【1099】あの年の3月31日《1967年・1974年・1975年・1987年》

またまた前にアップした画像の使いまわしですが、1967年3月31日、初めて家族で「交通科学館」へ行ったとき買ってもらった乗車券 帰りに弁天町駅で大阪までの乗車券を買ったところ、出てきた地図式の乗車券がたいへん珍しい切符に思えました。この切符がほしいという私のために、保存用として1枚余分に母が小児券追加で買ってくれたのがこの乗車券です。このあと大阪駅で下車してから阪急百貨店の模型売場へ行って、16番の貨車を買ってもらいました。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ 1974年3月31日は、名古屋市の路面電車が終焉を迎えた日でした。 当日は無料運転が行われ、私も乗ったり撮ったりしてきました。その日のことは、【775】撮り鉄12か月…1974年3月「名古屋市電最後の日」で書いたので、ここでは省略します。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ その翌年1975年3月31日には、王滝森林鉄道で最後の運材列車が走りました。 1970年代は、各地で鉄道が廃止されていった時期でした。鉄道を取り巻く状況は半世紀で大きく変わり、過疎化や道路交通の発達で、鉄道の存在価値を見い出すのが難しい例がある一方で、地球環境に代表されるような当時なかった価値観が生まれたことにより、今でも残っていれば、改良によって有効に使える交通機関になり得ただろうと思う鉄道もあります。地域間の格差は進むばかりで、この国の交通政策ははたして正解だっ…

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【1098】あの年の3月30日《1973年・1984年・1986年》

1973年3月30日 中央西線 原野~宮ノ越この重連貨物列車は、一歩ずつ苦し気な足取りで近づいてきました。考えてみればここを含め木曽路では連続勾配区間が続いており、これまで幾度も通った落合川あたりで、惰力を利用して駆け上がってくるD51とは別物のような力強さを感じることができました。これがほんとうの山岳線区の蒸機の魅力だと気付かされたものです。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ 1984年3月30日 高山本線 美濃太田~坂祝 高山本線に20系客車が入線しました。 名鉄8000系「北アルプス」もやってきました。 この日は勤務明けで、同僚と2人で出かけましたが、途中の岐阜で途中下車し、駅裏にあった酒蔵でラベル収集用の酒を買ってから高山本線の普通列車で現場に行きました。列車待ちの間に、つい買ってきた酒に手を出してしまいました。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ それから2年後、1986年3月30日 東海道本線 熱田 EF58 89+EF58 61が牽く12系お座敷列車「江戸」。 出勤前に寄り道をして撮影しました。

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【1097】あの年の3月29日《1973年・2006年》

1973年3月29日  中津川機関区でD51893 この日のネガを見ると中津川機関区でわずか3枚ほど撮影したにすぎません。中津川に別の用事があって、そのついでに機関区に立ち寄っただけだと思います。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ 2006年3月29日  中山道徒歩旅で、この日は鵜沼宿(各務原市)から加納宿(岐阜市)までを歩いてきました。 家から、この日の中山道徒歩旅の起点となる鵜沼まで行くルートはいくつかありますが、廃止になることがわかっていた桃花台新交通(ピーチライナー)を使ってみました。以上2枚の画像は、毎度のことながら以前の記事の使いまわしですのでご容赦ください。 この日は数少なくなっていた名鉄7000系パノラマカーに乗れました。また、中山道に並行している区間で、休憩しながら撮影することもできました。

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【1096】あの年の3月28日《1972年・1973年》

