【754】 年賀状7: 転職後

これまで約50年間にわたっていただいた年賀状。それを改めて1枚ずつ拝見して、思ったことや気が付いたことを毎週少しずつ綴ってまいりました。今回で完結です。 *********************** <昭和63年の年賀状> 前年に国鉄の乗務員生活を終えた私は、国鉄清算事業団からの派遣員として再就職していた。子供のころから住んだ実家からの転居を伴い、年賀状のやり取りをしている方々には転居のお知らせに再就職先も付記して予め出してあったので、転居先のアパートには、いつもの年のように年賀状は届いた。 いつもの年と違うのは、新しい勤務先はどうですか?といった添え書きがあったり、私と同じように転職した方々や、JRに採用後に転勤した方々からは、新しい仕事先が書かれていたりしたことだ。 私どもの年代は、この分割民営化前後の数年間は結婚ラッシュの時期でもあった。このころから、お子さんの写真入りの年賀状が増えた。そして、ワープロ打ちの年賀状も目立つようになる。 年賀状以外にも、転勤や結婚に伴う転居のお知らせが多かったのもこのころである。 <平成に入ってからの年賀状> 鉄道に残った方々も、少しずつ車掌から転身されていく。 下の画像は、国鉄時代に名古屋第一機関区で検査長をされていた方からの年賀状のコメント。転職先の仕事を通じて知り合い、前の年に特急気動車の画像入りの年賀状をお送りしてあった。キハ181系の初期故障については知られているが、実際に検査修繕をされていた方から直筆で書…

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【753】 トトロの森2016

今年も、あとわずかになりました。この1年間を振り返りますと、自分には鉄分が薄かった年で、かつてのように鉄道に乗ったり撮ったりする機会がたいへん少なくなりました。それでいて、べつに鉄分不足に対する欲求不満に陥るわけでもなかったのは、私が心変わりしたのではなくて、乗ったり撮ったりしたいと思う対象が身近になくなってしまったということにもよります。 そのかわり、空き家になった実家に残してきたものは、今後も保管すべきものと廃棄するものとの分別が完了しました。折しも実家があった敷地の隣地に広がる田畑で宅地造成が始まることになって、そこに隣接する実家の敷地は、古家を解体することなく、その造成業者に土地を引き取ってもらい、一つの区切りをつけることができた年になりました。 造成予定地の実家の裏手。ここは4年前まで、隣地の所有者から亡父が畑を借りて野菜を作っていましたが、以後は雑草が生えたままです。隣地の所有者も代が変わって畑を維持管理する人がなかったのでしょう。 土地売買にあたっては古家の解体費用を差し引かれ、手にできたのは3年前の父の葬儀費用にも満たない金額でしたが、古くなった家屋を、この先あてもなく維持していくには、それなりの努力のほか修繕など投資も必要でしょうし、取り壊して更地にするにも費用がかかり、そのあとの除草や土留など管理にも手間が掛かることです。ほかに有効利用する案も持ち合わせていない以上、条件の良しあしに関係なく、自然の流れに逆らわずに物事を進めるのが現実的かつ得策と判断したものです。一時期独…

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【752】 年賀状6: 国鉄時代末期(昭和61~62年)

私は、今年これまで約50年間にわたって保管していた年賀状の大部分を廃棄させていただき、そのすべてを画像ファイル化して保存しました。お送りいただいた方々には申し訳ありませんが、画像はいつでも自分が見られる状態で、少なくとも私の生存中は保存して、そのお気持ちは忘れないようにいたします。撮影に当たって、それまで保管してきたすべての年賀状の1枚ずつに、目を通させていただきましたら、そこに見たのは書いてくださった方のお気持ちと消息のほかにも、自分が生きてきた歴史そのものが見えました。そこで思ったことや気が付いたことを毎週少しずつ綴っております。 *********************** 国鉄は1980年代に入ると、ダイヤ改正のたびに長距離列車の廃止や貨物輸送の縮小が続き、逆に都市近郊の普通列車は増発された。国鉄全体としては減量経営が推し進められ民営化への移行準備期間とも言えたように思う。当然、職員の定員が減るだけでなく、労働条件は厳しいものとなっていった。雇用に対する不安も出てきた。 分割民営化を1年3か月後に控えた昭和61年の年賀状から 「何かときびしい折…」 「今年はいよいよ正念場…」 「激動の年 今後どうなるのかわからない…」 国鉄分割民営化を翌年に控えた年の初めらしい文言が並ぶ。国鉄職員誰もが思ったことが率直に書かれていると思う。 この年は意外なところから年賀状が「妻あて」に届いた。 所属現場長である車掌区長からであった。 「西明石飲酒事故」が、国鉄の信用に大き…

