国鉄時代の中京地区では、首都圏や関西圏での使い古した中古車両が多く運用されていました。中央西線を例に挙げれば、電化されたときは中央西線電化完成置換え用として113系が発注されますが、その新車は横須賀線に投入され、横須賀線の新性能化がはかられます。実際に中央西線に投入されるのは、横須賀線で不要になった70形電車であるわけです。
中京地区の103系も同様で、それまで走っていた72形(これも中古でした)の取替用として、昭和52年に首都圏でATC化に対応した新車の103系が投入され、そこで不要になった103系初期車が転属してきたのでした。
首都圏に新製配置されたATC対応車は上の写真のように高運転台でした。
(この写真はすでに山手線や京浜東北線での役目を終えて、川越線に転用されたあとの撮影です。川越線初乗りのときに行き違い待ちのホーム上で撮影したものです。)
以上のような経緯で中京地区の103系は低運転台なので,このATC車とは顔がちがいます。
上の写真が中央西線 新守山~勝川間の103系電車です。
国鉄時代の中央西線では当初6両または10両編成で運用されていました。元の線区の色のまま、黄緑色と水色の車両が混じっていましたが、私が乗務するころには水色に統一されていました。
写真は転属から間もない頃の混色編成です。名古屋駅での撮影です。
中京地区での103系使用線区は、国鉄当時に限って言えば、並行する私鉄がなく朝夕の混雑が激しい中央本線だけで、トイレがないことから名古屋~釜戸間に限定されていました。使用に際して前面窓にデフロスタ、助士席側にワイパーが設置され、乗務員室も客室も暖房が強化されました。今、気が付きましたが上の写真のクハは、まだ助士席のワイパーが取り付けられていないようです。色も黄緑色のままですから、これらの改造は徐々にされていったのではないかと推察します。
中京地区の103系のもうひとつの特徴は、先頭車のみ行先サボ受けがドア付近に取り付けられたことです。そのため正面の字幕は使用されず、白表示のままでしたが、のちに「中央線」の文字が書かれたステッカーが字幕窓ガラス上に貼られました。字幕が使用され始めたのは民営化が間近に迫った61年11月ダイヤ改正時からでした。
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この記事へのコメント
アルヌー
川越線の103系懐かしいです~(^O^)
電化後にも乗りに来られたんですね。
低運転台の103系には乗った事が無いですが、秩父鉄道で101系に乗りました。顔は同じ感じですよね。
川越線の写真は、武蔵高萩駅ですか?違うかな~?(^_^;)
103系にサボがあった事は知りませんでした。
色違いの103系が繋がっているのも面白いですね。
中央西線に横須賀線の中古車が使われていたなんてビックリです。しかも70系なんて!
しなの7号
いつもありがとうございます。
103系のATC車の写真探してましたら川越線のがありましたので、UPしてみたんです^^
同じ103系なのに新車が中古車を追い出すことになったわけです。
川越線の写真、あいにく撮影した駅はわかりません。川越~高麗川間であることは確かですが…
サボを使用したのは神領車だけではないかと思います。どういう意図なのかわかりませんが、クハとクモハだけにサボ受けが付けられていたんです。
アルヌー
川越線の写真ですが、川越-高麗川で確かならば、写真の駅は武蔵高萩駅で間違いないと思います。
川越-高麗川間で列車交換が出来る駅は的場駅と武蔵高萩駅の2駅だけなんですが、的場駅は島式ホームで線路の両脇は住宅が隣接して建っているので、写真の様に視界が広がっていません。
線路の砂利や枕木が綺麗で新しそうなので、電化直後の頃でしょうか?
僕は川越線の103系の写真を持っていないので、懐かしく拝見させて頂きました。\(^o^)/
しなの7号
ご教示ありがとうございました。まったく駅名がわからなかったので助かりました。
先頭車に乗っていて、行き違い待ち中に103系が見えたので、とっさにホームに降りての1枚でした^^;
そのため駅のことは覚えていません。1996年11月9日の撮影です。このあと八高線を抜けて青梅線に移動しました。
たこすけ
写真に写っている103系は昔の
山手線ですよ。懐かしいなぁ!
