【444】 ― 2013年、1年間ありがとうございました ―

今日は12月31日です。 この1年間、ご覧いただいた皆様にはお世話になりました。 謹んで御礼申し上げます。 2013年は私にとっては、大きな転換点の年になりました。 正月早々、父が病に伏し、快復することはなく半年後に亡くなり、私自身は国鉄退職後に再就職し26年勤務した会社を春に退職しました。 ここへきて、やっと身辺も落ち着きを取り戻してまいりました。その間も、このブログ記事だけは定期継続を心がけてまいりましたが、国鉄の仕事に関する偏った題材であって、かつ拙い内容であるのにもかかわらず、幸いにしてご覧くださる方も少しずつ増え、検索で偶然お立ち寄りくださったと思われる方々から、過去記事に知らないうちにアクセスしていただいているようで、アクセスカウンターの数字が増えていたことに気付かされたりします。ブログ全体の合計参照アクセス数は90万近くになっていて、100万アクセスも時間も問題になってきました。ほんとうにありがとうございました。 2014年新年のご挨拶は喪中につきご遠慮させていただきます。来る新年は私も今後の生活設計を考えなくてはいけませんし、このままずっとブログ更新を定期的に続けられるか未知数の状態ではありますが、当面は定期運行を継続してまいります。新年も「昭和の鉄道員ブログ」をよろしくお願いいたします。   2014年が皆様にとって、良い一年となりますように!! 

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【443】 国鉄時代の出先今昔2:汐留(後篇)

1978年10月より前、汐留には午後に着く荷36列車で3組9人が乗務してきた。そのうち2組6人はその日の夜行荷41列車で戻り、残る1組3人は翌日朝の荷31列車で戻ったので、汐留車掌支区の休養室で泊まった。車掌支区のあたりには時間つぶしできるような場所はなかったし、夜行で帰る人たちも、夕食や夜食を買うために、多くの人は新橋駅の烏森口のあたりまで線路沿いの道を連れ立ってぞろぞろ歩いて出かけた。 車掌支区があるビル下には代行トラック便の荷捌場と車庫があった。緑色で国鉄の動輪マークが付いたボンネット式の幌が掛けられたトラックがずらりと止められており、私たちはそのトラックの通路を歩いた。 現在の国道15号線(第一京浜) この道路を横切った。何度横断したかわからないこの道も鉄橋も変わっていないが、その向こう、画像背後の高層ビル群は汐留の跡地になる。画面右側の高層ビルが建っているあたりが汐留駅荷物ホームの終端部分になる。そこは当時こんな感じだった。上の画像で、道路を跨ぐ鉄橋の反対方向からの撮影だ。駅ビルの左に荷物ホームの屋根が見えている。車両は荷物車のように見えるが、当時すでに救援車に改造されて、いつもここに留置されていたスエ71。元の形式はマニ74だった。 話を現在にもどそう。国道15号線を横切った後は煉瓦アーチの高架線路に沿って新橋駅までまっすぐ歩いた。名古屋辺りにはこうした煉瓦造の高架はなく、当時でも珍しくはあったが、決してきれいではなくうす汚なかった。それは今でも変わらない。 高架…

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【442】 きかんしゃトーマスの家

きかんしゃトーマスの家へようこそ! どうぞお上がりください。みんな待ってますよ。いらっしゃいませ! どうぞ お召し上がりください。  お菓子なども、よろしければどうぞ。 そろそろ帰らなくちゃね。 また、お越しくださいね。さようなら(^o^)ノシ

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【441】 国鉄時代の出先今昔1:汐留(前篇)

私は国鉄に就職してから約3年間、荷物列車に乗務していた。そのうち初めの約1年半の間は、汐留まで乗務する行路が3つあった。頻度としては、だいたい週に1回ずつ首都圏へ行っていたことになる。宿泊地は汐留泊りの行路と品川泊りの行路が各1回と、夜行で折り返す行路が1回だった。 ダイヤ改正後の1年半も、その頻度は似たようなものであったが、汐留到着後すべての行路が品川泊りに変更された。 汐留貨物駅跡地は、ご承知のように、国鉄分割民営化の一環で国有財産を切り売りするに当たって、都心の一等地の目玉商品とされていた。そのようなことになろうとは、1976年(昭和51年)~1979年(昭和54年)の間にここへ乗務してくる私たちは考えてもいなかった。 画像は浜松町の世界貿易センタービルから見た汐留の跡地だ。画面左上方への線路群と中央の首都高速道路に挟まれた部分で、現在は高層ビル群が林立している。画像では高層ビルの向こうにさらに高層ビルが重なっており、全容がわからないほどの広大な土地であった。 汐留泊りのときと、その日の夜行で折り返すとき、画面上に描いた赤い四角の枠の位置にあった東京車掌区汐留支区が休養場所だった。駅本体とは、新幹線と在来線の線路をはさんだ反対側になるが、こちらにも駅機能があって、代行トラックとの中継積卸スペースと、その駐車場などがあった。駅以外にもこの一角には東京南局の審査課(切符が正しく発行・使用されているかの審査をする部署)の施設など国鉄施設が集まっていたが、こちらの土地も民間に売却され、今…

