【396】 思い出の乗務列車28:165系臨時回送列車 回9811M~回9812M

先週の続きになります。 車掌長Iさんとともに、名古屋から乗務した「きそ51号」で終点長野に着くと、列車は回送(回9811M)になるまで25分も停車しました。回送列車は隣の北長野駅まで1往復するのですが、これは折り返しの名古屋行きの「きそ52号」まで時間があり過ぎて、その間に長野駅に留置する場所がないため、わざわざ隣駅で留置するための列車でした。 長野到着後は次のような行程でした。 長野から臨回電9811M 運転区間・乗務区間とも長野13:34~北長野13:40 折返し北長野から臨回電9812M 運転区間・乗務区間とも北長野15:05~長野15:11 長野から臨急電 きそ52号 8812M 運転区間・乗務区間とも長野15:25~名古屋20:30 長野駅の停車中に私どもは駅裏(東口)にある弁当屋へ昼食用の弁当を買いに出かけました。当時は長野新幹線など当然のことながらあるはずもなく、駅の構造も現在とはまったく異なっていました。東口への長い跨線橋からは客貨車区や放置された長野工場栗田分所跡地が見え、駅周辺も区画整理されておらず、いかにも駅裏だといった煤けた街並みでした。今、その弁当屋さんがあった場所がどこだったのか特定すら私にはできないほどの変わりようです。このころには、「ホカ弁」が各地で増加した時期で、乗務中の食事も便利になりつつあった時期でした。この長野駅裏の「ホカ弁」はチェーン店ではなく、おかずも充実していたので、乗務員には好評だったようです。 買った弁当…

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【395】 父への年賀状 from米原

先週は父が少年時代を過ごした米原駅東口へ行ったことを書いた。 実は昨年の夏に、父が急に「米原のお祭りを見たい。秋に3台の山車が出て子供歌舞伎がある」と言った。じゃあ秋になったら行こうと約束して、私はネットで開催日や山車の運行ルート、子供歌舞伎が演じられる場所も事前に調べておいて、開催日近くになって私は「いくぞ!」と言ったが、父は「まあ、おいた。」(東濃弁で「もう、やめた。」の意)と答えた。理由ははっきり言わなかったが、今から思うと、たしかに昨年あたりは、座ってテレビを見ているかと思えば、実は座ったまま眠っていたということもよく見られるようになっていたし、もう出歩く気力そのものが減退していたのかもしれないとも思う。 先日私が米原へ行ったあとで、実家から持ってきた遺品の整理をしていたら、今年の年賀状の束が出てきた。その中に米原市在住の方からのものが3通あった。 父は今年の1月2日に自分が出してなかった方への年賀状を書いてポストに出しに行ったと母が証言しているから新年の2日間は普通に生活していたはずだ。今年の年賀状を見てから、翌1月3日に脳梗塞の発症で緊急入院したことになる。 父あてに年賀状をいただいた米原在住の方々とは、私は全く面識もないが、おそらく3人とも小学校の同級生の方だと思われる。 そのうちのお一人の年賀状には、 「北町の◇◇君が向う岸へ行って、後に残るは○○、△△、××、□□、☆☆、私の6名のみ。外に居る人は▽▽と貴兄のみ。近在に友はいなくなった。」 と、添え書きがあっ…

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【394】 思い出の乗務列車27:165系臨時急行「きそ51号」長野行

「ユーロライナーのりくら」で高山まで1往復した翌日の1985年(昭和60年)11月24日は、165系電車での臨時急行で名古屋から北長野までの一往復が待っていました。 名古屋9時02分発急行きそ51号長野行に乗務し、そのまま回送編成で隣駅の北長野まで1往復し、長野からは急行きそ52号で名古屋まで戻ってくるという行路でした。 1985年(昭和60年)11月24日 臨急電 きそ51号 8811M 運転区間・乗務区間とも名古屋9:02~長野13:09 8  ク ハ 165-7   名カキ 自由席 7  モ ハ 165-17  名カキ 自由席 6  モ ハ 164-839 名カキ 自由席 5  ク ハ 165-6   名カキ 指定席 4  ク ハ 165-183 名カキ 指定席 3  クモハ 165-48  名カキ 指定席 2  モ ハ 164-507 名カキ 指定席 1  ク ハ 165-205 名カキ 指定席 (垣406) 定員 指定席368 自由席224 長野から臨回電9811M 運転区間・乗務区間とも長野13:34~北長野13:40 折返し北長野から臨回電9812M 運転区間・乗務区間とも北長野15:05~長野15:11 長野から臨急電 きそ52号 8812M 運転区間・乗務区間とも長野15:25~名古屋20:30 以上すべて同編成。  急行列車とはいえ、グリーン車もなく珍しくもない大垣電車区の165系でした。 …

