【1435】 一枚の画像から:その11「中央西線D51の末期1」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 私がカメラを持ったとき、中央西線ではすでに名古屋から中津川までが電化され、中津川から塩尻までの電化工事と一部区間の複線化工事が進みつつあり、中津川以北のほとんどの貨物列車をD51が牽引していました。電化工事が竣工したのは1973年5月下旬で、そのときからD51はEF64に置き換えられました。その年の4月から5月にかけて、集中的にD51の撮影をしていましたので、ネガフィルムの消費量が多くなりました。今回からその最後の1か月に撮影した画像を3回に分けてアップします。 1973年4月29日 中央西線 十二兼~野尻 3893列車 D51 435(中) 高校では、中央西線の蒸機にたいへん詳しい同級生が複数いて、私は彼らから多くのことを教えていただきました。それだけでなく、電化完成までのわずか2ヶ月足らずの期間に何度も撮影に誘っていただいて木曽路に足繁く通いました。その往き帰りや撮影の合間に彼らから中央西線に在籍したD51の1両ごとの特徴や前歴など私の知らない話をたくさんお聞きしたものです。 上の画像の435号機は、長工式集煙装置を装備した中央西線スタイルでキメているように見えますが、前年に会津若松から238号機とともに中津川へ転入してきた「よそ者」で電化までの場つなぎ的に使用されたD51でした。副灯があるのは会津若松時代の名残でした。このあと435号機は6月に長門…

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【1434】 スチール棚の鉄道模型その後:2022年7月[昭和51~55年ごろの国鉄列車(電車気動車篇)]

前回の続きです。国鉄に就職して、荷物列車から始まり貨物列車に乗務していた昭和51~55年ごろに身近だった列車を、いつものように私の部屋のスチール棚にならべています。 中京地区中心で多少怪しく無理のある再現です。今回はそのうち旅客列車8編成について語ります。 画像上部から順に、展示の右側・中央部・左側です。キハ58系急行編成だけは、スペースの関係で他の電車気動車と離れて、棚の上の方の貨物列車の左方に展示しています。 《159系電車混色編成・20系気動車混色編成》53.10ダイヤ改正と時を同じくして国鉄の車体塗色及び標記基準規程が改正され、修学旅行用車両色と気動車一般色が廃止されました。修学旅行用電車は湘南色に、気動車一般色は首都圏色にそれぞれ変更されることになり、工場入場時に塗装が変わり、新旧塗装が混在する編成が出始めました。塗料の種類を減らし、塗装工程を簡素化するなど少しでも経費を節約して赤字額縮小をしなければならない国鉄のお家事情があるわけです。列車そのものの縮小削減やら営業面では運賃料金改訂があり、明らかに斜陽産業であることを思わせる時代になっていき、趣味的な面白さも下降線をたどってゆきました。 《165系電車混色編成》こちらは新快速色が混入した165系電車で、中央西線の急行電車をイメージしました。53.10ダイヤ改正以前は8両基本と4両付属の12両編成で、その時期に宮原区から転属してきた新快速色クハ165が混入したことがありました。中央西線の急行電車に新車はなく、すべて他…

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【1433】 スチール棚の鉄道模型その後:2022年7月[昭和51~55年ごろの国鉄列車(客車篇)]

前回の続きです。国鉄に就職して、荷物列車・貨物列車に乗務していた昭和51~55年ごろに、乗務などで身近だった列車を、いつものように私の部屋のスチール棚にならべています。 中京地区中心で多少怪しく無理のある再現です。今回はこのころに乗務していた中央付近の荷物列車2本と旧客夜行急行列車について、その編成などを語ります。タイトルを「客車篇」としましたが、事実上は自分が乗務に関わった列車を再現した関係で荷物専用列車と荷物車併結客車列車になっています。 《EF61が牽く東海道本線の荷物専用列車(53.10ダイヤ改正直後)》 EF61は蒸気発生装置を装備し、旅客用にも使用できる電機でしたが、EF58に比べればその数は少なく大きくクローズアップされることが少ない機関車だったと思います。この時期の昭和54年初めまでの私は荷扱乗務員として東海道本線他の荷物車に乗務していました。仕事は指定された荷物車内の仕訳作業でしたので、仕事上で直接機関車との接点はありませんでしたが、乗務していた荷物専用列車のうち荷31列車と荷38列車の浜松以西ではEF61が牽引していました。 今回の編成は53.10ダイヤ改正時の荷38列車の、名古屋~浜松間の編成を再現してみました。 「荷38列車」(運転区間:東小倉~汐留) EF61 広島A1 マ ニ 天荷8  (百済)名古屋~汐留 マニ44 広荷202 広島~汐留 ワ キ 広荷204 下関~汐留 マ ニ 門荷2  東小倉~汐留 ワ キ 門荷201 東小倉~汐留 オ…

