【387】 公園のシロとヨーコ(前篇)

京都の街の中、ゴーカートが走る大宮交通公園に、かわいい機関車と小さな客車のような車両がなかよく連結され保存されています。 機関車はC-160。富山のメーカーで製造され、京都府北部にあった加悦鉄道(かやてつどう)という小さな私鉄で働いていたものです。そしてもう1台の小さな客車のような車両は、実は客車ではなく、旧国鉄の貨物列車のいちばん後ろに連結されて、車掌さんが乗務するための車両で「ヨ6720」といって貨車の仲間です。ここではC-160は「シロ」、ヨ6720は「ヨーコ」と呼んでおきます。 「シロ」とは私がこの機関車と車掌車の存在を知るきっかけとなったブログ「虹色鉄道」の管理人であるkayoさんが、そのナンバーから命名されました。「ヨーコ」のほうは、私の命名です。「ヨ」という形式名から勝手に名付けたものですが、国鉄時代は「ヨメサン」とも呼ばれたりしていました。 ************************ その公園は京都のまちの中にありました。ここへ来るこどもたちは、ゴーカートにのったりして遊びます。シロとヨーコはいつもそのこどもたちをみています。ゴーカートにあきると、こどもたちはシロとヨーコのところへきて、のったり、まわりで遊んでくれます。 その2台が公園へきてからはじめて雨が降った日のことでした。公園に、こどもたちがだれも遊びに来てくれないので、たいくつしていた2台は、おはなしをしていました。 シロがヨーコに声をかけました。 「きみはだあれ?どこから来たの? …

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【386】 思い出の乗務列車25:臨時急行「ユーロライナーのりくら」(前篇)

1985年11月は、臨時列車にはよく乗務しました。 天王寺鉄道管理局(竜華客貨車区)のお座敷列車に乗ったその日の深夜、2度目となる205系電車の新車回送列車に乗務しましたが、その行路は【293】臨時列車の乗務(17):205系電車新車回送の記事でご紹介した時刻と全く同じでしたので、その記事は今回省略とします。 その月はさらに一般客扱の多客臨時急行列車の乗務へと続きました。 その一つが名古屋~高山間に運転された臨時急行「ユーロライナーのりくら」でした。 この年の夏にデビューしたばかりの欧風客車ユーロライナーは、主に団体用として使用されましたが、多客時には臨時急行列車として使用され、個人の行楽客用にも「みどりの窓口」で指定券を発売し、乗車することができました。ユーロライナーについては、以前のブログ記事「乗務した車両:ユーロライナー(1)~(5)」で5回に分けてご紹介しましたが、その中でも 【297】乗務した車両:ユーロライナー(1)そのデビューと概要 【299】乗務した車両:ユーロライナー(2)その国鉄時代 が、参考になろうかと思いますので、よろしければご覧ください。 さて、私が急行「ユーロライナー高山」に乗務したのは11月23日の祝日(土曜日)でした。 運転区間・乗務区間 名古屋~高山 1985年(昭和60年)11月23日 東海道本線~高山本線 9913列車 臨急客「ユーロライナーのりくら」 DD51 592(稲)  1.スロフ12  名ナコ ロザ(開…

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【385】 トトロの森の神様へ

トトロの森に立ち寄るようになって3年が経ちました。 (ここでいうトトロの森については 【346】 トトロの森の年末年始(ブログ更新不定期化のお知らせ)をご参照ください) 故郷の父は正月に脳梗塞で倒れ、現在は故郷を離れて拙宅の近くにある病院に長期療養入院中です。一方、母は1年前に胸椎圧迫骨折と直腸がんで入院手術後の不自由な体で、父親の入院後も一人暮らしを続けてきました。 父の方は入院中にも生命の危機と思われる場面が何度かあり、それほど長くは持たないだろうという判断のもと、父には長年過ごしたトトロの森があるこの地で葬ってあげたいとの気持ちもあったので、母も無理をしてその留守番をしていたようなものでした。しかし父の入院生活が半年になろうとしており、その病状も先月中旬からは比較的落ち着いているものの退院見込みはまったくありません。このままだと、さらに長期にわたってしまう母の一人暮らしはもう無理と判断し、母本人の希望もあって、先週拙宅近くに開設された有料老人ホームへ入所させました。いつかはこの日が来ることは判っていましたが、実家は空家になりました。 その日のトトロの森… 実家の後片付けのため、今後もトトロの森には何度も立ち寄ることになります。近くの田舎の駅では、田舎なりのいい風景にも出会えます。実家で待つ人はいなくなっても、私の故郷の風景は、そこを通る鉄道とともにいつも自分を待ってくれているように思います。 これで、まずはいったん区切りがついたので、先週ひさしぶりに外へ飲みに出かけ…

