【261】 春日井貨物のワム80000

今月のダイヤ改正で、中央西線の春日井からの紙輸送のために使用されてきた二軸貨車「ワム80000形式」が、コンテナ車による輸送に切り換えられ、引退しました。 ワム80000形式は国鉄時代に26,605両が製造され、長く貨物輸送に従事してきた一般的な貨車で、全国どこでもごく当たり前に見ることができた形式でしたが、この春日井を含む他の運用も含めてJR貨物所有のワム80000全車の運用が終わったのです。 こうした「紙列車」のワム80000形式の運用がなくなったことなど、300系新幹線や特急日本海、急行きたぐにの廃止など他の大御所の引退に隠れてしまうのですが、私にとってはそれらより身近に感じていた車両でありますから、寂しい思いがします。 先月のことになりますが、稲沢へ行ってまいりましたら、ワム80000形式が構内に何両も置かれていました。 このときにはまだ営業運転は行われていたのですが、ここに置かれているワム80000形式は、すでに役目を終えたものだったのでしょうか。私にはわかりませんが、解体されてゆき、いずれこの構内から姿を消してゆくのでしょう。 直前まで紙輸送に使用されていたワム80000形式は、軸受を平軸受からコロ軸受に改造した380000代という青い車体色のものでしたが、軸受の改造が行われたのはJR貨物発足後のことで、国鉄時代にワム80000形式といえば「とび色2号」と呼ばれる薄茶系の塗色でした。稲沢の構内には、営業用ではない「とび色2号」のワム80000形式の姿もありまし…

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【260】 レチ弁

「レチ弁」とは車掌用の弁当のことです。「レチ」は「列車長」の略で「車掌」を意味します。構内営業の駅弁業者さんと契約して、特別に弁当を提供してもらったり、また大きな乗務員宿泊所や大きな車掌区には業者が入った食堂があって、弁当を作ってもらったりできました。 駅の駅弁業者さんによるレチ弁については、購入できる乗務列車が指定されていました。指定された列車以外での利用はできませんでした。地上で食事ができにくい時間帯の長距離列車が対象とされていたようです。荷物列車の乗務の際に、私もレチ弁のお世話になりました。以下はいずれも昭和51~54年の荷物列車乗務の頃の駅弁業者さんによるレチ弁の話になります。 駅弁業者さんによって、次のようなレチ弁利用形態がありました。 ●形態その1 車掌区に置いてある駅弁利用券を持って指定された駅の指定された駅弁売場で市販の駅弁を割引価格で購入する。 この形態は名古屋駅にありました。 特に正月や早朝には今のようにコンビニがなかったので、重宝しました。上の写真は乗務掛(荷扱)の見習臨時雇用員時代、実際の乗務のときに買った名古屋駅の駅弁の掛け紙です。市販品そのものですので売価の半額で購入できました。この場合掛け紙の値段が400円と表記されていますので、200円で提供してもらったということになります。一緒に乗務する専務車掌(荷扱)が「弁当いるか?」と聞いてくれるので必要なら現金を渡し買ってもらうのです。 駅弁利用券には専務車掌(荷扱)が個数を記入し押印のうえ…

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【259】 特急「日本海」の思い出

特急「日本海」が定期運用を終えました。人込みは嫌いなので、先週ブログ記事に書いたように、ダイヤ改正直前に関西地区へ行く機会はあったのに、あえて「日本海」を見に行くことはしませんでした。 「日本海」は私が住む中京地区は通らない列車ではありましたが、乗客として2度乗ったことがありましたし、写真を撮りに行ったこともありました。 1974年(昭和49年)4月28日撮影。湖西線が開通する前で、私は高校生でした。 当時は米原~大阪間がEF58の牽引でした。今となってみると20系を牽くEF58も特に違和感がないのですが、この少し前まで、この区間はEF65P形の運用となっていたこともあり、私は、20系客車にはEF65P形しかあり得ないような感覚でしたので、ちょっとがっかりしたものです。 このあと、私は国鉄に就職しましたが、在職中には乗ったり撮ったりした記憶がありません。 分割民営化後、国鉄時代の同僚の撮り鉄仲間とともに、写真を撮りに行ったことがありました。 敦賀~新疋田間での日本海。1988年10月2日の撮影です。この写真を見ても、最近の写真とそんなに変わらない姿に思えますが、このときから二十数年が経過しています。 1990年になって、乗車する機会を得ました。初めての北海道からの帰路に青森から大阪まで乗車したのです。 このころ「日本海」は2往復体制で、そのうち1往復は青函トンネルを通って函館までの運転でした。このときは強風のため新発田駅で1時間ほど止められてしまい、そのまま…

