【434】 中山道歩きで見たモノいろいろ(20):火の見櫓

2005年から中山道の宿場を訪問しはじめ、全宿場に足跡を残しました。 旧宿場町や旧街道を歩いていると、自動車なら気付かずに通り過ぎてしまうようなチョットしたモノも目に入ります。 ふだんの生活で当たり前にあるものでも、その地方ごとにチョット違っていたりしますし、裏道になり下がった旧中山道には、現在の表通りとも言える国道や、そのバイパス道では見かけられないようなモノが残っていたりするものです。 今回は火の見櫓にスポットを当ててみましょう。 火の見櫓は、中山道歩きでも火の見櫓が集落を見渡せるような位置に頑張っているのにいくつも出会いました。 その中から特徴的なものを抽出してみました。 **************************** 本山宿の特徴「斜交屋敷」を見下ろすように建つ火の見櫓 2005年9月17日撮影 ずいぶん細身の火の見櫓。いくつも取り付けられたスピーカがアクセント 2005年7月23日 塩名田宿付近で撮影 反対にちょっと太めの火の見櫓。塔の中ほどにも踊り場?のようなスペースがあって、東京タワーのような電波塔に通じるところがあります。 2005年10月8日 下諏訪宿~塩尻宿で撮影 あまり背は高くないですが、とんがり屋根がおしゃれです。付近に大きな建物が建ってしまって、見渡すことができるのでしょうか? 2005年10月8日 塩尻宿付近で撮影 消防庫の屋根上に建っているところがよいです。Nゲージ模型のジオラマパーツ…

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【433】 3日乗務「クイチ」

荷36列車は、荷扱時代にもっとも多く乗務した列車だと思います。 それもそのはずで、大阪乗り出しが2組6名(往路荷41・荷31)と京都乗り出しが1組(往路は荷31)でした。 当時、私が所属する車掌区荷扱班にあった最長拘束時間の行路はこのうちの1組で 1日目  名古屋16:19―荷31列車―大阪19:54(泊) 2日目  大阪 5:10――荷36列車―汐留14:43(泊) 3日目  汐留 9:33――荷31列車―名古屋15:59 という3日行路でした。行路的には2つの行路を合体させたもので、名古屋~大阪間往復と名古屋~汐留間往復をそのまま通して乗務していたのです。 (名古屋到着時刻は厳密にいうと15時59分30秒です。上の画像では、勤務時間計算上、秒単位は切り上げ計算する関係で16時00分とされています。下の1行路の行路表についても同様です。)翌々日に乗り出しと同じ荷31列車で名古屋に戻るまで正味48時間拘束される勤務でした。9行路が終わった瞬間1行路が始まるわけで、この「行路番号9~1」のセット行路を、乗務員は「クイチ」と呼んで、もっとも嫌な行路の一つとされていました。同様に荷31列車で京都に泊まった組も荷36列車で名古屋を素通りして汐留まで通して乗務し、その日の深夜荷41列車に乗務し翌々日朝名古屋に戻りました。これも39時間拘束されるきつい行路でした。 少し前、大阪で有り余るほどの時間がある8行路の話をしましたが、実は聞くところによると、私が就職する前、「クイチ」と並ん…

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【432】 締切車と封印

木曜日は「中山道で見たモノいろいろ」の続編をアップする予定でしたが、前の荷物列車の記事の補足として「封印」のお話に変更しました。 ************************* これまでのお話で、荷物列車には車両ごとに乗務員が乗車していたことがお判りだと思います。ただし、すべての車両に荷扱乗務員が乗務しているわけではなくて、ワキ8000やスニ40、マニ44のように無人のパレット車が連結されていることも多々ありましたし、一般のマニでも締切車と呼ばれる無人車両がありました。乗務員が乗務していないのですから、荷物室は当然に荷物を積んだ駅の小荷物掛や、途中まで乗務して来て乗務終了駅で下車した乗務員が荷物室を施錠したのはもちろんです。施錠した上に「封印」をして、責任関係を明確にすることになっていたのです。 (全車両が締切車やパレット車で組成された荷物列車の場合は車掌が1人乗務しましたが、荷物は扱いません。) 封印に使用するのは「封印環」と「封印紙」でした。 これが未使用状態の封印環です。 封印環はマニの場合、荷物室の側面左右2ヵ所ずつある荷物用大扉(いちばん上の写真の左側の両開扉)に1両当たり4つ使用しました。(スユニの場合は2つ) こちらは未使用状態の封印紙です。 封印紙は一般のマニの場合、荷物室の前位車端部左右のデッキ扉(一番上の写真の右側の小扉)と、そのほかにデッキ部の妻面貫通扉と後位にある乗務員室との仕切戸のそれぞれ鍵穴部分に貼付し、1両当たり4ヵ所に使用しま…

