【361】 中山道歩きで見たモノいろいろ(16):牛乳箱(明治篇)

2005年から中山道の宿場を訪問しはじめ、全宿場に足跡を残しました。 旧宿場町や旧街道を歩いていると、自動車なら気付かずに通り過ぎてしまうようなチョットしたモノも目に入ります。 ふだんの生活で当たり前にあるものでも、その地方ごとにチョット違っていたりしますし、裏道になり下がった旧中山道には、現在の表通りとも言える国道や、そのバイパス道では見かけられないようなモノが残っていたりするものです。 今回も牛乳箱にスポットを当ててみましょう。 最近、あまり見かけなくなった牛乳の受け箱。 我が家でも、牛乳はスーパーで紙パックのを買ってきますが、私が子供のころは玄関先に釘で打ち付けた木製牛乳箱があって、毎朝、牛乳屋さんが配達してくれていました。 そんな懐かしい牛乳箱は中山道を歩いていたらたくさん見かけました。 明治牛乳篇になります。 **************************** 縦長のタイプです。古いタイプで、色褪せが激しいです。 2006年7月6日 高宮宿~愛知川宿で撮影 こちらの形はよく見かけるタイプですが、古い明治乳業のマーク入り。 横に書かれた商品名「パイゲンC」ご存知ですか? 今は発売されていないようですが、テレビのCMで「パッパッパッとパイゲンC、パッパッパッとパイゲンC、毎日毎日1本、め~ぇい~じパイゲンC」って歌っていたのを覚えてますか。←知らねぇ~よって。あ、そうですか。 パイゲンCのネーミングは「オッパイ・元気・ビタミンC」から…

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【360】 東濃鉄道笠原線 営業運転最後の日

1978年(昭和53年)10月31日 東濃鉄道笠原線が廃止になった日に最後の列車を見に行ってきました。 自宅からそんなに遠いところでもなかったのに、晩年は旅客営業はなく貨物だけで、機関車も2両しかいない目立たない鉄道だっただけに行く機会がなかなかなくて、このときが2回目の訪問でした。 最終日の列車は1往復で、車庫があった終点の笠原から多治見へ行き、折り返し笠原へ戻ってくるというダイヤでした。 地味な鉄道ながら、最終日ということで、訪問者は他にもありましたが、多くはありませんでした。 笠原駅で、列車に連結されようとする機関車です。 貨物列車とは言っても、秩父鉄道所属車のスムと東濃鉄道の緩急車ワフのたった2両。 しかもスムは寄居までの空車回送でした。ワフの積荷もないように思われ、セレモニーのためだけの貨物列車といってもよいのではないかとも思われました。 笠原駅を後にして、走行風景の写真を撮るために自動車で先回りしました。 この写真を撮った場所は現在もあまり変わっていないようでした。先日ウォーキングのときも、この場所はすぐわかりました。まったく変わっておらず、こうしてみると今でも列車が通過していきそうです。 さらに、多治見駅手前の土岐川鉄橋へ先回り。 このあと列車は新多治見駅で折り返し笠原行き最終列車になり、発車前にお別れセレモニーが行われたようでした。再び土岐川鉄橋に姿を現した最終列車は、新多治見でスムを切り離し、ワフ1両だけを牽引してきました。 この機関車はDD100形…

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【359】 陶彩の径 ~東濃鉄道笠原線廃線跡~

先日、211系0番台について、東濃弁で、くだらないお話をしました。この電車は自分が乗務したことがある電車で、しかも地元を毎日走っているのに、その時間帯から乗る機会どころか最寄駅で見たことさえありませんでした。3月のダイヤ改正が間近に迫った時期、もしも運用が変わったりして地元中央西線で乗れなくなったりはしないだろうかとの不安がよぎって、早朝運転されている211系0番台に乗って、どこか行くところはないかと思案した結果、思いついた行き先は多治見にある「陶彩の径」という遊歩道だったのでした。 当日は211系0番台の電車に乗るのが主目的ではありましたが、そのほかにウォーキングと廃線跡巡りという目的もを含有することになったわけです。 「陶彩の径」は東濃鉄道の旧笠原線廃線敷を改修して誕生した遊歩道です。 東濃鉄道旧笠原線は国鉄多治見駅から分かれ、笠原まで4.6㎞の区間で1978年(昭和53年)まで営業していた私鉄ローカル線でした。末期は貨物営業だけで、旅客営業はそれより前の1971年(昭和46年)に廃止されていました。私は旅客営業時代には訪れたことがなく、貨物営業のみになった後に2度訪問しただけでした。そのときの東濃鉄道笠原線の写真も交えて、「陶彩の径」を紹介しましょう。 「陶彩の径」は多治見の市街地を流れる土岐川を渡ったところから始まります。堤防脇に、いきなりこのような橋台跡が現れます。 その先の線路跡は遊歩道としてきれいに整備され、道路脇には桜を始めとする樹木が植樹されています。211…

