【790】 安全の願いと殉職者慰霊碑

先日は名古屋車両区へ行く機会を得て、その敷地内にある大金輪神社と成田不動尊にお参りしてきました。輸送業務にたずさわる現場にこういう場所があるのは、多数の乗客の安全を守らなければならないという使命感と、公務災害を失くしたいと思う心、そして過去の過ちへの反省とがあるからなのでしょう。 それほど国鉄の現場は、一つ間違うと命を落とすような危険な職場でありました。私が国鉄に就職が決まったとき、うちの父親は単に喜んでくれるのではなく「カッポレでなければいいがなあ…」という心配をしていました。「カッポレ」とは構内掛のことで、その昔は連結手と言われていました。「Coupler」が語源だと思われますが、正式名称ではなく蔑称ともいうべき言葉で、今風に言えば差別用語でした。ターミナル駅では分割併合に機関車の連結がありましたし、中間駅でも旅客営業のほかに貨物営業も取り扱う駅は多かったですから、危険な貨車の連結解放作業を経験しなければなりませんでした。 それも規模が大きい駅になれば、それが専業になり、明けても暮れても、暑くても寒くても雨でも雪でも、連結、解放。突放された貨車に飛び乗って、ブレーキをかけて飛び降りることが仕事になりました。 今は突放作業は見られず、機関車で押し込む人にやさしい仕事に変わっていますが、そんなやり方では貨物列車が全国ネットで走っていたころには、限られた列車の停車時間内に作業が終われませんし、操車場では次々と到着してくる列車を捌けません。運動神経がよく、そういう作業が得意な者はともかく、一…

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【789】 鉄分補給2017.4.23:名古屋車両区

昨日4月23日、JR東海の名古屋車両区へ行ってきました。 JR東海のウォーキングイベントである「さわやかウォーキング」で、この日は名古屋駅スタートの「みんな集まれ 列車とバスの夢の共演ウォーキング!!」というコースが設定され、そのコース中に名古屋車両区が取り入れられたのでした。 歩くことはたいへん好きな私ですが、人ごみは大嫌いなので、ふだんはこういうところには出没しないのですが、名古屋車両区に入れる機会など、こういう時でなければありませんから、【219】鉄分補給2011.11.13:美濃太田車両区で書いた「美濃太田駅開業90周年記念 みのかも文化の森と美濃太田車両区見学」以来5年半ぶりの「さわやかウォーキング」でした。 コースマップによれば、コース距離は約5.2㎞、所要時間約1時間30分とありましたから、そのつもりで午前中だけ時間が空いていたので出かけたところ、かなりの人出で、車両区前の近鉄の踏切待ちのために公道上で長蛇の列に巻き込まれてしまいました。 それをクリアすると、検修庫に展示された車両群が出迎えてくれました。 現在の主役たちが並ぶ姿は壮観です。この検修庫は、かつては蒸機が出入りしたものです。現地には名古屋車両区の沿革が掲示されており、この場所に移転した昭和10年に竣工した建物であるとのことです。屋根には蒸機時代の煙突があった跡が残っているそうですが、庫内は公開されていませんでした。 この名古屋車両区では、現役の転車台があります。この日はキハ85を転車台に載せて回転…

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【788】 スチール棚の企画展10:国鉄時代の貨物列車

物置部屋と言われている私の部屋には倉庫用スチール棚があります。その一段を利用した模型展示スペースでは、昨年秋にご覧いただいた企画展「中京圏のJR車両+α」を開催していましたが、これは昨年中に閉幕しました。正月前から企画展「国鉄時代の貨物列車」を開催中です。 模型展示スペースは、冬場は寒い北側の部屋ですので、模型を眺めることがあまりないまま、4か月近くにわたって、一部の車両を入れ替えた以外、手も加えていませんでした。この時期になって、やっと北側の部屋にも朝の眩しい光が入るようになり、明るくなった部屋で模型を眺めることができるようになりました。 ここに写っている列車の概要は以下のとおりです。 《1段目》鮮魚専用高速貨/DL牽引ローカル線の貨物列車 《2段目》10000系高速貨/SL牽引ローカル線の貨物列車 《3段目》50000系高速貨 《4段目》コンテナ特急「たから」 《5段目》自動車輸送専貨/特大貨物列車 《6段目》DL牽引普貨 《7段目》飼料,石油専貨 《8段目》SL牽引普貨 いずれも実際の編成より短縮していますし、時代考証には突っ込みどころが満載ですがご容赦ください。購入してきた模型は、自分が仕事で関わった車両や、そうでなくても思い入れがある車両ばかりですので、指向は偏っていますし、製品化されていない車両については、それに類似した別形式の車両を代用しています。 《1段目・左》EF66+レサ10000×7+レムフ10000 【187】乗務した車両:レムフ1000…

