【637】 中央西線を走った車両6 :381系電車(1)

かなり前に、「中央西線を走った車両1」として181系気動車について5回に分けてご紹介しましたが、その後継となった381系電車について、中央西線での活躍に絞って今週から毎木曜日に4回に分けてお話したいと思います。 *********************** 1973年(昭和48年)7月10日 中央西線の未電化区間(中津川~塩尻)の電化工事完成に伴ってダイヤ改正が行われました。 特急しなの号は、それまで181系気動車を使用して3往復(うち1往復は大阪発着)が設定されていましたが、このダイヤ改正から全部で8往復体制となり、車両の内訳は181系気動車2往復(うち1往復は大阪発着)、381系電車6往復となりました。これが381系電車のデビューとなりました。 画像はダイヤ改正前の試運転列車の381系電車で、6両編成です。 そして下は、ダイヤ改正当日の営業初列車1001Mしなの1号長野行です。 6往復を受け持つ381系しなの号のうち1往復(下り4号上り1号)だけは10日遅れの7月20日からの運転でした。もともと予備車は少なく最小限の数しか製作されていませんでしたから、夏休み前の閑散期は、初期故障を想定して1編成を予備として万全を期した結果でした。 この当時の381系しなの号は全車指定席で9両編成でしたが、その年の10月1日ダイヤ改正時からは、普通車に3両の自由席を設け、エル特急とされ、その後も国鉄時代は基本的に9両編成で運転されました。 ただし、デビュー翌年には定期検査時の予備…

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【636】 貨車解結通知書の様式いろいろ

これまで、国鉄時代の旅客列車・荷物列車・貨物列車について、いろいろ書いてきましたが、国鉄で古くから行われてきたヤード系輸送の実態を反映した貨物列車をあまり紹介してきませんでした。各駅で連結解放を繰り返す貨物列車の車掌(車掌業務のほか検査業務を併せて行っていたので列車掛という職名でした。)が行った業務は、「貨車解結通知書」の存在なくして語ることはできません。「貨車解結通知書」なるものをご存知の方は少ないと思いますので、そのコレクション?をご覧いただき、来週以降予定している解結貨物列車の実態をご理解いただくため参考としていただけたらと思います。 貨車解結通知書の内容を読み取れないと、貨物列車の車掌業務は務まらないものでしたが、今回は内容にはあまり触れず、用途と様式のみにとどめてご紹介します。 貨車解結通知書は、「組成駅又は始発駅の駅長が、その列車の出発時の組成内容及び途中駅における貨車の解結車数を明らかにするために作成」するもので、その列車の列車掛と機関士に交付される書類でした。 組成駅とは、「列車の組成及び分解、貨車連結順序の整正並びに中間駅発着貨車の連結解放手配を行う駅」のことで、操車場や比較的規模が大きい駅が指定されていました。中間駅は組成駅に連結車数を申し込み、組成駅ではそれを取りまとめ、貨車解結通知書を作成していたのです。貨車解結通知書は列車掛と機関士が使用しますが、駅の控え片も含め複写で作成されました。 駅から交付された貨車解結通知書は、列車掛が受け取り、機関士に渡していま…

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【635】 北恵那鉄道25:車両10「ハフの廃車体」

先週に引き続いて、北恵那鉄道の車両について、私が知っていることを書いていこうと思います。 北恵那鉄道では、廃線を待たずに廃車されたため、私が現役時代を見た記憶がない車両がいくつも存在します。しかし、廃車になった後に車体だけ利用されていた例があり、貨車については先週画像を紹介しました。このほかにも廃車された2軸客車の車体が利用されていた例がありましたので紹介します。 【ハフ50形】 高校1年生の冬のこと、その日の体育の授業は、学校のマラソン大会に備えたロードランニングで、学校から公道へ出ました。私は、授業でも仕事でも、学校や会社から出るのは好きなほうなので、こうして校外に出たり、乗務や出張は性に合っていました。一歩外に出ると先生や上司の目が届かず、ある程度自分の判断を前面に出して行動できるので気持ちが晴々とするのです。逆の立場で部下が出て行くのを見送る管理職や、旅に出ていく乗客を見送る駅員にはなりたくないと思ったものです。どうせどちらにもなれなかったのですから、その心配も必要なかったわけですが。 その日のコースは来たこともない初めての道で、過ぎ去る景色も新鮮で気持ちよく走っていると、不思議なモノを道端で発見してしまったのでした。ちなみに同級生の北さん(←「北恵那デ2様」を仮にそう呼ばせていただくことにします。)も一緒で、ランニング中に立ち止まるわけにはいきませんでしたから、走りながら2人で目配せしてニンマリとしたのでした。 車体の色から、北恵那鉄道の車両のボディに違いなく、窓の形状…

