【655】 あの場所は今…2015年(4)中央本線 伊奈川橋梁付近

今年のラスト記事になりましたが、今年撮影した画像と、昔の画像とを定点で比較してみようという企画の続編です。以前にYoutubeで使った使い回し画像も含まれますのでご容赦ください。 今回は、中央西線大桑~須原間にある伊奈川を渡る鉄橋付近です。昔からの有名撮影地で、作例も雑誌やネット上にたくさん出ています。 まずは、今年撮影した画像から。 先週同様、3月31日に行われた富士急行8500系(旧JR東海371系)の甲種輸送です。 すでに美乃坂本~中津川間の333キロポストで撮影して、すぐ自動車で追い抜いてきたものですから、着いた時には撮影できそうなスペースはほとんどありませんでした。とにかくすごい人人人で、私がノコノコ行くべきところではありませんでしたが、そういう状況がすっかり出来上がっていたので、しかたがありませんでした。手持ちコンデジ使いの機動性の良さを発揮して、かろうじて確保できた場所は、三脚がバリケードのように並ぶ道路上でした。 ここには国鉄末期に、よく来ました。「ユーロライナー」を撮影しておきたいと、その運転日に中央西線沿線で何度かカメラを向けましたが、国鉄時代には意外にも、ユーロライナーの牽引機に、ユーロ釜66号機が充当されないことが多くありました。 やっとのことで、ここでその組み合わせに巡り会えました。 同じ日の381系しなの 先頭は神領に2両しか配置されていなかった非貫通100番台のうちの1両クハ381-121です。9両編成こそが、381系の元来あるべき…

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【654】 あの場所は今…2015年(3)中央本線333キロポスト付近

私が一眼レフカメラを処分して、コンデジをポケットに入れて歩くようになってから、13年にもなります。撮影したい被写体が激減したという理由のほかに、写真は自由に撮りたいのに、限られた狭い場所に多人数が固まって、まるでカメラや機材の品評会のような様相の中で、獲物を狙うみたいな殺気立ったところに身を置くのにストレスを感じるようになったということがありました。 そんなことで、列車の写真は、コンデジの駅撮りで十分という考え方になっていったわけですが、ときには、昔撮影した古い画像を見ながら、あのときわざわざ出かけた撮影場所がどうなっているのかと気になったり、列車の車窓から流れゆく現場を眺めたりしたことは、幾度でもありました。 今回と次回は、私の地元中央西線で今年撮影した画像と、昔の画像とを「ほぼ定点」で比較してみようと思います。以前にアップした使い回しの画像も含まれますのでご容赦ください。 今回は、中央本線 美乃坂本~中津川間です。 場所は、333キロポスト付近で、上下線が離れたところなので撮影には適していて、中央自動車道の中津川インターのすぐそばで、アクセスも便利なため、ときどき撮影者を見かける場所です。 まずは、今年撮影した画像から。 3月31日、富士急行8500系(旧JR東海371系)の甲種輸送です。 EF64は国鉄色1006号機ですが、1000番台が国鉄時代に中央西線で活躍したことはありません。しかし、現在この区間で使用されている車両のうち、国鉄時代に製造された車両はこの形式だ…

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【653】 あの場所は今…2015年(2)高鍋・下関

1973年8月、高校生だった私は同級生と2人で九州へ行きました。一週間で九州をほぼ一周する行程で、その目的は観光旅行ではなく蒸気機関車の撮影でした。 先週は吉松のことを書きましたが、その2日まえの早朝、私は夜行客車急行「みやざき」から日豊本線の高鍋駅に降り立っていました。 下の画像左側は、C57が牽く上り貨物列車が高鍋駅を発車したところです。 その右は、この秋に行ってみた時の画像ですが、場所的にはズレていまして、機関車の右に写っている踏切警報機がある踏切の位置から撮影しています。かつてあった側線はなくなっており、踏切部分には「線路立入禁止」の立札があって、その横も私有地で老人ホームの敷地になっていたので、まったく同じ場所に立つことはできない状態になっていたのでした。 上のC57の写真は、下の画像中央付近に写っている電柱付近の線路右側あたりから手前の方を撮ったと思われます。 時間があれば、許可を得てその老人ホームの敷地内駐車場に入らせてもらうこともできたでしょうが、あいにく時間がありませんでした。そのため、このすぐ先にある小丸川の長い橋梁へも行けませんでした。 42年前には、その橋梁でC61が牽引する下り貨物列車を撮影しています。 今回、私が乗った列車の車窓から眺めた限りでは、小丸川鉄橋自体には変わった様子はありませんでした。 この貨物列車ですが、高鍋駅で30分以上停車し、その間に入換作業がありました。42年前は、上の写真を撮った後、小丸川畔から撤収して高鍋駅構内鹿児島方で入…