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【358】 ???JR東海211系0番台と乗客との会話???  ~中央西線多治見駅~

まもなく4番線に当駅止まりの列車が到着します。この列車は折り返し普通列車名古屋行きになります。 ~2013年3月ダイヤ改正前の土休日・朝の中央西線多治見駅4番ホーム 乗客と211系0番台との会話???~ 「あ!おぞい211系が来よ~るわ。 313系やないで、たるいなあ!」 (あ!ボロい211系がやって来たよ。 313系じゃないからつまらないなあ!) 「あの~、そこのあなた。どちら様か知りませんが、そんな言い方ないでしょ。わたし、こう見えても、あなたがいつも乗ってる211系とは一味ちがうんですよ!」 「何言よ~るよ! おんし普通の211系の顔しとるに!いつものやつと、どっこも違うとこあらへんら? まあええわ! ほんなら乗ってみよか。」 (何言ってるんだ! おまえ普通の211系の顔してるじゃないか! いつものやつと、どこも違うところはないでしょ? まあいいでしょう! それなら乗ってみようか。) 「あれっ!四人掛けの座席があるに! いつもは横長の座席やけど、なんでやら?」 (あれっ!四人掛けの座席があるじゃないか! いつもは横長の座席だけど、なぜだろう?) 「あの~、わたしは毎日朝の早い時間とか深夜だけ中央西線を走っているのですよ。211系の初期車で0番台というグループなんです。JR東海では2編成しかないんです。」 「ふ~ん、おんし、いつもはどこ走っとる?」 (ふ~ん、おまえ、いつもはどこ走ってる?) 「最近は、いつも関西本線の名古屋口で走っており…

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【357】 JR北海道の乗車証明書

私は国鉄在職中に北海道と四国へは行ったことがない。 以前にも書いたことがあったかもしれないが、理由は簡単。線路が本州とつながっていなかったからだ。 同様の理由で、いまだに日本の中で沖縄県だけが未踏の県になっている。 初めて北海道へ行ったのは平成2年。青函トンネルが開業して約2年経って初期の混雑も落ち着いただろうということで、往復とも鉄道で行った。 先日大垣夜行のブログ記事で、乗車証明を書くよう依頼された話をしたが、分割民営化後は、各社とも乗車記念オレンジカードを発売したり、会社によっては乗車証明書を乗客に配るということも一部で始まった。その渡道の際に特急オホーツクに乗った。自分が車掌であった経験から、車掌氏の仕事が一段落されたであろう頃合いはわかるので、その時機を見計らって乗務員室を訪問し、記念にオレンジカードやら車内補充券やらを車掌氏から買い込んだ。 実はちょっと前まで車掌をやってまして…などとしゃべっていたら、じゃあこれも差し上げましょうと、こんな乗車証明書をサイン入りでいただいた。 旭川車掌区のMさんという方であった。このときは車内放送も録音してきたが、聞き取りやすく好感が持てる放送だったから、その録音も含めて、初めての北海道のよい土産になった。 それから7年後、再び北海道へ行く機会があり、今度は急行礼文に乗った。この列車も旭川車掌区改め旭川車掌所の車掌氏だったので、自分が2度目の北海道で、初めて来た時にはオホーツクでMさんという方に乗車証明書を書いてもらったり…

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【356】 思い出の乗務列車19:上り大垣夜行340M ~車掌のサイン~