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【393】 父の第二の故郷「米原」

私の父親が亡くなってから2週間になる。10日間くらいは毎日種々の手続などで連日出かけたり、電話をしたり、書類を書いたりして忙しく過ごし、一段落したのが先日の連休。連休中は役所は休みだし当面することがなくなったこともあって、昨年から一杯やろうと誘われていたにもかかわらず、父のことでいっこうに会う機会がなかったH氏に会えた。私は父が入院した正月以降、実家との往復をする以外に列車で出かけることができなかったから、どうせ飲むなら「飲み鉄」しながら米原と彦根へおつきあい願えないかと伝えたところ、快諾してもらえた。もちろん往復とも車中では缶ビール持参ということになった。 行先が米原と彦根というのは、わけがある。私の父は、機関区の助役をやっていた父(私の祖父)の転勤のたびに、生家があった中津川を離れて稲沢と米原に転校した経歴がある。生前の父は、なぜか稲沢に行きたいとはあまり言わなかったが、ときどき米原へ行きたいと言っていたから、過去2度にわたって私と2人で米原へ、父が昔住んでいたという借家や学校、昔の面影を残す街並を見に行ったことがあったのだ。今回はそこへまた訪ねてみたいという理由であった。彦根へ行ったわけについては後述する。 最初に父と2人米原へ行ったのは1986年(昭和61年) 国鉄が分割民営化される前年であった。 そのころの米原駅(東口)はいかにも国鉄駅らしい風格のあるこんな駅舎であった。上はその時撮った写真ではなく民営化後の撮影であるが、下は、まさにその時の写真で、父を母校の校舎正面で撮っ…

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【392】 あわや踏切事故(-_-;)

国鉄のころ東海道本線に乗務中、愛知御津から三河大塚へ向かう途中で、非常ブレーキがかかりました。 (画像は当該踏切ではありません。) 何かやらかしたな!と一気に減速する列車の最後部乗務員室から外を見ると、踏切内で「とりこ」になった軽自動車が踏切の遮断竿の下にボンネットを突っ込んで、フロントガラスが遮断竿に引っかかって停まっている光景が目の前を流れていきました。現場をすこし通り過ぎてから列車はやっと停車し、運転士からすぐ車内電話で「踏切に自動車おるやろ!捕まえてくれ!」と。 あいにく最後部が現場の踏切を通り過ぎてしまっていて、時すでに遅し。遮断竿は上がってしまい、そのまま軽自動車は逃走してしまったのでした。 「逃げてしまったし、ナンバーもわからんからどうしようもないわ。ぶつかったの?」 「それが、竿に頭突っ込んで止まってたから、ぎりぎりぶつからずに済んだわ」 「じゃあ、このまま発車ということでいいね?」 「はい」 これでブザーで出発合図をして運転再開となりました。 車掌としては運転士と違い前方の様子は判りませんから、てっきり衝突して押し出された結果、軽自動車が遮断竿に突っ込んだ形になったと思ったのですが、軽自動車はもともと遮断竿にフロントガラスに当たった状態で停車しており、遮断竿と通過する列車とのわずかな隙間に自動車の車体が収まる状態だったのでした。 軽自動車だったので、フロントガラスのところに遮断竿が引っかかる格好で止まっても、全長が短かったので、ぎりぎり列車と接触せずに済ん…

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【391】 「昭和の鉄道員」のお葬式

入院中だった父が6月28日から容体が悪化し、7月4日に入院先の病院で帰らぬ人となった。 死因は肺炎。享年86歳(満年齢85歳)。7月7日には近親者のみで家族葬を執り行い、彼岸へ旅立った。 入院後6か月が経過していた。その間1か月に1度程度の割で肺炎ほかで高熱が出て、いつこの日が訪れてもおかしくない状況だったし、最後の1週間は呼吸が苦しそうで、早く楽になってほしいという思いであった。故人が50年もの間住んできた地でなく、入院先だった私の家がある地での見送りとなってしまったことで、故人にとっては不本意であろうが、種々の事情によりやむを得なかった。いずれにしても故人が親しくしていた友人の皆さんも、その多くはすでに故人となられているか、要介護状態のかたもあり、参列していただくことは困難と判断し、親族以外には一切連絡をせず、供花ご香典等いっさいお断りし家族葬とした。 ※このブログをご覧の皆様に対しましても、同様に供花ご香典等は固く辞退させていただきます。趣旨をご理解いただきますようお願いするものです。 せめてもの喪主からのこだわりと故人への思い入れの表現として、お葬式にはいくつか自分の考えを採り入れた。 葬儀終了までいくつかの遺品を供えた。 無趣味に近かった故人が若いころ初めて購入し壊れた後もずっと保管していた古い6X6版カメラとそのネガフィルム。 死亡時刻に合わせて止めた故人の腕時計。 国鉄勤続30年で受章した効績章。 本人は国鉄退職時には車掌長(荷扱…