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【652】 275列車 南四日市駅の入換

先々週から、稲沢発関西本線加佐登行貨物列車275列車のお話をしてきました。 この列車では、途中の南四日市で列車掛による入換作業がありました。この駅で入換をする列車は上下列車を問わず下り1番線に着発し、その作業は下り側にある側線を使用して行いました。 ※以下の画像は国鉄当時の撮影ではなく、すべて近年撮影したものですのでご承知おきください。 画像は四日市側から見た構内です。正面は下り本線ですが、275列車はこのように左側の下り1番線に進入して停車しました。 南四日市駅本屋。貨物駅っぽい感じがします。国鉄時代から変わった様子はありません。 プラットホーム。写っている列車は上り本線に入った名古屋行で、後側から撮影しています。画面奥が名古屋方です。 下の画像で、この右側(下り本線側)を見てみましょう。 手前の電車線が張られている線路が下り本線。その右の線路は275列車が入線した下り1番線。入換動車が止まっているのが下り3番線と下り4番線です。 次に、上の画像を撮影した同じ位置から、180度振り返って反対側(亀山方)を向いてみましょう。 ホームの亀山方先端はスロープになっていて、旅客用の構内踏切がが上り本線と側線を横断して駅本屋改札口へ続いています。スロープの左は下り本線。以下左へ下り1、2番線~と続きます。下り1番線を画面奥のほうに真っ直ぐ向かっていくと下り引上線へとつながっています。 前述のように、入換作業をする貨物列車は、上下列車とも下り1番線に入…

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【651】 あの場所は今…2015年(1)吉松

先週のブログ記事の中で、私が過去に足跡をしるした場所へ再訪することが、今後の旅の目的というようなことを書いたのですが、秋に行った九州で、さっそくそれらしいところに立ち寄りました。 1973年8月、高校生だった私は同級生と2人で九州へ行きました。一週間で九州をほぼ一周する行程で、その目的は観光旅行ではなく蒸気機関車の撮影でした。 吉松に行ったのは、そのときが初めてでした。すでに矢岳越え区間を含む肥薩線はDL化されてはいましたが、吉都線にD51・C57・C55、肥薩線栗野から分かれていた山野線でC56が残っていましたので、吉松機関区には、数が少ないながらも両線区用に4形式もの蒸機が配置されていることは魅力でした。その日は沿線での撮影を終えた後の夕方、機関区を訪問しました。 あれから42年を経て、9月に九州へ行った折、好都合なことに吉松で乗継時間が1時間弱ありましたので、機関区跡を見てきましたが、敷地のほとんどが更地になっていました。 乗ってきた列車の運転士氏に、ホーム上で「あのへんが機関区の跡ですね?」と聞くと、あれが機関区だった建物そのものですが…とおっしゃる。 たしかに、城跡か古代遺跡のようにも思える低い石積ホーム先端部や線路を横断する職員通路の先の更地の片隅には木造の古い建物が残っていますので、そのことを指しておられるわけです。 私はそれよりもはるかに大きな検修庫など車両基地としてのさまざまな設備があった場所のことを訊こうとしているのが通じないようでした。 …

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【650】 河曲駅と275列車

先週アップした記事【648】思い出の乗務列車53:関西本線加佐登行275列車をご覧になったhicky様から、以下のようなコメントを頂戴しました。 「加佐登275列車は、河曲で私の通学していた922列車と行き違いになっていました。この時点で加佐登7:39着でしたが、この列車の編成が長いと922列車で下車した旅客が改札の外に出られず、駅の外で待っていた三重交通のバスが発車してしまい、バスに乗れず、通学している学生は学校までダッシュが繰り返されていました。 苦情があったのか、後に河曲-南四日市の複線区間ですれ違いに変更されました。 ~後略~」 ※河曲駅の前後は現在に至るまで単線区間ですので、「河曲-南四日市の複線区間」と書いておられるのは「河原田-南四日市の複線区間」の誤記だと思います。 私は直接そういう苦情に出会ったわけでもなく、特に現場で話題になった記憶もありませんでしたので、ふ~ん…そんなことがあったのかと思いました。 すでに私が乗務していた昭和50年代に河曲(「かわの」と読みます)は無人駅でしたが、行き違い可能な上下本線があり、ポイント切り替えは隣の加佐登駅でRC(リモートコントロール)制御されていました。駅舎は掘立小屋というには大きすぎるし農業用倉庫というには小さすぎるような、がらんどうの素っ気ない木造駅舎でした。国鉄末期にその駅舎は取り壊され、その代わりに車掌車ヨ5000の車体を利用した待合室が設けられました。 その車体も、今は撤去されています。 国鉄伊…

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【649】 九州乗り物乗りある記(後篇)

