【608】 竹島紀元氏 ご逝去

元鉄道ジャーナル社社長の竹島紀元氏が、7月26日にお亡くなりになったとのこと。 鉄道ジャーナル誌には「列車追跡」の記事が欠かせませんでした。 私は増刊号として「列車追跡シリーズ4」が発売されたあたりから鉄道ジャーナル誌を購読するようになり、中高生のころは毎月購読していました。それは国鉄の蒸気機関車最末期にあたり、竹島氏は執筆のほか、鉄道関係の映画の制作までもなさっておられました。 私はこの「列車追跡シリーズ」を暇があれば、何度も読んでいました。その影響で中学3年生のとき、夏休みの自由研究は列車の乗車ルポにしてしまったくらいでした。未読だった「列車追跡シリーズ1~3」のバックナンバーを全部欲しかったのですが、すでに「3」しか在庫がなくなっており、その時点で「1.2」は入手できませんでした。 しかし後年になって古書店で「1.2」を探し当て入手しました。 こうまでして読みたいと思わせるのは、国鉄時代の生きた記録であったからにほかなりません。 1本の列車にスポットを当てて多方面にわたって取材された記事は、中高生の分際では、簡単には乗ることができない優等列車の乗務員や乗客の言葉を交えて臨場感あるれる描写がされ、鉄道員を目指す者にとっては、現場の雰囲気が伝わってくる参考書でもありました。他誌と違って掲載される写真も「人」が活かされていて、生きた鉄道が描かれているのが鉄道ジャーナル誌でした。 時は流れて、国鉄に就職してしばらくすると、私は鉄道雑誌そのものの定期購読はしなくなり、必要な時…

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【607】 変なコレクション7(善光寺の御朱印)

私が毎年長野の善光寺へ出かけていることは以前にも書いたのですが、国鉄退職後の平成元年以降には、御朱印をいただいてくるようになりました。別に私は信仰心が篤いわけではありませんので、入場券を記念に買ったり記念スタンプを押してくる感覚と変わりません。しかし、お参りするのは、今の自分がここにこうして生きていることへの有難さを感じ、これまで関わったすべてのものへの感謝の気持ちをお伝えするためであります。お寺で御朱印をいただくようになったのは、国鉄退職後2年目の時、再就職した会社で西国霊場巡りを趣味としていた上司に巡り合ったことがきっかけでした。私の旅行好きや収集癖もよく知っていたその上司から 「おみゃーも、ぜったいハマるぞ!」 と言われ、一時はそのとおりになりかけましたが、そのうちにむやみやたらにお寺参りにいくのもどうかと思うようになりました。同様に、以前やったことがある入場券や乗車券の収集も、自分が行った証として買ってくるだけにしていましたから、わざわざ御朱印のために出かけるようなことはしなくなりました。酒のラベル収集も自分が飲んだものだけを集めるというスタイルになっています。どこかで区切りや限度を設けないと趣味の道は奥深い泥沼であることは、これまでの「 金失 」の道で重々承知していました。 そんな経緯ではありますが、年に1回の善光寺参りのときだけは、今でもかならず御朱印をいただいてきます。その結果、朱印帳のほとんどが善光寺ばかりになっているのです。国鉄在職期間のうち、荷物列車に乗務していた就…

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【606】 思い出の乗務列車55:中央西線~篠ノ井線 荷5043列車(前篇)