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【634】 津久見港と海岸通

「なごり雪」に続いてイルカさんの歌唱でヒットした曲に「海岸通」がありました。 この「海岸通」も伊勢正三さんが作詩作曲しており、もとは伊勢正三さんがメンバーだったフォークデュオ「風」のファーストアルバム収録曲でした。 伊勢正三さんが中学までを過ごした生家は、もう津久見にはありませんが、その場所は、駅から近い津久見港のそばで、目の前が海だったそうです。今、そのあたりの海側には国道が造られ、さらにその先の海だった部分も埋め立てられて、ホテルやスーパー、公園などになっていて、港はその先に後退しました。 「なごり雪」は駅での別れを歌っていますが「海岸通」は、夕陽がきれいな港の別れの情景です。今も津久見港から保戸島への船が出ていますから、この津久見港から出航する船を伊勢正三さんは中学生のころまで日常的に見ていたにちがいありません。 「海岸通」(http://www.uta-net.com/song/1230/←Uta-Netの歌詞ページ)も、おそらくご自分の生家から見えた風景が源になって創られたものだったと思われます。 この曲では、見送られる者は「なごり雪」とは反対に男のほうになっています。その男が女に「夜明けの海が悲しいことを教えた」海岸通とはどこなのでしょうか? 海岸通というネーミングの通りは、海辺の街ならどこにでもありそうで、固有名詞ではないと考えても差し支えないでしょう。 しかし固有名詞としてネーミングされた「海岸通」はいくつもあります。たとえば広島電鉄宇品線に同名の停留所が…

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【633】 北恵那鉄道24:車両9「貨車たち」

先週に引き続いて、北恵那鉄道の車両について、私が知っていることを書いていこうと思います。 北恵那鉄道は、木曽川に水力発電用ダムが建設されることによって、従来の木曽川を利用した木材流送ができなくなるために、代替輸送手段として敷設されました。しかし木材輸送は昭和30年代にトラック輸送に切り替えられ、その時点で貨車の大半は役目を失い廃車されていましたので、私が知っている貨車は、ワム301形(301)とト101形(105・107)の計3両だけでした。 ワム301は、車両番号の下に二重線があり国鉄直通車のようですが、+印の表記からブレーキシリンダがない車両であることがわかります。さらにバネ吊装置も2段リンクではありませんから、少なくとも43.10以降に、国鉄に入線していたとは思えません。この形式は301~303の3両が存在したはずですが、301以外の2両は中津川市周辺で廃線を待たず倉庫になっていたことを確認しています。301だけ残された理由は不明ですが、繁忙期における線内の小荷物輸送くらいしか用途が考え付きません。私が知っている廃線前の約5年間は、いつも下付知駅でその姿を見かけ、稼動している姿を見ることはありませんでした。 こちらは下付知駅でのト105とト107です。一見、木材を積んでいるように見えますが、後ろの貯木場に積み上げてある木材が写り込んだだけです。どちらも、いつでも留置されていましたので末期には営業用に供されていたとは思われず、保線材料輸送などの事業用に残され、ときどき稼働していた…