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【787】 美濃赤坂線

「美濃赤坂線」は東海道本線の大垣と美濃赤坂を結ぶ「東海道本線の支線」の通称名です。実際の線路は東海道本線の南荒尾信号場から美濃赤坂までの1.9kmの単線鉄道で、大垣・南荒尾間には別線が設けられているわけではなく、列車は東海道本線そのものを走っています。南荒尾信号場から分岐してすぐのところには荒尾駅があり、1.6㎞先が終点の美濃赤坂です。 高校生時代の私は、中央西線で通学していました。その在学期間中に中央西線と篠ノ井線が全線電化されて、381系しなの号が走り始めました。このとき通学に使うローカル普通列車にも変化があり、新たに神領電車区に配置された中古の113系を使用した東海道本線直通の上り列車が午後に2本新設されました。中津川発14時37分発浜松行と16時31分発美濃赤坂行がそれで、いずれも旅客の流動に対応した直通運転ではなく、、主に日中の中央西線内の快速運用に就いた113系電車を、夕方の通勤時間帯に東海道本線で使用したいという国鉄側の都合のように私は思っていました。 そんなことはどうでもいいのですが、中央西線沿線で「浜松」は通りがいいとしても「美濃赤坂」と言われても、利用者の反応は「それ何処?」というのがふつうでした。駅や車内で「これ名古屋行きますか?」というような会話はよく聞きました。中津川の次に「美乃坂本」という紛らわしい駅名もあることですし、それだけでなく美濃赤坂までの経路にしても、多治見から岐阜までは、名古屋経由のほかに、太多線・高山本線を通る美濃太田経由もありますから、「この…

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【786】 もしも、50年前に山陰を乗り鉄したら…

先週、国鉄が分割民営されてから5年目に当たる1992年に、山陰ワイド周遊券で山陰地方の未乗線区を乗り回したことを書きました。 【784】 乗り鉄12か月…1992年4月「山陰」 そのあと「やくも3号様」から現行ダイヤで同じ行程を巡るとどうなるか、その行程をコメント欄にアップしていただきました。それを拝見すると、別に豪華な旅を望んでいない私の性分を前提にして、旅の条件や趣旨について吟味して作成されたことが伝わってきました。私はそれに刺激されて、さらに25年前、つまり今から50年前、まだ日本の鉄道が輝いていた国鉄時代に遡って、1992年のときと同じ経路を同じ条件で乗り鉄したらどうなるかを調べてみました。 上の画像は、たぶん50年くらい前の「山陰周遊券」の表紙です。「山陰周遊券」という名称ですが、後の「山陰ワイド周遊券」のことであって、自由周遊区間に相当する範囲は概ね同じで、旅程で必要になる相違は後述します。 参考までに、25年前に山陰地方の乗り鉄をした時の経路を再度アップしておきましょう。 25年前と同じ条件というのは、以下のようなことを言います。 ・1992年同様に山陰(ワイド)周遊券を使い、節約を旨とするが、帰路は新幹線を利用する。 ・発着地は名古屋として、金曜日の夕刻、会社を定時で切り上げてから乗車する。 ・土日曜を利用して旅行をして、月曜日には会社に出勤する。  (このころ、土曜日は「半ドン」でしたから、半休) ・できるだけ1992年の旅程に合わせる。 …

