【619】 思い出の乗務列車60:中央西線・篠ノ井線夜行急行「きそ」801・802列車(前篇)

最初にお断りしておきますが、表題の列車に私が乗務していたのは荷物車です。ですから旅客車のことには触れていません。 先日は、その中央西線~篠ノ井線の昼行列車下り荷5043列車と上り(2836)~836~荷5044列車についてご紹介しました。その1往復はどちらも名古屋~長野間を8時間半前後かけて走る普通列車でした。夜行のほうは寝台車も連結された急行列車でしたが、それでも所要時間は下りが5時間30分台で、上りは6時間20~30分程度と、かなりの時間をかけて運転されていました。もちろん早く着きすぎても困るので、時間調整のため長時間停車する駅が何箇所もありました。現在、特急「しなの」で3時間前後で運転されているこの区間に、夜行列車があったこと自体、今となっては信じがたいような気さえするのですが、私が国鉄に就職した1976年(昭和51年)の中央西線には、夜行急行「きそ」が下り2本上り1本と、大阪からの夜行急行「ちくま」が1往復、それぞれ定期列車として運転されていたほか、季節列車や臨時列車の夜行急行が複数設定されていたのです。 私が乗っていた「きそ」は旧形客車で組成された列車でした。所定編成は以下のようになっていました。 【53.10ダイヤ改正時】 <下り> 中央西線~篠ノ井線 急客801列車 運転区間 名古屋~長野 乗務区間 名古屋23:55~長野5:32 (きそ7号) EF64(篠)   スユニ 長ナノ(長郵21)熱田~北長野   マ ニ 長ナノ(長荷22)熱田~北長野…

続きを読む

【618】 北恵那鉄道17:車両2「モ560形(後篇)」

北恵那鉄道の車両について、私が知っていることを書いています。先週に引き続き、モ560形について書き進めます。 14m級の車体であったモ560形が、10mレールを走ってくるときのジョイント音のリズムは独特でした。 2軸ボギー車ですから、「タタンタタン・タタンタタン」となりそうなものですが、そうはならず「タタタン・タタタン」というリズムで走っていました。3軸ボギー車のようなリズムは北恵那の音として私の耳には染みついてしまっています。 こちらは、乗車したときの車内音です。そのリズムがわかります。 ※動画はありません。画像は拙ブログで過去にアップした画像の使い回しで、再生時間は1分です。 20秒過ぎと50秒過ぎに警笛の音が入ります。50秒過ぎの警笛が鳴った直後のチャッチャッチャという音は、電車の横揺れで、吊り輪が大きく揺れて左右の網棚にぶつかって発した音です。 2軸車のくせに3軸ボギー車のようなリズムを発するわけは、この車両の竣工図面を見ると理解できます。 台車中心間距離が7925mmで、個々の台車軸距は1900mmとなっています。この車軸配置だと、4軸あるうちの最前の車輪と最後の車輪との間は9825mmになり、レールの長さ10mと近似値といえます。このことから、ほとんど同時に前後の車輪が別々のレールの継ぎ目を通過するため、音が重なって3軸車のようなリズムを刻む結果となるわけです。 北恵那鉄道が廃止になったのは1978年9月でした。そのころの私は国鉄に就職して荷物列車に…

続きを読む

【617】 天声人語に酒井順子さん!

最後のブルートレイン「北斗星」が最終運行されたその翌日(8月24日)の朝日新聞朝刊。 その日の天声人語はブルートレインにまつわる話でした。エッセイストの酒井順子さんが10年前に「あさかぜ」「さくら」引退前に乗車されたとき、車内に男臭さを感じ、女性向けの対応さえ考えていただければ、寝台の未来は暗くないのではないか、と書いておられたことを挙げ、それに対するJRの答えが一人数十万円もする「超豪華」列車なのかという内容でした。 北斗星引退については、私は定期運転終了時に一度書いていますので、引退そのものについては、もう申しませんが、酒井順子さんが天声人語に、それも鉄道ネタに登場することにビックリしたものです。こういう場合、かつては宮脇俊三さんの著作が引き合いに出されていた時代がありました。酒井順子さん、実は女子鉄として知られ、古くからの宮脇俊三ファンなのです。20年以上前、JTB時代の「旅」誌では、宮脇・酒井両氏のローカル線車中対談もされています。 このときのカメラマンは中井精也さん。私は国鉄を退職してからは鉄道雑誌をほとんど買わなくなり、鉄道モノが特集だと不定期に買っていたのがJTB時代の「旅」誌でした。 酒井さんのエッセイには、その「あさかぜ」「さくら」以外に鉄道物が多数あり、私は女性目線で描かれている鉄道観にたいへん興味を持ちました。 鉄道が「本質的に好き」なのだなあということが伝わってきました。知識がどうのとかの次元ではなく、理屈でも説明できない。それが好きだということなので…

