【416】 模型…その実車の現役時代(1):EF64 66号機

模型を眺めていると、実車が活躍していた時代のことを思い出します。 今回は、発売されたばかりのTOMIX「JR EF64 0形電気機関車(66号機・ユーロライナー色)」について、書いてみます。 製品は限定品で、 「1993年頃の仕様で台車、床下機器は黒色、Hゴムは灰色で再現 」された仕様です。つまりJR移行後の仕様なのですが、国鉄仕様に近いと思われます。さっそくナンバープレートやヘッドマークなどの付属品を取り付けてみました。 現在のレベルで製品化されていますので、非常にリアルにできていると思います。 ただ一つ、JRマークが側面にあることが、私にとっては目障りといえば目障りなのですが、白っぽいグレーに同化して目立ちませんので、あまり気になりません。 このEF6466号機は中央西線・篠ノ井線全線電化用として1973年(昭和48年)に製造され、国鉄時代にはずっと稲沢第二(のちに稲沢)機関区に所属した機関車でした。国鉄末期の1985年(昭和60年)には改造によって誕生したジョイフルトレイン「ユーロライナー」と同色に塗り替えられ、JR東海へ移管後、2005年(平成17年)にユーロライナーが廃車になった後も工事列車などで活躍し2008年(平成20年)に廃車になっています。 私にとってはEF64自体がおなじみの機関車でしたので、EF6466号機は乗務列車の牽引機になったこともありました。 乗務日誌の記録によれば、1979年(昭和54年)10月6日、まだ列車掛見習のときに貨物列車869列車で稲…

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【415】 ?Nゲージのクロ383?

自分は乗務したことがないものの、地元のしなの号381系の後継車であるから、いちおう買ってあります。 ケースを開けてみましょう なにかお気づき? こりゃぁ何ですか このシリーズのお菓子です。 【141】鉄分の多いお菓子(2):JR電車チョコ 運転士氏の表情がいいですねえ。 ところで、運転台の位置って?・・・変

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【414】 続々 乗務中見えるもの…21時前の駐車場

夜間は車窓も楽しめないのが普通です。客室の照明が明るくて、夜景を楽しむには窓ガラスに顔を押しつけるようにするだけではダメで、さらに手で照明を遮るようにしないと、窓ガラスに車内の様子が写りこんでしまって夜景を楽しめません。東海道新幹線など高架区間が多いだけに車内が暗ければ夜景がもっと楽しめるのになあと思うのです。 ところが乗務員室は列車監視をする必要上、乗務員室ドアの窓は開閉できるわけです。この窓を開ければ夜景を楽しむことができるのです。 さて、本題に入りましょう。私が乗務していた○○線。とある駅を21時ちょっと前に発車する下り列車は乗務員仲間ではちょっとした有名列車でした。 ここを発車して左側すぐのところに広い駐車場がありました。同僚の話では某工場の女子寮の来客用駐車場だとのこと。 そこは列車進行右側が一段高くなっていて、その斜面を削り取るように線路が敷かれていましたので、左側は見下ろす形になって線路から見晴らしがよく、その来客用駐車場が線路に接していました。察するに寮は21時が門限とみえ、ちょうどその列車が通る時刻は、その寮に彼女を送ってきた彼氏の自動車が駐車場に何台も停まっており、それぞれの自動車の中には、しばしの別れを惜しむ2人連れの姿がありました。 どの自動車も他人の目を避けるように山がある線路側を向いて駐車しています。 自動車の中の当事者たちは、目の前は土の壁ですから全くの無防備です。その土の壁の上に1時間に1本しかないローカル列車が通過するというわけです。列車から…

