【818】 国鉄中央西線で見た回送車両

このところ国鉄時代の客車列車についてのエピソードなどを書いてきましたが、それに対して「国鉄時代に乗車した列車に回送車両が連結されていたのを見かけた、または乗車した」というコメントも複数いただいています。そこで、今回は私が国鉄に就職する前に地元中央西線で撮影した3つの回送例の画像をアップします。 ただし、回送されているのはすべて客車(PC)ではありません。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 【事例1】蒸気機関車の無火回送  1974年8月20日 木曽福島駅で撮影 旧梅小路蒸気機関車館に動態保存されていた機関車「C61 2」です。長野工場へ入場のため、貨物列車のEF64次位で無火回送されている途中です。旧梅小路蒸気機関車館開館当初は、長野工場が保存機の検査担当工場になっていましたので、必要な検査期限が来れば梅小路から長野まで回送されていたのでした。 列車は本務機関車が最前部に連結されて牽引することが一般的ですので、このような無火回送の機関車が回送される場合は本務機関車の次位で回送されました。 ところで、国鉄本社の運転取扱基準規程(以下本社規程と書きます。)では、列車として運転するにあたって、機関車を2両以上連結するときは、これを連続して連結することを原則としています。こういう本社規程を補完する規定を鉄道管理局長等がそれぞれ定めていました。たとえば名古屋鉄道管理局では名古屋鉄道管理局運転保安基準規程なるものがあり、そこには、この例のような「動力の…

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【817】 あいうえき(5)

駅名を五十音順に「あ」から「わ」まで1駅ずつ、その駅の思い出や、そこに写っている車両などについてのコメントもひと言付け加えてアップしています。すでに廃止された駅名や改称された旧駅名も含み、表題部分は「駅名・ひらがな・社名と線名・県名」の順となっています。 今回は「な」~「の」までです。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 「な」…中津川 なかつがわ 国鉄 中央本線 岐阜県 1973.7.10撮影(駅の画像は7.10または7.11のどちらか) 中央本線の全線電化に伴ってダイヤ改正が行われたときの撮影です。このころの駅はまだ木造平屋建の旧駅舎時代です。長野行しなの1号が祝賀列車となり、ホーム上にブラスバンドの演奏が響き渡り、わずかな停車時間に祝賀行事が行われました。登校途中に撮影しました。 余談ですが、中津川市内にはD51 266が静態保存されています。その場所に中津川駅のホーロー引きの古い駅名板も保存展示されていました。 2011.1.8撮影 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 「に」…贄川 にえかわ JR東海(国鉄) 中央本線 長野県 駅名標:2005.9.19撮影(中山道歩きで日出塩駅~奈良井駅までを歩く途中に撮影) D51:1972.8.23撮影 中山道六十九次のうち、贄川宿から馬篭宿までの11の宿場を「木曽十一宿」と呼び、この間は険しい地形が続きます。ここに写っているD51も重連(先頭はD51 7…

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【816】 時刻表にない列車

先々週から国鉄時代の客車列車についてのエピソードなどを書いていますが、その記事に対して、「国鉄時代に乗車した列車に回送車両が連結されていたのを見かけた、または回送車両が連結されている旅客列車に乗車した」というコメントを複数いただきました。私の乗務列車でも回送の例があり、【317】思い出の乗務列車6: 関西本線 223列車(後篇)~夜行寝台編成?で、実例を書いています。こういう回送車両では客扱はせず、施錠され消灯し日除けカーテンが下ろされているのが普通です。 しかし、回送車両が便宜的に客扱をしていたと思われる内容のコメントもいただきました。その該当部分を勝手ながら引用させていただきます。 「昭和48年頃ですが、西鹿児島からの日豊本線上り普通列車に、全検出場の客車(オハ35?)が付いていたことがありました。 ぶどう色ピカピカの車体に屋根はキラキラ輝いていましたが、ブラインドは全て降ろされていて、小学生の目にも回送にみえます。 ところがサボはちゃんと下がっていて、連結幌も繋がっていましたのでドアを開けてみるとガラガラと開きました。 薄暗い車内は、真新しいモケットとニス、塗料の匂いでうっとり?してしまいました。 他には誰も乗っていません。列車は動き出したのでブラインドを開け、緊張しながらすわっておりましたら、途中駅から他の乗客も加わり、巡回してきた車掌さんから咎められることはありませんでした。 確か、都城で切り離されたように思います。 トンネルでも車内灯が点きませんでしたので、本来…

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【815】 あいうえき(4)