続きを読む

【616】 思い出の乗務列車59:篠ノ井線~中央西線2836~836~荷5044列車(後篇)

先週はリンゴの収穫期に、積込の応援に来ている農家の方からリンゴをいただいたお話をしました。 農家の人にしてみれば、「満載であろうともなんとしても運んでほしい」「今度もお願いだからうちのリンゴだけはお願いします」との気持ちが込められていたのでしょう。とにかく収穫期になると長野発の荷物車はりんご箱で埋まりました。リンゴの収穫期は年末の荷物繁忙期に重なるので、ふだん30秒停車の駅では、荷扱のため列車が遅れてしまうこともよくあったのです。 それでも、停車時間も特別多く鈍足の列車でしたから、少々の遅れは大駅の長時間停車で帳消しになって、すぐに定時運転に戻りました。 8時間以上の乗務になりましたから、車中で昼食と夕食とが必要になります。お湯は往路と同じく木曽福島駅ホームのソバ屋さんの大ヤカンから補充し、夕食用としますが、名古屋到着は20時前でしたし、後に熱田まで乗務するようになってからは、仕事が終わるのがさらに遅くなりました。こうなると車内での夕食パターンはまちまちで、家が近い人は家での晩酌に差し支えるから夕食は遅くなっても家で食べるから、車内では食べないとい人もありましたし、長野で2食分の食糧を仕入れる場合もありました。以前レチ弁の話をしましたので、それと同じ話になりますが、この列車では中津川駅で夕食用のレチ弁が手配できました。自由購入で3時間以上前(時間的に松本か塩尻停車中)に中津川車掌区に必要個数を電話しておくと、中津川駅の上りホーム上にあった弁当業者さんの詰所に、格安の弁当を用意してもらえました…

続きを読む

【615】 北恵那鉄道16:車両1「モ560形(前篇)」

今回から毎週木曜日には、北恵那鉄道の車両について、私が知っていることを書いていきます。私自身もバイブルのように考えている「RM LIBRARY 32 北恵那鉄道」をはじめとする書物を参考にさせていただくことはもちろんですが、そうした書物にもあまり書かれていないことも記憶をたどりながら盛り込んでいきたいと思っています。 最初は、最大勢力であったモ560形についてです。 【モ560形(561~565)】 北恵那鉄道の顔とも言うべき形式でした。末期には旅客営業に使用される電動車は、この形式に統一されていました。名鉄からの流れ者で、元をたどると名鉄瀬戸線の前身である瀬戸電気鉄道の車両で、大正末期から昭和初期にかけて製造されています。1964年(昭和39年)に561~564の4両が名鉄瀬戸線から、9年遅れて1973年(昭和48年)に565が、瀬戸線からの転出先であった名鉄揖斐谷汲線から、それぞれ北恵那鉄道に入線しました。565入線の日の様子は、それを記録した画像がありますので、その入線に至った背景とともに後日改めてご紹介することにします。 この形式は、5両それぞれ外観に特徴があり、遠くから見ても「見る人が見れば」区別ができました。 正面の3つの窓のうち中央窓が1枚窓なのが 561と565。 その他は2段窓 (画像は561) 561~564は車体側面に吊り下げ式の行先札(サボ)を使用。これが北恵那鉄道車両の古くからの行先表示方法でした。 北恵那鉄道の車両で唯一、正面…

続きを読む

【614】 思い出の乗務列車58:篠ノ井線~中央西線2836~836~荷5044列車(中篇)

