【405】 父の遺品 ~貯金通帳~

遺品の中から、古い郵便貯金の通帳が出てきた。 それが、ちゃんと残高があって、遺産となるものならラッキーなわけだが、そうではない。 すでに新通帳に移行済のもので、持っていても何の意味もない通帳である。 意味もない通帳であるが、とにかく古く、昭和35年から9年間の取引内容がわかり、我家の経済状態を映し出していた。 この通帳は、私が小学校就学前に作られたもので、このころは美乃坂本駅にほど近い借家に住んでいた頃にあたる。この家は家主が不要になった牛小屋か馬小屋だかを改築して貸家としたというところで、敷地には井戸があって、そこから飲料水などを運んで使っていた。洗濯は敷地横を流れる用水で手洗いしていた。 ラジオはあったがテレビも洗濯機も冷蔵庫もなかった。 入出金記録を見ていくと、だいたいボーナス時期に5,000~20,000円程度を入金している。ボーナス時しか貯金はできなかったのだろう。 引き出す金額はいつも1,000~10,000円。当時の物価は今とは違うとはいえ、1,000円を引き出す必要があるほど、家計は苦しかったのだろうと思う。 それで、常にそこそこの残高があればいいのだが・・・ 残高79円! 昭和37~38年の時期だ。生活程度が知れる。 田舎ゆえ、金融機関は郵便局と農協以外に、家から歩いて行ける範囲にはなくて、我家は農業ではなかったから、農協とは取引はなかった。他に預金があったとしたら、国鉄の共済貯金(給料天引)くらいしかないはずであるが、そのときの共済貯金の残高はわからな…

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【404】 父の遺品 ~乗務記念品???これは何でしょう?~

これを見ただけで、何かわかる方はいないと思います。 これは、父が乗務中に入手した記念品?なのです。 ヒントとして… 動物の体の一部ということですが・・・・・牛ではないです。 それでもわからないと思います。 その動物は貨車に積まれていたんですが…くどいですが牛ではないです。 と、言うとなおさらわからなくなること必至です。 そろそろ答えを導き出しましょう。 今の鉄道事情では、到底信じられない話です。 父の乗務する中央西線の貨物列車でのこと、サーカスに使う象の輸送があったということです。 (画像には特に意味がないです。象さんの画像がこれしかなかったので…) 象の輸送方法はどのようなものだったのかは、判然としません。 家畜車かワムあたりの有蓋車を使用したのだと思われます。 いずれにしろ、貨車に乗るような象で、サーカス用ということならば、比較的小型の象だったのでしょう。 で、最初の写真にある、針金のような細長いモノの正体は象の体の一部ということになるわけです。 何なのでしょう?  実はこれ「象の鼻毛」だというのです。 父がお守り代わり?にこのようにパッケージングして保管していました。実はほんとうはこの2倍の長さがあったのですが、半分に切ってあって残りの半分は母が持っているのです。最初の画像が母ので、パッケージングしてあるのが父のモノになります。 昭和43年7月と書いてあります。この時期には、中央西線も名古屋~瑞浪間…

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【403】 線香の模型?改造記 ~仏壇の無煙化~

先週、仏壇と線香のお話をしましたが、今回もまあその続編です。 一昨日に父の四十九日忌を身内だけで執り行い、仏壇が本格稼働(営業運転?)を始めました。 線香を焚くと、大袈裟に言えば狭い我家は家じゅうが線香の煙で充満します。石炭の香の線香なら私だけは喜ぶんだけど、蒸機ヲタ以外には嫌われるわけだし、うちはマンションだから煙感知器が作動したりしたらまずいわけです。うちのマンションでも、以前ベランダでバーベキューやっていた家があって、そのとき煙感知機が作動して、何事かと大騒ぎになったことがあったっけ。う~ん、これは予防策を取る必要があるぞと考えました。←あんた!そりゃ考えすぎだよ 煙害といえば、父が子供のころに過ごした米原は「鉄道の街」で、「米原のスズメは黒い」とまで言われたそうです。このたとえは米原が国鉄の要衝として繁栄していたことを表すわけですが、国鉄の煙害は問題視され、SLに代わって電気やディーゼル機関によって無煙化が推進されていったのです。 我家の仏壇も無煙化をしよう!! だいたい私は、ただでさえ忘れっぽい性分なのに、齢のせいか最近は輪をかけて記憶力の減退も自覚していますので、ローソクの消し忘れとか、線香の火の不始末で火災の原因になるのがコワイです。だいたい私は火の始末が心配であるといったことが禁煙した動機の一つになっているくらいです。 そこで、ネットでこんなものを見つけたので、購入してみました。 一見、線香の先端部が赤く輝いていて線香そのもののようですが、赤く輝いているの…