1972年3月28日 関西本線の亀山へ蒸機の撮影に出かけています。C50を撮影したのは初めてでした。私がカメラを持ったころには、もうC50は身近には見られなくなっていて、このころC50は全国で亀山配置の2両だけになっていた記憶です。この日は2両ともに火が入り構内で入換作業に従事していましたが、SLブームの真っ只中にあって、ここ亀山では駅構内や機関区内への立入りが厳しく制限され、鉄道公安職員が警備に当たっていました。 帰路には四日市で途中下車してから近鉄四日市駅まで歩いて、近鉄内部八王子線の撮影をしています。当時は近鉄四日市駅が高架化工事中で、内部八王子線は名古屋本線と別れた先に造られた仮ホームから発着していました。画像はその仮ホームに停車中の伊勢八王子行列車。背後に名古屋本線のトラスビームが見えます。 その後、西日野~伊勢八王子間は災害に遭い、復旧されることなく廃止されました。残存区間は四日市あすなろう鉄道に移管され、現在も数少ないナロ―ゲージの鉄道として生き残っています。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ その翌年1973年3月28日には信楽線のC58の撮影に出かけています。 帰路には1年ぶりの亀山に立ち寄っています。ちょうど臨客が停車中でした。牽引機はD51 882で、ヘッドマークにはスズカランド号とありました。D51 882のデフには月と鹿の装飾があるのですが、かなり汚れていました。

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【1095】あの年の3月27日《1973年》

1973年3月27日 一昨日アップした中央西線D51撮影行から1日置いて3月27日には、大曽根で名鉄瀬戸線、岐阜で名鉄岐阜市内線へ立ち寄っていました。その岐阜駅前の画像を2枚北陸鉄道金沢市内線からの移籍車モ550形 揖斐線に直通するモ520形とモ510形 まだスカーレット一色になる前であることがわかります。 そのあとは米原を経て北陸線田村へ行っています。米原~田村間にはDD50がまだ使われていて、動いているDD50を見たのはこのときが最初で最後でした。 このあと田村駅付近で、485系「雷鳥」の離合を見ました。「雷鳥」は湖西線経由のはずではないかと奇異に思われるかもしれませんが、湖西線開業はその翌年であって、特急・急行が湖西線経由になったのはさらにその翌年の1975年3月からのことでした。

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【1094】あの年の3月26日《2009年・2010年》

2009年3月26日 私は、通勤列車でも外を眺めていることが多い車窓派です。毎日同じ風景が過ぎていくようでも、古い家が取り壊され、区画整理が進み、街が少しずつ変わっていくことが車窓からわかります。都市部では季節感がわかりにくいですが、公園の木々や川原の草木に四季を発見できるもので、新守山・大曽根間にある矢田川を通過するときに見える菜の花の咲き具合も車窓から気にしながら車窓から眺めていました。 この日は現地に出かけてみました。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ その翌年2010年3月26日 16回目の「清酒ん18きっぷの旅」に出かけました。 <その日の行程>  ―(中央西線)―松本―信濃木崎 信濃木崎で下車し、木崎湖温泉で入浴と食事 信濃木崎―島内島内で下車して、酒蔵さんで見学と試飲をさせていただきました。 島内―松本―(中央西線)― 松本では買い出しをして、帰路の車中ではたのしい時間が…

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【1093】あの年の3月25日《1973年・2005年》

1973年3月25日 昨日の記事のなかで明知線へ行ったことを書いたのですが、その翌日には中央西線へD51の撮影に出かけていました。 落合川~中津川間 快速「木曽路」3月19日にも似たような場所で撮影した快速「木曽路」の画像をアップしていますが、今日の画像は、その1年後で、ヘッドマークが付けられています。日本の鉄道開業101年目に当たる年ということで、青ナンバーに塗り替えられた101号機がよく使われていたようでしたが、この前年の秋に酒田から転入してきたばかりで、電化までのつなぎ的機関車でした。 落合川~中津川 そのあと田立~南木曽間(旧線)に出かけています。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ 2005年3月25日 「青春18きっぷ」を使って、神戸の大丸もとまち店で開催されていた「トーマス原画展」を見に行きました。 原作者ウィルバート・オードリーによる、きかんしゃの話が出版されてから、この年で60周年を迎えたことによる催しでした。原作者は牧師さんで、26年間で104話を世に出し、その挿絵は3組4人の画家に依頼されたということでした。 帰路の車中で飲んだ缶ビール。 この日は愛知県で「愛・地球博」が開催された日で、前日には開会式が行われていました。

