【1444】 一枚の画像から:その19「481系 つばめ」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 1974年9月24日 山陽本線 倉敷 クリームラインが入った赤スカート481系下り「つばめ」で、画像左が先頭で右は同じ列車の後追いです。右(最後部)のクハ481はロール式ヘッドマークに換装されています。このころの時刻表を見ると「つばめ」はL特急になっていて岡山~博多・熊本間上下8往復が運転されていました。この日、倉敷に来たのは午後の遅い時刻だったことがわかっていますので、この画像は下り「つばめ」で6号あたりから8号までのいずれかであるという見当はつきました。カメラはカラーとモノクロ各1台で撮影したので、特急列車の多くはカラーで撮影しています。そしてカラーネガに写った列車のヘッドマークを頼りに撮影順序と時刻表と照合していくと、写っている特急列車がほぼすべて特定できました。なぜか、そのとき撮影した特急列車のうちで、この列車だけをモノクロで撮影していて、このネガフィルムの順番だけでは列車の特定は難しかったのですが、分岐していく伯備線が見えるので場所の特定は容易です。カラーネガの撮影コマ順で、下関方へ徒歩で移動しながら山陽本線と倉敷臨海鉄道の列車撮影をして、この日一番の目的であった夕刻の倉敷臨海鉄道3両編成の列車を倉敷市駅へ戻って撮影したという足どりが分かりましたので、時刻表の列車順序と照らし合わせれば、この画像は1027Mつばめ8号以外にはあり得ないと判断しました。 この半年…

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【1443】 一枚の画像から:その18「コキ50000系フレートライナー」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 前回の「しらさぎ」と同じ日、1974年4月28日  北陸本線 敦賀~新疋田  貨物列車にも特急はあります。画像はEF70が牽くコンテナ列車で最後尾にはコキフが連結された特急貨物列車です。当時は特急貨物列車には10000系貨車で組成された特急貨A(最高時速100キロ)、50000系貨車で組成された特急貨B(最高時速95キロ)の2種類があり、確か53.10ダイヤ改正時から高速貨A・高速貨Bと名称が変わりました。これがカラー画像であれば10000系貨車なら青、50000系貨車なら明るい茶色なので、その区別は容易ですが、モノクロでしかも画像が鮮明でなく被写体も小さいので判別するのはちょっと難しいかもしれません。それでもよく見れば積載されているコンテナは白帯C20(在来の5t・11ftコンテナを大型化して12 ft長としたコンテナ)が多いようです。わずかですが私有の10t(20ft)コンテナが3個積載されているコキも視認できます。12ftコンテナを5個又は20ftコンテナ3個を積載できるコキは当時コキ50000だけ(10000系貨車は当初11ftコンテナだけに対応しており、12ftコンテナが標準になった時点で改造されたことによって、12ftコンテナを4個又は20ftコンテナ2個までとなった。)でしたから、この列車は50000系貨車で組成された特急貨Bであることがわかりますが、列車…

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【1442】 一枚の画像から:その17「581・583系しらさぎ」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 1974年4月28日 北陸本線 新疋田~敦賀  23M しらさぎ2号 敦賀駅から鳩原ループへ歩いて行く途中の線路端で撮影しました。北陸本線に挟まれた敦賀第二機関区あたりです。手前の線路は小浜線ですので、列車が走っているのは下り線です。下りの富山行を後追いで撮影したことがわかります。カメラは2台持っていて、カラーで近付いてくるところを撮影し、後追いはカラーフィルムの消費量を抑えるためモノクロが入ったサブカメラで撮影したのではないかと思われます。小浜線が電化されたことを除けば、背後の建屋も含め風景は今もあまり変わっていないように思えます。 581・583系による「しらさぎ」は1日1往復だけでしたから、外せない被写体でした。しかし撮影する立場と乗務する立場では評価が逆になることは非常に多いように思います。この「金星」~「しらさぎ」のことはRJ誌の追跡記事で書かれているので、ご承知の方は多いと思いますが、車掌サイドでは不評だったようで、1978年(53.10)ダイヤ改正で581・583系の「しらさぎ」運用は廃止されています。