836列車(1978年3月ダイヤ改正前までは長野・松本間の列車番号は2836列車)は長野を11時半過ぎに出ましたから、往路の荷5043列車では夜間で見られなかった篠ノ井線の車窓が眺められました。 今回の画像は、最後の1枚以外は、私がこの列車に最後に乗務した日、1979年(昭和54年)3月31日の撮影です。この10日後に、私は中部鉄道学園に入学し、4か月半にわたって列車掛になるための教育を受けました。      川中島駅 日本三大車窓の一つである姨捨の展望も堪能できました。姨捨はスイッチバック駅としても知られています。もっとも姨捨駅はこのときすでに無人駅になっており荷物の取扱はありませんでしたが、各駅停車の旅客列車でしたから停車したのです。停車しても荷物車の方はまったく仕事がなく、こうして写真を撮っている余裕があったわけです。 拙ブログにお越しいただく方々はご存知の方が多かろうと思いますが、この篠ノ井線には姨捨駅のほかにも、列車の行違いのためにスイッチバック式の信号場が複数あり、当時は「桑ノ原信号場」「姨捨駅」「羽尾信号場」と、3つもスイッチバック停車場が連続しました。 稲荷山駅を発車すると急勾配区間が始まり、まず「桑ノ原信号場」の待避線に突っ込んで下り「しなの5号」と行き違いました。 「しなの5号」と行き違ったあと、いったんバックしてから姨捨に向かい発車すると、今しがた待避した線路を見下ろしながら姨捨駅へ向かって、左へ約90°急カーブを描く線路を辿って登っていきます。 …

続きを読む

【613】 「時刻表昭和史」あとがき

宮脇俊三氏は、著書「時刻表昭和史」で、70年前の8月15日、米坂線今泉駅で、「目まいがするような真夏の蝉しぐれ」の中、「予告されていた歴史的時刻を無視して」、「時が止っていたが汽車は走っていた」と書いています。 今泉のことは【52】宮脇俊三と今泉駅・・・終戦の日で、アップしたことでありますが、あれから5年も経ちました。同じ話になりましたが、この日になると今泉の描写は必ず甦ることなのでご容赦ください。 その「時刻表昭和史」のあとがき(増補版では本編13章の後のあとがき)で、宮脇俊三氏は「時刻表昭和史」を書いた動機について次のように書いています。 「 駅々に貼られた旅客誘致のポスター、ホームに上れば各種の駅弁が装いをこらして積んである。冷房のきいた車内、切符を持たずに乗っても愛想よく車内補充券を発行してくれる車掌。  そのたびに私は思い出さずにはいられない。不要不急の旅行はやめよう、遊山旅行は敵だ等々のポスター、代用食の芋弁当を奪い合う乗客、車内は超満員でトイレにも行けず、座席の間にしゃがみこむ女性、そして憲兵のように威張っていた車掌。  汽車に乗っていて、ときどき私は、今は夢で、目が覚めると、あの時代に逆戻りするのではないかと思うことさえある。二度とめぐり合いたくない時代である。それゆえに絶対に忘れてはならないと思う。  そんな思いを抱きつづけていたので本書を書きはじめた。」(以下略) (赤部分は「時刻表昭和史」からの引用です。) あとがきは、この著書が出版された19…

続きを読む

【612】 北恵那鉄道15:北恵那鉄道の想い出

北恵那鉄道のシリーズ記事は、廃線跡の記事から4年も中断してしまいましたが、再開します。しばらく木曜日に続けていきたいと思っていますが、ご覧の方の大多数が、この鉄道に対して馴染みはなく、想い出をお持ちの方は数少ないと思います。この鉄道が廃止になったのは1978年ですから、それも当然で、私が国鉄に入って2年目の年でした。できれば、ご自身の鉄道趣味の取り組みと重ねていただいたり、今時の中小私鉄の実態とは違うことを感じていただいたり、あるいは、昭和の私鉄を模型鉄道で再現するときの参考として、ご覧いただけたらうれしく思います。 なお、言い訳になりますが、私は北恵那鉄道とは関係がない者ですので思い違いもありましょうし、記憶が不確かなところもございますので、ご指摘等ございましたらご教示ください。また、記載内容についての問い合わせなどで、現在も路線バス事業者として存続している北恵那交通株式会社様にご迷惑になるような行為は、固く慎んでいただきますようお願いいたします。 以前の北恵那鉄道関係の記事(1~14)は、画面の下部にある「ブログ内ラベルリスト」内にある「北恵那鉄道」をクリックして記事を抽出できますが、記事を書いてから年月を経ておりますので、廃線跡の状況には変化があると思われますので、ご承知おきください。 *************************** 私が中学生のとき、鉄道ファン誌1971年(昭和46年)12月号のREPORT記事に地元北恵那鉄道のことが「北恵那鉄道廃止決定」とい…

続きを読む

【611】 思い出の乗務列車57:篠ノ井線~中央西線2836~836~荷5044列車(前篇)