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【1092】あの年の3月24日《1973年・1987年・2012年》

1973年3月24日 家から自転車を駆って明知線のC12の撮影に行きました。周囲には撮影者が大勢いましたので、木の枝を回避できる場所は確保できませんでした。なにより焦点距離35㎜レンズシャッターのコンパクトカメラなのが致命的で、下に前の撮影者の頭が入り込んだのをトリミングしています。それにしても、気温が高かったのか煙のほうがさっぱり上がっていません。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ 1987年3月24日 国鉄の余命があと一週間に迫っていたこの日、同じ職場の先輩と二人で東京に行き、日本の鉄道発祥地である汐留駅を訪ねました。 この日は非番日でした。そのとき使用した乗車券です。静岡鉄道管理局の最東端の函南駅まで有効な職務乗車証を支給されていましたので、はみ出し区間だけを職員割引で乗車券を購入しています。このあと代休や年休消化があって、乗務すべき列車は「しなの号」1往復を残すのみとなっていました。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ 2012年3月24日 飯田線から引退する119系電車を見るために豊橋へ行ってきました。 そのとき購入した乗車券

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【1091】あの年の3月23日《1980年・2013年》

1980年3月23日  中央西線から80系電車が引退する日でした。 臨時に運転されたお別れ列車です。  坂下駅で撮影。 乗車記念券が手許にありますが、この日私は乗車していません。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ 2013年3月23日 交通系ICカードの全国相互利用が始まったのがこの日でした。 相互利用を記念して各鉄道事業者から共通デザインの記念ICカードが発売されましたので、私は地元のTOICAを買いに行きました。共通デザインのmanacaもその日入手。 購入希望者の行列ができていました。 どんな場面であっても行列は嫌いなので、こういう列に加わることは異例です。

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【1090】あの年の3月22日《2008年》

今日は鉄分がありません。 2008年3月22日 この日はJR大曽根駅からJR春日井駅まで歩いてきました。 ここがこの日の出発点となる大曽根駅。 この徒歩旅は名古屋にある熱田神宮から長野にある善光寺まで徒歩でつなぐ行程の一部という位置づけでした。しかし後に行程を大幅に短縮し、実家があった中津川に終点を変更しましたが、それすら現時点に至るも未達成となっています。 できるだけ旧街道を歩くのが原則としていますが、国道19号線そのものを歩かなければならない部分もあります。徒歩交通の時代を偲ぶことは困難ですが、このような造り酒屋さんがルート上にあると、旧街道が吸収されているのだろうと納得もします。 「金虎」名古屋市北区 金虎酒造さん(弘化二年(1845年)創業) 「東龍」名古屋市守山区 東春酒造さん(元治二年(1865年)創業) 日本酒ではありませんが、アサヒビール名古屋工場も遠望できます。工場の手前に見える橋梁は中央西線のもので、かつて工場と新守山駅とは専用線で結ばれ、製品が鉄道輸送されていました。 旧街道を歩くと、わずかながらも大きく古い民家が残るところがあったり、昔ながらの商店街もあります。ここでは、昔から鉄道模型も扱っています。 この日の終点、春日井駅。 現在は橋上駅に変貌しています。 このあと、この旅は続いてはいますが、諸事情で愛知岐阜県境となる内津峠の手前にある内々神社までで中断しました。4年後の2012年に再開して中央西線釜戸駅まで踏破したところで再び…