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【751】 昭和46年~48年ごろ中津川機関区に所属したD51のナンバープレートの色について考える

前回の【750】KATO長野式集煙装置付D51標準形と、その現役時代の記事を投稿したところ、複数の方から付属のナンバープレート(4種すべて中津川機関区の所属機D51 125・D51 265・D51522・D51 893)は黒色だけれど、中津川機関区は青ナンバーだったのではないかという趣旨のコメントを頂戴しました。 この画像は、電化完成に伴うダイヤ改正の前日《1973年(昭和48年)7月9日》に運転されたさよなら列車牽引用に、お化粧をして再塗装された機関車のナンバープレートです。中津川機関区配属の蒸気機関車は、この827号機のように青ナンバープレートとして一般に知られていました。遠くからでも一目で所属機関区が判別できれば、乗務に限らず関係する作業に従事する職員には便利だったでしょうから、このように機関区ごとに地色を指定することによって、識別を容易にしたのだろうと考えられます。根拠となる規定は知りませんが局や支社単位の規模で定められていたのではないでしょうか。 これは、以前、【422】父の遺品 ~鉄分がある写真~で使ったもので、私の祖父が写っている画像です。この機関車は125号機で、模型に付属しているナンバープレートにも含まれている番号の機関車です。撮影されたのは昭和20年代と推定されます。この機関車は昭和24年(1949年)に中津川に転入しています。モノクロ画像のためにナンバープレートの色はわからないものの、明るさからして黒ではないことはわかります。もちろん集煙装置がなかったころです。動…

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【750】 KATO長野式集煙装置付D51標準形と、その現役時代

先月、予約してあったKATO「品番2016-6 D51 標準形 (長野式集煙装置付)」が届きました。 メーカーのアナウンスによれば、「長野工場式の集煙装置を取り付けた中津川機関区・木曽福島機関区所属機、「中央西線」で貨物列車を牽引していた昭和40年代後半の重厚な厳つい雰囲気を持つ形態を製品化」とのことです。 中央西線のD51の特徴を盛り込んだ内容です。最も目立つのは長工式集煙装置を装備していることですが、車番を特定した製品ではありません。 付属するナンバープレートは4種で、D51 125・D51 265・D51522・D51 893。 すべて昭和48年の電化直前まで中津川機関区に配置されていた機関車が選ばれています。このうち、中津川機関区に長く在籍していたのは、125と265で、いずれも昭和24年から中津川機関区に配置され、昭和48年の電化時に長門機関区に転属しています。両機とも長門では集煙装置は取り外されて使用されました。そのうち125号機は昭和49年に除籍された後、千葉県船橋市内で静態保存されています。 893と522のほうは、中津川機関区在籍期間が長くはなく、それぞれ昭和45~46年に相次いで稲沢第一機関区から転入し、昭和48年の電化時に中津川機関区を最後に除籍され、そのうちD51522だけが石川県金沢市で静態保存されています。 ナンバープレートを何号機にするか。私の場合は、古くから中津川に在籍していた機関車ということで、125と265を第一候補に挙げ、あまり考えることもなく…

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【749】 年賀状5: 国鉄時代中期(昭和50年代後期)の年賀状

私は、今年これまで約50年間にわたって保管していた年賀状の大部分を廃棄させていただき、そのすべてを画像ファイル化して保存しました。お送りいただいた方々には申し訳ありませんが、画像はいつでも自分が見られる状態で、少なくとも私の生存中は保存して、そのお気持ちは忘れないようにいたします。撮影に当たって、それまで保管してきたすべての年賀状の1枚ずつに、目を通させていただきましたら、そこに見たのは書いてくださった方のお気持ちと消息のほかにも、自分が生きてきた歴史そのものが見えました。そこで思ったことや気が付いたことを毎週少しずつ綴っております。 ********************** 昭和54年 私はやっと列車掛養成課程の試験を受ける気になって、合格した。これで車掌への道が開けたことになる。 名古屋にあった中部鉄道学園で4か月半にわたる教育実習と訓練を受けたあと、列車掛見習として貨物担当車掌区に配属され、そこで正式に列車掛に採用された。この中部鉄道学園での4か月半は全寮制となっていて、25人の同期生が同じ釜の飯を食う環境であった。そのため結束は強く、転勤があって離れ離れになっても年賀状をやり取りしていた人は多かった。 昭和55年に、その同期生からいただいた年賀状。 「緩急車をよごすべからず!!」 これには身に覚えがある。私が緩急車を汚した話は拙ブログの【275】緩急車とトイレ(後篇)に書いたとおりである。時期的にも、この話を彼にした直後にこの年賀状を書いたのだと思う。 *…