駅名を五十音順に「あ」から「わ」まで1駅ずつ、その駅の思い出や、そこに写っている車両などについてのコメントもひと言付け加えてアップしています。すでに廃止された駅名や改称された旧駅名も含み、表題部分は「駅名・ひらがな・社名と線名・県名」の順となっています。 今回は「た」~「と」までです。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 「た」…田丸 たまる JR東海 参宮線 三重県 上下とも2000.1.8撮影 このころは、保存車両巡りをしていました。この日は柘植・亀山・津と蒸機の保存車を訪問して、最後にこの田丸駅に降り、このC58 414を撮影してします。 デフレクタの形状からわかるように、終始北海道の苗穂機関区に配置されていた機関車であったらしく、除籍されたあとの第二の人生は、意外な見知らぬ伊勢の地でご奉公することになった機関車です。 駅の画像には正月の注連縄飾りが見え、撮影日はたまたま1月なのですが、伊勢志摩地方では、一年を通して注連縄飾りをかけたままで過ごす風習があります。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 「ち」…中部天竜 ちゅうぶてんりゅう JR東海 飯田線 静岡県 119系電車:2003.6.7撮影 サエ9320:1971.5.5撮影 天竜川に沿った飯田線。この駅の対岸には浜松市天竜区佐久間町「中部」(なかべ)という地名があるのだそうです。119系の画像は中部天竜機関区跡地に開設されていた佐久間レールパー…

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【814】 急行「越前」号の謎(後篇)

先週の【812】急行「越前」号の謎(前篇)の続きです。 「謎」はすでに前篇にいただいたコメントで解明されていますが、いちおう検証?してみたいと思います(*´▽`*) 小難しい話になりますことを、あらかじめお断りしておきます。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 私が乗った急行越前号は、旧形客車独特の大きなブレーキ緩解音が発車の1分くらい前にあって、すでに近代的な電子音に変わっていた駅の発車ベルが鳴りやむとEF70のホイッスルが鳴り、続いて自動連結器のガクンという大きな衝撃とともに定刻に上野に向けて発車しました。 (画像は当日の撮影ではありません。別の日に田村駅で撮影したEF70です。) EF70の後ろには施錠された回送車のオハフ、その後ろに普通車が4両。続いてグリーン車が2両でそのうち1両は故障したB寝台車の代用、その後にB寝台車、A寝台車、荷物車が各1両ずつで計10両を機関車が引っ張るという編成です。以下の画像は所定編成を示した時刻表(1982年6月号)からの転載画像と所定編成をイメージした模型です。くどいですがあくまでもイメージです、 先週書いた私の推理では、9号車のオハフが回送車になった理由は、途中駅で解錠されて乗客が乗ってくるだろうということになっていました。しかし、結果から言うと、終点の上野まで回送のままで、乗客が乗車してくることはありませんでした。もともと非冷房の車両ですから接客設備上の故障はなかったと思われますし、走行系の故…

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【813】 あいうえき(3)

駅名を五十音順に「あ」から「わ」まで1駅ずつ、その駅の思い出や、そこに写っている車両などについてのコメントもひと言付け加えてアップしています。すでに廃止された駅や改称された旧駅名も含み、表題部分は「駅名・ひらがな・社名と線名・県名」の順となっています。 今回は「さ」~「そ」までです。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 「さ」…盛 さかり JR東日本 大船渡線 岩手県 (中・下は 盛 さかり 岩手開発鉄道 岩手県) すべて1998.11.22撮影 八戸から三陸海岸沿いに鉄道で南下したときの画像です。三陸鉄道の列車から下車すると、数年前に旅客営業を廃止したはずの岩手開発鉄道の気動車がそのまま残されていました。大船渡線への乗り換え時間が30分程度あったので、その岩手開発鉄道の盛駅に行ってみると、使われなくなった旅客用ホームをかすめて貨物列車が走って行きました。 大船渡線は、現在気仙沼~盛間がBRT化されています。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 「し」…新十津川 しんとつかわ JR北海道 札沼線 北海道 上下とも1997.9.20撮影 札沼線の初乗りで、当時1日3往復しか運転されていなかった終点新十津川駅まで乗車した後に撮影した画像です。北海道の19時前は秋の陽は落ちて真っ暗でした。そこからは石狩川をはさんだ函館本線の滝川駅まで路線バスで移動して、函館本線の列車に乗り換えました。今はさらに列車が減って、この駅…

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【812】 急行「越前」号の謎(前篇)