熱田荷物基地の全面開業の少し前、まだ非電化であった関西本線名古屋口で客車列車から荷物車が分離されて、荷物列車が名古屋口でも運転されるようになったことを、先日「【596】熱田駅荷物基地全面開業の日」でお伝えしました。これに対して中央西線と篠ノ井線のほうは、それより前の昭和48年に全線電化されており、その時点で旅客列車はほぼすべての列車が電車化されるとともに客荷分離が進行しており、名古屋から2往復の荷物列車が設定されていました。画像は恵那~美乃坂本間を行く荷5043列車ですが、私が就職するまえの撮影です。「田中内閣打倒」とEF64に大書されています。.このほか、夜行急行「きそ」1往復で荷物・郵便輸送が行われ、80系電車併結のクモニ83の荷電運用もありました。2往復の荷物列車のうち1往復については、中津川~長野間のみ客車を3両併結して、荷物車主体の旅客列車という形態でした。 これからご紹介する荷5043列車は全区間を「荷物専用」列車として運転された列車でした。荷物専用列車と言っても、前述の夜行「きそ」ともう1往復の客車を一部区間に併結する列車も含め、鉄道郵便局員が乗務する郵便車(オユまたはスユニ)が連結され、郵便輸送の使命も併せ持っていました。郵便車で取り扱う郵便物は鉄道郵便局員と集配郵便局員との間で授受されていましたので、一部にあった郵便車を連結しない区間の「託送郵便物」以外は私ども国鉄職員が直接輸送にはタッチしていませんでした。 もうひとつ、この荷5043列車では、主に名古屋から中央西線沿線…

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【605】 山陰旅行の今と過去6:車内放送

5月に島根県松江~出雲と鳥取県境港へ行ってきました。ただ“こんな行程でいってきました”と言ってご紹介するだけではつまらないので、以前に行った時との違いを対比しながら書き進めたいと思います。 ********************** 最終回は、車内放送についてです。 山陰地方の優等列車の車内放送では、単に停車駅と乗り換え列車の案内にとどまらず、その都市がどんなところで、どのような見どころがあるかなどを合わせて案内してくれたり、駅間でも車窓案内もしてくれることがよくあります。まずは今回、往路に乗った「やくも」の米子と松江到着時の車内放送をお聴きください。米子市の案内は途中からしか録れませんでした。 ※動画はありません。再生時間5分48秒 私は、こういう車内放送がたいへん好きなほうで、その車窓とともに列車に乗った時の楽しみのかなりの部分を占めるのですが、ほとんどの乗客は聴いていないように思います。今回、録音できなかったのですが、帰路には車窓に大山が全容を現しており、大山のついての案内放送も入りました。このときも通路を挟んで乗り合わせた非常に話し声がうるさい関西弁のオバチャンたちのグループはおしゃべりに余念がなく、それでも最後には放送に気づき「え、何だって???大山?どこどこ?ああ…あれ?登ったことないわ」と……。オバチャンたちにとって山は登ることだけにあるのでしょうか。私には登ることはできなくとも、車窓から見る大山も、北海道の駒ケ岳も、列車が進んでいくにつれて別の山のように山容…

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【604】 大雪の日の東海道本線921Dから思う今の鉄道

昨日、関東甲信は梅雨明けしたようで、本格的に暑い夏を迎えるわけですが、なぜか30年以上まえの冬の列車の話です。 921D列車は武豊発の一番列車で、大府から東海道本線に直通する名古屋行普通列車でした。キハ35の6両編成で、思い出が多く、この列車に関係する記事を 【104】 乗務した車両:キハ35系気動車 【279】 武豊駅乗継詰所での思い出 【384】 特定車掌~武豊線篇 と、これまでに、3本書いています。 この列車には、1984年(昭和59年)の大雪に見舞われた日に乗務したことがありました。その冬の日本列島は、前年から寒波に見舞われ異常に春が遅くて、私はその年の5月の連休明けに、新婚旅行で東北地方へ行っていますが、仙台で桜が満開、弘前ではようやく開花宣言が出されたところでした。そのとき撮影した南部縦貫鉄道のレールバスです。 1984年5月8日の撮影ですが、まだまだ残雪がかなり残っているような状態でした。 921Dに乗ったその年の2月8日は、名古屋で19cmの積雪を記録した大雪の日でした。熱田を発車して次は終点の名古屋(当時、金山は中央本線の駅であって、東海道本線に駅はなく、尾頭橋駅もまだなかった。)というところまできて、列車は停止信号で止まってしまいました。 (画像は雪景色ということ以外に、まったく関係のない画像で、2005年3月5日、大糸線根知駅でのキハ52です。) 熱田駅を発車するとき、出発信号機が黄色の「注意信号」だったので嫌な予感はしたのですが、のろのろ走って止…