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【384】 特定車掌~武豊線篇

先週に引き続いて、「特定の車掌」を乗客のほうが覚えているというお話で、これも自分の経験談です。 日中の武豊線に乗務していて、車内巡回中にオバチャンから呼びとめられて、「この前はありがとうございました。」とお礼を言われたことがありました。さて、何のことだったかさっぱりわかりません。 判らぬまま話をそのまま聞くと、「あのときは無事に行くことができました」とおっしゃる。 それでも判らないので、「何でしたかねえ?」と聞くと、「新幹線で九州行って云々…」で、やっと思い出しました。 その一か月くらい前だったか、久大本線の由布院までの切符を車内で買っていただいた方でした。 話はこういうことです。 武豊線の朝一番の名古屋行921Dでのことでした。 石浜だったか尾張森岡だったか、とにかく無人駅からそのオバチャンが乗ってきました。「身内にお葬式ができたのでこれから九州の由布院っていうところまで行くんですけど、どうやって行ったらいいのか全然わからない。とにかく一番列車に乗ったんですが、名古屋で降りて新幹線に乗ればいいんですか?一番早く着く方法で行きたいんです」 そこで、まず時刻表をめくって由布院までの時刻を調べました。小倉、大分経由のほか、念のため博多、久留米経由の時刻も調べました。その結果、小倉で新幹線から日豊本線の特急にちりんの乗継が最速と確認して乗車券類の発行をしました。今であれば、車内補充券発行機(車発機)で一発で乗車券も特急券も発行できるのでしょうが、当時はそんな代物はありませ…

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【383】 岡多線と愛知環状鉄道

岡崎から新豊田までが営業区間だった国鉄岡多線は、国鉄分割民営化でJR東海に引き継がれました。その翌年1988年(昭和63年)には愛知環状鉄道に移管され、同時にそれまでの終点新豊田から高蔵寺までが新規に延長開業しました。国鉄当時に旅客列車用に使用されていた車両は最初が70系、私が乗務していたころは113系、国鉄末期~JR時代には165系電車でしたが、愛知環状鉄道移管と同時に新型電車が導入されたので、国鉄型電車は一掃されました。 岡多線とは「岡崎・多治見」を結ぶといった意味ですが、愛知環状鉄道の新規開業区間は途中の瀬戸市内から多治見へのルートを外れて「高蔵寺」へ向かいました。この部分は、開業に至らなかった国鉄瀬戸線ルートになります。国鉄時代の終点駅新豊田から、国鉄「岡多・瀬戸線」ルートは、昭和50年代前半までに工事そのものはかなり進んでいましたが、国鉄の赤字問題から新線工事に影響を及ぼして、開業できる見込みがなく放置されていた部分でした。 上の画像は1976年に中央西線の高蔵寺~定光寺間の車窓から見た、国鉄瀬戸線の建設工事中の様子です。言うまでもなく愛知環状鉄道として1988年に開業した部分です。かなり工事が進捗していたことがわかりますが、この時から開業までに12年もの年月を経てようやく陽の目を見たのです。 では瀬戸から多治見までの岡多線ルートはどうであったかといえば、建設予定ルートには国鉄バス(~JR東海バス)による運行がされていたものの、こちらの鉄道工事は進んでおりませんでした。…

