103系にはドア扱いのスイッチ(車掌スイッチといいます)に付属して「再開閉スイッチ」が装備されていました。中京地区にはそれまでなかったもので、その機能は、ドアに何かがはさまって閉まらない場合、「再開閉スイッチ」のボタンを押すことによって、その閉まらなかったドアだけが再び開き、ボタンから手を離すとそのドアが再び閉まるというものでした。カバンや乗客の体の一部が挟まってしまったとき、再開閉スイッチを操作することによって、他のドアは閉まったままでそのドアだけが開くので、挟まったカバンを引っ張り込むなり、挟まった乗客は乗車するなり、降りるなりできるわけです。
このスイッチがない113系や165系などでは、この場合全部のドアを開閉しなければなりません。危険でもあるし、他の開いたドアから、乗るのをあきらめたホーム上の客が乗り込もうとするので、また挟まったりして列車が遅延します。便利な装備でしたが、閉まらないドアが前のほうだと、ほんとうに機能しているのかわからないのでちょっと不安でした。
民営化が翌年に迫った昭和61年春、豊田電車区から、新たに4両が転属してきました。すでに東京口の中央快速線では201系が活躍していたと思われますので、この4両は転属直前は青梅線や五日市線を走っていたものと思います。転属後しばらくは橙色のままでしたので、非常に目立ちました。
神領電車区での撮影です。所属表記も最初のうちは西トタのままでした。
さっそく乗務の機会がありましたが、神領電車区在来の103系のように暖房強化改造がされてないので車内は寒かったです。のちに外部色は水色にされましたが暖房はそのままでした。
昭和61年3月11日
中央本線671M
運転区間 名古屋~高蔵寺
乗務区間 名古屋~高蔵寺
クモハ103‐ 18 名シン
モ ハ102‐ 94 名シン
サ ハ103‐111 名シン
モ ハ103‐ 94 名シン
モ ハ102‐137 名シン
ク ハ103‐512 名シン
クモハ103‐ 91 西トタ
モ ハ102‐210 西トタ
サ ハ103‐167 西トタ
ク ハ103‐549 西トタ
前6両 神84 (水色)
後4両 神124(橙色)
この転入車両は冷房車でした。在来の103系も冷房改造が進行していましたが、民営化前に全車が冷房化されるには至りませんでした。
神領電車区のすべての103系がJR東海に引き継がれて、民営化後に車内外ともにリフレッシュ工事が施工され、塗色もJR東海のオリジナル色に塗り替えられました。
国鉄退職後も私は民営化後の中央西線を利用して通勤をしていましたので、乗客として211系に混じって朝の通勤時間帯を走る103系に乗車することがたびたびありました。211系と比較すると明らかに高速域での加速が鈍く性能的に211系と並行したダイヤを組むには無理があるのがよくわかりました。名古屋に向かって庄内川と矢田川の2つの川を渡るのですが、満員の乗客を乗せて堤防へ向かう上り勾配では、上りきっても速度が遅く、鉄橋を渡り終え下りかけてもまだ力行加速しており、後続の211系の列車に追いつかれまいと必死に走っているように感じられました。
JR東海の103系は関西本線名古屋口にも進出して活躍を続けましたが、平成11年には全車211系に置き換えられました。


この記事へのコメント
アルヌー
再開閉スイッチって、ドアの開閉をする器械の下にあったやつですか?