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【1432】 スチール棚の鉄道模型その後:2022年7月[昭和51~55年ごろの国鉄列車(貨物列車篇)]

手持ちのNゲージ模型を少しずつ処分しまして、手元に残ったのは国鉄の1970〜1980年代に中京圏で見たり乗ったりした車両が中心になりました。それは自分の中高生時代から国鉄在職時代ということになりますから当然と言えば当然で、いちばん鉄道に深く関係した時期に一致します。 それは国鉄の地位が凋落して消滅するまでの時期にも重なります。国鉄在来線は昭和50年代に入ると様変わりし始めていました。1975年(昭和50年)には山陽新幹線が博多まで開業し、翌1976年には蒸気機関車が動態保存機を除いて全廃されました。昭和50年のスト権ストでは組合側が敗北し、鉄道離れが進んでいたことが露呈する結果になりました。昭和51年には高率な運賃値上げが実施され、国鉄離れの加速と累積赤字の増加に拍車をかけ、国鉄に対する国民からの風当たりは厳しいものとなっていきつつありました。 そういう時代背景のもとで国鉄に就職した私は、昭和55年までは旅客列車の車掌への途上にあり、荷物列車の車内作業員を経て列車掛として貨物列車に乗務していました。今回はそういう時代に乗務していた列車や、通勤や撮影などで身近に乗ったり撮ったりした旅客車両をスチール棚にならべてみました。手持ち車両が限られているので再現内容は多少怪しく、無理がありますのでご容赦願います。 全体像はこのようになっていて、いつものように中京地区の列車が中心になっています。以下、棚の右側・中央・左側の順です。 最上段から順に DD51が牽く50000系貨車…

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【1431】 一枚の画像から:その10「入換作業の様子(高鍋駅)」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 1973年8月5日 日豊本線高鍋駅 3589列車の入換作業中 SL末期になると、無煙化によって不要になったSLのうち検査期限に余裕があるものは廃車せずに、他線区で検査期限切れになったSLの代替用としてコンバートされる例が全国規模で目立つようになりました。このC61もこの画像を撮影したときの前年に青森から宮崎へ転属してきたもので、在来配置のC57とともに客貨の区別なく使用されていたようです。 機関車に添乗して手旗を振っているのは操車掛でしょうか。この先の入換作業内容はまったくの想像でしか申せませんが、本編成から前寄りの貨車3両を引き上げている場面のように見えます。2両目の貨車のステップには構内係が添乗しているのもわかります。2両目に添乗している理由は、引き上げ後に2・3両目間の自動連結器を解錠する作業に備えているのでしょう。 ネガフィルムの次のコマが下の画像です。以前にもアップした画像ではありますが、サイズを大きくして再掲載します。 この画像では貨車のステップに添乗している人物が身を乗り出して手旗を振っているように見えますから、前の画像で機関車に添乗していた操車掛でしょう。機関車の煙と人物の向きから、後退している場面であることがわかります。貨車が2両に減っていますので、この2枚の画像を撮影した間に1両をこの駅で切り離したということになり、これから本編成に連結す…

