【244】 乗務した車両:165系電車(2)

中京地区には、大垣電車区のほかにもう1か所、神領電車区に165系が配置されていました。 私が車掌として乗務するようになった昭和56年の神領電車区では、主に中央西線用の電車を中心に受け持っていました。 ここの165系は、主に急行の「きそ」「つがいけ」用で、篠ノ井線から中央東線や飯田線北部に入る急行「天竜」にも運用されていました。 上の写真は昭和54年、まだ私が車掌になる前、列車掛の養成期間中に撮影したものです。まだサロ165にはグリーンの帯が健在です。 車掌になったとき、神領電車区の165系には、名古屋までの入出庫回送列車に乗務していました。 昭和57年9月11日 中央西線 回802M 運転区間 名古屋~春日井 乗務区間 名古屋12:30~春日井13:07 1 クモハ165- 52 名シン  2 モ ハ164-511 名シン  3 サ ロ165-109 名シン 4 サ ハ153-115 名シン 5 ク ハ165-109 名シン 6 モ ハ165-  1 名シン 7 モ ハ164-801 名シン 8 ク ハ165-176 名シン (神664) 神領電車区の165系8両編成は急行用なので、グリーン車「サロ165」が連結されていました。この回802Mは上りの急行「きそ2号」が終点名古屋に到着後、折り返し神領電車区へ入区するための回送列車でした。 上に掲げた編成では、4号車に153系のサハが混入しています。これは神領では当たり前のようになっていて、1…

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【243】 中山道宿場巡りで見た鉄道風景(10):徒歩で再訪 追分宿~松井田宿

「中山道宿場巡りで見た鉄道風景」の続きを始めます。 【241】中山道宿場巡りで見た鉄道風景(9):徒歩で再訪 塩尻宿~芦田宿の続きになります。 **************************** 【第33日】 2007年4月21日 (御代田駅)~追分宿~沓掛宿~軽井沢宿 御代田の駅から西に当たる小田井宿~岩村田宿~塩名田宿~八幡宿~望月宿~芦田宿までは2005年の夏に青春18きっぷを使って、これより前、炎天下を2時間くらいずつ3日かけて歩いた(【208】 中山道宿場巡りで見た鉄道風景(3):小田井宿~和田宿で紹介しました。)ので、西の東海道との分岐点である草津宿からこの御代田駅付近の中山道までは徒歩でつながったことになります。そのため、今回は御代田駅から東に向けてのスタートになりました。 御代田までは、しなの号~長野新幹線で軽井沢まで来て、しなの鉄道で戻る形で入りました。 軽井沢駅に保存されているアプト式の電気機関車の隣にしなの鉄道の列車が入ってきます。 また、以前の訪問では追分宿~軽井沢宿の区間はレンタサイクルを利用しましたが、この区間も今回忠実に歩くことにしました。 中軽井沢を過ぎたところで、浅間山をバックにしなの鉄道の列車の写真を撮ってみましたが、雲行きが怪しく、工事中でこんな写真しか撮れませんでした。 この日は軽井沢宿で終了です。 【第34日】 2007年5月26日 軽井沢宿~碓氷峠~坂本宿~(横川) この日からは群馬県に…

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【242】 乗務した車両:165系電車(1)

165系は153系を基本にした、勾配線区用及び耐寒耐雪装備の寒冷地用急行形電車です。 事実上、153系の後継車種と言ってもよく、平坦かつ温暖な線区にも投入され、国鉄時代には直流電化区間の多くで見ることができました。 私が車掌として乗務するようになった昭和56年ごろの中京地区では、165系電車は、大垣と神領の両電車区に配置されていました。 下の写真は神領電車区配置車両による中央西線の急行つがいけ号です。 はじめに大垣電車区所属の車両のことからお話しましょう。 大垣電車区所属の車両は、153系に混じり8両編成を組んで、主に東海道本線で快速運用を中心に活躍していました。朝夕には中央西線でも運用されていましたし、担当する車掌区が異なっていたので乗務はしませんでしたが、急行「比叡」がその運用に含まれていました。 昭和57年3月17日 東海道本線527M 運転区間 豊橋~米原 乗務区間 名古屋7:47~米原9:20 1  クハ165-186 名カキ 2  モハ152- 50 名カキ 3  モハ153- 50 名カキ 4  クハ165-177 名カキ 5  クハ153-556 名カキ 6  モハ152- 65 名カキ 7  モハ153- 65 名カキ 8  クハ165-163 名カキ (垣105▼運用変更) 乗務区間:名古屋~米原 このような8両編成のほか、グリーン車を2両連結した編成も存在し、これはいわゆる「大垣夜行」として東京まで運用され、急行「東…

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【241】 中山道宿場巡りで見た鉄道風景(9):徒歩で再訪 塩尻宿~芦田宿