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【1089】あの年の3月21日《2005年》

2005年3月21日 国鉄名古屋鉄道管理局~JR東海で特色ある車両として外せない存在がユーロライナーでした。 国鉄末期の1985年、12系座席車からの改造でデビューしてからJR東海に引き継がれて20年となる2005年に引退の時を迎えました。この日が事実上のラストランであったと記憶します。 まず最初に共和へ行きました。 そのあと、この列車が折り返す豊橋へ行き、その停車中に国鉄時代に関わった懐かしい列車を、この日を限りに見ることはないだろうという思いで観察しました。 いったん駅から出て米原に向けて発車していくユーロライナーを見送ったあとは、駅前で豊橋鉄道市内線を撮影。 そのあと、時間つぶしで浜松まで行き、かつて仕事で泊った乗務員宿泊所や車掌区などを外から眺めてきました。浜松駅停車中の115系電車。 折り返して岐阜へ向かい、こんどはこの年の3月いっぱいで廃止となる名鉄岐阜市内線に立ち寄りました。ドアが開いているので客扱中なのですが、乗車するための安全地帯はプラットホーム状に嵩上げされておらず、路面に着色しただけというのが、以前から恐ろしい電車に思えていました。改良されるでもなくそのまま廃線となってしまいました。 この日、そのあとに最後の最後、米原から戻ってくるユーロライナーの走行写真を撮るために柏原へ向かいました。そこでのことは、【306】乗務した車両:ユーロライナー(5)最末期の再会で書いていますので、今回はここまでにします。

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【1088】あの年の3月20日《1992年・2006年》

1992年3月20日 青春18きっぷを使って、3人で一泊の乗り鉄旅に出ました。この日は東海道~山陰本線の列車を乗り継いで、宿泊地松江を目指しました。途中、私は余部鉄橋で撮影をしたかったので、福知山から単独行動で特急「北近畿」に魂を売り飛ばして豊岡までワープしました。豊岡で先行する普通列車に乗り換えて餘部で下車。撮影後に、2人が乗ってくる普通列車に乗車、合流しました。翌日は伯備線・山陽・東海道本線経由で名古屋に戻っています。 この12年後2004年から「清酒ん18きっぷの旅」が始まりましたが、そのメンバーのうちの一人は、この山陰旅行に行ったときの人でした。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ 2006年3月20日 万博八草駅 この前年に愛知県で「愛・地球博」が開催され、万博八草駅は愛知高速交通東部丘陵線(通称「リニモ」)と愛知環状鉄道の乗換駅として多くの来場者に利用されました。愛・地球博の閉幕後、愛知環状鉄道のほうは早々と以前の駅名である「八草」に戻されたのに対し、「リニモ」の駅の方は、閉幕後もしばらくの間は「万博八草」のままで、愛・地球博閉幕翌年の2006年4月1日になって、ようやく「八草」と改称され、両鉄道の駅名がそろいました。この日、豊田から名古屋市内へ行く用事があったので、「リニモ」の「万博八草駅」が残っているうちに、わざわざ遠回りして乗っておきました。

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【1087】あの年の3月19日《1972年・1975年》

1972年3月19日 既出画像ですが、カメラを持って間もないころ、SLブームに呼応して春の臨時列車快速「木曽路」が、それまでのディーゼルカーから客車列車に変更され、中津川以北がSL牽引になったので、落合川へ撮影しに行ってきました。 このころ中央西線中津川以北の定期客車列車はDL化されていましたので、快速「木曽路」以外のSL牽引列車は貨物列車しか撮影できませんでした。 ◆以上2枚の画像は中津川~落合川で撮影 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ 1975年3月19日 このころには、すでに中央西線からSLは姿を消していましたが、こんどは王滝森林鉄道が廃止されようとしていましたので、上松に出かけました。森林鉄道の本来の敷設目的は運材でありますが、職員輸送列車だけでなく地元住民用の客車列車も運転されていました。 森林鉄道の車両には、さまざまな種類があり、国鉄ではありえないような車両たちへの興味は尽きませんでした。