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【390】 踏切と救急車

救急車はいつでも素早く現場へ来てくれます。父がこの正月に実家で脳梗塞の症状が出たときも、救急車がすぐ近くにある消防団の車庫から来たんじゃないかと思うくらいに速かったと母親が何度も繰り返し言います。 緊急自動車は赤信号でもそのまま交差点に進入できるなど、交通規則の一部が適用除外になるなど、たしかに速いわけですが、如何ともしがたいのは鉄道の踏切です。 私が乗務していた国鉄時代、中央西線土岐市駅では夜間に2本の103系電車が留置されることになっていました。この駅では電留線があるので、夜間ホームに着いた列車は、駅で作成された入換通告券に記載された手順によって電留線への転線作業を駅、車掌と運転士の協同作業で行いました。 この入換作業を始めた直後に救急車が駅構内にある踏切へ向かってきたことがありました。 転線作業そのものは簡単でしたが、電車は10両。転線のためいったん下り本線に引き上げる際には件の踏切はふさがれます。停止目標まで本線上を引き上げた状態でも警報器は鳴りっぱなしで、電留線に入るまで遮断機が開くことはありません。下り本線の停止目標まで引き上げると、すぐに運転士と誘導する車掌は反対側の運転席まで10両(距離にして200m)の車内を小走りに移動します。ところが中央西線の103系には10両貫通編成はなく、かならず中間に運転台付のクモハとクハが介在しました。通称「ゲンコツ編成」と呼ばれ、この部分は貫通していないので、いったん乗務員室扉から2人は地上に降りて、隣の車両へ乗り移らなければならないとい…

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【389】 公園のシロとヨーコ(後篇)

京都の街の中、ゴーカートが走る大宮交通公園に、かわいい機関車と小さな客車のような車両がなかよく連結され保存されています。 機関車はC-160。富山のメーカーで製造され、京都府北部にあった加悦鉄道(かやてつどう)という小さな私鉄で働いていたものです。そしてもう1台の小さな客車のような車両は、実は客車ではなく、旧国鉄の貨物列車のいちばん後ろに連結されて、車掌さんが乗務するための車両で「ヨ6720」といって貨車の仲間です。ここではC-160は「シロ」、ヨ6720は「ヨーコ」と呼んでおきます。 「シロ」とは私がこの機関車と車掌車の存在を知るきっかけとなったブログ「虹色鉄道」の管理人であるkayoさんが、そのナンバーから命名されました。「ヨーコ」のほうは、私の命名です。「ヨ」という形式名から勝手に名付けたものですが、国鉄時代は「ヨメサン」とも呼ばれたりしていました。 【387】公園のシロとヨーコ(前篇)からの続きになります。 ************************ シロとヨーコが公園に来てからは、公園の人が2台のためにやねをとりつけてくれたり、きずついたところをなおしたり、黒いペンキを体じゅうにきれいにぬってくれました。 こどもたちは毎日来てくれて、シロの運転室やヨーコの車内であそびました。2人はこどもたちが楽しそうに遊んでくれているのを見ているのがなによりもうれしいと思いました。 でも2台ともほんものの鉄道の「機関車と貨車」でした。この公園ではうごけなかったから、シ…

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【388】 思い出の乗務列車26:臨時急行「ユーロライナーのりくら」(後篇)

先週の続きになります。 1985年の秋、まだ登場して間もない名古屋鉄道管理局の看板列車「ユーロライナー」乗務のお話です。 写真はそのとき名古屋鉄道管理局が発刊していたポケット時刻表です。非売品で、駅や旅行センターで配布したり、我々国鉄職員が業務用に使用していました。(似た内容のポケット時刻表も鉄道弘済会から発刊され、管内のKIOSKで発売されていました。) そして裏表紙もこんな感じで、とにかくユーロライナー一色で埋め尽くされています。その見返し部分にも、当時の国鉄で発売していた目的地フリータイムのツアー「エック」の広告となっており、ユーロライナーを使ったツアー商品が掲載されていました。内容は一泊二日のコースで、このようなツアーでは個室のグループ独占使用の設定していたのかもしれません。しかし一般の電算発売に関しては実際に乗務した者みんなが、個室の発売方法を問題点として認識していました。そこで遅ればせながら、その冬から信州方面へ運転されるようになった「ユーロライナー赤倉」号から「コンパートユーロきっぷ」という企画乗車券が発売されるようになったのでした。それは乗車券・急行券・グリーン券をセットした1室1枚の切符で、1人から個室の定員(4人または6人までの2種類)まで同額で、部屋をその定員の人数で利用すれば割安になるという設定でした。翌年春以降の「ユーロライナーのりくら」では「ユーロライナー赤倉」同様に「コンパートユーロきっぷ」が発売され、部屋売りが可能になったのでした。 (車内ではこの取り扱…

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