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【785】 今年の桜

今年も桜が咲きました。鉄道写真を撮る目的で出かけることは少なくなったこの頃ですが、桜の花に誘われてコンデジをポケットに入れて出かけました。 同じような大きさの桜の木が川に沿って何本も植えられています。一部の木には「昭和61年(提供者の名前)、〇〇記念植樹」などと書かれたアクリル板が枝に掛けられていましたので、昭和61年にいっせいに植樹されたのではないかと思います。そうだとすればその翌年に国鉄が分割民営化されたわけです。桜の木はそれから30回、こうして花を咲かせてきたわけです。 桜と結びつく春は何かにつけて人生の節目になるころなので、年越しのころの同じように、また1年がたったなあと思う季節です。 中央西線の列車が少しずつ変わっていったのをこの桜の木は見てきたはずです。 ここを通っていく多くの列車のなかで、唯一国鉄時代に生まれた車両がEF64の1000番代です。ただし、ここを通るようになったのは、わずか8年ほど前からのことです。 いまでは、この桜が植えられたころを知る列車がここを通ることはありません。 来年以降も、この桜の木の傍らを新しい車両が通過していき、そして年老いた車両が姿を現さなくなるのでしょう。いつも思うことですが、未来に咲く花はその時の花であって、同じように見えても今年こうしてみている花は、今年の花以外の何物でもなく、二度と逢えぬ花です。 熊本地震からまもなく1年。思うのは、この1年にあったこと。昨年の桜を見てから今年の桜まで短かく感じるようになっ…

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【784】 乗り鉄12か月…1992年4月「山陰」

乗り鉄旅を始めたのが転職後で、妻子があったので、2泊以上の行程の乗り鉄では一人旅は少なく、どなたかのお誘いによることが多かった。1夜行+1泊の行程だったこの旅でも、当時滋賀県内在住だった元国鉄職員の方との二人旅であった。 夜行急行「だいせん」に乗ることと、列車本数が限られて乗りにくいローカル線の初乗りを主な目的として、私は仕事を定時で終えたあと、家に帰らずにそのまま名古屋駅から東海道本線の下り列車に乗り、待ち合わせ場所とした大阪駅まで行った。 名古屋18:50―(快速3139M)―米原20:00 米原20:15―(普833M)―彦根20:21(食糧調達) 彦根20:40―(新快速3657M)―京都21:29 新幹線を含む特急は、必要に応じて使うのが望ましいとかねがね思っている。定時に仕事を終えて名古屋にいる人間が大阪発22時55分の夜行列車に乗るためには新幹線に乗る必要はないので、東海道本線の普通列車を乗り継いで大阪まで行った。新幹線を使えば、夜行列車に乗る前に、同行者と久々の再会と旅の始まりを祝して梅田で乾杯の時間が取れるわけだが、そういうことは夜行列車の車中でできることであって、特急料金と飲み代の二重の無駄遣いとなる。 それに在来線では、このころ毎週末には、京都始発で14系座席車のアコモ改良車による快速「ムーンライト九州」が運転されていたので、京都~大阪間の短距離ではあったが、試乗することができた。 京都21:32―(快速ムーンライト九州 9231レ)―大阪22:…

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【783】 撮り鉄12か月…1974年4月「北陸本線鳩原ループ」

毎月1回第1月曜日に、その月に行った撮り鉄の話を、そしてその週の木曜日には、その月に行った乗り鉄の話をアップしています。 今回は、今から43年前の1974年4月28日に北陸本線のループ線に行ったときのことを振り返ってみます。 「鳩原(はつはら)ループ」とは北陸本線の新疋田~敦賀間の上り線だけにあるループ線の通称です。通るたびに気にしている私のような者もいますが、大半の乗客は気にもかけず通り過ぎていることでしょう。私がこのループ線について詳細を知ったのは、初めて買った「鉄道模型趣味」誌に掲載された「レイアウトがそこにある! 北陸本線敦賀付近のループ線」という現地取材記事でした。すごいところがあるものだと思い、ほかの模型の記事より心を奪われたものです。国鉄で車掌をされていた坂本衛氏が執筆し撮影された記事であることを最近知りました。 この場所に私が赴いたのは、その記事を読んで5年後の高校2年生のときで、同級生たちと一緒でした。その前年7月に身近な中央西線が電化されてD51が引退し、続いて10月には明知線からC12が引退すると、身近な場所で見られる蒸機は、木曽福島駅と上松駅の入換用として残されたC12だけになっていましたので、ケムリのない鉄道を新たな被写体としていたのでした。 米原に寄った後、列車で敦賀に降りたち、徒歩で敦賀第二機関区に向かいました。 機関区のわきの上り線をEF70に牽かれた普通列車(226列車)が米原に向けて走って行きます。交流区間に縁がなかった私には、赤い機関車…

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