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【603】 山陰旅行の今と過去5:地酒あれこれ

5月に島根県松江~出雲と鳥取県境港へ行ってきました。ただ“こんな行程でいってきました”と言ってご紹介するだけではつまらないので、以前に行った時との違いを画像などで対比しながら書き進めたいと思います。 *********************** 例によって私が出かけると、地酒が気になります。特別おいしい酒を狙っているわけではなく、むしろ地元で消費される安酒を目的とします。安酒はスーパーの酒売り場、ディスカウント酒販店、蔵元さんを直接訪問するという選択肢があります。今回は松江市内のスーパーと境港駅裏のスーパーで調達してきました。 松江市内では正2合のこの酒。松江から米子へ行くキハ47の車中でのお供となりました。 今回の宿泊地近くにその蔵元さんがありました。かつては舟で出荷していたことが想像される佇まいがなんとも水郷松江らしく思います。 そして、境港では、酒販店にもこんな看板が。駅前にある蔵元さんが製造しています。こちらは一升瓶です。私としては、歴史を感じさせてくれるこの手のラベルがお気に入りです。ラベルも時代とともに字体やデザインは変化していきます。銘柄そのものが変わってしまう場合もありますが、それでも蔵元さんそのものが健在であればいい方で、確実にその数は減少しています。 23年前、松江始発の木次線直通備後落合行列車に乗ったときのこと、途中宍道駅で20分近い停車時間があったので、駅前酒屋探訪に出かけました。酒屋と郵便局はあてもなく駅前をさまよえば徒歩5分圏内にはあること…

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【602】 KATO-N蒸機 C12~そして思うこと

KATOから、NゲージのC12が発売されました。 近年、新製品には手を付けることがめっきり減り、処分する所有車両の数のほうが圧倒的に多く、スリム化を継続中の私ではありますが、実はひそかに何十年も待っていた製品ですので、入手しました。 実車のC12は、D51とともに馴染み深い機関車で、中津川での入換や明知線沿線でいつも見てきました。小さい車体を活かして、入換やローカル線にとどまらず、本線の補機を務めたり、地味なところでオールマイティに活躍できるところには好感をもって接していました。 変なたとえではありますが、「きかんしゃトーマス」での主人公は小型タンク機のトーマスであって、カッコいいはずの急行牽引用大型機のゴードンやヘンリーにはなっていません。作者の意図も私と似たようなものがあったでしょうか。厄介な性格の大型機関車たちをトーマスが助ける場面も多々あります。トーマスは万能機C12のようで、ゴードンはさしずめC62、ヘンリーはC59あたりでしょうか。 私は、Nゲージでこのように小さなサイズのSLにスムーズな動力性能とリアルな外観を兼ね備えたプラ製量産模型が発売されることなど到底無理だろうとずっと思っていました。 Nゲージで古くからプラ製品化されていたタンク機関車として、C12 より一回り大きいC11があります。これはプロポーションがよく、実車の特徴をよく捉えていましたが、そうとうオーバースケールでした。 モーターのサイズとか動力伝達を優先すると、当時の技術とコスト面など諸事情からやむを得…