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【258】 ふたばん とうばん あめりかん

以前、駅名について、非公式の呼び方を2回に分けて 【250】駅の通称名(乗務員編) と 【252】駅の通称名(乗客編) でご紹介しましたが、駅名以外にも国鉄独特の用語がありました。 数字は聞き間違いをすることで事故につながることもありますので、紛らわしい数字は 「2=フタ」「10=トウ」など、一般に「に」とか「じゅう」と呼ぶのを意識的に言い換えていました。 業務放送で聞かれたことがある方も多いかもしれません。 使用例としては「12番」は「トウフタバン」です。 名古屋駅10番ホームです。写真は381系を用いたしなの号の最終列車到着時のものです。 このホームは「トーバンホーム」です。 機関車の形式の呼び方もDE10は「デーイートー」 EH10も「イーエッチトー」。 Hを「エイチ」と発音しないのはお年寄りですね(^_^;) まったく鉄道に関係はありませんが、子供の頃、家に有線電話があり、50軒の家が1回線になっていました。交換器は手動式で、50軒の家に「○番、○番」と交換手が呼ぶのです。電話機のスピーカーからその声が流れて、呼ばれた家の人が受話器を上げて応答すると交換手が相手と繋いでくれて通話するという原始的な電話設備でした。そのときに交換手が「10番」の家を呼ぶときは「トーバン、トーバン」でした。「フタバン」も同様に使っていましたが、さすがに「トーフタバン」はありませんでした。50軒を相手に呼ぶのですから、やはり9番(キュウバン)のお宅の方が受話器を取っ…

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【257】 京都&近江へ2人旅 鉄分補給+α 2012.3.9

今年初めて新幹線に乗って、家内とともに日帰り旅で京都まで行った。 当日は一日中雨。そして平日でもあったので、もともと混雑したところに出かけるのが嫌いな2人にとって、ある意味、いつも人だらけで混雑した印象がある京都へ行くには絶好の天気とも言えた。 普通の夫婦であれば、京都へ行けば「それなり」のコースがあるのだろうが、私たちの場合はちょっと違う。目的は私の「鉄分補給」を主としていて、非鉄の同行者に対しては多少なりとも旅に出た雰囲気くらいは味わえるようにした程度の日帰り旅である。 京都駅で東海道新幹線から降りても、すぐ市内に行くのではなくJR嵯峨野線(山陰本線)に乗り換えて京都市内からいったん出てしまい、馬堀駅で降りた。 もうわかる人ならわかるだろうが、ここから数分歩いて嵯峨野観光鉄道のトロッコ列車に乗るため、トロッコ亀岡駅へ向かったのだ。 ここで9時35分発の始発のトロッコ列車に乗ってトロッコ嵯峨駅まで小雨に煙る渓谷美を楽しんだ。 雨降りで始発列車という二つの悪条件下のもとで、空いていることを狙ったわけだ。 実際にはトロッコ列車は団体客もいて、ガラ空きという状態でもなかったけれど、発車すると適当に空席を使ってよいとの車内放送があって、指定された号車でなくDE10形ディーゼル機関車の直後に1両だけ連結されている窓もないオープンタイプの真の(?)トロッコ車両「リッチ号」に余裕で座れた。 ガーガーゴーゴーという騒音とガツンガツンと尻から伝わる振動が織りなすワイルドな乗り心地。…

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【256】 武豊駅~入換作業の失敗談

武豊駅では失敗談があります。 武豊泊まりの行路でのことでした。先週のブログ記事で少し触れましたが、その列車はホームが1本しかない武豊駅に着くと、終列車のためにホームを空けておく必要があるので、側線への転線入換をしました。 車内清掃終了後に、大府方へ列車を引き上げ、ホームがない留置線に転線し、朝まで留置するのです。 武豊駅での入換通告券です。 発行者の欄に「外駅長」と書いてあるように見えますが、「そと駅長」ではなくカタカナで「タト駅長」と書いてあるのです。「タト」は武豊駅の電略記号なのです。武豊駅長が発行したこの通告券によって車掌が運転士に入換作業内容を「通告」し、車掌の合図灯による誘導で車両の移動をするわけです。 『客車内清掃後、上り本線に3両(全車)引き上げ、2番線の「956D留置目標」まで持ち込む』という内容です。 留置線として使用されている2番線には留置目標が枕木の上に表示されていました。いつもの作業なので運転士も私も特に考えることもなく終了したのですが、その日は留置目標よりほんのわずか終端よりに行き過ぎた位置に車両が停まってしまいました。ほんの少しだけのことだったのですが、行き過ぎた事実は自分も運転士も承知していました。終端側だし、ちょっとぐらいいいだろうという気持ちで、バックするのも面倒なのでそのまま入換作業は終了しました。 この写真の奥のほうは3つの線路の先が、それぞれちょん切られているのですが、当時は3本の線路は機回りするために現在廃止された踏切のほうに向かって…