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【413】 旧本州製紙中津川工場専用線のこと

私が小学生のころ、父の本家が所有していた田んぼが本州製紙中津川工場専用線のそばにあって、田植えと稲刈りのときは、親戚が総出で作業をしていました。 その田んぼがあったのはバイカモ(梅花藻)が自生するこの川のすぐ対岸あたりでしたが、今では、その跡地付近に駐車場ができており、正確に田んぼの位置がわからないほどに変わっています。上の写真は専用線跡である遊歩道脇から撮った現況写真です。 小学生の私は足手まといでしかなかったのですが、手伝いの名目で父とともに本家の田んぼへ行くことがありました。川沿いには小さな柿の木があって、川で小さな魚を捕ったりもしましたが、時折すぐそばの専用線を中津川機関区所属のC12の姿が見られたのでした。 上の画像は、後年私が中学生の時に中津川駅構内で撮影した入換作業中のC12の74号機ですが、このころはすでに専用線は廃止された後でした。この74号機は中津川に長く在籍していた機関車なので、実際に専用線にも入線していた機関車と言えます。 駅側から工場へ向かうC12は先週アップした「ミニ中山道」にある、本物の旧中山道との交差部分にペイントされた勾配標が示すように、ここから工場へ向かって30‰の急勾配がずっと続いていました。 農作業中に専用線を走っていくC12は、ふだん私が中央西線の沿線で見ていたD51のように、一瞬のうちに目の前を走り去っていく列車とはまったく別物という印象でした。田んぼからは、中津川駅を出た機関車の姿が見えないうちから、まず汽笛の音で、こちらに近づい…

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【412】 台風12号通過

今朝は台風12号の影響で横殴りの雨が降っていました。 豊橋付近に上陸しましたが、我家は上陸地と同じ愛知県内ながら台風の西側に当たりますので、バルコニーの鉢植えが1個転倒したくらいで、被害はありませんでした。しかし大型の台風ということもあり広範囲での被害が報告されつつあります。 ここで、気になるのは空家になった岐阜県の実家の建物です。画像は国鉄時代、実家近くの中央西線を走るお座敷列車「みやび」です。 実家は大雨による被害は受けにくい立地条件にありますが、古い木造家屋なので風には弱い構造です。それと、以前、実家では台風による強風で隣接する廃工場の屋根のスレートが割れて敷地内に飛来したことがありました。それだけで特別な被害はなかったのですが、廃工場を放置した所有者が、謝罪に来たということです。今度は逆に私の実家のモノが強風で近所に迷惑をかけたりしたら不味いことになるわけですので、台風の進路によっては、実家の方へ出向くつもりでおりました。 現在はインターネットで離れた場所の気象情報も細かくわかるので安心です。行くべきかどうか? 実際に、こちら(愛知県)が9時現在の風速11mという情報に対し、実家がある地域(岐阜県)の気象情報を見ると風速は3mと、平野部と山間部では地上の風速もずいぶん違うことがわかります。 今回の台風の場合、その中心からの実家までの距離は、中心から我家までの距離とあまり変わらないので、たぶん大丈夫だろうと考え、雨量や雨雲の動きも自分なりに確認して、今朝、出向く必要はないとの…

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【411】 続 給料袋の中にあった「国鉄」

先週に引き続きまして、亡父が遺した国鉄時代の給料袋の中に残っていた引去内訳表のお話です。 労働組合に関する組合費等の内訳表や領収書も給料袋に残されていました。組合費のほかに、分会犠救資金(ストライキの賃金カット分の犠牲者救済資金)やら議員の後援会費らしきものや、カンパなどが差し引かれています。これらを合算するとけっこう金額的には大きいと思います。 給料の引去内訳表の裏面には面白味が隠されていることがわかったので、組合費などの領収書も含め、遺された約10年分の給料袋に入っていたものをすべて出して裏面を確認してみました。組合関係の領収書や内訳表にもすべて国鉄当局の不要資料の裏面が使用されており、組合自体の関係書類の裏面を使用した例がなかったのも面白いと思いました。 これらは、ほとんど元の不要文書を2~3枚に切断したうえで再利用されていましたので、ジグソーパズルみたいにピッタリ合うものがあれば、国鉄内部資料が完全復元?できるわけですが、そのようにうまくいくものはほとんどありませんでした。唯一3枚で原形復元できたものは、国鉄の様式ではなくて、日本国有鉄道・日本専売公社と並ぶ三公社の一つであった日本電信電話公社の電報用紙でした。 これは、一番上にアップした画像の裏面を含む3枚を合わせた画像です。(90°回転させています。) 日本電信電話公社のマーク入りです。 「電報 (Telegraph) と電話 (Telephone)」の頭文字の2つのTで円を作り、中央にサービス (Service) …