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【440】 保存鉄道車両訪問10: C12 244

先週お伝えしたように、最近になってそれまでの保存場所から明知鉄道の明智駅構内に移送された機関車C12 244について、お話したいと思います。 ****************************  C12 244は、この12月初めまでは恵那市内にある明智小学校に静態保存されていました。1973年(昭和48年)の廃車時には中津川機関区に所属していた機関車です。 保存展示されたことを報道する中日新聞地方版の新聞記事です。それから40年も経ってから、明知鉄道の本線と接続している線路上に移動させられるとは、この機関車自身思ってもいなかったことでしょう。 <<履歴>> 昭和15年 7月30日  日立製作所で誕生 昭和15年 8月 8日  白山機関区  昭和29年 9月14日  新潟機関区 昭和37年 3月28日  直江津機関区 昭和44年 9月26日  中津川機関区 昭和45年 4月20日  稲沢第一機関区 昭和45年10月29日  西舞鶴機関区 昭和47年 4月13日  厚狭機関区 昭和48年 3月23日  中津川機関区 昭和48年11月30日  廃車 (旧保存場所の掲示より転記) 最初の写真は、保存されて間もないころの様子ですが、下の写真は、その23年後の1996年の様子です。これだけの年月が経つと、多くの保存機関車は再塗装で塗り固められて別の機関車のように「厚化粧」されていたり、部品の盗難や破損等で痛々しい姿をさらしていたり…

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【439】 思い出の乗務列車37:東海道本線 荷36列車「大荷34A」

もう一組の荷36列車の行路である、京都乗り出しの大荷34Aのほうは、大荷34Bよりキツイ行路でした。大阪泊りの行路は2組あったので、「ニッパチ」「クイチ」というように行路ごとの区別が必要でしたが、京都泊りは1行路しか設定がなかったので、この行路は単に「京都」と呼んでおり「京都の36はエライ!クイチよりエライ!」と言っていました。エライというのは名古屋では「しんどい。つらい。」の意味で使います。 こちらの積載方は 1、草津~汐留間着中継荷物。ただし横浜着中継荷物は汐留中継。 2、草津~米原間着中継荷物は車掌室寄り区分積載<京都駅> 前日、荷31列車の便乗で夜京都へ着いて、京都の乗務員宿泊所まで歩いていく途中に山陰線ホームの隅っこの方に荷物ホームがありました。そこには翌日の荷36列車に連結される大荷34Aマニが留置されていて、すでに荷物が積み込まれかけていました。大荷34Aは西からの乗継ではなく、京都で荷36列車の最後部に増結される車両なのでした。この時点では、まだ大した数の荷物は積まれていませんでしたが、未明のうちに前日近隣駅から発送され荷電や代行トラック便で京都に集められた荷物と、山陰本線の列車からの中継荷物がドッサリ積み込まれていくのです。前日夜の時点で、すでにたくさん積み込まれているような状態であれば、翌日はそうとうきつい作業になるので、この様子は3人の関心事でした。 京都の乗務員宿泊所は、この荷物ホームを通って通用口から外へ出て、今のビックカメラの北側あたりにあったはず…

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【438】 2013.12.7ちょっとだけ鉄分補給:明知鉄道のC12

12月7日、空家になって半年経つ実家へ行きました。 周囲はすっかり冬枯れ。もう真冬の様相で、主のいなくなった空家の冷たさが身に沁みます。廊下も畳も冷たく氷のようで、室内での片付け物でも、家全体が冷え切っていて長続きしません。早々と切り上げて帰途につきましたが、ちょっと寄り道をしてきました。 じつは先週、明知鉄道明智駅に、近くの明智小学校に保存してあったC12蒸気機関車が移送され構内の線路に復線したということを聞いたのです。そこで、どのような様子なのか気になって明智駅に寄ってみたということです。 そのC12 244号機は、駅舎の真正面の線路に留置され、作業員の方の手によって整備中でした。ご覧のように炭庫からキャブにかけてブルーシートが掛けられて、長年の静態保存で薄汚れているものの、それまで屋根をかけられた場所での保存だったこともあって、外観は現役時代の雰囲気をよく残しており違和感なく受け入れることができました。踏切から構内の方を見ますと存在感があります。かつてこの駅では寮機C12230やC1269が、貨物列車の折り返し時に佇んでいる姿を何度か見たことがありました。40年の歳月を経て、ここに蒸機の姿があることが不思議な気もしました。 C12がDD16に役目を譲り渡した貨物列車すら、廃止後30年以上が過ぎているのです。 その隣に「急行 大正ロマン2号」が入ってきました。 この「急行」を沿線で撮って、この日の鉄分補給をお開きにしました。