もしかしたら位置は違うかもしれませんが、学生時代に西武線で車掌さんがボタンを押しているのを見た事があります。
ドアを閉める棒をガチン!と下げた(上げた?)後に、すぐ下にあるボタンを押すと、ドアが開かないのにプシューって音がしていた様な記憶があるのですが。
違っていたらすいません。(^_^;)
JR化後も非冷房の103系が走っていたんですねー。
以前103系の尾灯がつぶらな瞳に見えると書いたと思うのですが、低運転台でライトが大きくて一つ目だと、かわいい顔に見えますね。おでこが広いみたいで。(^_^;)
転属して来た先でもお客さんをいっぱい乗せて、坂道を一生懸命登っている所を想像すると、なんだかけなげで、いとおしくなりますね。
あのフカフカした座席の座り心地が懐かしいです。
\(^o^)/
hmd
こちらは天気が悪い日が続いて、寒いです。
再開閉スイッチ、こちらでは運転室を覗き込むと必ず有るので当たり前かと思っていましたが当時の近郊形には無いのですね。最新の近郊形にも無いのでしょうか?^^ 使うとなかなか便利な装置と言うのも意外な驚きでした。
103系もこちらではもう見られない(多分?)ので懐かしい限りですが、ひとつ前の101系が秩父鉄道で何とか生きながらえているのでがんばって欲しいです^^
しなの7号
いつもありがとうございます。
再開閉スイッチは、103系にはその「ドアを閉める棒をガチン!と下げる」車掌スイッチの上にある赤いボタンでした。西武線とは位置が多少違うかもしれませんね。
私は103系は高運転台の顔よりも低運転台の顔のほうが断然好きです。神領の103系は車内の座席はJR化後には211系と同等のものと交換されました。
しなの7号
いつもありがとうございます。
再開閉スイッチ。当時田舎の電車には珍しかったのですが、後継211系にも付いていますし、通勤・近郊型には当たり前の設備なのだろうと思いますが、各形式を見たわけではないので、現況の詳細は私は存じません^^;
きっと山手線あたりの車掌さんは私のような田舎の車掌とは違い、再開閉スイッチも上手に使いこなされたのでしょう。
風旅記
103系、若かりし頃には特に意識することもなく日常の中にあった車両でした。
硬い乗り心地、大きな走行音、思い出しますと今の新しい車両の性能の良さを実感します。
都心部の急加速・急減速を求めての車両だったのでしょうね。郊外を速度を上げて走るときには、最大の力を出してやっとのことで走っているような感覚でした。
中央西線で乗ったことはないのですが、名古屋から離れるにつれての綺麗な車窓とは、ちょっと不釣り合いにも感じてしまいます。
きっと、長い駅間を必死になって走っていたのでしょう。乗務員の方には大変な車両だったのかもしれません。
しなの7号
地元JR東海管内から103系が見られなくなって久しく、その後継車211系が廃車になる時代になってしまい、年月の流れをしみじみ感じます。その年月の流れの中で、滑るように静かに走る新型電車の乗り心地にすっかり慣れてしまいました。関西圏に出かけて103系や113系電車に乗ったときには、乗り心地や走行音の進化していたことを意識したと同時に、「ああ、これだった!」と忘れかけていた国電テイストに浸ってしまいました。
4扉の63形や101・103系電車は、どう考えても地方路線にはふさわしくなかったですが、国鉄ではこうした転用例が多かったですね。先日テレビで富士急へ移籍した205系の映像を見たときに、同じような思いがいたしました。
おんたけ号
こんにちは。
103系導入時、名古屋もやっと都会扱いになった。と思うと同時に、沿線風景に似合わん。とも思いました。
当時の沿線は我が新守山から田畑が点在してましたから。
今なら高蔵寺迄は何とか合いそうな気がしますが。
[73]記事に掲載の写真のように定光寺、古虎渓(一発変換で出てビックリ)は今も変わっていない(千歳楼が廃屋になった事が大きな変化)ので、ここは113系でないとダメですね。
定光寺公園への遠足時や名古屋駅への行き帰り時、管理人
様が乗務の103系か113系に乗車したかも。と勝手に想像
しております。
103系のJRカラーは記憶から飛んでおり、写真拝見してこんなのあったな。といった具合です。
以下、記事に関係しないコメントで失礼します。
来春のダイヤ改正で、西線は130㎞/h走行、昼間に区間
快速設定とかのアナウンスがありましたが、個人的に
ショックを受けた情報が、「勝川駅無人化」です。
toica定期、チャージ以外は窓口で購入しており、指定席
購入時のアメリカ、イングランドが通じるのかの楽しみ?
が無くなってしまいます。JR西のみどりの窓口廃止に追従
するのか?そんなのまねるなと言いたい。(無駄な抵抗)
以上、失礼しました。(認証コードに笑い)
しなの7号
当時の中央西線は今のような便利なダイヤではなかったですから「国電型」は似合わなかったですし、駅間距離も岐阜県内に入れば長く、103系に向いているとは思えませんでしたね。でも通勤時間帯には威力を発揮し、乗務する側としては、同じ両数でも急行間合の2扉編成に比べればたいへん有難い車両でした。
上りの遅い時刻の列車に、ただでさえ乗降の少ない乗降時でなくって定光寺から乗るような乗客は、ほとんどありませんが、千歳楼で宴会の片づけを終えて帰宅するパート従業員らしきオバチャンが乗ってくることがありました。
中央西線のローカルにはかなり乗務しましたので、どこかでご縁があったかもしれません。
勝川駅に窓口閉鎖時間帯があることにびっくりしたものですが、ついに無人化。JR各社とも駅員は減っていくばかりですね。
そういえば先日、315系に初めて乗りました。C107・108が来ないかなと思って出かけたら神領で昼寝しており、その日は往復ともその編成に乗れなかったので、翌日改めて、C107・108に乗るだけの目的で出かけました。これで鉄道に一度も乗らない年にならずに済みました。