「中山道宿場巡りで見た鉄道風景」の続きを始めます。 【239】中山道宿場巡りで見た鉄道風景(8):今須宿~三条大橋の続きになります。 中山道の東京日本橋から69次の全宿場を電車とバスで訪問し、京都三条大橋までたどり着きました。 途中の塩尻宿から東海道と合流する草津宿までは、徒歩で中山道を何回かに分けて歩き通しました。 このあとは、中山道のうち、宿場間の移動を交通機関を使ったために歩いていない部分(塩尻以東のほとんど)を、改めて徒歩で歩きながら、宿場町を再訪することにしました。そのときの行程と、鉄道との出会いについて書いてみます。 今回は、塩尻宿から下諏訪宿を経て芦田宿までの行程を書き記しました。いつもは、道中に出会った列車の写真などを紹介しておりますが、特に今回は険しい峠越えが3か所も連続しているだけでなく、ほとんど鉄道が並行していない部分であることから鉄分は少ないです。 **************************** 【第30日】 2006年10月8日 下諏訪宿~(樋橋) 下諏訪宿~塩尻峠~塩尻宿 和田峠は中山道の難所の一つです。特に現在の中山道を歩く者にとっては一番の難所になります。かつて峠を越えていた国鉄バスは峠の前後で分断され、その両方の麓にある下諏訪宿と和田宿の2宿を結ぶバス路線はありません。どちらの宿場からも峠の途中までしかバスは運行されておらず、しかもその本数は極端に少ないのです。和田峠をはさんだ下諏訪宿と和田宿の間は24㎞もの距離があ…

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【240】 乗務した車両:急行型気動車(後篇)

先週の【238】乗務した車両:急行型気動車(前篇)の続きになります。 私の乗務範囲で、キハ58や28に混じって走っていたのはキハ57のほか、キハ65がありました。 キハ65は走行用の強力エンジンのほかに、自車を含めて3両分の冷房電源の供給用として、発電用エンジンと発電機を搭載しており、電源車的な役割がありました。 急こう配区間が連続する中央西線の急行の普通車には、もともと走行用エンジンを2基装備したキハ57やキハ58が使用されていて、エンジン1基のみのキハ28はほとんど使用されていませんでした。キハ57や58では床下が満杯で冷房電源用エンジンを追加できず、冷房用電源エンジンを装備可能なキハ28では、高速での走行出力が確保できないわけです。そのため冷房化の際に、冷房電源を確保しつつ、走行出力も落とさないよう、冷房用電源を持ちながら走行用の強力エンジンも装備したキハ65が配置されたのでした。 私が車掌として乗務した頃、キハ65は名古屋第一機関区に配置され、キハ28、57、58に混じって急行用として使用されていました。エンジンはキハ91やキハ181をもとにした新系列タイプで、冷房化が遅れていた東日本には配置されず、西日本だけに配置された形式でした。 あいにく名古屋での国鉄色キハ65の写真が見つからなかったので、JR化後、因美線の急行砂丘に使用されていた当時の写真です。 正面のパノラミックウインドウが特徴ですが、キハ58、28でも後期車には同様の顔が存在します。側面はこの車両の特徴…

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【239】 中山道宿場巡りで見た鉄道風景(8):今須宿~三条大橋

「中山道宿場巡りで見た鉄道風景」の続きを始めます。 【237】中山道宿場巡りで見た鉄道風景(7):鵜沼宿~関ヶ原宿の続きになります。 今回でとりあえず中山道全宿場訪問達成です。 ************************* 【第25日】 2006年6月1日 59.今須宿~60.柏原宿~61.醒井宿~62.番場宿~63.鳥居本宿 早朝に家を出て電車を乗り継ぎ関ヶ原へ。大垣からはJR東海管内では珍しい221系でした。 関ヶ原駅から歩き始めます。 今須宿を過ぎ、岐阜・滋賀の県境近くの踏切でEF64の単行機関車が通り過ぎました。 滋賀県に入り、柏原宿を過ぎると次の醒ヶ井宿まで中山道は東海道本線とルートからはずれるので鉄分はありません。さらに醒ヶ井宿から先も再び東海道本線と別れ、ターミナル駅である米原には中山道は通っておらず、近くの番場宿を経て近江鉄道の鳥居本駅が最寄りの鳥居本宿へと続いています。 この日はここまでで、鳥居本駅から近江鉄道で米原に出て、東海道本線で帰りました。 鳥居本駅で帰りの列車待ち中に貴生川行近江鉄道700系が通って行きました。 *************************** 【第26日】 2006年7月6日 64.高宮宿 この日は東海道本線米原駅で近江鉄道に乗り換え、鳥居本駅まで行ってから歩き始めるのですが、この時点で近江鉄道米原駅は、まだ現在の新駅に移転前でした。 非常に古めかしい駅内部。そして硬券。ま…