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【1086】あの年の3月18日《1984年》

1984年3月18日 落合川へ団臨の撮影に行きました。 長野局のお座敷列車「白樺」は、12系座席車の改造車でしたが、客車というより電車か気動車を思わせる明るい塗装でデビューしました。排気管付近の汚れがたいへん目立ちます。このあと、しばらくしてから黄緑色部分がやや濃い緑色になるとともにスロフの貫通扉の塗装がクリーム色一色に変更された時期を経て、国鉄分割民営化後には全体が濃緑色主体の、それまでの軽快なイメージとままったく異なる塗装に装いを変えていきました。汚れが目立ったからだったのでしょうか。 この日は東京南局の欧風客車「サロンエクスプレス東京」もやってきました。こうしたジョイフルトレインが続々と誕生してきたこのころから、中央東西線直通の団臨がときどき見られるようになり、国鉄分割民営化後まで継続されていました。 ◆以上4枚の画像は中津川~落合川で撮影

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【1085】あの年の3月17日《1975年・1991年》

1975年3月17日 名鉄瀬戸線沿線をうろついて撮り鉄しました。 この日いちばんの目的は、この貨物列車でした。撮影場所は水田が目立つ旭前~大森・金城学院前(当時の駅名は大森)間で、今の印場駅付近です。まだ印場駅はありませんでした。 この画像も同じ区間です。背後に東名高速道路の高架が写っていますので、場所の特定は容易かと思います。 こちらは旧土居下駅付近ではないかと思います。わずかに残った緑色のモ700とモ750も撮影目的でした。 <2020.3.19追記> 読者様から、撮影場所はこのあと外堀区間の運行終了後に造られた土居下仮駅付近とのコメントをいただきました。 その仮駅は、栄町までの新線開通時に東大手駅に肩代わりするかたちで廃止されています。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ 1991年3月17日には、青春18きっぷを使って名古屋を起点として日帰りで紀伊半島を一周してきました。一部区間は特急を使いましたが、一周する間にロングシート車に当たってしまったのは大阪環状線内の103系だけで、あとはクロスシート車というのは、今では考えられないことです。旅の行程など詳細は【776】乗り鉄12か月…1991年3月「紀伊半島日帰り一周」で書いていますので、ここでは省略とさせていただきます。

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【1084】あの年の3月16日《1978年・1989年・2010年》

1978年3月16日 初めて買ったB110サニーをこの日TA17カリーナに入れ替えました。当日、中古車センターで下取り車B110サニーと新たに買ったTA17カリーナを並べて撮影しました。 なぜかサマーセールの看板がありますが、昨年使ったものが保管してあったのではないかと思われ、撮影日が夏場だったわけではありません。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ 1989年3月16日 このころよく車掌区時代の先輩2人と私の計3人で温泉旅に出かけていました。この日は私の勝手な希望で、当時ハマっていた西国の寺院巡りに付き合わせてしまいました。 第3番 粉河寺・第4番 施福寺(槇尾寺)・第5番 葛井寺 施福寺は階段のある山道を1㎞ほど登らなければならない難所でしたが、先輩たちは付き合ってくれました。このとき宿泊したのは竜神温泉でした。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ 2010年3月16日 関西本線 春田~八田 このころは名古屋市中川区内に通勤していました。この少し前から45分間だった昼休みが1時間に延長されましたので、JR関西本線と近鉄名古屋本線沿線まで行って帰ってこられる時間的余裕ができましたので、ときどき出かけるようになりました。 あたりまえにDD51が来る時代でした。それから10年…このあとの去就が注目されるようになりました。

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【1083】あの年の3月15日《1994年・2007年》

1994年3月15日 三木鉄道と北条鉄道に出かけました。 3月5日にも、この両鉄道に行った記事を書いていますが、それは2度目の訪問時のことであって、今回アップするのはそのときから14年遡った最初に訪問したときの画像です。 三木鉄道の車両は、まだ二軸レールバスでした。 途中の大阪駅ではJR列車の写真も撮っていました。国鉄分割民営化から約7年経っており、さすがに国鉄から引き継がれた車両たちは、このような姿になり下がっていて、実際に目の当たりにすると言葉がありません。このような塗装にしておいたくせに、今になって、JR形式にありえない国鉄色を塗って集客しているのですから、勝手なもので…… ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ 2007年3月15日「清酒ん18きっぷの旅」に行きました。 <この日の行程> ―(東海道本線)―京都―嵯峨嵐山―(嵯峨野観光鉄道)―馬堀―福知山[福知山城]―篠山口[酒蔵]―尼崎―米原―(東海道本線)― 嵯峨野観光鉄道は別払いです。 園部で見たクモハ114とクモハ112.湘南色の113系は見慣れていたはずなのに、前パンがあると印象がまるで変ってしまうものです。