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【382】 特定車掌~岡多線篇

先週は、「特定の乗客」のお話でした。 今回は逆に、お客さんのほうが車掌を覚えているお話で、岡多線でのできごとです。 私が乗務していた岡多線や武豊線では、同じ列車に乗務するのはだいたい月に1回でしたが、違う列車であれば週に一度は乗務する線区でした。いったん乗務すれば、その日はその線区ばかり何往復も乗ることが多いですし、両線区とも無人駅が複数ありましたので客室内に入る機会も多いとあって、お客さんのほうは「ああ、またこいつか」と思われるのでしょう。 国鉄岡多線は岡崎から新豊田までが営業区間でした。現在は第三セクター鉄道である愛知環状鉄道線の一部です。この岡多線の午前中の上り最終列車926Mは蒲郡や浜名湖の競艇に出かけるギャンブラーのお客さんが愛用されている列車でした。 上の画像は、国鉄時代の岡多線普通列車です。 便利になった現状からは想像もつかないでしょうが、当時はこの列車に乗り遅れると午後まで3時間以上の列車がなかったので、お客さんが集中したのです。競艇場では往復切符を提示すれば、その切符の片道分の運賃相当額を返金するサービスがあって、競艇の開催日にその列車に当たると往復乗車券を次々と発売しなければなりませんでした。 岡多線では無人駅が多く、また有人駅でも窓口で駅員が集中する往復乗車券購入の乗客をさばききれず、買えなかった乗客には無札証明書を乗客に渡して車内で往復乗車券を買うよう案内していました。そのため休日の競艇開催最終日に当たろうものなら、往復乗車券の発行枚数はたいへん多く…

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【381】 神領車両区に371系

おやっ?と思う光景が! 中央西線神領車両区に、かつて「あさぎり」に活躍していたJR東海371系電車が現れました。 ちょっと前に大垣車両区に姿を見せたと思ったら、今度は神領です。 「回送・指定席」?へんな字幕。 383系しなの号とも共演。 JR東海所属の車両でありながら、中央西線とは全く縁のない371系。 昨今はステンレス無塗装車の姿しか見かけませんが、JR初期の新幹線カラーともいうべき371系の装いは新鮮に映ります。 下の画像は中学生のころ、神領を通過する列車の車窓ごしに撮った581系金星の回送車です。実際に371系を神領で目にしたとき、失敗作のこの画像を思いうかべました。 私にとって371系はほとんど縁のない車両で、平成9年に沼津から御殿場まであさぎり号を利用したとき以来の出会いでしたが、こんなところで再会するとは夢にも思っていませんでした。 そのときの画像がこれで、沼津駅での撮影です。この当時は菱形パンタだったことがわかります。 何のために神領に来て、この先どのように活躍するのか、私の知るところではありませんが楽しみなところです。

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【380】 このお客さん また乗ってた!

車掌はたくさんの乗客と接します。そのなかには印象に残る方もいらっしゃいます。 乗務するたびに、あ!この人、前にも見たぞというお話です。 車掌時代、夕方の東海道本線上り列車に乗務すると、三河大塚駅で前のほうの車両から降りるオッサンがいました。三河大塚駅は国鉄時代からホームには列車監視の要員が配置されてなく、現在のほとんどの駅がそうであるように車掌が一人で安全を確認して列車を発車させる駅で、駅員はプラットホームから階段でつながった改札口がある駅舎に勤務しているだけでした。 で、そのオッサンがどのように気になるかと言いますと、それはその行動にありました。 乗降を確認して列車を発車させ、乗務員室から列車の状態確認をしていると、前寄り車両から降りたそのオッサンは、ホーム上にしゃがみ込み、自分の鞄をプラットホーム上に置いて、その中をゴソゴソかき回しているのです。 降りたら切符がないことに気が付いて、一生懸命に切符を探しているような姿です。 私が勤務していた車掌区では3~4週間で乗務列車が一巡しましたが、この夕方の上り列車に乗務するたびに、その日が平日なら必ずこのオッサンに出くわし、毎回同じ行動をしているわけです。 そのうちに、今日もいるかな?と期待したりしてしまうわけですが、この行動は何だったのかは謎です。 そういう乗客ですから、本人さんは知らないのでしょうが、同僚に聞くとみんなその不思議な行動のオッサンが降りるのは知っているわけで、その列車にいつも乗務している車掌仲間の間では「有…

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