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【238】 乗務した車両:急行型気動車(前篇)

私が国鉄に在籍していた中でも前半の1970年代後半から1982年あたりには、急行列車の設定もまだ多くありました。 名古屋を発着するディーゼルカーによる急行列車は、 北陸、小浜、宮津、山陰線経由、大社(出雲市)行「大社」 高山本線経由、富山、金沢行 「のりくら」 中央、信越本線経由、新潟行「赤倉」 関西本線 奈良行「かすが」 関西、草津線経由、京都行「平安」 関西、紀勢本線 紀伊勝浦行「紀州」 これだけ多種の定期列車がありました。 このすべてが私が在籍した車掌区の受持ちというわけではありませんでしたが、名古屋では日常的に多方面へのディーゼル急行があったのです。 写真は中央西線を走るキハ58系12両による長大編成の急行赤倉号です。グリーン車が2両組み込まれた長距離運用で、貫禄さえ感じさせます。 しかしながら、私が専務車掌になったころ、その多くは廃止や、特急格上げ、電車化によって、その数を減らしており、実際に急行列車として、これらディーゼルカーの急行列車に乗務した経験は、線路見習として「のりくら」と「紀州」にそれぞれ1回ずつにすぎません。それでも普通車掌時代には、朝晩を中心にこうした列車の間合で普通列車の運用が組まれていましたので、そのいくつかには乗務する機会がありました。 上の写真は、JR化後にJR東海に引き継がれたキハ58とキハ28です。 国鉄時代の急行列車にはいうまでもなくキハ58、キハ28が主として使用されていましたが、そのほかにキハ…

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【237】 中山道宿場巡りで見た鉄道風景(7):鵜沼宿~関ヶ原宿

「中山道宿場巡りで見た鉄道風景」の続きを始めます。 【232】 中山道宿場巡りで見た鉄道風景(6):中津川宿~太田宿の続きになります。 *************************** 【第21日】 2006年3月29日 52.鵜沼宿~53.加納宿 この日も、あえて桃花台新交通桃花台線に乗りたいこともあって、名鉄バス、桃花台線、名鉄小牧線~各務原線を乗り継いで鵜沼宿駅へ出ます。名鉄パノラマカー7000系のお出迎えです。 この列車で新鵜沼へ戻ってから中山道歩きを始めました。これが私の最後のパノラマカー乗車になりました。 JRの鵜沼駅ではキハ47に出会いました。 私はこのキハ47には乗務経験がありません。キハ40や48は国鉄当時から美濃太田機関区に配置があったのでよく乗務したのですが、キハ47は国鉄当時美濃太田には配置がありませんでした。 中山道は名鉄とJR高山線に並行しています。歩いていても近くの踏切の音が聞こえると気になってしまいます。 加納宿のあたりまで来ると名鉄名古屋本線の踏切を渡り、名古屋本線の線路も近くです。また7000系パノラマカーに出会いました。 名鉄の車両のことはよくわからない私ですが、この7000系は名車だなと思います。 この日は岐阜駅まで歩いてJRで名古屋経由で帰りました。 *************************** 【第22日】 2006年4月15日 54.河渡宿 このあと中山道歩きの往復は名古屋…

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【236】 桃花台新交通(ピーチライナー)

昨年末にアップしたブログ記事「【232】中山道宿場巡りで見た鉄道風景(6):中津川宿~太田宿」で、第20日めの2006年3月11日、太田宿から鵜沼宿手前まで歩いた帰路は、名鉄新鵜沼から名鉄犬山線、小牧線で小牧原まで来まして、ここから「桃花台新交通桃花台線(ピーチライナー)」で桃花台ニュータウンの中心駅「桃花台センター」へ出るというルートを採りました。 写真は、その当日撮った桃花台センター駅(地下駅)に進入せんとする列車です。 桃花台センターからは名鉄バスの高蔵寺駅北口行に乗り継ぐことが可能でしたので、JR中央西線沿線の我家に帰ることができたわけです。しかし、正直申し上げて、こんなルートは一般的ではありません。名鉄小牧線でそのまま地下鉄平安通~大曽根と乗り継ぐか、小牧駅から春日井駅までの名鉄バスを乗り継ぐのが一般的かと思われました。あえてこのルートを使った理由は、この桃花台線(ピーチライナー)の廃止が、この時点でほぼ決定的な状況にあったので、その乗り納めの意味があったのです。 桃花台新交通株式会社は第三セクター鉄道として新交通システム「桃花台線」を運行する会社で、設立は1979年、開業は1991年(平成3年)と新しい鉄道会社でした。 しかし債務超過に陥り、このとき私が乗った半年後の2006年9月30日限りでその運行を終了、翌日廃止となってしまいました。営業期間はわずか15年と短く、新交通システムで全国初の廃止例となりました。 桃花台線の営業キロは7.4㎞、駅は7駅あり、最高速度…