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【1430】 一枚の画像から:その9「入換作業の様子(中津川駅)」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 1973年6月23日 中央西線中津川 中津川駅でC12が入換作業をしているのを見る機会は幾度もありました。入換作業で連結される車両はどういう目的でどの線へ転線させるのか、作業従事者には個々にどんな役割があるのかなどを予め理解していれば、作業内容や技術、そしてチームワークに惹き込まれたのでしょう。しかし、「列車ではないし、たかが入換作業」みたいな気持ちがあって、意外と撮影していませんでしたし、細かく作業内容を観察していたわけでもありませんでした。この画像も翌月にDL化を控えていた時期にあわてて撮影したものでした。貨車中心の入換作業のなかで、夕刻に中津川に着く下り普通客車列車から切り離された後部3両の客車を名古屋方に引き上げて側線に押し込む作業がありました。いつもの貨車入換と違って客車の入換はこの時間帯だけ。そういうことは部外者にもわかりますし、日没が遅い時期でないと撮影することは難しい時間帯でした。それが目的でDL化される間際にカメラを持ち出して幾度か出かけたのでした。時刻表と記憶を重ね合わせると、その客車列車は夕刻18:22に中津川に到着する名古屋発木曽福島行835列車だったはずです。この画像では手旗で誘導されていますが、合図灯を使用される日もある微妙な時間帯でした。 どうでもいい話ですが、無線機と違って手旗や合図灯による通告合図はその色と動きで相手者に意思を伝達で…

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【1429】 一枚の画像から:その8「入換作業の様子(上松駅)」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 1973年5月20日 中央西線上松 このころ、中央西線上松駅からは王滝森林鉄道が分岐しており、木曽の山奥から輸送されてきた木材など貨物の発送があり、午後になると隣の木曽福島からC12が回送されてきて入換作業が始まりました。構内には762mm軌間の森林鉄道と線路を共用する3線軌道になった側線があり、そこで撮影することがこの日の目的のひとつでした。画像は、その3線軌道区間から森林鉄道の軌道が分岐していく地点です。こうした珍しい分岐器そのものの画像が見当たりませんので、撮影さえしておかなかったのでしょう。 このC12 164は現在は動態ではないものの大井川鐡道の新金谷駅に常駐し展示されていますので、かなり多くの国民の被写体になっている機関車と言ってよいでしょう。大井川へ行く前の国鉄最後の職場がここだったわけです。上松時代も今も正面の形式入りナンバープレートが目立つ機関車でしたが、当時はシールドビームにクルクルパーという一般受けしない装備でした。しかしながら、今見れば、その時代背景や地域的特色を表す要素だと思いますし、変に着飾って厚化粧した姿とは違って、年季の入った作業服を着用し実用本位の装備で固めて作業をしている職人の姿が連想されて私は好感を持っています。 手旗で誘導する操車掛の左腕には白い線が入った腕章が着用されているように見えます。その腕章は下の画像と同じものだ…

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【1428】 一枚の画像から:その7「写りこんだ昭和の鉄道風景4」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 今回の「昭和の時代の鉄道に珍しくもなかったモノ」は「車両」です。 1974年8月20日 中央西線木曽福島 この日のことは以前にも書きましたが、梅小路蒸気機関車館の動態保存機C61 2が長野工場へ検査入場のため無火回送されている画像です。 木曽福島駅を発車していくところを後追いで撮影していて、撮影時にまったく気にもかけなかったワフ22000が写っていることに今になって気付きました。当時はワフ22000などまったく当たり前に貨物列車に連結されていたので、こんな緩急車をわざわざ貴重なフィルムを消費して記録に残すつもりなどありませんでしたが、C61という被写体があったからこそ写り込んだということです。 1974年時点でのワフ22000の在籍数がわかる資料は手元にはないのですが、その3年前の1971年3月31日現在の在籍数は鉄道ピクトリアルアーカイブスセレクション24「貨物輸送」からわかりました。それによればワフ22000は913両も在籍しており「ワフ」全形式のうちで最多両数を誇っていました。「ヨ」を含めた貨車の緩急車の中でも、最多だったヨ5000(在籍数1130両)に次ぐ多数派となっており、まったく珍しくもない緩急車であったことがわかります。 実はこの画像を撮影した1974年に後継形式ヨ8000が200両デビューし、北海道と四国に集中配置されていました。そしてヨ8000は…

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