【782】 国鉄の遺品、そして分割民営化に揺れたころ

JRが発足してから30年を迎えようとしています。 前回、今のJRに対して想うことはすでに書いたので、国鉄の「遺品」などもご覧いただき、あのころを偲んでみましょう。 国鉄名古屋鉄道管理局が作成した下敷き。 「国鉄のリニアモーターカー」の延長線上にあるリニア新幹線は、30年経った今、JR東海の手によって着工されています。先々週、近くの非常口建設予定地に赴いたところ、重機が動いていました。 再掲画像ですが、岐阜県内の中央西線沿線にはこのような看板が立っています。 こういう変化がある一方で、30年も前になくなった国鉄の遺品は、とうの昔に巷から消え去ったかと思うと、意外なところで「国鉄」に出会ったりします。、岐阜県内の中央西線沿線の踏切に近い道路沿いの民家には、今でもこんな看板が軒下にぶら下がっています。↓ 踏切防護協力員とは何でしょうか?私にもわかりませんが、踏切を支障して事故になる危険があるときに列車を停めたり、関係機関に連絡したりするのでしょうか? これは数年前に撮影した画像ですが、つい先週現地を通りかかったところ、まだ看板は健在でした。 下の画像は名古屋市内の某所にあった地図です。 ちなみにJR八田駅は2002年に0.5㎞名古屋方に移転して、地下鉄と近鉄とに直結しました。この地図は実態に合っていないわけですが、撮影したのは今月(2017年3月)初旬です。 30年前のその日、つまり3月31日から4月1日の間に、車両にはJRのシンボルマークが貼られ、駅など公共の…

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【781】 30年経ったJRに思う

国鉄時代には仕事で列車に乗らされていたので、プライベートでは積極的に鉄道に乗ることがなかったくせに、国鉄から転職したあと、旧国鉄線へ何度も乗りに行きました。 しかしその間に廃線になった線区が数多くあって、その路線には永久に乗れずじまいになりました。そうかと思えば、連絡船に頼っていた北海道が青函トンネル完成によって、そして四国は瀬戸大橋完成によって、それぞれレールが本州とつながって、日本列島がレールで結ばれる結果となりました。それだけでなく、昨年ついに新幹線だけで北海道から鹿児島まで乗り継いで行けるようになりました。 かつてなかった新しい需要を生み出し、新しいタイプの車両が生まれ、首都圏や近畿圏ではそれまでになかった他線区との直通乗り入れが実現して、日本の鉄道は国鉄時代より確実に進化し、多くの乗客にとって快適迅速で便利な交通機関に成長したと思います。ただし、それは一つのJR旅客鉄道会社の範囲内の列車に限って言えることです。 そういう中で、消えていったのが夜行列車で、定期夜行列車がサンライズ瀬戸・出雲だけになる日が来るとは思いませんでした。これは鉄道が長距離輸送の分野から撤退したことを意味します。また、昼行も含め、JR他社にまたがる列車が縮小されてきたことも確かです。全国一体組織であった国鉄から旅客会社が地域分割化された時点で、他社線区にまたがる列車が縮小されるだろうことは、ある程度想像できましたが、一方で高速バスが利便性の向上や車両の快適性アップを積極的に推進したのに、JR各旅客会…

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【780】 中央西線を走った車両10 :キハ91系気動車

1968年10月の全国ダイヤ改正から中央西線・篠ノ井線に予定されていた新形ディーゼル(キハ181系)特急運転開始に先立ち、その1年前の1967年10月のダイヤ改正から、名古屋機関区(→名古屋第一機関区)に配置されたキハ91系を使って、長期にわたる新形ディーゼル機関の性能試験を兼ねた営業運転が開始されました。 (画像は中央西線末期の撮影:1973.1.21 中津川~落合川) キハ91系という新型車両による営業運転が開始されることは、当時中央西線で貨物列車の車掌をしていた父から聞きました。おそらく所属した車掌区では、乗務する可能性がある専務車掌班には資料が配られたりしたでしょうし、現車による訓練も行われたかもしれませんから、仕事に関係がない貨物列車の車掌にまで新車導入情報が伝わったのでしょう。しかし貨物列車の車掌である父からの情報内容は正確ではありませんでした。 そこで聞いた内容は「来年から特急が走ることになって、その新車を使った急行が走る」というものでしたから、私は鉄道関係の本で知っていたキハ80系のような特急形車両が一時的に急行として走るのかと思い込んでしまいました。 そのころ私は小学生で、住んでいたのは中津川の隣にある美乃坂本駅から歩いて15分ほどのところでした。時刻は父が教えてくれましたので、休日に自転車でその列車を見に沿線に行きました。  (画像は中央西線末期の撮影:1973.1.27 美乃坂本~恵那) キハ91系を使った急行列車は名古屋を午前中に発車して長野まで一往復す…