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【1082】あの年の3月14日《1976年・1999年》

昨日書いた1976年3月13日の京都探訪のあと、そのまま名古屋を通りすぎて東海道在来線普通列車で車中泊。翌3月14日早朝に東京に着きました。上野動物園とか浅草寺、交通博物館など、行くべきところは開館まで時間があるので、時間つぶしと睡眠を兼ねて中央線~八高線~横浜線と、列車を乗りまわりました。 1976年3月14日 八高線 金子 ステンレスのキハ35だけでなく、首都圏色を見るのも初めてでした。首都圏色が全国に広まる前のことです。 1976年3月14日 東神奈川 横浜線ホームに停車中のクモハ73 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ そしてこちらも昨日の続き。 1999年3月13日に蒲原鉄道線に行ったあとは新潟市内で宿泊し、翌3月14日は越後線の初乗りをしながら、長野経由で帰ってくる行程でした。 途中、関屋で降りて翌月廃止となる新潟交通電車線の様子を見てきました。 乗車している暇はなかったので、撮影だけをして乗れずじまいとなりましたが、どうしても見たかったモワ51には会えました。

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【1081】あの年の3月13日《1976年・1977年・1999年》

1976年3月13日、中学校のときの同級生たちと京都に行きました。 いちおう鉄分があるメンバーだったので、最初に梅小路蒸気機関車館へ行きました。左からC581・D51200・C622で、3両とも火が入っているようです。 このうちC581が展示運転機関車でした。 京都市内の地理はさっぱりわかりませんでしたので、定期観光バスに乗って清水寺や金閣寺などを巡りました。 京都を後にして東海道在来線で大垣まで戻った後、東京行夜行普通列車で東京へ向かいました。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ その翌年1977年の3月13日には、3月10日に引き続いて高校生のときの同級生たちといっしょに、中央西線から姿を消す72系電車の撮影に出かけました。中央西線古虎渓付近で撮影。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ 1999年3月13日から一泊で新潟県へ出かけています。1日目、3月13日は蒲原鉄道線に行きました。蒲原鉄道には、それより前、東北への旅の途中に立ち寄るつもりで出かけたところが、JR信越本線が踏切事故の影響でダイヤが大幅に乱れたために訪問をあきらめたという経緯があって、廃止が迫っていたこの日になって、ようやく行くことができたのでした。 以上2枚とも当日蒲原鉄道線村松で撮影。

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【1080】あの年の3月12日《1972年》

1972年3月12日 田舎者の中学生が、コンパクトカメラに、なけなしの小遣いで買った12枚撮りカラーフィルムを装填して名古屋駅に来ていました。3日後に山陽新幹線岡山開業に関連したダイヤ改正を控えていました。 そのダイヤ改正で、名古屋始発だった581系特急「つばめ」(「金星」の折り返し)と475系急行「玄海」は、運転区間が短縮されることになっており、名古屋でこれらの列車名を見ることがなくなるのでした。 こちらは485系特急「しらさぎ」です。「しらさぎ」は3往復体制でしたが、ダイヤ改正後には前述の581系の運用が変わり、特急「金星」で名古屋到着後、日中に特急「しらさぎ」で北陸本線を1往復するようになったことで、特急「しらさぎ」が4往復に増発されています。 80系気動車による特急「くろしお」は、このころ先頭車がキハ82でしたが、この年10月に行われたダイヤ改正では「いなほ」「ひたち」電車化によって転用されたキハ81に置き換えられました。

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