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【632】 8年前の元鉄道員親子 ~鉄道の日増刊号~

今日は「鉄道の日」です。 明治5年の今日、日本で最初に鉄道が開業した日ですが、実際には品川~横浜間でその年の6月12日に仮開業していたらしいですし、正式開業日にしても予定では10月11日だったところ、暴風雨のために3日間延期になって14日になったとも聞いています。歴史には、なにかと裏話や事情がつきもののようです。 38年前の「鉄道記念日」に亡父が受章した「効績章」を今日は仏壇前に飾っておくことにします。旧国鉄に在籍した者にとっては「鉄道記念日」と言った方が通りがいいし、しっくりきます。 ちなみに効績章とは大したものではなく、ふつうに働いていれば授与される「永年勤続表彰」の類で【83】鉄道の日と効績章で紹介しています。もちろん今日仏壇前に飾ったのは、そこに紹介したヤフオクで落札したのではなく、本人がホントにもらったほうで、その件も【84】2つの効績章に書いています。 ところで、この切符は父の遺品の中から出てきたものです。使った切符など保存するような人ではありませんでしたが、中央西線~篠ノ井線~長野~新幹線~大宮~東北線~東京~新幹線~名古屋~中央西線の経路で一周した乗車券で、8年前の2007年に使ったものです。この駅に夜は駅員がいなかっただろうから、集札されずそのまま持ち帰ったのでしょう。 この年の10月14日、鉄道の日に大宮に鉄道博物館がオープンしました。当時の父は79歳で、すでに足腰も弱ってきていましたが「いっぺんでええで、行ってみたい。」と言っていました。80歳を過ぎ…

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【631】 なごり雪の駅「津久見」

先週は、列車の側から想像を交えながら「なごり雪」の世界を眺めました。 私は音楽に関しては無知で、ギターどころかカラオケもダメな人種なのですが、伊勢正三さんの作品が昔から好きでした。わざわざでなくても、九州へ行く機会があれば、伊勢さんのふるさとである大分県の津久見へ立寄ってみたいとかねがね思っていましたが、先般九州へ行く機会があったので、初めて津久見駅で列車から降りました。 津久見駅は日豊本線の駅です。 列車本数はさほど多くはないので、駅前は日中でも閑散としている時間帯が多いようで、人は多くなく、駅前広場の客待ちのタクシーばかりが目立ちました。 橋上駅舎になっていて、改札、出札窓口、待合室はすべて2階にあります。 駅舎の1階玄関ホールには、陶壁画があり、その前には2つの赤ミカゲ石のプレートがはめ込んである大きな石灰岩(高さ1.1メートル、幅2メートル)があります。石灰岩は、津久見の主要産業であるセメントの原料となる岩です。 はめ込まれた赤ミカゲ石のプレートのうちひとつには、「なごり雪」の作詩作曲者伊勢正三さんの『「つくみ駅」に寄せて』と題したメッセージとサインが刻まれ、もうひとつには「なごり雪」の歌詩の最後の部分が刻まれています。 その右側、伊勢正三さんのメッセージ『「つくみ駅」に寄せて』と伊勢さんのサイン。 この碑は2010年に当時の駅長さんの尽力で完成したのだそうです。 ここから階段で2階に上って改札口を抜けると、ホームに降りる階段に続く短い通路がありま…

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【630】 北恵那鉄道23:車両8「デキ500形とモ320形」