荷5043列車で長野に着いた私たち3人(荷扱専務車掌又は荷扱車掌長1人と車掌補又は乗務掛2人)は、長野乗務員宿泊所で泊まり、翌日は午前11時半過ぎに発車する2836列車に連結されている荷物車(名荷24マニ)への乗務でした。長野車掌区への出勤時刻は発車前約1時間前くらいでしたから、早起きする必要はなく、かといってそんな時刻より早く目は覚めます。前夜、3人で寝酒を飲みながら、、朝飯はどこで食べるかなど、発車までの過ごし方を決めておきました。年明け最初の長野乗務だったりすると、初詣に善光寺でも行くか!ということもあり、少し早く起きて3人でぶらぶら歩いて出かけたこともありました。 駅周辺の喫茶店でモーニングコーヒーのあと、8時間以上の乗務に備えて、3人でスーパーへ弁当とお茶菓子の買い出しに出かけるのがふつうでしたが、昼と夜の2食分が必要でした。冷房のない車両ですから夏場は衛生上問題もありましたから、夕食は中津川でレチ弁(レチ弁については【260】レチ弁をご参照ください。)を事前予約することもありました。 こうして11時前に入線している列車に乗り込み作業開始となりました。その列車は往路の荷物列車とは違い、途中の中津川までは客車も連結された列車でした。 <1976年5月当時>(50.3ダイヤ改正ダイヤ) 長 野~松 本 2836列車 松 本~中津川  836列車 中津川~名古屋 荷5044列車 (EF64) オ ユ 長郵20 長野~名古屋 マ ニ 長荷21 長野~名古屋(熱田…

続きを読む

【610】 変なコレクション8(マッチ箱 長野編)

長野へは、就職当初の約3年間の荷扱時代と退職間際の3年間に、1か月に1回くらいの割合で乗務していました。 長野では、善光寺以外に行くべきところもなかったし、時間もありましたので、喫茶店にはよく行きました。 善光寺への表参道に当たる中央通沿いにある喫茶店「山と渓谷」  私は山屋ではないけれど、このネーミングは同名の雑誌からきているなと、そのロゴでわかります。マッチ箱にある「長崎屋」はとうの昔になくなりましたが、「山と渓谷」のほうは今でも営業しています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ホテルニューナガノ。このホテル自体は今も健在ですが、現在1階には喫茶コーナーの類はないようで、別の飲食店が営業しています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ タイムは長野駅正面にあったビルの2階にあった喫茶店です。ビルは今でもありますが、喫茶店はありません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ レオンは旧長野車掌区の目の前にあった喫茶店でした。 長野では1998年に冬季オリンピックが開催され、それに合わせるように新幹線も開通しました。その際に駅とその周辺も大きく変わりました。長野車掌区が入っていたビルは取り壊されてホテルが建設されました。「レオン」はどうなったのか。その後のことを私は知りません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 下の「胡桃」も現況は?です。 荷物列車で長…

続きを読む

【609】 思い出の乗務列車56:中央西線~篠ノ井線 荷5043列車(後篇)

荷5043列車の乗務は、中央西線沿線住民であった私としては、駅名どころか駅順をはじめホームの右左、地理的感覚など、さまざまな予備知識があったので、仕事上はたいへん有利でした。しかし、作業衣に前掛、手鉤を持って、檻のような保護棒がついた汚い荷物車の中で働く姿を知り合いに見られる可能性がありました。「見たよ」と言われたことはないので、見られたことはたぶんなかったはずです。しかし、囚人のような姿を見た人は、おそらくびっくりしたことでしょうから、本人に面と向かってそんなことは言えなかったのかもしれません。 以前にご紹介した長谷川宗雄著「動輪の響き」に書いてあることを引用しますが、高山駅のホームで、SLの庫内手の仕事ぶりを見ながら話をしていた乗客の話です。 「あんなに黒く汚れる仕事をする人は、どんな人やろうなあ」 「そうやなあ、ちょっと特別な人達とちがうんかなあ」 「油臭くて真っ黒で、ああいう人達のお嫁さんにくる人あるんやろうかなあ」 「そりゃあ、ああいう人はああいう人で、同じスジがあるで、そういう人からもらうんさなあ」 「そりゃあ、そうやろうなあ」 と、あり、これには苦笑いをする外ないと筆者は書いています。 この手の仕事の内容は、特に鉄道に明るい人でないとわかりせんし、説明も通じにくいものです。一度、同級生に「国鉄で何やってるの?」と聞かれ、小荷物が云々…と説明したところ「な~んや、貨物の車掌か!」とのリアクションがありました。ちょっと違うけど、まあええか…ということにして生返…

続きを読む

ブログ内ラベルリスト