【1427】 一枚の画像から:その6「写りこんだ昭和の鉄道風景3」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 今回も、昭和の時代の鉄道に珍しくもなかったモノが写り込んでいると言いたいところですが、モノでなくコトです。 1974年4月28日 東海道本線米原駅 159系電車 中京快速に充当された159系が米原に到着した直後だと思われます。この画像では、ホーム反対側の扉が開いているコトに気が付きます。 ドア脇上部に設置されたサボ受けのサボの差し込みや抜き取り作業のため、国鉄時代には列車折り返し駅でよく見られた光景でした。自分がそのためのドアの開閉作業に直接絡んでいたのですから、危険なことをしているということは当時でも意識していました。ホーム反対側の扉を開けるときには必ず直前に車内放送で予告をしたのは当然で、ドアは一気に開けるのではなく、扉を開閉する車掌スイッチをバタバタと開・閉・開・閉・開というように小刻みに操作して、ドアが開きかけたらいったん閉めかけるという動作を2~3度繰り返すようにして、ドアにもたれかかっている乗客やドア付近にいる乗客に注意喚起をしていました。 ところで、この画像に1番線の表示が左側ホーム上屋から釣り下がっているのが見えます。1番線は米原駅の東側(新幹線の反対側)にあたりますが、現在はJR米原駅の1番線にはホームがありません。そして線路の位置もJRになってから東海道下り線が西側に移転集約されましたので、このあたりは駅の敷地ではなくなっています。 …

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【1426】 一枚の画像から:その5「写りこんだ昭和の鉄道風景2」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 1973年8月23日 関西本線 柘植~新堂 荷41列車 この場所は上りの臨客狙いで来た場所だったので、下り勾配を惰行で下ってくるこの列車は、メインの列車ではありませんでした。ケムリもなく、どうにもならない絵でありますが、今となると失礼ながら安っぽいヘッドマークを無理やり取り付けたSLが12系を牽く臨客より、荷物列車の先頭に立って黙々と日常業務に励むD51のほうが優先順位が高い被写体だったという反省とも後悔ともつかない思いがあります。 この画像に写り込んでいるモノとは、右側の通信用の電柱です。当時の撮り鉄の間では「ハエタタキ」と呼ばれ、何本も通された通信線の存在もあって撮影の邪魔になる嫌われモノでありました。このときも、インカーブ側にあったこの「ハエタタキ」が列車の手前に来ないようにアウトカーブ側から撮影したのだろうと思います。この「ハエタタキ」、通信線の数が多い幹線ほど「ハエをたたく部分」の面積が大きく縦長になりましたし、ローカル線ではその逆でした。 「ハエタタキ」は昭和40年初めくらいまでは地元の中央西線でも見られ、私は列車に乗ると車窓から次々と現れる「ハエタタキ」を目で追って、個々の形状の違いなどを観察している変な子供でした。都会の子なら走行中に一瞬にすれ違う列車や並行して走る他の線区や私鉄の列車などに興味が向いたのでしょうが、田舎の単線区間では行き違いは駅に限ら…

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【1425】 一枚の画像から:その4「写りこんだ昭和の鉄道風景1」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 モノクロフィルムを使っていたころは、いつもフィルム残数を気にしながら列車や車両を中心に撮影してきました。今から思えば駅や施設、鉄道に働く人々の姿なども記録しておけばよかったと思いますが、中高生だった自分にそんな気はまるでなく、車両さえも被写体とすべき対象を絞って、それ以外のものを撮影するのはフィルムの無駄遣いみたいな考えしかなかったことは反省すべきです。 今回から4回連続で、昭和の時代の鉄道に珍しくもなかったモノが写り込んだモノクロ画像をアップしていきます。 1973年8月5日 日豊本線南宮崎駅 1211列車 列車は京都始発の急行「日南3号」都城行だと思われます。信号機が横を向いていますので、近いうちに腕木式から色灯式に変更されるのでしょう。DF50の運転室窓越しに通票キャリアが見えています。電化工事も進行中のようですが架線はまだ張られていないようです。長距離長距離夜行列車らしく荷物車の後ろには10系寝台車らしき姿が確認できます。たぶんその後ろは2両のオロ11を含む10系客車が続いているはずですが記録してありません。後に荷扱乗務員を経験することになった私としては荷物車にも目が向きます。荷物室の窓がいくつも半開になっていますので、締切輸送ではなく荷扱乗務員が乗務しているものと思われ、本州対九州の東側半分の荷物輸送を担う直通運用だったのだろうと想像します。 通票、信…