先週に引き続いて、北恵那鉄道の車両について、私が知っていることを書いていこうと思います。 北恵那鉄道では、私が小学生のころに見た記憶があるのに、いつのまにか現役引退していた2両の車両がありました。今回はその、デキ500形とモ320形についてです。そのため、この2両についての知識はほとんどありません。 【デキ500形(501)】 小学生のころのことでした。、中央西線の普通列車を待っていた国鉄中津川駅の待合室の改札口から線路の方を見やると、北恵那鉄道の車両が中津町駅から続く連絡線を、貨車を押し上げて国鉄駅の構内へ入ってくることがありました。 北恵那鉄道との連絡運輸をする貨車のため、非電化時代の中津川駅の構内でも、いちばん奥にある2本の線路だけに、頼りなさそうな細い木の電柱に支えられて架線が張られていました。そこに来るのは、緑と黄色に塗り分けられたデ2か、黒一色の車体に黄色の帯と窓枠が非常に目立つデキ501のいずれかでした。特にデキ501の電動貨車然としたスタイルの車両は国鉄車にはなかったですから、強く印象に残りました。 【モ320形(320)】 北恵那鉄道では1963年(昭和38年)からその翌年にかけて、名鉄資本が入った関係で、在来の小型車両が続々と名鉄から転入した車両に置き換えられました。モ320とデキ501はどちらも1963年(昭和38年)に名鉄から北恵那入りをしています。私の就学前後と重なるこの時期に、両親に連れられて北恵那鉄道沿線の栗本水泳場へ電車に乗って行った記憶がありま…

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【629】 なごり雪の「汽車」

2日前のA新聞の週末増頁「be」に「ギターで弾きたい曲」という特集が組まれており、その1位が「なごり雪」でした。この歌は、1975年にイルカさんの歌唱で大ヒットして、今も卒業シーズンの曲として定着しています。 歌詩を思い出していただき、その情景を思い浮かべていただきたいと思います。 http://www.uta-net.com/song/3382/ (↑ Uta-Netの歌詞ページ ) 汽車で旅立とうとする女のそばに、発車時刻を気にしながらホームで見送る男がいます。 東京で見る雪がこれが最後だと、女はつぶやきますので、場面は東京都内の長距離列車が出るターミナル駅かと思われます。 そして汽車に乗った女が、動き始めた汽車の窓に顔をつけて、ホームで見送る男に何か言おうとしますが、声はホームにいる男には聞こえません。 このことから、窓が開閉できる列車もあった昭和50年頃の列車群のなかにあって、この列車は固定窓だったのではないかと想像されます。そのころの「汽車」で「東京」を出る固定窓の列車と言えば、寝台特急ではなかろうかとの推測ができます。 実は、この楽曲の作詩作曲者である伊勢正三さん本人が、BS朝日のテレビ番組「うたの旅人」の中で「イメージは東京駅のブルートレイン」とおっしゃっているのです。 この「なごり雪」、もともとは伊勢正三さんが所属したフォークグループ「かぐや姫」のアルバム「三階建の詩」に収録され、伊勢正三さん自身の歌唱による楽曲でした。イルカさんの「なごり雪」はカ…

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【628】 北恵那鉄道22:車両7「デキ250形」

先週に引き続いて、北恵那鉄道の車両について、私が知っていることを書いていこうと思います。北恵那鉄道は貨物営業も行っていました。今回は電気機関車デキ250形です。 【デキ250形(251)】 デ2とともに、国鉄中津川駅から中津町駅裏に接している製紙工場へ出入りする貨車の受け渡しを含む中津町駅構内入換専用の機関車で、本線に出ることはなく、いつでもデ2とともに、中津町駅に行くと見られた車両でした。 関西電力が丸山ダム建設に伴って、資材運搬用として名鉄に投入した機関車で、ダム建設後は名鉄に譲渡されました。そのあと、北恵那へ入線したのは1968年です。北恵那鉄道では製造年で言えば最も若い車両で、1952年(昭和27年)製でした。入換作業はデ2との2両体制で行われていたのですが、どちらかが検査入場をすると、入換を本線旅客用のモ560形が行うことがありました。 下の画像の、左は本線のモ563。右はいつもデキ251が居座っている製紙工場積卸線に代役として入ったモ562。この線にモ560形が入ることはめったにありませんでした。 工場の積卸線は急カーブになっていて、車体が長いモ560形ではワム車に連結しようにも、車体のオーバーハングの関係で連結器の位置がずれてしまい連結できないケースが出て支障が出ると車庫の人が言っていました。まるで模型みたいなできごとが実際に本物の鉄道にもあることを知りました。 構内全体がカーブを描いている中津町駅の平面図は、「RM LIBRARY 32 北恵那鉄道」に掲載されていま…

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