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【255】 武豊駅の高橋駅手

武豊駅の写真です。画面右端、駅前に建っている胸像がおわかりでしょうか。 武豊駅の駅手「高橋 熙」の胸像です。「駅手」とは駅務係のことです。 私が生まれる前に建てられたもので、常滑焼の陶製だそうです。 台座裏面には以下のように記されています。 高橋熙君顕彰記 昭和二十八年九月二十五日襲来した十三号台風により、武豊町塩田地区の護岸堤防が決潰し、高潮の浸水によって鉄道線路が洗われたので列車の運行が危険な状態となった。この時旅客列車が東成岩駅を発車したことを知った武豊駅駅手高橋君は、荒れ狂う濁流と暴風雨とをおかして発煙筒を打ち振って危険信号を送った。このため列車は危機寸前に停車して、多くの生命は救われたのである。然し、高橋君は哀れにも怒涛にのまれ、悲壮な殉職をとげてしまった。その尊い犠牲的行為に感激し、有志が相談して君の胸像を建て、その功績を永遠に伝える。 昭和二十九年九月 愛知県知事 桑原幹根撰 志芳書 私が生まれる前、そんなことがあったのだと、乗務中にも、次の東成岩駅との間に考えることがありました。 いまさら私がコメントするようなことでもなく、この文面を見れば、多くの人命を預かる国鉄職員が職責を全うした、若い駅員の行動を思うにつけ、在職中の私は恥ずかしい思いばかりしていたと反省せざるを得ません。 ところで以前の拙ブログ記事「【153】長野県西部地震があった日「しなの7号 春日井行」」に「くろしお1号」様がこの区間で災害に遭遇したときの様子をコメントいただ…

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【254】 武豊泊りでの思い出

武豊線は車掌時代にいつも乗務していた線区でした。 私が乗務していた昭和50年代、この武豊線の終点である武豊駅で夜を明かすキハ35で編成された列車が3本ありました。武豊駅のホームは1本だけなので、最終列車はそのままホームに着いて乗客を降ろした後は、ホーム先端付近まで移動するだけでしたが、その1本前と2本前の列車は、側線への転線入換がありました。当時はまだ貨物輸送の関係で、機関車の付け替え(機回し)ができるような線路配置になっていました。 先日ひさしぶりに訪れた武豊駅の構内を見ると、キハ35を留置した側線は2本とも現存していましたが、線路は終端側(南側)の一部が撤去されてしまい機回しはできなくなっていました。 また、上の写真では、2本の側線の向こうには住宅が並んでいますが、その部分には貨物用の側線と積みこみのための設備があったのですが、広かった構内はかなり狭くなっていました。 武豊駅は終着駅ですが、その先に貨物専用線があったので現在のような行き止まり型でなく、ホームの終端より南方へ線路が伸び、構内のはずれを通る道路には踏切がありました。 下の写真は駅ホームから南方(線路終端方向)を見たものです。線路終端付近には電化工事のための資材がたくさん置いてありました。自動車が写っているところが道路でに本線の延長線上と交わるところに踏切がありました。 3本の列車が滞泊するので、運転士と車掌も各3人ずつが武豊に泊まりました。運転士も車掌も、出先の宿泊は乗泊と呼ばれる「乗務員宿泊所」を利用…

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【253】 思いがけぬ出会い

先月アップしたブログ記事「【248】思い出の乗務列車:武豊線940D」に、拙ブログにいつもコメントをくださる現役運転士さん「くろしお1号」様から、武豊線でも電化工事が始まっていて、線路沿いに電柱がニョキニョキ立てられてきているというコメントをいただきました。国鉄時代キハ35が走っていたのは遠い昔のことでありますが、武豊線が電化されれば、キハ75やキハ25といったJR世代の気動車さえ、この線区では見られなくなってしまうのでしょう。私はこのコメントに刺激され、ちょっと武豊線へ行ってみることにしました。 自宅がある中央西線の駅から名古屋行きの列車に乗って、金山で東海道本線に乗り換えでしたが、絶妙のタイミングで武豊線に直通する武豊行区間快速に乗れました。意外にも乗客は多く、座れなかったので先頭の運転室中央の通路ドア後に張り付きました。運転士席側の直後に立つとやはり運転士さんには迷惑でしょうから、私はたいてい助士席側か、中央の通路ドアのところに陣取ることが多いです。そこで前方の展望を眺めつつ、なにげに運転室貫通扉下の床に置かれた運転士氏の鞄の名前に目をやると…見覚えのあるお名前がフルネームで書かれておりました。なんとその列車の運転士氏はこの日、私を武豊線に行く気にさせた張本人「くろしお1号」様ご本人であったのです。 実は、くろしお1号様とは面識がありませんでした。拙ブログにコメントしていただく現役運転士さんであることと、数々のコメント内容から武豊線も運転しておられることは承知しておりました…

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