【627】 特急「富士」の思い出

中央西線沿線の田舎で育った私にしてみれば、実物の寝台特急は、乗るどころか見ることさえ困難な列車でした。 朝の一番列車に乗って名古屋に出ても、その時刻には、九州ブルトレのしんがりを務める「さくら」も出てしまった後でした。夜も同じで、夜の寝台特急アワーまで名古屋駅にとどまると、終列車に間に合いませんでした。 「富士」を初めて見たのは、高校生のとき、九州へ出かけたときでした。 1973年8月5日宮崎駅 1973年8月6日都城駅 (2020/6/20 日付と場所相違につき訂正) 付属編成を大分で切り離した後ですから、最後部は切妻のナハネフ23です。 地元中京地区を走る時間帯の関係で国鉄時代に撮影できた画像は少ないのです。 名古屋駅でEF65PF牽引の「富士」。 これはブルトレブームと言われた頃、同期の者が「カメラを買ったのでブルトレを撮りたい」と言いだし、いっしょに深夜の名古屋駅に出没したときの画像。もちろん家には帰れない時間帯でしたが、番外地稲沢鉄道寮に籍を置いている時期でしたので、こういうことができました。 国鉄末期には、車掌区内にも鉄道ファンが増えてきました。その仲間たちで撮影に出かけたこともありました。 唯一乗ったのは、国鉄退職後でした。 寝台特急に子供を乗せてあげようと家族旅行を企画して、下関では機関車の付け替えも見せたのですが、子供に聞くと、「さっぱり覚えとらん」orz 夜明けの早い夏至前後の時期を狙って、自動車で上り列車の撮影のため東海道本線沿…

続きを読む

【626】 北恵那鉄道21:車両6「デ8形」

先週に引き続いて、北恵那鉄道の車両について、私が知っていることを書いていこうと思います。今回は戦後まもなく入線して、長く活躍した大型車デ8形です。 【デ8形(8)】 デ8は1形式1両の大型車でした。もとは現在のJR鶴見線の前身である鶴見臨港鉄道の電車で、いわゆる買収国電でした。国有化後戦災に遭い、日本鉄道自動車工業の手で復旧した戦災復旧車で、昭和25年に入線しています。 鶴見臨港鉄道の車両であることはスタイルから明らかで、かつては静岡鉄道をはじめ、各地の小私鉄に国鉄から同形車が譲渡されましたし、そのまま国鉄に残り、明石電車区の救援車になったクエ9401という同形車両もありました。クエ9401は、北恵那鉄道廃止後も1982年ごろまで国鉄に在籍していたので、ぜひ見なければ思っているうちに廃車されてしまいました。しかし2009年まで銚子電気鉄道には同形車デハ300形(301)が健在で、この車両を見ることはできました。 北恵那鉄道のデ8は、入線当時2軸車ばかりだった北恵那鉄道では、唯一の大型車でしたから輸送力アップに貢献したことでしょう。1964年には、名鉄から転入したク81とともに片側に貫通扉を設置しています。 この2両をペアとして大量輸送に対応しようという意図があったと解釈できるのですが、貫通化は小私鉄にとっては大がかりな改造のはずです。デ8が廃車された後も、鉄道廃止まで非貫通の2両編成は存在したのですから、貫通扉の必要性と改造にかかる費用対効果について疑問が残りました。車庫の人にその改…

続きを読む

【625】 ブルートレインの廃止と特急「はやぶさ・富士」

今年は、ブルートレインと呼ばれる青い車体の寝台特急が消滅した年になりました。 今年廃止されたのは、国鉄分割民営化後に誕生した「北斗星」で、今は座席車併結急行「はまなす」に、国鉄の夜行客車列車の面影をとどめるだけになったわけですが、これもJR東日本とJR北海道から、北海道新幹線の新青森~新函館北斗間が来年3月26日に開業するのに合わせて廃止するとの発表がされました。 こういうときが来ることは、わかっていましたし、自分の中では6年前に首都圏対九州の寝台特急「はやぶさ・富士」が廃止になった時点で、子供のころから絵本で見た寝台特急の歴史は終わったような気がしています。 先週、西明石駅列車脱線事故に触れましたが、あの事故を起こしたのは上りの寝台特急「富士」でした。そうした忌まわしい列車ではありましたが、「はやぶさ・富士」が廃止になった2009年当時の私は、名古屋市内に通勤していましたので、残業や飲み会で帰りが遅くなったとき、名古屋駅に立ち寄って、乗りもしない下り「はやぶさ・富士」をホームで待って見送ってから帰路に着くことが時々ありました。 ステンレス製のJR世代の車両たちばかりが行き交うようになってしまった名古屋駅で、「はやぶさ・富士」到着前から発車までの間に限って、国鉄が戻ってくるような空間が広がるのでした。 廃止の前年2008年12月13日でしたが、下り牽引機のEF66の代走として田端のEF65PFが起用されたことがありました。このことはネット上で広まり、それを知った私は土曜日…