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【1441】 一枚の画像から:その16「80系気動車(キハ81)くろしお」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 1973年8月24日 関西本線 名古屋駅 2D 関西・紀勢・信楽線のSL撮影の帰路に撮影した上り「くろしお2号」です。ネガフィルムに記録されたSL列車とSLダイヤ情報誌を対照していけば、帰路に関西本線亀山から名古屋まで乗車した列車は224列車であったことが特定できました。当時の時刻表によると、その224列車の名古屋着時刻が17時17分で、この2D「くろしお2号」の名古屋着時刻は17時52分となっていましたから、関西本線の上り列車から降りた後、「くろしお2号」の到着を待って撮影するという計画的行動だったように思います。一部の「くろしお」にキハ81が転用されたのは、この前年10月のダイヤ改正からでしたから、キハ81に興味を持っていたのは確かです。しかし、実際に見てみれば薄汚れていて、かなりくたびれている印象を持ちました。天王寺を9時10分に出て8時間30分余りをかけて紀伊半島を回って名古屋までくる長距離列車でしたが、1978年(53.10)のダイヤ改正で西側は新宮まで電化され、キハ81は引退して「くろしお」は381系電車化されました。未電化で残った東側の特急はキハ82を使用した「南紀」として系統分離されました。

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【1440】 一枚の画像から:その15「80系気動車 日向」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 1973年8月5日 日豊本線 宮崎神宮駅 4002D この画像も以前の記事で公開をお約束していた80系DC特急「日向」です。その記事に書いたとおりで、ネガ袋に撮影場所の記録がありませんでした。ネガのコマ順と行程表から推定して弘済出版社刊「最新SLダイヤ情報(春夏特集)」で確認した結果、宮崎神宮駅であると特定した画像です。宮崎発大阪行昼行特急で、この時代は小倉で「なは」と併結されていて、この年10月改正ダイヤ以後は「なは」の電車化で分離運転になったようです。この時期の全国版時刻表が手元になく詳細な時刻などは特定できませんでしたが、前年の新幹線岡山開業時点では宮崎発は9時30分で大阪着は22時43分となっているので、たいして変わっていないのではないかと推測します。撮影時点では食堂車が「なは」編成にあり「日向」編成にはなかったようですが、分離運転後の時刻表には食堂車連結の表示があります。

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【1439】 一枚の画像から:その14 「181系気動車しなの」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。今回から7回ほどにわたって国鉄の特急列車のモノクロ画像をアップしていきますが、そこで「一枚の画像から」シリーズ記事は打ち切らせていただきます。 時刻表をまったく買うことがなくなって6年経ちました。列車を乗り継いで旅をすることがなくなったこともありますし、ちょっと時刻を調べるくらいならスマホアプリを使うか、調べもの程度のことでも駅や図書館にある時刻表をちょっと拝借すればいいので不便を感じることがありません。現在の時刻表が必要なくなった私ではありますが、過去の時刻表を紐解く機会はときどきあります。たとえばこの度のネガフィルムの廃棄にともなうデータ確認と、このシリーズ記事を書くにあたって、保管していた過去の時刻表のページを幾度も開く必要がありました。そうした調べものをしている間にも、その調べものに関係のないほかの列車やほかのページがついつい気になって開いてしまって時間を無駄遣いしてしまうこともありました。それほど昔の時刻表には見どころが多かったように思います。もちろん今の時刻表でも、この先何十年か後になれば、まだ全国にJRの在来線がつながっていた時代の末期ダイヤとして、あるいはコロナ禍直後の減量ダイヤとして歴史的価値を生むのかもしれませんが、在来線に長距離列車があふれていた国鉄時代の時刻表にはかなわないだろうという気はします。 変な前置きになりましたが、古い時刻表で時刻や編成を確…

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【1438】 スチール棚の鉄道模型その後:2022年8月[特急列車]

