【498】 しなの7号研究ユニットリーダーによる「岡多線の一般貨物における一考察」(後篇)
先週の続きになります。
国鉄時代の北野桝塚駅では、自動車の出荷のほかに、中部電力あるいは電源開発を行う関連会社のために、重電製品など発電所建設資材の運搬も細々とやっていたのではないだろうかと考えたところまでお話しました。
国鉄岡多線は、岡崎~北野桝塚間が1970年(昭和45年)に、自動車を輸送する目的で貨物営業だけで開業しています。私が乗務していた時点では、その後10年しかたっていませんでした。すでに自動車社会が浸透してきた時代に新たに国鉄の荷主になる企業はそう多くはないと思われます。北岡崎の工場にしても、当初は名鉄挙母線から伸びていた専用線が、国鉄岡多線に付け替えられたにすぎず、岡多線開業による新たな鉄道利用荷主というわけではないのです。
トラックでは運搬が困難で大物車を使用しなければならないような重量物や長尺物、かさ高な発電所建設資材の運搬に岡多線が利用されたと考えるのには、STAP細胞の説明より明快(←何じゃソリャ)ではないかと思うのです。
それと、もうひとつ、このころは683~684列車とも、長期にわたって列車種別・速度種別・運転時刻について変更が継続されていた事実がありました。
下の画像は、当時、実際の乗務のときに変更事項を記録し携帯した乗務日誌です。その中には683列車の変更事項が列挙されているページがあります。これは1980年(昭和55年)3月15日のページで、その変更の達示は、前年の12月25日の名鉄局報号外記載のものであることも記録されています。この変更内容…