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【748】 NHKテレビ「六角精児の呑み鉄本線・日本旅」

ふだんからテレビをあまり積極的には見ない私が、先月末、たまたま「六角精児の呑(の)み鉄本線・日本旅」という番組を視聴しました。以前、私も「清酒ん18きっぷの旅」をやってきましたので、自分の鉄道旅にかなり近い感覚の旅番組だと思いました。 ローカル列車で、というのも私には向いています。 再放送があるようなので、暇な方で興味のある方だけで結構ですのでご覧ください(^^)/ 六角精児バンドによる番組の挿入歌も、50代~60代のオッサンには身につまされて、なかなかイケます。 時間調整の小さな駅でホームに降りで背伸びをすれば気が晴れる(曲名ディーゼル)とか、尿酸値が異常に高くて痛風におびえる(曲名:お父さんが嘘をついた)とか、ホントにワカルワカルの世界です。 再放送:NHK-BSプレミアム 12月18日(日) 15:30~16:30 以下、NHKの当該番組HPよりコピペ 乗り鉄、撮り鉄、いろいろあれど、我が鉄道の旅は「呑み鉄」なり。 鉄道(レール)の先にあるうまい酒、うまいものを求めて、走る列車に身をまかせれば、あ~、今日もいい気分。 「酒」と「鉄道」という非常に偏った観点で日本を再発見! ▽シリーズ第6弾 ▽芋焼酎仕込みの最盛期を迎えた秋の薩摩半島 ▽JR指宿枕崎線で南下 ▽国鉄時代製造のディーゼル、キハ40 ▽キハ200 ▽単線非電化の風情を楽しむ ▽鳥さし&さつま揚げに芋焼酎がすすむ! ▽「呑み鉄」界トップランナー・六角精児が自らの感覚で途中下車 ▽焼…

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【747】 私の鉄道模型遍歴16: 国鉄在職中に買った16番の模型

国鉄に入ってから、鉄道模型とはまったく疎遠になりましたが、キットを組むのを主目的として数両の16番の鉄道模型を買ったことがありました。 就職して3年ほどして列車掛になると、乗務列車が貨物列車ばかりになりました。乗務員の勤務形態は不規則でしたが、特に深夜の仕事が多い貨物列車の乗務では、遠距離通勤できないような時刻の出退勤の場合だけ独身寮を利用していました。家が2か所あるようなものでしたから、寮にいるときの余暇を利用して模型の組み立てをしようと思い立ち、16番の珊瑚模型製キハ07の未塗装バラキットを購入しました。 バラキットは初めてでした。寮で慣れないハンダごてを持って少しずつ組み立て、完成させました。購入にあたっては、1両で完結することと、なじみがある形式であること、そしてハンダ付けの技術が稚拙でも完成させられそうな製品であることを重視して、ウインドシル・ヘッダーがエッチング表現済で、ハンダで後付けしなくてもよかったこの模型を買ったのでした。キハ07は幼少時に明知線で活躍していましたので見たことがありましたし、有田鉄道でも乗ったことがありました。 このころには、すでにNゲージではグリーンマックスが客車や電車の板キットを発売しており、自社ブランドで鉄道カラースプレーも発売していたので、子供の頃とは違って大きな塗装の失敗もなく、下地処理が甘かったことを除けばなんとかそれらしく完成させることができました。 このほか、ロコモデルのペーパー車体キット旧型国電クモハ54とクハ68を買いました…

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【746】 年賀状4: 国鉄時代前期(昭和50年代前期)の年賀状