九州の2泊目は津久見でした。列車に乗ることを目的とした一人旅の場合は、いつでも宿泊先での早朝出発を励行していました。ですから前日の宿泊先であった隼人ではホテルを早朝に発っただけでなく、綱渡り的なスケジュールでここまでたどり着いたのですが、この日からはさっそく方向転換となりました。とにかく単独行に限定すれば、私は宿泊先のホテルで朝食を食べたりすることや、駅前の喫茶店でコーヒーを飲むなどという行為は、生まれてこのかた一度もしたことがないくらいでした。地上で食事をする時間と費用を節約して、少しでも明るいうちに列車に長く乗るために、朝は遅くとも6時台までに駅に行って、通勤通学客で混雑する前に普通列車に乗り込むというスタイルを長年続けてきたわけですが、この日からは普通の旅人になり、初めてホテルで朝食を食べ、10時前まで、少し前にブログ記事に書いたように津久見の海岸通や港、そして駅周辺を歩き回ってから、普通列車に乗って大分に向かいました。 しかし、旅のスタイルを完全に変えるには性分が邪魔をします。大分では途中下車して883系特急ソニックに乗り換えましたが、昼食を地上で食べて時間を無駄にするより、たとえスーパーの粗末な弁当でもいいので乗り換えの時間を利用して買い込んで車中で食べた方が時間が有効に使えるとの判断は変わりません。 振り子ならではの乗り心地というのか、航空機が旋回するときのような傾きが(・∀・)イイ!ので、その感覚を味わいやすい車室後方に座るのが、私の振り子車両の乗り方です。 大分で仕入れた…

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【648】 思い出の乗務列車63:関西本線加佐登行275列車

今では信じられない話ですが、私が列車掛として貨物列車に乗務していた55.10ダイヤ改正前後には、稲沢発で関西本線加佐登行の貨物列車が1往復設定されていました。亀山操(天王寺鉄道管理局)まで行けばよさそうなものですが、名古屋鉄道管理局管内の関西本線発着の貨車需要がそれだけあったのでしょう。 私が乗務していたのは55.10以後の下り275列車で、稲沢を早朝4時54分に発車しました。 (画像は国鉄時代の関西本線弥富~長島間を行く下り貨物列車ですが、当該列車ではありません。) <貨車輸送方(稲沢)> 1 ヨ 2 加佐登行 3 南四日市行 4 四日市行(含む塩浜行)(現車15両以内) 5 富田行 6 ヨ (貨車輸送方の記載方法では、「後部から順に記載」することになっていますので、この場合は1が後部緩急車で6が前部緩急車になります。) 基本的に解放が多い列車でしたが、「5 富田行」を切り離したあとに、富田駅では三岐鉄道東藤原から発送される加佐登行セメント車を連結しましたので、富田から先は 「5 加佐登行セメント積車」に入れ替わりました。また四日市からは、検査上がりの貨車が「2」又は「3」の位置に連結されることがありました。 機関車は稲沢第一機関区のDD51。画像に鉛筆で「亀キ」と書き込んであるのは、亀山機関区の機関士だということで、もし事故が起こった場合の連絡先を特定するために、私が書き込んだものです。 画像の一番上中央部分にも鉛筆で書き込みがあり、「稲バス4:…

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【647】 九州乗り物乗りある記(前篇)

九州新幹線が開業したら、これまで乗り残してきた旧国鉄湯前線から転換された「くま川鉄道」に乗りに行って、現在乗れる旧国鉄線を完乗にしようと考えていたのですが、わざわざそのために九州まで行く気はなく、何かの用事のついでがあればそのときに、と思っていました。 しかし、身の回りの諸事情もあってなかなかその機会がなく、九州新幹線の博多~新八代間開業後4年後にして、ようやく九州への用事ができ(作り?)、博多を起終点として、9月下旬のとある日の午後3時から4日目の昼ごろまで一人で自由な時間が取れることになりました。 その日、午後3時過ぎに博多を出発し、初めての九州新幹線に乗りました。新幹線からの車窓にはそれほど期待はせずに、むしろ個性的な九州新幹線の内外装に興味を惹かれましたから、博多始発の800系「さくら」に乗車して鹿児島中央へ向かいました。 新幹線は、たいへん便利で快適な移動空間ではありましたが、平凡な車窓さえも防音壁とトンネルで隠されてしまう部分が多く、窓も小さいのが、楽しみとしては欠けるところですが、一般の方々にはどうでもいいことでしょう。それでも遠くに雲仙岳が見えたので、九州を意識できました。車窓より車両内外装デザインの方で、九州にいることを意識することになり、JR九州のC.I.は国鉄党の私の中にも、今や十分に浸透したと言えます。一方で鹿児島中央から乗り換えた日豊本線の旧国鉄415系電車はロングシートではあるものの、意識せずとも車窓から錦江湾ごしに見える西日を浴びた桜島に圧倒されました。車窓…

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