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【601】 山陰旅行の今と過去4:米子と境線

5月に島根県松江~出雲と鳥取県境港へ行ってきました。ただ“こんな行程でいってきました”と言ってご紹介するだけではつまらないので、以前に行った時との違いを画像などで対比するなどしながら書き進めたいと思います。 ********************** 境線へは今回2回目の訪問でした。これは境港駅舎です。 最初に境港へ行ったのは国鉄退職後の1992年でした。その時はこんな木造駅舎でした。 この年はよく遠出をした年で、3月には松江に泊まって、一畑電気鉄道と伯備線の初乗りをしていますが、翌4月に、夜行急行「だいせん」で鉄分が濃い元国鉄職員氏と2人で米子に降り立ち、境線・木次線・芸備線(備中神代~三次)と乗り三次泊。翌日三江線・山口線とあみだくじのようなルートを乗り潰しています。 そのときの急行だいせん。大阪駅への入線と、途中の福知山駅で停車中の様子の映像が残っています。(約2分) 米子で「だいせん」から降りて、境線に乗り換えました。 そのとき境線でキハ33に乗車でき、途中の旧大篠津駅で「おさかな列車」とすれ違いました。1992年4月11日、旧大篠津駅で。 下は先日、境線で乗った鬼太郎列車ですが、同じキハ40形です。境港駅で撮影しています。 私は現存する旧国鉄線には全部乗っておくつもりでいる人間ですが、JR線に全部乗ろうというつもりはありません。どういうことかと申しますと、分割民営化以後に開業した区間やルート変更区間を乗車対象線区としていないということです。しかし意…

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【600】 600回めを迎えました(^O^)/

拙ブログもついに600回めを迎えました。 ここまで続けてこられたのも、ご覧くださる皆様のおかげと感謝しています これまで300回め、400回め、500回目のときに、それぞれ300、400、500に関係している車両の写真をお目にかけました。今回も「600」にちなんだ鉄道車両は、何かあったかなと考えてみましたが…。 …まずい! これまで、新幹線の300系、400系、500系で、なんとか恰好がつきましたが、600系新幹線って…ないですね。 ほかに「600」という数字に思い当たらず、検索エンジンで「600 鉄道」などという検索ワードで検索していくと、ああ、そういえば、これは見たな!という車両はいくつか引っ掛かりました。こんどは、その該当車両の画像探しをして、発見できたものを適当にアップしときます。 ********************** その1  国鉄 ヒ600形控車 1982年11月22日 草津駅で撮影 草津線ホームの隣に留置されていました。車掌仲間2人とともに、信楽線と片町線へ乗り鉄に行く途中でした。 控車とは珍しいと言って眺めているのは同行者。 ********************** その2 京阪電気鉄道 600形電車 2012年3月9日 石山駅付近で撮影 【257】京都&近江へ2人旅 鉄分補給+α 2012.3.9 このときの撮影です。右は1次車。左は2次車でパノラミックウインドウになっているのがわかります。 ******…

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【599】 山陰旅行の今と過去3:国鉄大社駅とD51 774

5月に島根県松江~出雲と鳥取県境港へ行ってきました。ただ“こんな行程でいってきました”と言ってご紹介するだけではつまらないので、以前に行った時との違いを画像など交えながら書き進めたいと思います。 *************************** 第3回目は、「国鉄大社駅」についてです。 国鉄大社線は、出雲市~大社間7.5㎞の盲腸線でしたが、特定地方交通線第3次廃止対象線区となり、JRに移管されたあとの1990年(平成2年)4月1日に廃止され、一畑電気鉄道のバスに転換されました。 その終点駅の大社駅舎は、国の重要文化財に指定されており、現在も保存されていますので、出雲大社参詣の前に立ち寄ってみました。 大社駅へは、今回2回目の訪問になります。最初の訪問は今から34年前になります。国鉄の車掌時代だった1981年10月5日に列車掛科同期生の非鉄の方2人と私との計3人で来ています。そのときは2泊で、次のような行程でした。 名古屋~(新幹線)~京都~(急行白兎)~鳥取(泊) 鳥取砂丘~鳥取~(急行美保)~出雲市~(国鉄大社線)~大社~出雲大社~日御碕~大社~(国鉄大社線)~出雲市(泊) 出雲市~(急行大社)~名古屋 このとき、小浜線三方以西、宮津線と大社線が初乗りになりました。 山陰本線自体は、それよりも8年ほど前の高校生の冬休み、1973年12月に乗っていました。高校生のときの山陰行の目的は蒸気機関車で、たぶん北恵那デ2様も行程の一部はご一緒だったはずと記憶します…

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