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【235】 2012年正月の模型いじり

みなさんは、よいお正月休みを送っておられますか? 私は明日から仕事です。昨年の正月明けには、我が家の「棺桶」をご紹介しましたが、昨年もなかなか模型いじりの時間が取れないまま年を越してしまいました。年末にはレール磨きをしましたが、この正月もほとんど触らずじまいで、昨日3日午後になって、昨年末に新規入線したC62 2号機の試運転をしてみました。 もともと、私は自分が仕事で関わった車両や地元を走っていた車両を中心にNゲージ模型を収集しているので、C62は対象外となるわけですが、2号機は例外でした。私が中学生のころはC62 2号機は英雄のような存在で、北海道で務めを終えた後は梅小路蒸気機関車館に保存展示され、私も見に行ったものです。 北海道での活躍を直接見ることは叶いませんでしたが、鉄道雑誌のグラビアページを飾っている重連の姿はSLブームの牽引車的なイメージがありました。 Nゲージでも、KATOから特定番号機として発売されましたので、「棺桶」のフタを開けて試運転と相成りました。 静かな走行音で非常にスムーズな走りです。 アップにも耐えうる造りはさすがです。 その質感も北海道時代の再現がされているようです。 東海道型の名古屋機関区の「下がりつばめ」18号機と並べてみても質感の違いを実感します。 この18号機も例外で、見たことなどあるはずもないですが、地元名古屋の赤ナンバーつばめ牽引機として買ってしまったものです。 また、煙室戸も専用パーツですから、2号機と18号機…

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【234】 乗務した車両:荷電クモニ143併結列車

1985年(昭和60年)大垣電車区に配置されていた旧性能国電のクモニ83の置換えで、代わりに配置されたのは、信越本線から来たクモニ143と飯田線から来たクモユニ147でした。いずれも荷物輸送がトラックによる代行輸送に切り替えられたことによるものと思います。 クモユニ147は119系電車に合わせた水色に白線の塗装で、113系に併結して運用されていました。 クモニ143は湘南色でした。 自分が乗務した列車に併結されていただけで、直接乗務したわけではありません。 クモニ143併結列車乗務の記録は次のとおりです。 1985年(昭和60年)11月5日 東海道本線1547M 運転区間 浜松~大垣 乗務区間 浜松19:29~名古屋21:41 クモニ143-   1 名カキ(垣荷26) ク ハ111- 363 名カキ(垣 23) モ ハ112-2010 名カキ(垣 23) モ ハ113-2010 名カキ(垣 23) ク ハ111- 108 名カキ(垣 23) あいにくクモユニ147のほうは定期普通列車に連結されていた編成記録を取っておりませんが、臨時の試運転列車で、直接乗務したことがありました。その時のことは、後日「臨時列車の乗務」シリーズでご紹介させていただくことにします。 クモニ143とクモユニ147に関しては、いずれも大垣電車区での活躍時期は短く、翌年には国鉄の荷物輸送が廃止となり失業してしまいます。 この編成記録で先頭に連結されていたクモニ143…

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【233】 2012年 あけましておめでとうございます(^o^)丿

謹んで新年のお祝いを申し上げます。 昨年は何かとお世話になりまして、ありがとうございました。 おかげさまで良き新年を迎えることができました。 本年も昨年同様よろしくお願い申し上げます。 皆様のご健康とご多幸を心よりお祈りいたします。                   平成二十四年 元旦                         <<本年の当面の予定>> これまでどおり、毎週月・木曜の更新はできる限り続けたいと思っています。 現在月曜日連載中の「乗務した車両」のシリーズ記事は、これまで多くの車種について書いてまいりまして、残すところはあとわずかになりました。そのあとには以前連載した「臨時列車の乗務」の続編を予定しています。前回は1984年(昭和59年)分について記しましたが、次回はその翌年分です。 もともと、拙ブログは自分の偏った趣味嗜好によって、一般的でないことばかり掲載しておりますが、木曜日連載中の「中山道宿場巡りで見た鉄道風景」。これも第29日目で京都三条大橋に到達しますので、あと2回でキリが付きますが、塩尻以東の徒歩での中山道再訪の際の鉄道風景の旅を続けます。そのあとには、自分で決めた 「宿場最寄り駅では駅名標と駅の写真を撮る。」 「宿場の中心部で宿場名が入った写真を撮る。」 この2つの約束事について、その写真をご覧いただくつもりです。 中山道関係がだらだらと続いてしまいますが、ご容赦ください。         …

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