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【431】 思い出の乗務列車34:東海道本線 荷31(名古屋~大阪)

毎月曜日に国鉄就職当時に乗務していた荷物列車がらみの記事が続きますが、今週はこれまでの荷41列車に続いて、荷31列車について触れてみます。 私が国鉄に就職したのは1976年(昭和51年)ですが、このころ私が汐留~大阪間を乗務する下り列車は2本ありました。それが荷41列車と荷31列車です。このほかの東海道本線下り列車にも乗務していましたが、大阪まで乗務するのはこの2本だけでした。これまで何週かにわたって紹介した荷41列車同様、荷31列車も汐留から乗務してきた乗務員は名古屋で乗継することになっていて、行路上は汐留~名古屋間と名古屋~大阪間に分かれていました。荷41列車が、汐留から大垣夜行の続行のような時間帯を走り、中京圏から西が昼行のダイヤだったの対し、荷31列車は汐留を朝出発し、大阪までの区間が昼行となる列車でした。荷41列車が首都圏で集荷した荷物を引き受けたあとは、翌朝の荷31列車までターミナル駅の汐留が深夜帯に入るため、東海道を下る荷物列車の設定はありませんでした。(画像は国鉄監修の時刻表1978年4月号) そのために荷41列車と荷31列車との時隔は約9時間もあり、中京圏では早朝に荷41列車が下った後は夕方の荷31列車まで荷物列車はなく、汐留を午前中に発車する唯一の荷物列車でもありました。ちなみに東海道本線を山陽九州方面へ向かう下り荷物列車は1日6本で、他の荷物列車の時隔はおおむね2~4時間程度でした。このことから首都圏で集荷した荷物を、午後から夜に地方へ向けて2~4時間おきに荷物列車に…

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【430】 中山道歩きで見たモノいろいろ(19):牛乳箱(その他のメーカー篇)

2005年から中山道の宿場を訪問しはじめ、全宿場に足跡を残しました。 旧宿場町や旧街道を歩いていると、自動車なら気付かずに通り過ぎてしまうようなチョットしたモノも目に入ります。 ふだんの生活で当たり前にあるものでも、その地方ごとにチョット違っていたりしますし、裏道になり下がった旧中山道には、現在の表通りとも言える国道や、そのバイパス道では見かけられないようなモノが残っていたりするものです。 今回も牛乳箱にスポットを当ててみましょう。 群馬県~長野県~岐阜県下の中山道沿道で見つけた牛乳箱たちです。 牛乳箱篇はこれで完結となります。 **************************** 名糖牛乳ですが、読み取れないほど色褪せてしまっています。名糖牛乳は現在も協同乳業㈱によって「メイト―牛乳」として健在です。 2007年5月27日 松井田宿~坂本宿で撮影。 名糖牛乳をもう一つ。こちらはまだ色鮮やかですが、フタが外れていて残念です。 2005年9月19日 本山宿~贄川宿で撮影。 上松牛乳。その名のとおり上松宿の地牛乳です。 2005年10月22日 上松宿で撮影。 東濃牛乳。岐阜県恵那市の美濃酪農農業協同組合連合会のブランドです。 私は子供のころに家でも学校給食でもこの牛乳の前身である「東酪牛乳→東酪連牛乳」のお世話になって大きくなりました。欠席者の給食残りの牛乳を放課後に「いただき」というのも何度かありました。 今回の中山道沿道では木の…

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【429】 荷41列車/大阪到着後の過ごし方(後篇)