続きを読む

【624】 北恵那鉄道20:車両5「デ1形」

先週に引き続いて、北恵那鉄道の車両について、私が知っていることを書いていこうと思います。今回は開業時から廃線時まで在籍したデ1形です。 【デ1形(2)】 デ1形は、北恵那鉄道が開業した時に4両新製された2軸木造電動車(デ1・2・3・5)でした。このうちデ2が廃止までの長きにわたり在籍した唯一の車両でした。 他の3両は1964年に名鉄からモ561~564が入線したことによって廃車されたということです。そのうちデ3の古い写真が北恵那鉄道創立50周年記念乗車券に使用されています。 記念乗車券にある開業当時のデ3の姿と、廃止時点のデ2の姿を見比べると、似ても似つかぬ風貌で同じ車両とは思えません。これは個体差ではなく、この形式は、全車とも戦時中に新たな木製車体を新製して載せ換えており、さらにその後に足回りも名古屋市交通局の路面電車のボギー台車に履き替え、実質的には新製時とは別物に近くなっているのでした。その載せ換えられた車体は自社工場製で、他の鉄道に類形を見ないスタイルは、名鉄資本が入る前の北恵那のオリジナリティが醸し出されていました。 私が知っているのは、最後まで残っていたデ2だけでしたが、モ560形が名鉄から入線した後の用途は中津町駅での入換専用で、旅客営業に供されることはなく、乗ることはもちろんのこと、本線上で撮影することも叶いませんでした。しかしいつでも中津町に行くと停まっているデ2は、存在感がありました。日中の列車がバス代行とされてから、動きがなくなった構内で、静寂を破り、不意に…

続きを読む

【623】 出先での一杯と、その時代背景

公共交通機関の乗務員が出先の宿泊先で飲酒することなど、今では考えられないわけですが、国鉄があったころ、言い訳のできないような飲酒事故が問題になるまでは、その日の乗務が終わり、翌朝の列車まで乗務員宿泊所に泊まる勤務のとき、私たちは寝る前には普通に酒を飲んでいました。 特に一定年齢以下の方が、誤解を招くといけませんので、念のため申し上げておきますが、今から40年近くも前のことで、当時の世間一般の常識が、今とはまったくちがっている時代で、飲酒について現在のように厳しい感覚で臨んでいなかったころのことです。ですから国鉄だけが常識を逸していたのとは違います。一般に、正月なら会社へ行っての仕事をするでもなく、屠蘇をいただきあいさつ回りしてさっさと帰ってしまうことも普通だった時代でした。喫煙にしても、禁煙車両や禁煙区間が設定されていたのは、国鉄のごく一部の混雑線区や通勤用車両だけであって、特急も含むほぼ全列車が禁煙になる時代が来ることなど、そのころ予想もつきませんでした。 当時の時代背景のひとつとして、原付自転車や自動車の常識を振り返ってみたいと思います。 私が通学していた高校では道交法で認めていた16歳になっていれば原付免許を取得すること自体を、学校が制限をしませんでした。(ただし、原付自転車での通学は、公共交通機関を使って通学できない者にしか学校は許可しませんでした。)ですから私も高校2年生になる直前の春休みに原付免許を取得しました。その後、誰かが事故れば、学校としては、バイクを子供に与えるな…