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【402】 牛乳嫌いな車掌

父は牛乳が大嫌いだった。 あんな生臭いもんは飲めんと言っていたから、飲んでいるのを見たことは一度もないし、乳製品も一切口にするのを見たことがなかった。 しかしこんなことが乗務中にあったと聞いたことがある。 父が貨物列車に乗務中のこと、おそらく昭和40年代前半の話だと思う。当時は家畜車がまだ普通に運用されていたころで、そのときも家畜車が父が乗務する列車に連結されており、付添人も乗車していたという。その付添人が父に「牛の乳が張ってしまったので、乳搾りをしたんだが、その牛乳を捨てるのももったいないので飲んでほしい」と、緩急車へ大量に搾りたての生乳を持ってきてくれたというのだ。(画像には特に意味がないです。牛さんの画像がこれしかなかったので…) せっかく親切に持ってきていただいたのに捨てるわけにもいかず、大嫌いな牛乳を、それも搾りたての濃~い生乳で脂まで浮いているバターに近いようなのを無理やり飲んで、「そりゃあ、まぁ~~~ずかった」と言っていた。 (この画像も意味がないです。私が旅先で飲んだ牛乳のパッケージです。) ちなみに、父はその後に下痢をしたということであるが、あれは濃すぎたからだろうと父は言った。一人二人で飲める量ではないし、残りは途中駅の駅員にあげたら、こんな濃くてうまい牛乳は飲んだことがないとたいそう喜ばれたということだ。駅員さんが下痢をしたとは聞いてないし、父の体が牛乳を受け付けなかっただけだと思った。 以前、私も野辺山高原で搾りたての生乳を飲んだことがある。そのと…

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【401】 鉄ヲタから見た仏壇と線香

このところ拙ブログも葬式がらみの記事とかが多くていけませんが、仏壇を買いました 今はお盆の時期ですが、うちの場合はまだ四十九日を迎えておらず、初盆は来年になります。狭いマンション暮らしでは仏間などないので、最小サイズのモノで、そのサイズに合った仏具付きの京仏壇をネットで注文しました。 (鉄道模型のネットでの発注と同じ感覚だなと思ったり…)統一感がある陶磁器の、花立、香炉、仏飯器、湯のみ、ローソク立、が画像のようについてきました。 (鉄ヲタ的には、模型の世界で車両セット販売が主流となったのと同じだなと思ったり…) こうした仏具の正しい配置というのは、やはり決まりがあるようです。しかし、素人の私には判りません。 まだ、仏壇開き前なのでご本尊様もいない仏壇に、とりあえず適当に仏具を並べてみました。 (鉄道なら新製車両の営業運転前の試運転といったところか?) ここで思ったのですが……仏教関係者様がご覧になれば「こんな配置はおかしいわなあ」とか言われるのでしょう。 (鉄ヲタだと、模型の編成モノの展示見て、「モハのパンタグラフの向きが実車と逆じゃん」とか間違いがあると、一般人にはどうでもいいことが気になったりするわけだし…) ネットで調べてみると、香炉、花立、ローソク立の3つについて、中央に香炉を置き、向かって右側にローソク立、左側に花立を置くのが正しいのだそうです。 もっとも正式には花立とローソク立が1組ずつ対となり、中央に香炉、その両脇にローソク立、さらにその両脇に花立を飾…

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【400】 400回めを迎えました(^O^)/

拙ブログも400回めを迎えました。 ここまで続けてこられたのもご覧くださる皆様のおかげと感謝しています 300回めのときに、300に関係している車両などの写真をお目にかけましたので、それじゃあ「400」にちなんだ鉄道車両は、何かあったかなと考えるに、私が考え付くのはJR東日本の400系新幹線くらいのものでした。 これはJR世代の車両になるわけですが、E〇系という呼称になる前の古い系列で、すでに今はありません。私は東日本の乗り鉄をしていたころには何回か乗車したことがありました。 そのほか、私が撮った写真の中で「400」にちなんだものというと、名古屋鉄道の「モ400」形がありました。この形式にはナンバー「400」は存在せず「401」を名乗る1形式1両の車両で、2両の小型二軸車を改造種車として、3つの台車を使用して誕生したボギー式連接車でした。 珍しいこの車両は名鉄の揖斐・谷汲線で活躍していたもので、1973年11月3日にお別れ運転を行った後に引退したのでした。以下はそのお別れ運転の時の様子です。 この年には、7月に中央西線が全線電化されD51が引退したあと、10月には明知線に残っていたC12も続いて引退し、私の身の回りから蒸気機関車が見られなくなった年でもありました。モ400形のお別れ運転はその直後で、地元での被写体としていた蒸気機関車がなくなったあと、ローカルな私鉄に興味を持った時期でありました。 この車両は幸運にも岡崎市の南公園に静態保存されていて、特異な構造を今でも見ること…