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【779】 岡多線北野桝塚駅での思い出

先週は、国鉄時代の電車列車の出発合図についてお話しました。 今回は、岡多線の北野桝塚駅のお話です。 国鉄北野桝塚駅は、JR東海を経て現在は愛知環状鉄道の駅で、愛知環状鉄道本社と車両基地の最寄り駅になっています。国鉄時代の岡多線には、70系~113系~165系電車が使用され、113系が走っていた時代に私は3年間ほど、この線に乗務していました。 岡崎から北野桝塚までは単線自動閉そく区間でしたが、ここから当時終点だった新豊田駅までは「通票式」によって運転され、北野桝塚駅長と運転士の間で通票の授受をして運行されていました。 ここからは先週書いたことの再確認ですが、 「①当務駅長―(出発指示合図)→②車掌―(閉扉=出発合図)→③運転士起動」 という流れで、この駅では、この前に通票の授受が加わりました。 ①当務駅長が、運転士と通票の授受をしてから出発信号機の現示と時刻を確認して、発車時刻になると車掌に向かって「片腕を高くあげる」動作で「出発指示合図」を送る。 ②車掌は、その出発指示合図を受けて、自らも出発信号機の現示と時刻を確認して、車掌スイッチを閉位にする。ドアが全部閉まると、車側表示灯の赤色灯が消灯し、前部運転室の「運転士知らせ灯」が点灯する。その点灯が車掌から運転士への「出発合図」とみなされる。 ③運転士が「運転士知らせ灯」の点灯と、出発信号機の現示、時刻を確認し電車を起動させる。 このように運転に関しては、安全確保が徹底しているのですが、乗降客が少ないこ…

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【778】 似て非なる駅名あれこれ

長年、撮り鉄や乗り鉄をしてくると、人と同じように同姓同名別人のような駅に出会ったりします。駅名標などが撮影できた駅だけになりますが、今回いくつかアップしてみました。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 国鉄中央本線金山駅(愛知県)とJR北海道根室本線金山駅(北海道) あまりにも違いすぎる両金山駅。 中央本線の金山駅の画像は1971年の撮影で、すぐ脇を名鉄名古屋本線と国鉄東海道本線が並行していますが、このころの名鉄には少し離れたところに「金山橋駅」があり、東海道本線には駅自体がありませんでした。現在はこれら3線区と名古屋市営地下鉄を一体化した総合駅に変貌していますが、こうなったのは国鉄分割民営化後の1989年(平成元年)のことでした。 根室本線の金山駅のほうは、1997年9月に根室本線のうち乗り残していた滝川~新得間の初乗りに行ったとき、車内から撮影した画像です。乗った列車は滝川~釧路間300㎞超えの距離を日中走る普通列車で、今でもこの長距離普通列車は時刻表の上では残っています。ただし記事作成時点では、根室本線が災害により一部区間不通となっており、バス代行区間と運転見合わせ区間があるため運転されていません。列車運転再開見込みは不明とのことです。 こういう列車こそ終点まで乗り通したい列車でありましたが、その日は新得で降り、石勝線で新夕張~夕張間にも立寄って1往復乗車したあと新千歳空港に至り、その日のうちに空路で名古屋に帰る行程でした。 _/_/_/_…

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【777】 新駅と出発合図~国鉄末期の混乱

国鉄時代には、CTCと呼ばれる列車集中制御装置が一部線区にしか導入されておらず、多くの駅に運転取扱要員が配置されていました。運転取扱方も、機関車牽引列車を前提に規定され、当務駅長(駅長・助役・運転主任など)が、通票の授受、時刻、出発信号機の現示、客扱荷扱の終了を確認したうえで、車掌を介さずに「出発合図」を直接機関士に送って列車を発車させました。画像は関西本線島ヶ原駅ホームに残っていた駅員の列車扱いの確認事項を書いた表示です。(2006年8月撮影) しかし気動車列車や電車列車の場合は、自動ドアを装備しており、その取り扱い者が車掌であることから、車掌が機関士に「出発合図」を送ることとされていました。この場合、当務駅長が車掌に「出発合図をする時期を指示する合図」が「出発指示合図」です。 気動車列車や電車列車を出発させるための手順は、「当務駅長―(出発指示合図)→車掌(閉扉)―(出発合図)→運転士」という順番になるわけです。12系客車のように客車列車でも自動ドアの車両がありますが、客車はあくまでも客車であって機関車牽引列車ということで、当務駅長が車掌に対し「閉扉合図」を出し、車掌がドアを扱い当務駅長と車掌が閉扉確認したあと、従来の旧型客車列車同様に、当務駅長が機関士に直接「出発合図」を送る取り扱いをしました。出発信号機の現示と時刻、安全の確認は、駅・車掌・機関士(運転士)の3者で協力して行われていたことになります。 しかし、出発信号機が設けられていない閉そく区間の中間停車場や、出発信号機があっても分…