先日、国鉄時代に福井~上野間に運転されていた急行「越前」の普通車自由席に乗ったことを書きました。今回はその時体験したことを書いてみます。 まず、急行「越前」についてプロフィールを書いておきましょう。 私が乗ったのは1982年7月でした。始発の福井でEF70の1000番台が先頭に連結されていた記憶がありますので、おそらく富山でEF81 に交代して、列車の進行方向が変わる直江津から先はEF62 がけん引し、横川~軽井沢間ではEF63 の補機が連結されたと考えられますが、それらの機関車交代劇について当日確認はしていません。 そのころ首都圏対北陸の夜行列車は、長岡経由の特急「北陸」と急行「能登」(以上2往復は金沢発着)と、長野経由の急行「越前」(福井発着)とがありました。このうち2本の急行「能登」と「越前」はどちらも旧形客車で組成され、AB寝台車とグリーン車、普通車を連結した列車でした。 下は時刻表1982年6月号からの転載画像です。 この3か月半後に上越新幹線が開業した時点で「越前」が廃止され、それまで金沢発着で長岡経由だった「能登」が長野経由に変更されて、その代役を引き受ける形になって、そのときから使用車両が14系客車になりました。 その急行「越前」廃止直前1982年夏の急行「越前」の主な駅の発車時刻(終点は到着時刻)は以下のとおりです。 【下り603列車】 上野20:53⇒高崎22:27⇒長野1:00⇒直江津3:02  ⇒富山4:50⇒金沢6:01⇒福井7:11 …

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【811】 乗り鉄12か月…1982年7月 北陸・信越

私が全国の旧国鉄の未乗線区に乗り始めたのは、国鉄退職後だが例外もあって、国鉄在職中に人に誘われて日帰りか1泊程度で出かけたことなら少しはある。1982年、普通車掌をやっていたころのこと。にわかに宮脇俊三著「時刻表2万キロ」を読んでその気になったらしいY君と2人で、国鉄未乗線区に乗りに行くことにした。主な行先は越美北線と小海線であったが、その時の2つの線区のことは、ほとんど記憶に残ってなくて、むしろこの時の旅で乗った信越本線の急行列車のことのほうが印象に残っている。「チャレンジ2万キロ」のキャンペーンが始まって2年ほど経ったころであった。 名古屋11:15―(5Mしらさぎ5号)―13:30福井  Y君とは名古屋で待ち合わせた。Y君はたぶん勤務明けだったからこんな遅い出発になったのだと思う。その日の米原の駅弁「鱒寿し」の箱があるから、たぶん車内で買って食べたものと思うが、まったく記憶にない。 地平にあった福井駅。雷鳥が発車していった。 福井14:28―(131D)―15:32越前大野 越美北線の終点駅九頭竜湖まで通す列車は今も昔も少ない。次の九頭竜湖行列車までは時間があるので、その前の越前大野行の区間列車に乗って、とりあえず越前大野まで行った。途中の美山で反対列車と行き違った。 越前大野では、駅前にこんな蕎麦屋があった。あいにく食事時ではないし、店には入らなかったが、「国鉄そば」とは、いかなる蕎麦なのか非常に気になった。 ところでそれから14年後、私は国鉄を退…

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【810】 撮り鉄12か月…1974年7月「越後交通栃尾線・銚子電鉄」

毎月1回第1月曜日に、その月に行った撮り鉄の話を、そしてその週の木曜日には、その月に行った乗り鉄の話をアップしています。 今回は1974年7月に越後交通栃尾線と銚子電鉄の撮影に出かけたときのことを書いてみます。 高校2年生の夏休みでした。この前年には地元中央西線からD51が引退して、私の場合は撮影の対象がローカル私鉄に移っていました。ともに蒸機の撮影をした者の中には、北海道に残った蒸機を求めて出かける者もあり、私も誘われましたが、蛇なんかよりずっと恐ろしい(謎)と思っていた青函連絡船に乗って行く遠い北海道より、身近で手作り感が漂うローカル鉄道を私は優先したのでした。しかしせっかくの夏休みでしたから、日帰りできないようなところへ行きたいという思いはあって、まずは中央西線~篠ノ井線~信越本線経由で長岡に向いました。ここまでは蒸機目的で北海道に渡る友人と同一行動で、 中津川~長野:急行きそ1号 長野~直江津:急行妙高1号 直江津~長岡:急行しらゆき号 と乗り継いで、私だけが青森行「しらゆき」から長岡で下車し、北海道へ行く友人はそのまま「しらゆき」で青森に22時過ぎに着いて青函連絡船で夜明かしだったはずです。 この日は信越本線沿線にある新潟焼山が未明に噴火して、信越本線に降灰被害があって遅延しましたが、私の行程にはそれほど影響はありませんでした。火山灰が降る中に突入したのは、この時が初めてでした。 長岡で「しらゆき」から下車して単独行動になった私は、越後交通栃尾線の軽便電…

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