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【437】 思い出の乗務列車36:東海道本線 荷36列車「大荷34B」~クイチ2日目

前日の荷31列車で大阪へ行った組(9行路)は、大阪から荷36列車の「大荷34Bマニ」に乗務しました。これは以前ご披露したS行路の3日乗務のうち、名古屋を通り過ぎ日中の東海道を汐留まで乗り続ける「9行路+1行路」の「クイチ」の2日目にあたります。大阪までの乗務員は岡山車掌区で、この大荷34Bは下関からこの列車に連結された車両でした。 積載方はいたって簡単明快で 1、 広島~汐留間着中継荷物。ただし大阪着中継を除く。 2、 隅田川以遠着貴重品。 このように、あっさりした積載方は、「○○を除く。××に限る。」などと言った制限が少ない分、駅側としては、積みやすいわけで、乗務員側としては集中攻撃を受ける結果となります。 同じ列車でも南東荷1で明石車掌区の乗務員がきちんと仕分けしてくれていたのに対し、岡山の乗務員は次停車駅である京都着中継分しか区分してくれませんでしたが、私たちでも山陽本線の駅順と中継駅と範囲を全部知っているわけではないので、責めるわけにはいきません。 それに常にこの運用は積載効率がよく、大阪駅で引き継ぐと、荷物室内は通路が空けてあるだけで、両側は天井まで荷物がぎっしり積まれて満載状態でした。多い時だと1,000個を超える荷物を、米原の到着までの1時間半で卸すべき駅ごとに仕分けなければならないのでした。スペースさえあれば何でもないことですが、狭い車内に荷物は満載されているのですから、車掌室の空きスペースや反対側のデッキ部分(作業スペース確保のためデッキ部分には原則として積載…

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【436】 中山道歩きで見たモノいろいろ(21):自動車関連の看板

2005年から中山道の宿場を訪問しはじめ、全宿場に足跡を残しました。 旧宿場町や旧街道を歩いていると、自動車なら気付かずに通り過ぎてしまうようなチョットしたモノも目に入ります。 ふだんの生活で当たり前にあるものでも、その地方ごとにチョット違っていたりしますし、裏道になり下がった旧中山道には、現在の表通りとも言える国道や、そのバイパス道では見かけられないようなモノが残っていたりするものです。 今回は自動車関連の看板にスポットを当ててみましょう。 **************************** ヨコハマタイヤ タイヤの絵のホイール部分の顔が印象に残ります。 某巨大掲示板にアスキーアートでよく登場しましたね。 2006年3月11日 太田宿~鵜沼宿で撮影 何の関連性もないパラゾールとブリヂストンタイヤ 決してパラゾールというネーミングのタイヤではありません。 2007年12月22日 深谷宿~熊谷宿で撮影 トーヨータイヤとナショナル電球。 外壁はきれいに補修されているようですが、看板は撤去せず復元したように見えます。一般的にはその時点で撤去の憂き目にあうことでしょう。こういう看板は目立つ場所に「動態保存?」されてこそ価値があるものだと思いますが、本来の使命は果たし終えたようです。 2005年9月19日 贄川宿~奈良井宿で撮影 ニッサン・ダットサンの取次店。この赤青白のマークも懐かしいもの。ミツウロコは燃料屋さんで、自動車屋さんとはま…

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【435】 思い出の乗務列車35:東海道本線 荷36列車「南東荷1」

先週は荷36列車がらみで、長時間拘束行路についてご紹介しました。今回は、荷36列車本体に迫ってみましょう。 まず、お約束の編成から 荷36列車 運転区間  東小倉~汐留 EF58(宮原) オ ユ    大郵3  大阪~米原(長岡) マ ニ    新荷11 下関~米原(長岡) マ ニ    南東荷1(松山)岡山~汐留 マ ニ    四荷1 (高知)岡山~汐留 マ ニ    四荷2 (高松)岡山~汐留 オ ユ    四郵1 (高松)岡山~汐留 マ ニ    大荷34B 下関~汐留 ワサフ    門荷201 東小倉~汐留 オ ユ    門郵1  東小倉~汐留 マ ニ    大荷34A 京都~汐留  京都発時点での編成表です。(昭和50年3月ダイヤ改正時) 先週アップしました記事【433】3日乗務「クイチ」のコメント欄へ「昔鉄道ファン」様より、1976年9月23日、荷36列車の岐阜発車時の編成を車番と運用番付でご披露いただいていますので、よろしければご覧ください。 他の荷物列車に比べ短編成ですが、大阪では「門郵1オユ」の後に、この編成表にない4両(オユ・マニ・ワキ・マニ)を切り離しています。この列車の特徴はごらんのように四国からの航送車両が連結されていたことです。列車の始発地九州から終点汐留まで直行するのは「門荷201ワサフ」と「門郵1オユ」の2両だけで、四国からの車両が4両も連結されていました。 大荷34にはAとBがありますが、車両に標記された運用番はど…

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