私は、今年これまで約50年間にわたって保管していた年賀状の大部分を廃棄させていただき、そのすべてを画像ファイル化して保存しました。お送りいただいた方々には申し訳ありませんが、画像はいつでも自分が見られる状態で、少なくとも私の生存中は保存して、そのお気持ちは忘れないようにいたします。撮影に当たって、それまで保管してきたすべての年賀状の1枚ずつに、目を通させていただきましたら、そこに見たのは書いてくださった方のお気持ちと消息のほかにも、自分が生きてきた歴史そのものが見えました。そこで思ったことや気が付いたことを毎週少しずつ綴っております。 ********************* 高校を卒業して国鉄に就職した翌年、私は高校のクラスメイトから年賀状を受け取った。 赤字国鉄の職員になった私への思い遣りか? 「(なるべく国鉄を利用しようと、思います)」の文言。 「と、思います」は、あとで書き足したみたいに思える。それはそうだろう。あの1年半前に恵那山トンネルが開通したばかりで、5年後には中央自動車道が全線開通することになる。全国に次々と高規格幹線道路が開通していったころで、もう鉄道の時代じゃないって思っていたはずだ。 それに今、読み返すと「鉄」でなく「鉃」としたのは、意図的か? JR各社に使われる前、「鉃」の字は、鉄工関係の会社名くらいにしか使わなかったように思うのだが… それから40年経とうとしている今、そういうことを彼に改めて尋ねてみたくても…

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【745】 私の鉄道模型遍歴15: 16番の蒸機(後篇)

<カツミ模型店 C59> これは、私が最初に入手したスケールモデルの蒸機でした。 中学生のときで、1万円以内で買える国鉄制式蒸機のスケールモデルはカツミのダイヤモンドシリーズだけだったと思います。ほかの蒸機にはとても手が出ませんでした。このダイヤモンドシリーズはダイキャストやプラパーツを多用した廉価版の蒸機シリーズでしたが、ラインアップされていたのがC59・C60・C62の3形式だけで、いずれも地元での馴染みがない機関車ばかりでした。しかしC62の知名度と人気は抜群で、雑誌では北海道での活躍がさかんに掲載されていたころでしたから、どうせ買うのならC62が第一希望でした。しかしあいにく店頭在庫がC59しかなかったので妥協の上で買ったという経緯でした。このときは完成品を買ったのですが、高校生になってから、いろいろ手を加えたくなり、ロッドに色差しをしたりランボードに白線を入れたりして、安いモデルが一段と安っぽい外観になりました。さらに時が経っていくと、ダイキャスト製の炭水車に腐蝕が出てきましたし、それに加えて塗装の質感もボイラ本体と違ってきてしまったようにも感じます。 +++++++++++++++++++ <中村精密 C11> 以前アップした未塗装キットC12を組んでから、それよりかなり安かったC11が同じ中村精密から出ていたので、未塗装キットをもう一台♪と、高校生時代に手を出したものです。 プロポーションはよかったですが、ディティールがC12にも増して簡素で、フレームはダイキャス…

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【744】 年賀状3: 小学生から高校生までの年賀状

いよいよ12月になりました。そろそろ年賀状を書かなくてはと思っておられる方も多かろうと思います。どうせ書くなら、受け取った方がいつまでも心に残る年賀状を書いてあげてくださいね。そういう私は年賀状書きをせず、約50年にわたって保管していた年賀状の大部分を廃棄させていただき、そのすべてを画像ファイル化して保管しました。お送りいただいた方々には申し訳ありませんが、画像はいつでも自分が見られる状態で、少なくとも私の生存中は保存して、そのお気持ちは忘れないようにいたします。撮影に当たって、それまで保管してきたすべての年賀状の1枚ずつに、目を通させていただきましたら、そこに見たのは書いてくださった方のお気持ちと消息のほかにも、自分が生きてきた歴史そのものが見えました。そこで思ったことや気が付いたことを毎週少しずつ綴っております。 ************************ 小学生時代にいただいた年賀状は、全部残っていないかもしれない。 友達から送られた年賀状では、小学3年生の正月にいただいたのが一番古い。鉛筆で下書きをしたあとに慣れないボールペンで習っていない住所氏名の漢字を一生懸命に書いたことが分かるものもあった。 高学年になると、親しい友達には年賀状を書くのが流行ってきたのか、残っている年賀状の数が年々増えている。年賀状を書くと「年賀状書いたからね」と予告することもよくあった。 この年賀状も「ON(オーエヌ)の年賀状送るからね」と予告されたもので、小学5年生のときにいただいたもの。…

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