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【399】 父の.合図灯 V.S 友達の懐中電灯

先週、父の遺骨とともに、父の思い出の地を巡った話を書いたが、そのとき最初に訪問したのは、父が大の仲良しだったOさんのお墓だった。 Oさんのお墓の近くには、かつて木曽川を渡る列車が見える場所があった。今は植林された樹木で何も見えないと思うが、そこへは30年ほど前、私は国鉄に勤務している頃に何度か撮り鉄に来たこともあった。だからそこは私にも縁の深い場所である。そこからは国鉄時代にはこんな写真が撮れた。 そのOさんの家は墓地から坂をひたすら下って、下りきった場所にあって、線路を見上げる位置に建っている。 国鉄在職中、Oさんも私の父も同じ職場の車掌長であった。ただしOさんは客扱で父は荷扱。 どんなに仲がいい乗務員同士でも、お互いに勤務が不規則だから毎日仕事帰りに一杯飲むようなことはできない。だから、いつなら会えるのか、今日は相手がどんな列車に乗務しているのか、勤務を熟知しているわけだ。退職前のOさんは父が乗務する列車の時刻になると家の庭へ出て、また乗務中の父のほうも、Оさんの家に近付くと乗務員室の窓を開けてお互い手を振りあったという。夜間はというと、Oさんは庭で懐中電灯を振り、乗務中の父のほうは合図灯を振ったというから、ほんとうに仲の良い名コンビだったようだ。Oさんが亡くなってから、すでに9年が経とうとしているのだが、このまえ私が訪問した時には、奥さんが、「去年もお父さんはお盆には来てくれた。」「中津の街をいつも2人で歩いていて、仲がいいので有名だった。」ともおっしゃった。私はまだ喪中の身であ…

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【398】 思い出の乗務列車29:165系臨時急行「きそ52号」名古屋行

先週の続きになります。 北長野からの回送列車は長野からは臨時急行「きそ52号」8812Mと名を変え、それほど多くない乗客を乗せて名古屋へ向けて発車したのでした。編成は往路のきそ51号と全く同じでした。 連休最終日午後に名古屋へ向けて運転される上り列車というのは、一般的には乗車効率がよいものです。この列車の乗客が少ない理由は、定期列車の特急が発車した直後に発車する臨時列車であり、知名度も低いからなのですが、あまりにも不人気なのには他にも理由がありました。その理由とは所要時間がかかる足の遅い列車ということでした。特に長野~塩尻間の遅さと言ったら往路の「きそ51号」にさらに輪をかけて遅く、異常としかいいようがなかったのです。 (写真は定期列車であり「臨時の「きそ52号」ではありません。) 「きそ52号」は長野を15時25分に発車すると、塩尻までの停車駅は篠ノ井、聖高原、明科、松本でした。ちなみに往路の「きそ51号」では、このうち聖高原、明科の2駅は通過でしたので2駅も停車駅が増えたことになります。 それでも停車駅の数と停車駅そのものは、急行ということを考えればまあ妥当でしょう。現行ダイヤでも、一部の特急しなの号で、この2駅に停車する列車があるくらいです。 しかし「きそ52号」では、これ以外に「隠れた停車駅」があったのでした。 なんと、上に記した駅以外に、この列車は塩尻までに、さらに4ヵ所で行違い待ちのためドアを開けない「運転停車」があったのでした。そのうち2ヵ所はスイッチバ…

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【397】 亡父の最後の帰郷

父が亡くなってから、もうすぐ1ヵ月になる。 さすがに期日が迫っていた後処理は片付いたが、今月にはもう四十九日の法要があるし、まだまだ後処理は続いている。 とりあえずお墓をどうするかであるが、これから父が住み慣れた地で私がお墓の管理をしていくことは難しいし、自分の後の代までその管理を押し付けるつもりはないので、個別のお墓は持たず、四十九日の法要に合わせて、私が住んでいる地のお寺にある「永代納骨合祀墓」に遺骨を預けることにした。父がその「永代納骨合祀墓」に納骨されるまでの間はわずかしかない。そこで父の故郷中津川を遺骨とともに訪問した。 朝から雨が降りしきる日、自動車で私と家内は父の遺骨を自動車に乗せて家を出た。 はじめに父の友人(故人)の墓所でお参り。そしてその方の家で奥さんに会って報告。 そのあとは、父の思い出の場所と思われるところを何ヵ所も巡った。 まず本家の墓所。祖父母をはじめ、先祖が入っている墓所だが、本家一家は遠方に転居したので、一番近くにいた私の父がときどき来ては、草取りをしていた。私も何度か同行したこともあるが、その墓所には父でも、本家の人でさえも誰のものか知らない古い墓標がいくつかある。そうなってしまうのを責めるつもりは毛頭なくて、むしろ当然であると私は思う。今年に入ってからは父も病床にあって、本家のお墓には来れなかったから、草も生え、枯れてしまったままになっている献花がわびしかった。 今回我家では初めての仏さんになるわけで、父親にとって「永代納骨合祀墓」は極…

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