続きを読む

【622】 北恵那鉄道19:車両4「ク550形」

先週に引き続いて、北恵那鉄道の車両について、私が知っていることを書いていこうと思います。今回は先週ご紹介した制御車ク80形のほかに、1両だけ在籍した制御車ク550形です。 【ク550形(551)】 連結面間が15mを超える大型の片運転台制御車でした。 車体は簡易鋼体化されているものの、非常に古い大正生まれの木造車でした。 名鉄からの移籍で、入線は比較的遅く1966年(昭和41年)でした。この車両の入線によって、最後まで残っていた2両の2軸客車(ハフ11・12)が廃車になったということです。 日中の運転が休止されてからは、3両あった制御車の運用は1日1往復だけでした。主に使用されていたのは小型のク81か82のどちらかで、大型のク551が走行する姿を見ることはめったになく、いつも側線に留置されていました。私が稼働しているのを最後に見たのは廃止の3年前で1975年1月のことでした。例年1月10日に中津川で開催される初えびす「十日市」の多客輸送には、多くの列車が2両に増結されましたが、この年も3両の制御車(ク81・82・551)が総動員され、ク551が夕方の一番列車に充当されました。 その後の稼働実績は、私が高校を卒業して、頻繁に北恵那鉄道を訪れることがなくなったため不明ですが、いつも使用されているとは思えない状況で留置されていました。 この車両も、ク80形と同様に運転台の向きが下付知寄りに揃えられていました。ク80形と違うのはモ560形と制御器機が統一されていたことで、制御器機が異…

続きを読む

【621】 思い出の乗務列車61:中央西線・篠ノ井線夜行急行「きそ」801・802列車(後篇)

中央西線下り801列車「きそ6号」に連結された荷物車マニの使命は長野県内あての朝刊(名古屋印刷分)と急送品の輸送でした。 (画像は、上り802列車の方です。) 朝刊輸送の詳細については、急行紀州5号の記事 【319】 思い出の乗務列車7:キニ併結 急行「紀州5号」(1) https://shinano7gou.seesaa.net/article/201210article_3.html 【321】 思い出の乗務列車8:キニ併結 急行「紀州5号」(2) https://shinano7gou.seesaa.net/article/201210article_5.html 【323】 思い出の乗務列車9:キニ併結 急行「紀州5号」(3) https://shinano7gou.seesaa.net/article/201210article_7.html 【325】 思い出の乗務列車10:キニ併結 急行「紀州5号」(4) https://shinano7gou.seesaa.net/article/201210article_9.html のなかで以前に公開しましたので、今回は省略とします。下り801列車「きそ6号」にはマニとスユニが連結されていたわけですが、私どもの乗務車両はマニのほうで、前述のように車掌長(荷扱)又は専務車掌(荷扱)と、車掌補(荷扱)又は乗務掛(荷扱)の2人乗務でした。スユニのほうの郵便室には鉄道郵便局員が乗務し、荷物室のほうは無人の状態で、締…

続きを読む

【620】 北恵那鉄道18:車両3「ク80形」

先週に引き続いて、北恵那鉄道の車両について、私が知っていることを書いていこうと思います。今回はモーターを持たない2両の小型制御車ク80形です。 【ク80形(81・82)】 腰高な印象なのは、生まれが旧三河鉄道のガソリンカーで、床下にエンジンを持っていたためでしょう。  画像の列車は右から左へ向かって進行しています。つまり撮り鉄さんがいうところの「後追い撮影」になります。そういうことは撮り鉄ブログではないので、いつもはそんな説明を入れておりませんが、この場合は後で必要な内容なので、あえて書いておきます。 この車両も名鉄からの転入車でしたので、北恵那鉄道最末期の営業用車両は、入換専用のデ2以外は、全車が旧名鉄車であったということになります。ク80形は2両ともモ560形が入線した前年1963年(昭和38年)に北恵那入りしています。前述のようにガソリンカーとして生まれ、戦時中は木炭ガス代燃車、戦後は電車の付随車を経て、のちに片運転台式制御車になったという経歴の持ち主でした。片運転台車ですが、元が両運転台車でしたから、前後とも車端面に向かって左側だけに乗務員扉がありました。 特筆されるのは、入線時に北恵那唯一のセミクロスシート車で、左右2ボックスずつ、計4つのボックス席があったことになっていますが、私が知る頃にはロングシート化されていました。 2両あったこの形式も、1両ごとに特徴がありました。運転室は2両とも下付知側にあり、81だけ、運転室がない中津町側に貫通扉がありました。…

続きを読む

ブログ内ラベルリスト