実はそのとおりなのです。
現在走っている貨物列車のように、行き先が列車ごとに決まっていて編成もほぼ毎日決まっているような貨物列車だと何もすることはないのです。当時も、コンテナ専用列車のほか石油、セメント、石灰石など1列車にまとめられるような大口の貨物は専用列車として運転されていました。そのような列車の場合に限って言えば、乗務中は何もすることがなく「ときどき列車の状態に注意」していればいいのでした。
今、JR貨物は大口の荷主だけを対象として特定の線区の特定の駅でだけ貨物営業をしています。指定列車で指定の貨物を輸送し、着駅への到着時刻が明確になっているわけですが、国鉄時代はそうではありません。当時は、相当多くの駅において貨物の取扱いをしていました。貨物取扱駅であれば日本全国どこへでも貨車1両単位での輸送をしていたわけです。
昭和51年 東神奈川駅ホームから見たEH10貨物列車です。さまざまな行先のさまざまな種類の貨車が連結されています。
貨物列車は多くのローカル線でも設定されていて、操車場や分岐駅ではその中継のため貨車の切り離しと連結作業(入換作業)が行われたのはもちろん、貨物営業駅を各駅に停車して入換作業を繰り返す貨物列車が必ず設定されていました。
こちらは昭和55年 吹田操車場での重入換用DE11と本線貨物列車の主役EF65です。
基本的に操車場では貨物列車を組成するとともに、到着した貨物列車を方向別や駅別に選り分ける作業が入りますので、操車場の処理能力、列車の重量制限や長さの制限など輸送上の都合で、発送した貨物がいつ、どの列車で目的駅に着くのかが不明確なものでした。そのような「解結貨物列車」では、やるべき作業はたくさんあって、気が抜けないものでした。
このような貨物列車に乗務すると、「ときどき列車の状態に注意」していればいいわけではありません。
車掌車 [ 笹田昌宏 ] |


この記事へのコメント
アルヌー
たくさんの駅に止まって、そのつど入れ換え作業を行う貨物列車の乗務は、きっと僕が想像する以上に複雑で大変だったんでしょうね。
行き先がバラバラの貨車を、停車駅ごとに入れ換えるなんて、頭の中がごちゃごちゃになりそうです。
(^_^;)
その頃に比べれば、現在の様なコンテナだけの貨物列車で、積み降ろしも荷役線でフォークリフトで出来るのは、本当に楽な事なんですね。
それにしても送った荷物が、いつ着くかはっきりしないなんて、今では考えられないですねー。
EH10 大きな機関車なのに、色もデザインも落ち着いていて派手さが無くて、仕事に徹している感じが、かっこいいです。
\(^o^)/
hmd
・・・なるほど^^
貨物列車だとより第一の任務である
保安業務が重要になるのですね。
一枚目のEH10貨レも懐かしいです。
2軸貨車が何両も連なるその姿は
やはり国鉄らしさを感じさせます^^
(たまに静岡方面に在来線で行く時、
紙を運ぶ2軸の生き残りの青ワムを
まじまじと見てしまいます)
しなの7号
コメントありがとうございます。
国鉄の貨物輸送は、結果的にこうした時代遅れのシステムが命取りになったと言えましょう。
このEH10の写真は、国鉄就職直前に初めて夜行で上京した際に撮ったものです。
しなの7号
EH10と2軸貨車は国鉄時代の東海道本線の貨物列車の代表格として、私も大好きです。東海道本線の乗務ではよくこの機関車には当たりました。機関士に頼んで運転室に乗せてもらったこともありましたが他の機関車よりとても広い運転室でした。
青ワムは今も地元中央西線沿線にある春日井駅からも運用があって、私も懐かしく眺めております。
野良太郎
僕の父方の伯父が地元の車掌区で車掌長してました!優等列車に乗務する傍らで
予備交番時には列車掛として貨物列車にも乗務しておりました!伯父はいつも自分の車掌としての原点は貨物列車だが口癖でした!定年退職するまで予備交番のほとんどを貨物乗務で過ごし、最後の乗務列車が境線の境港発、宍道、知井宮行きの原木貨物5684レでした
しなの7号
ご覧いただきましてありがとうございました。
地方の車掌区では、長年務めると車掌長兼列車掛という職名になり、オールマイティどんな列車にでも乗務されている職場が多くあったようです。「車掌としての原点は貨物列車」は名言ですね。
山陰に行くといつも車窓案内が楽しみで、山陰の車掌さんに私は好印象を持っています。