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【410】 中津川の遊歩道「ミニ中山道」

先日、両親が住んでいた実家とその敷地について相続による所有権移転の登記申請をするため、中津川の法務局へ出かけました。中津川の官庁は中津川駅から2㎞くらいのところに市役所を中心として固まっているので、たとえば登記に必要な戸籍関係の書類もすぐそばにある市役所で交付してもらえるので便利です。駅から市役所まではバス路線がありますが、中津川駅のはずれから市役所付近までは遊歩道もありますので、今回の往路はその遊歩道を歩いてみることにしました。 遊歩道の起点は、蒸気機関車D51266が保存されている本町公園です。木々の向こうには拙ブログ記事【132】保存鉄道車両訪問1:中津川市 D51 266 で、以前紹介したD51266号機が永い眠りについています。 ここから始まる遊歩道は正式には中津川遊歩道公園というらしく、愛称として「ミニ中山道」とも併記されていました。ここから800mほどの間の遊歩道上には、中山道六十九次の宿場名が刻まれた石が順に置かれていて、簡易に中山道踏破の気分を味わえるのです。「ミニ中山道」は途中、本物の中山道と立体交差します。上の画像で、遠くに架かっている橋の上の道路が本物の旧中山道で、位置的には本物の中津川宿のはずれに当たり、画面左が中津川宿中心部を経て江戸方面、右が京都方です。 もう少し近付いてみます。 その橋に近付くと橋台に何かペイントされているのに気が付きます。(上の画像の赤丸内) さらにアップしてみましょう。 中山道とは全く関係がないこのペイント。(右側の「…

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【409】 給料袋の中にあった「国鉄」

先週、亡父の給料袋の話をしました。その中には1円たりとも現金が残っていなかったかわりに、ほとんどの給料袋に、このような紙片が残されていました。 これらは、給料袋に印刷された支給額からさらに、職場(車掌区)で天引きされた引去内訳表でした。時代を感じさせるガリ版刷です。 この引去内訳表から、この職場には「野球部」や「山岳部」など親睦会のようなものがあったことがわかります。何かの積立金もあるようです。「書籍代」や「ガソリン」は物資部指定店の書店、ガソリンスタンドでの支払です。「そば代」は構内営業の駅そばをツケで食べた分の支払いなのでしょうか? そうでなければ、深夜の出勤や帰区がある職場ですから、夜食用として職場で共同購入して用意してある即席ラーメンを食べた分の支払いかもしれません。このへんはその職場の人でないと実態はわかりません。 「つなぎ」というのも何のことかわからなかったので、これについては国鉄在職中に父に聞いたことがありました。その答えは、「手持ちの現金が給料日まで持たないとき、給料日までのつなぎ資金として借りる金のことだ」との説明でした。「つなぎ」を利用した場合は、給料日に差し引かれるわけです。給料前借制度などないはずなので、その原資は職員みんなで出資して運用していたのでしょうか。これには当時国鉄職員でありながら都市部の職場に勤務した私も、小規模の車掌区ならではのきめ細かな取扱だと非常に驚いたものです。 と、まあどうでもいい内訳表ですが、ここでちょっとした発見がありました。 …

