悪でした。ナハネ20はDD13に隠れていてよく見えません。 次の写真が現況です。カメラ位置は反対側からです。ナハネ20とキハ20が残存し、あとの車両の姿はありませんでした。解体されてしまったのでしょうか。キハ20は整備され、ナハネ20は外装の修復中のようでした。 話を19…

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