先月「スチール棚の鉄道模型その後:2022年7月[昭和51~55年ごろの国鉄列車]」を3回に分けて連載しました。そのなかに展示した旅客列車の特急は皆無で、特急と言えるのは貨物列車2本だけでした。一般に特急は模型的視点に立てば単調な固定編成になりがちで編成組み換えのバラエティが少ないということで、ベタな内容になってしまいがちですし、個人的志向も特急崇拝者ではないので、「昭和51~55年ごろの国鉄列車」では、非冷房で一般受けしない車両が中心になったわけです。それでも個人的には、経験や思い出に由来していたので、自己満足の模型遊びとしてはけっこう気に入った展示内容でした。その「昭和51~55年ごろの国鉄列車」は、実は春から3ヵ月以上にわたって長く続いていまして、その間飽きることなく眺めていました。編成内の一部車両を取り換えるなどして、このまま年末まで続けてもいいくらいに思っていたのですが、連日猛暑日が続くようになると、実に暑苦しい展示内容だと思うようになりました。いちおう冷房編成は165系電車と58系気動車各1編成と客車に寝台車と郵便車各2両がありましたが、165系電車と58系気動車は、いずれも乗務員室では冷房が効かず暑い思いが蘇る列車ですし、寝台車と郵便車の冷房車は、荷扱時代に、乗務していた非冷房の荷物車から冷房エンジンの音をうるさいと思いながら聞いているだけの暑苦しい存在でした。 とにかく見ただけで暑苦しく思う展示内容を一掃しておこうという意図で、すべての車両を引っ込めて、今回は全車冷房された特…

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【1437】 一枚の画像から:その13「中央西線D51の末期3」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 1973年5月22日 中央西線 田立~南木曽 5881列車 本務機D51245(中) 後補機D51401(木) 中央西線のD51最末期の画像で、この直後に田立~南木曽間は新線に切り替えられ、地下鉄のように長いトンネル区間になりました。この5881列車は後補機が付いた下り貨物列車だったので、なんとか1枚の画像に先頭から後補機までを収めてみたいと仲間内で話していて、線路付替えになるために架線が張られてないこの場所へ3~4人で着た記憶です。しかし日が傾いた夕方に中央西線の下り列車を撮影するとどうしても逆光になりますし、そもそも木曽谷では地形的なこともあって、列車の全容が見渡せる撮影スポットがかなり限られました。SLゆえに上り勾配である場所であることも条件となりますが、気温が高いこの時期にはブラストには勢いがあってもケムリは少なく、2日前にも同じ場所で撮影したこの列車の画像が残されていますが、どちらも思ったような絵にはなっていません。後補機のケムリが見えるだけいいかと思って、こちらの画像をアップしておきます。期限が迫ってドタバタしても納得できる写真を撮れることなんかできないと教訓を得るわけですが、そういう教訓は幾度無駄にしたことかと反省します。 本務機D51245、後補機D51401とも中央西線を最後に廃車されたあと、中央西線沿線ではないものの長野県内に静態保存されて…

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【1436】 一枚の画像から:その12「中央西線D51の末期2」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 1973年5月3日 中央西線 落合川~中津川 この日のネガフィルムには落合川の木曽川沿いに中学時代の非鉄友人が写っているコマがありました。そのことから記憶がよみがえりました。この日だけは彼と2人で、家から自転車で1時間以上かけてここまできたのでした。たしか彼もお父さんのカメラを持ってきていたんじゃなかったかな。 機関車のナンバーは画像から読み取れませんが、D51 201号機であることをネガ原版で確認してあります。(次位機DD51のナンバーはさすがに読み取れませんでした。) 列車番号も記録してありませんが、当時の弘済出版社刊「最新SLダイヤ情報春夏特集号」に収録された列車ダイヤとネガフィルム順から列車は828列車と特定できました。当時すでに定期客列車はDL化されていたのですが、多客期の増結によるためかD51 201が先頭に立っていました。このD51 201は中部地方各地を転々とした履歴を持ち、昭和20年代には多治見機関区に在籍したこともあったようです。中津川では2年ほどの在籍で、その後は愛知県蒲郡市内に保存されています。数年前に再会したところ、集煙装置もそのままに、華美な装飾もなく、この時代の雰囲気をよく残していて大変好感が持てました。 当時の列車ダイヤによれば、このあと4014Dしなの2号、9824Dが1時間以内に続いていました。ネガフィルムのほうは、この画像の…

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