名古屋周辺在住者から見れば、一定の距離がある大阪という大都市で、折り返しのまとまった時間があって、遊びとして使えるこのような行路では、人それぞれ、その出先での時間の有効活用法があるようでした。 「京都がどうの、阪神は…」と会話に出てくる人は、競馬が目的でした。 「天満」「東洋」「デラックス東寺」と言い出す人は…ストリップ劇場。 出先それぞれに「カノジョ」を作ると言ってがんばる?人もいて、実現すればそれなりに楽しむことはできたのでしょうが、そういう人はごくわずかのように見受けられました。中には乗務員宿泊所に着くや否や、常に何処へ行くとも言わず一人で出ていってしまい、夜遅くまで乗務員宿泊所へ戻ってこない人もいました。「カノジョ」と過ごしていたのかもしれませんが、その行動は謎でした。 当面、見習の身では、勝手に出歩くこともできないので、私の場合最初の2~3回は、「お前は乗泊(乗務員宿泊所の通称)で荷物中継方の本を読んで勉強しとれ」と言われて、4人で昼食に行ったあとは、一人乗務員宿泊所の部屋に戻っておとなしくしていました。夕方になると、すぐ北側にあった国鉄の厚生施設「大阪クラブ」へ食事に行ったり、夕食を買ってきて乗務員宿泊所で食べるくらいでした。人気があったのは国鉄高架下にあった持ち帰りすし店のバッテラで、これは「大阪の味」として皆に親しまれていました。 当時「隠れ鉄」であった私は、当時の大阪駅構内営業業者「水了軒」の駅弁に手を出したこともありました。割高ではありましたが、掛…

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【428】 中山道歩きで見たモノいろいろ(18):牛乳箱(滋賀のローカル牛乳篇)

2005年から中山道の宿場を訪問しはじめ、全宿場に足跡を残しました。 旧宿場町や旧街道を歩いていると、自動車なら気付かずに通り過ぎてしまうようなチョットしたモノも目に入ります。 ふだんの生活で当たり前にあるものでも、その地方ごとにチョット違っていたりしますし、裏道になり下がった旧中山道には、現在の表通りとも言える国道や、そのバイパス道では見かけられないようなモノが残っていたりするものです。 今回は滋賀県下でいくつか見かけたローカル牛乳メーカーさんの牛乳箱にスポットを当ててみましょう。 しばらくお休みしていましたが、【363】中山道歩きで見たモノいろいろ(17):牛乳箱(毎日牛乳・雪印牛乳篇)の続編になります。 **************************** キムラ牛乳は滋賀県草津市の㈱木村牧場の製品でした。公式サイトによれば現在自社製造をされていないようですが、他社の乳製品の特約店として宅配は継続されているようです。 2006年9月28日 守山宿~草津宿で撮影 川並牧場は、かつて滋賀県神崎郡五個荘町(現東近江市五個荘)にあった牛乳メーカーですが、現存しないようです。 2006年7月22日愛知川宿~武佐宿で撮影。 西牧場は滋賀県近江八幡市にある牧場です。こちらも公式サイトによれば、受け箱にあるように「ジャージー種」の牛乳を提供されているメーカーです。 2006年9月2日 武佐宿で撮影 こちらの本間牛乳も滋賀県近江八幡市の牧…

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【427】 荷41列車/ 大阪到着後の過ごし方(前篇)

荷41列車は12時33分に大阪へ着いて、乗務車両の南東荷9を糸崎車掌区に引き継ぐと、私どもは下車し、大阪駅中央コンコース北口を出て道路を渡ったすぐのところにあった大阪車掌区へ行って到着点呼をしました。 大阪車掌区と乗務員宿泊所があった建物は、旧梅田貨物駅敷地の東端にありましたが、今は取り壊されて影も形もなくなっています。位置的にはヨドバシカメラのビルの西側になります。 写真はすでに民営化後の1993年の撮影ですが、そのころは国鉄当時と変わることなく建物は建っていました。 専務車掌(荷扱)は無線機を車掌区に預け、翌日の乗務に備えて充電してもらいました。その足で翌日の折り返し列車までの一夜の宿となる同じ建物内の上階にある乗務員宿泊所へ行き、この日の仕事は終了となりましたが、時刻はまだ昼の12時台なのでした。 翌日早朝までは、仕事があるわけでもなく何もすることがないのでした。家に帰ることもできない場所で、はっきり言ってお金にもならない無駄な時間帯でした。まずは3人で昼食に行って、それから喫茶店で時間つぶしをして、そのあとは解散自由行動というのが、よくあるパターンでした。 当時、みんながよく行った喫茶店のマッチ箱。 「国鉄高架下」の文字が時代を物語っています。 たしか、ウェイトレスがミニスカで、乗務員には人気の喫茶店だったと記憶しています。 昨年、同じ場所を通りましたが、喫茶店はなくなっていました。あれから35年経っていますから無理もないですが…。 乗務員は、出先で折り…

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