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【1424】 一枚の画像から:その3「中央西線の下で交差する名鉄瀬戸線」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 1974年3月?日 名鉄瀬戸線大曽根~矢田 地平を走っていた600V時代の瀬戸線です。モノクロ画像ですが車体に白帯が入っていますので瀬戸線に特急があったスカーレット時代で、栄への乗入れ前ということになります。写っているガーダー橋は国鉄中央西線のもので、現在の名鉄瀬戸線は画面のさらに右(北)のほうで中央西線を高架橋でオーバークロスしています。このガーダー橋の下は道路になりました。撮影したのはこの下の地図中央あたりになりますが、付近の線路跡は残っていません。 この付近で撮影した同じようなカットが何コマか連続していますので、瀬戸線の列車と中央西線の列車と交差することを期待していたのかもしれません。 2つ後のコマには、このガーダー橋の上を走るクハネ583が写っていました。「金星」で到着した編成の寝台を神領電車区で座席に変身させて名古屋へ向かう「しらさぎ」の回送列車に違いありません。当時の時刻表の編成ページを見ますとグリーン車1両だけの「金星」間合い581・583系の下り「しらさぎ」富山行は23M「しらさぎ2号」となっており、名古屋発時刻は10時15分。このことから瀬戸線の列車も午前10時前あたりに撮影したものと推定できます。 およその時刻は特定できたわけですが、このネガフィルムの袋に日付が書き込んでない(消えてしまった?)ので特定できません。名古屋市電がこの年3月31日…

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【1423】 一枚の画像から:その2「九州のC57」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 1973年8月5日 日豊本線 キャブのプレート類が写っています。区名札がプレートになっていて、それがちゃんと磨かれていたことから、「これはウチのオカマなんだ。恥ずかしくない機関車に整備しよう」という機関区員の機関車に対する思いが込められているような気がいたしました。地元で見た蒸機では、これほどきれいにされていなかったので、そういう諸々の思いがカメラを向ける動機になったように思います。撮影場所をはじめ撮影時の記録がされていませんが、ネガのコマ順と行程表から推定すると、日豊本線の高鍋から宮崎まで乗車した下り537列車の次位機であることが特定できました。前日に門司港から夜行急行「みやざき」に乗車して高鍋で下車してSL列車などを撮影した後、この列車に乗ったら思いがけず重連であったことを記憶しています。 当時現地に持っていってボロボロになった弘済出版社刊SLダイヤ情報(春夏特集)が今も手元にありますので、掲載されていた列車ダイヤを確認したところ、その537列車は宮崎神宮で上りの特急「日向」と、その続行の普通列車の2本をまとめて行き違い待ちをしていたことがわかりました。おそらく乗車中に長時間停車した宮崎神宮駅で撮影したことにほぼ間違いないと思われます。画像をコマ順に見ていくと、上の画像の次に露出不足のC57 169のナンバーが写った画像があり、続いてキハ80系特急「日向」、その…

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【1422】 一枚の画像から:その1「クモハ52」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いていきます。 1971年5月5日 飯田線三河槙原駅 父といっしょに中部天竜へ行くために乗車していた下り列車と行き違った上り列車です。撮影時はどこの駅であったのか意識していたわけではありませんが、画像を見れば有名撮影地となっていた道路橋が写り込んでいるので三河槙原駅に間違いありません。 編成は鮮明でない画像からは特定しにくいですがクハ68+クモハ42+サハ75+クモハ52のように思えます。ネガのその次のコマには、この列車の最後部(辰野方)に連結されていた流電クモハ52が写っていました。 この画像を撮影した4年ほど前に小遣いで買った誠文堂新光社刊電車ガイドブックによって流電の存在を知ったのですが、実車を見たのがこのときが初めてでした。ふだん中央西線で見慣れていた70形電車と同じ横須賀色ながら、個性が強い車体は、かなり強く印象に残りました。 この日、飯田線に来る途中に名古屋~豊橋間で客車急行「高千穂」に乗った記憶がありましたので、その記憶が正しかったのか気になり、この記事を書く途中に、古い時刻表を保管している段ボール箱を開けてみると、都合よく1971年3月号が残っていました。東海道上りのページを見ると、ありました。急行「桜島・高千穂」となっており、鹿児島本線経由(桜島)と日豊本線経由(高千穂)との併結列車でした。「桜島」の記憶はなかったので、このときはおそらく「高千穂」編成に乗っ…

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【1421】 モノクロのネガフィルムを廃棄しました

家に保管しているネガフィルムが劣化していることについては、以前コメント欄に書き込んだことがあるのですが、特にモノクロフィルムのほぼすべてがスキャン不能な状態にまで劣化が進行してしまいました。ビネガーシンドロームといわれる現象で修復不可能。加水分解による変質だそうですので、高温多湿の場所に保管していたのが原因であるのは明らかです。 私は今から20年ほど前にフィルムカメラからコンデジに移行しました。その直後から、それまでに撮影したネガフィルムをスキャナーで画像データとして保存し始めました。それまでの約30年もの間のネガフィルムの全コマを画像ファイル化することを優先し、画質にはこだわらなかったことによって約10年程度でほぼ100%スキャン作業が終了していたので、大きな実害は発生しませんでした。しかし結果としてネガフィルム原版で読み取れる車両ナンバーが画像ファイルでは判別できないようなことになっていることを考えると、量より質を優先してスキャンする価値のあるものだけを厳選したほうがよかったのかもしれないと思ったりもしています。 その作業期間中にはすでに酢酸臭が気になリはじめていて、フィルムが丸まってスキャンするためのホルダーに入りにくいフィルムが出始めていました。作業終了した後も劣化の進行は著しく、フィルム表面が湿ってべたついてきました。 それに気がついて乾燥させると、フィルムが硬く丸まってストロー状に変形してしまったり、画像がひび割れのようになったりして、この数年で、モノクロネガフィルムはほぼ修復不…

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