首都圏で現役引退して
中央西線で活躍していたのですね。
全く知りませんでしたよ。
しなの7号
こんばんは~
いつもありがとうございます。
名古屋駅の黄緑色の103系、正面をよく見ると正面窓下の部分が長方形に塗装が少し濃くて、この部分だけ日焼けしていないんです。この長方形は[横浜線]と書いてあったプレートの跡ではないかと私は想像しています。横浜線に流され、さらに流れ流れて中央西線でしょうか?
hmd
小学生の頃、中央(東)線快速の103系が高運転台になり「格好いい!」と感じた思い出があります^^
横浜線は地元なのですが、当時72系などのチョコ電に混じって103系低運転台が走っていた様な気がします。
その後、新型が投入された山手線などから大量に転属車が運転されるようになり一時期は4色混合というカラフル電車(赤・青・黄・黄緑)が走り見事?でした。
横浜線も専用の205系が投入されてからはすっかり見なくなりましたが、関西・中京方面に行ったのですね^^
103系のサボ受け改造も驚きました^^
しなの7号
いつもありがとうございます。
横浜線、4色揃った編成があったのですか。
すごいです。中京地区同様、やはり山手線とかの中古車のたまり場の様相ですね。
風旅記
国鉄時代の車両の転配は広域に及んでダイナミックですね。今では路線ごとに特化した車両が多いように思いますが、当時は様々な機器を含めて汎用化が徹底されていたのかもしれません。
このような純粋な通勤電車が、古虎渓の辺りも走っていたと思えば、不思議な風景に感じられます。
今の電車とは比べ物にならない程のモーター音を響かせて、寒暖厳しい中央西線を走っていたところ、私も見てみたかったものです。
木田 英夫
最近のコメントの目次からこちらに入りました。73号、74号も併せて読ませて頂きました。
思い出の尽きない103系です。大阪地区でも首都圏で活躍していた車両が見られました。電車通学をしていた頃、大阪環状線にクハ103-1、クモハ103とペアを組んでいたはずのクハ103-501のトップナンバー2両が走っておりました。
本文に、横須賀線に新車を投入するときの名目が「中央西線電化完成置換え用」となっていましたが、ストレートに例えば「横須賀線新性能化置換え用」とならなかったのは何か理由でもあったのでしょうか…。
103系といえば、平成のスーパー改造も忘れられません。戸袋窓こそ埋められましたが、207系並みの内装、下3/4を固定窓にして上1/4は欄間スタイルの引き違い窓(高速バスタイプ)、運転席は大きな1枚ガラス。そしてオレンジ一色の車体に映えるアルミサッシ…。始めて見たときはこれがあの103系?と驚いたものです。
このコメントを書いていてふと思ったのですが、もう少し長生きしていれば、或いは産まれたときが遅ければ、同時にインバーター化(+エアサス台車に取替え)して、セイコーの目覚まし時計ではありませんが「令和のウルトラ改造」、究極の103系出現!となったかもしれません。
何時もありがとうございます。木田英夫
しなの7号
国鉄時代の車両は、将来の転用にも耐えうるよう汎用性と耐久性を重視していたのは確かなようですね。これにはメリット・デメリット双方があったわけですが、広域にわたる転配こそが鉄道趣味を持つ者にとってはたいへん興味をそそる事柄を生み出していた一方で、地方の鉄道は常に中古車両を押し付けられ不公平感がありました。私どもの生活でも、物を大切に長く使う文化から使い捨てへ、その反省からリサイクルへと変化していきましたが、鉄道車両にもそういう文化の移り変わりを感じます。
中央西線の103系、きっと今とは比べ物にならないほ電力を消費しながらモーター音を響かせていたのでしょう。
しなの7号
103系電車は、子供のころには東京か大阪に行かないと見られませんでしたから、私には中央西線に転用され乗務するようになるまでは、なじみが薄い都会の電車でした。
JR西は、更新改造を重ねながら長く国鉄の車両を使用してきましたね。だんだん製造時とは姿かたちは変わっていきましたが、その変貌ぶりに相応の歴史を感じます。私が最後に乗った103系は奈良線でした。
国鉄が新車投入する時の予算執行では、その新製車両が別の路線に配置され、玉突き配転で本来の予算執行理由となった線区へは中古が配置されることは普通にあったようです。中央西線瑞浪電化用としてEF64が新製されていますが、そのロット(13両)はすべて中央東線に配置され、玉突きでEF60が中央西線に転属してきましたし、飯田線の旧型電機置換用として新製されたEF64があり、当然それは中央東線に配置されて、玉突き捻出のED61がED62に改造されて予算上本来の使用線区である飯田線に配属されて旧型電機を置き換えるといったぐあいでした。全社的に目を向ければ、一つの予算で別の線区の輸送改善ができて一石二鳥みたいなことだったのかもしれません。