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【408】 父の遺作 ~デジカメ画像~

早いもので、昨日で父が亡くなって2ヵ月になる。 父が亡くなったあと、父のデジカメを持って、米原(【393】父の第二の故郷「米原」)と中津川(【397】 亡父の最後の帰郷)を巡ってきたわけだが、それがこのデジカメである。 一昨年だったか、物忘れや落し物が増えてきた父のボケ防止策として、私がネットで入手したもので、新品ながら型落ちの商品でたしか6千円台の安物だった。父は脳梗塞の後遺症で、多少体が不自由だったし、同年代の友人の多くが亡くなったり、あるいは要介護状態になっている方が増えてしまっていた。その結果、だれかと連れだって出かける機会も減っており外出すること自体が少なくなっていた。 だから、このデジカメもあまり戸外で活躍したようすはなく、残っている画像を見ると、自宅で撮ったものがほとんどであった。 今回は、このカメラで父が生前撮って、そのまま残されていた画像を少し見ていただこうと思う。 たぶん、畑で採れた変形キュウリ このブログを始めた直後に父は脳梗塞の症状が出て一時入院したことがあった。そのときの後遺症は軽く済んで、昨年末までは、こうして自宅横に借りた畑でキュウリやナス、ネギ、タマネギ程度は栽培できていた。ただし、次回脳の血管が詰まれば、そのときは寝たきりか死ぬことになると医師に宣言されていたが、言われたとおりになった。 天下の奇祭と言われる小牧市の田縣神社の神輿 インパクトがあるこのお祭り。私はお祭り当日には一度も行ったことがない。父はけっこうこのお祭りはお気に入…

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【407】 労働組合関連の記事についての考え

本日2本目の記事になります。 さきほどストライキ関連の給料袋について書きましたが、今後のことも含め、拙ブログ上での労働組合関連の記事についての考えをお伝えしておこうと思います。 私は国鉄に在職中は(読者のみなさんのご想像どおり?)国鉄労働組合に所属しておりました。国鉄の中には労働組合は他にも複数ありました。労働組合の話題については、このブログが、「趣味のブログ」と位置づけていることから、これまで極力避けてまいりました。労働組合に触れるコメントをいただいた際には、あえて直接掲載をしなかったこともございました。 今後も同様の考え方で参りますが、趣味の世界に限定したとしても、国鉄を語るにあたっては、この直前のブログ記事のように、労働組合の存在というものは絶対避けて通れないものです。旧国鉄に奉職され国鉄末期を過ごした読者の皆様には思い出したくもないながらも、決して忘れることのできない一時期となったのもまた、労働組合の存在あればこそです。 この手の話題には敏感な方々がおられますが、拙ブログでは、労働組合についての本質的な内容の議論を持ちかけられたり、労働組合について記事にしたこと以上の深い内容についてのご質問のコメントに対する回答などを返信をすることはしたくありません。その点は無責任ながらご了承ください。それは読者の皆様には様々なお立場の方がおられるわけですし、自分自身は国鉄労働組合の一員として退職までを過ごした一人でありますが、決してほめられた組合員ではなく、組合について語れるような活動も…

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【406】 父の遺品 ~国鉄の給料袋~

先日、79円しか残高がない我家の貯金通帳をご覧に入れましたが、その昭和38年には父の給料はいくらだったのだろうか気になりました。 遺品のなかからは、父が国鉄を退職する少し前までの約10年間の給料袋が見つかりました。しかしそれは昭和46年~昭和57年のもので、昭和38年当時の給料袋は見つかりませんでした。 当然のことですが、たとえ1000円でも中に残っていないか全部の給料袋の中を確認しましたが、1円たりとも残っていませんでした・・・・ 昭和38年における日本国民の世帯主の1ケ月当たりの定期収入は34,677円(総務省「家計調査」の「二人以上の世帯のうち勤労者世帯のデータ」から引用)となっており、私が「とうちゃんの月給は3万円」と聞いていた小学校1年生のころの記憶に近いので、その程度であっただろうと推測できます。 (高度経済成長の時期で、現在とは異なり右肩上がりで支給額が年々ハイペースで上がっていくことなど思いもよらず、ずっと月給は3万円と長年思っていた息子がここにいますが・・・) 昭和38年の話はそのくらいにして、今回は発掘した昭和46年~昭和57年の給料袋についてお話ししましょう。 給料袋は完璧に保存されていたわけではなく、欠落している月がいくつかあったものの、表面に支払明細が印字されていましたので、基本給の額がその10年間に6万円台から24万円台へと、なんと4倍弱にまで上がっていった過程がわかりました。給料袋からは高度成長期の日本の姿を読み取ることができたのです。 しかし同…

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