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【776】 乗り鉄12か月…1991年3月「紀伊半島日帰り一周」

毎月1回ずつ、過去にその月に乗り鉄に行ったときのことと、撮り鉄に行ったときのことを書いています。 今回は、今から26年前の1991年3月17日に紀勢本線で紀伊半島を日帰りで一周したときのことを振り返ってみます。 このころは、育児に追われる家内が多忙な日々を送っていた手前もあって、この前年の2月に初めての北海道に行った以外には、一人で遠出するようなことはありませんでしたが、当時は1セットで5枚別葉になっていた青春18きっぷを家族旅行で4枚(大人2人×2日で幼児2人を随伴)を使って、残った1枚を私が1人で日帰り旅をするというパターンが定着していました。家族旅行で発売額以上の利用をしたあとの1枚ですので、日帰り旅の旅費はタダみたいなものでした。だいたい私が出かける動機はいつもそういうものであって、今日までまともな普通運賃で乗り鉄に行ったことはほとんどありません。かといって不正乗車ではなくちゃんと合法的に格安乗車券を利用させていただいています。客としての質はよくないとは思いますが、工夫すれば、よく言われるように「鉄道趣味は金失の道」とは必ずしも言えないと思っています。 ********************** 高蔵寺5:24―120M―名古屋5:50 211系 先頭クハ211-5314乗車 ********************** 名古屋5:53-425M-大垣6:29 211系 3両目モハ210-13乗車 国鉄からJR東海に継承されたわずか8両(2編…

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【775】 撮り鉄12か月…1974年3月 「名古屋市電最後の日」

毎月第1月曜日に、過去その月に行った撮り鉄の話を、そしてその週の木曜日には、その月に行った乗り鉄の話をアップしています。 今回は、今から43年前の1974年3月31日に名古屋市交通局の路面電車の最終日に撮影に行ったときのことを振り返ってみます。 ************************* 名古屋の市電は昭和20~30年代には100㎞を超える営業路線があったといいます。その全盛期の記憶はありませんが、母方の実家が名古屋市東区内にあったために、昭和40年代前半から、市電の記憶があります。それから、この廃止の日までには少しずつ路線廃止が続いていて、最後まで残っていたのは、矢田町四丁目~昭和町・大久手~安田車庫・金山橋~市立大学病院の3路線(19.8㎞)だけでした。  折返し電停「矢田町四丁目」 このころ、私は高校生で、同行したのは「北恵那デ2様」だったと記憶します。蒸気機関車が身近なところでは見られなくなった後、ローカル私鉄や路面電車など、生活に密着した鉄道の写真を撮ることが多くなっていました。そういう傾向は今でもあって、車庫に行けば、その鉄道の全容がわかってしまうような小規模でアットホームな感じの鉄道が好みです。この日も名古屋市電のほか、当時600Vのまま残っていた名鉄瀬戸線の列車も撮影しています。赤に白帯の3700系特急です。 本題である最終日の名古屋市電の話に戻りましょう。 この日は日中だけの運転で、すべての列車に無料で乗車できました。混雑が予想されました…

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【774】 保存された駅

功績があった車両が保存されるように、駅舎や駅名標が保存されているケースがあります。東京駅や門司港駅のように実際に駅としての機能を維持しながら保存されている駅舎もあるのですが、今回は駅としての機能を失ったけれども保存されている駅や駅名標などをいくつかご覧いただこうと思います。 上段:北海道のJR北海道 旧「室蘭駅舎」(2004年9月訪問) 下段:沖縄県の沖縄県営鉄道「与那原駅舎」(2014年10月訪問) 室蘭駅は平成9年に駅舎が1.1km東側に移転新築され、北海道内の駅舎の中では最古の木造建築物であった旧駅舎は解体されることなく保存され、現在は観光案内所として使用されているとのことです。 与那原駅舎は戦災で破壊されていますので、復元駅舎であって保存駅舎とは言えませんが、わずかに残った躯体が、戦後に補修改築されて建物の一部として使用されていたので、この復元駅舎がある場所には本物の駅舎のコンクリート柱がそのまま残してあるといいます。現在は軽便与那原駅舎展示資料館として公開されていますが、私が訪問したのはオープン前で、復元駅舎の新築工事は完成していたように見えましたが、外構工事中のため立入ができませんでした。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 上段:京都府の京都鉄道博物館にある旧「二条駅舎」(2016年7月訪問) 下段:滋賀県の長浜鉄道スクエアにある旧「長浜駅舎」(2007年9月訪問) 旧二条駅舎は、山陰本線の高架化まで使用されていたもので、現在…

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