私が340M東京行に乗務していたのは、国鉄最末期1986年12~1987年3月までの短期間でした。 国鉄が分割民営化の時期が迫ってきたことと、それに伴って全国でローカル線の廃止が相次いだ時期だったこと、さらに1980年から始まった「いい旅チャレンジ20,000km」という国鉄線の完乗を目指すキャンペーン期間中でもあったので、「青春18きっぷ」で効率よく利用できる340Mは鉄道好きな人たちの人気列車でした。 下の写真は、この340Mと共通運用を組んでいた急行東海号です。 私も、たとえば武豊線乗務中に入場券集めのお手伝い(詳細は拙ブログ記事 【49】入場券集めのお手伝いをご参照ください)をしたりしたものですし、鉄道が好きな方々の気持ちは、よくわかっているつもりです。 そのころ青春18きっぷで乗りつぶしをやっている若い方々で、小型のノートを持参して乗車した列車の車掌のサインを集めているという人に何人か出くわしたことがありました。当時そういう趣味が流行っていたのでしょうか。 【注】現在の乗務員は仕事の密度も濃くなっており、こういう行為は、執務中のご迷惑となりますので私はおすすめできません。ご遠慮ください。 彼らからは、「日付、列車番号、乗務区間、職名 所属車掌区、氏名、押印」を求められました。正直忙しいときは困りますが、仕事に余裕があるときなどは、なかなか面白いなと思って、それまでに記入された列車や車掌の名前を見せてもらったりしたこともありました。 この340Mに乗務すると、そう…

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【355】 中山道歩きで見たモノいろいろ(15):牛乳箱(森永篇)

2005年から中山道の宿場を訪問しはじめ、全宿場に足跡を残しました。 旧宿場町や旧街道を歩いていると、自動車なら気付かずに通り過ぎてしまうようなチョットしたモノも目に入ります。 ふだんの生活で当たり前にあるものでも、その地方ごとにチョット違っていたりしますし、裏道になり下がった旧中山道には、現在の表通りとも言える国道や、そのバイパス道では見かけられないようなモノが残っていたりするものです。 最近、あまり見かけなくなった牛乳の受け箱。 我が家でも、牛乳はスーパーで紙パックのを買ってきますが、私が子供のころは玄関先に釘で打ち付けた木製牛乳箱があって、毎朝、牛乳屋さんが配達してくれていました。 そんな懐かしい牛乳箱は中山道を歩いていたらたくさん見かけました。 今回は森永の牛乳受け箱にスポットを当ててみましょう。 **************************** 縦長のタイプです。古いタイプのエンゼルマークが懐かしいです。 2007年5月27日 松井田宿~坂本宿で撮影 こちらの形はよく見かけるタイプですが、マークはありません。色褪せが激しいです。 2006年2月24日 大湫宿で撮影 あまり褪色せずにいます。マークは現行森永乳業のMマークです。 2006年2月11日 中津川宿で撮影 こちらは古いタイプのエンゼルマーク付ですが、プラ製です。 2006年7月6日 高宮宿~愛知川宿で撮影 これはプラ製かつ現行森…

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【354】 C56 160「1世紀号」  ~27年前に名古屋で走ったSL~

今から27年前の1986年(昭和61年)4月29日から5月5日まで、名古屋で蒸気機関車が運転されました。 愛知の鉄道100年を記念して、C56160号機を当時の大阪鉄道管理局梅小路機関区から借り入れての運行でした。今年「あおなみ線」で実験走行したのと同じ機関車だったわけですが、客車もまた今回同様12系客車が使用されました。このころは名古屋にも12系客車が配置されていましたので、借り入れたのは機関車だけでした。 上の写真は笹島の「愛知の鉄道100年フェア」会場で撮ったものですが、画面右側の高いところにに架線柱が見えているのがおわかりでしょうか。ここは先月「SLあおなみ号」が走行した現在のあおなみ線そのもので「ささしまライブ」駅付近です。そしてC56160が停まっている場所は、「SLあおなみ号」の撮影場所として解放されていた国鉄笹島駅跡地の空地付近にあたるものと思います。   このとき運転されたSL列車は「1世紀号」と名付けられ、その運転区間は、武豊~(名古屋)~木曽川間でした。 1886年(明治19年)愛知県内で最初に開通したのが、この区間だったというわけです。 4月29日・5月3日~5日に、名古屋~武豊間に1往復 4月30日・5月1日・2日に、名古屋~木曽川間に1往復 このように名古屋を起点として、日によって運転区間が変わっていました。 例によって本番前には試運転が行われました。そのとき撮影した写真がこちらです。 大府を出て武豊線が東海道本線を乗り越えるところで…

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