113系にはよく乗務したものです。
中京地区では、普通電車の主力として活躍していました。東海道本線では165系や117系が主に快速運用にはいっていましたが、中央西線では113系も快速に使用されていました。
国鉄の直流区間なら111、113、115系の一連の系列のどれかが活躍しているといってもよいくらい一般的な系列でした。国鉄時代の外部色はそのほとんどが橙色と緑色の湘南色か、クリーム色と紺色の横須賀色と通称されるもので、地域的な特色も目立たず珍しいものではありませんでした。
そのなかで初期の少数派111系にも乗務していました。
113系とは実際には111系の出力アップ改良型であり、111系の製造が打ち切られ113系に移行してもモーターを持たないクハは111の形式をそのまま通番で名乗っていますし、新規で起こされた中間車サハも111を名乗っています。
その111系は私が乗務していたころには、静岡運転所に配置されていました。中京地区の運用は大多数が大垣電車区と神領電車区所属の113系電車で賄われていましたが、東海道線本線の一部列車に静岡運転所の電車が入ってきていたので、ときどき乗務することがありました。
昭和59年12月20日
東海道本線 1542M
クハ111-10 静シス
モハ111-9 静シス
モハ110-9 静シス
クハ111-385静シス
クハ111-28 静シス
モハ111-12 静シス
モハ110-12 静シス
クハ111-386静シス
(静43+静57)
名古屋~浜松間乗務
中京地区の113系も当初は冷房がありませんでしたが、昭和54年から新造された2000番台は新製時から冷房車でしたし、在来型の113系の一部も冷房化されつつありました。
この編成例の1542Mは静岡運転所の111系の運用なので、夏場でも冷房車に当たる可能性のない列車でした。静岡の車両は冷房車の113系を首都圏方面の直通列車に優先して使用するためか、静岡周辺~名古屋方面のローカル運用には古くて冷房化の計画もない111系が使用されていました。仕事上では111系も113系も違いを意識することはありませんでしたが、気分的に夏場は冷房がないことがわかっているだけに、気がのりません。一方、冬場は111系も113系(2000番台を除く)のいずれもが客室、乗務員室とも暖房が弱く、隙間風があって寒い車両でしたので気が乗らないのは111系も113系も同様でした。
昭和59年1月31日
中央本線 753M
クハ111-109 名シン
モハ113-123 名シン
モハ112-123 名シン
モハ113-42 名カキ
モハ112-42 名カキ
クハ111-434 名シン
クハ111-97 名シン
モハ113-93 名シン
モハ112-93 名シン
クハ111-426 名シン
(神910)
名古屋~中津川間乗務
113系の10両編成ですが、この日は翌日ダイヤ改正があるための変運用で運用番が900代になっていました。おもしろいのは神領(名シン)の運用に大垣(名カキ)のモハユニットが一組混じっていることです。このまま転属になるのでしょう。通常は神領の8両編成だった列車でした。中央本線の混雑緩和策なのかダイヤ改正を機に神領の6両編成が増やされたものと推察します。
神領の113系は4両ユニットと6両ユニットの2種類がありました。上に示した編成例はその6両と4両を組み合わせたものですが、中央本線では新しい2000番台車は6両編成に多く存在し、4両編成は在来の初期車が多く運用され、そのほとんどは2000番台と0番台が4両または6両のユニット内に併存せず、ユニットは0番台または2000番台のいずれか一方で運用されていることがほとんどでした。
神領区の2000番台4両ユニットは関西本線や岡多線の運用が多く組まれていましたので中央本線で見ることは比較的少ないようでした。
113系も初期車の隙間風と暖房には問題がありましたが、2000番台は同じ113系とは思えないような装備で、初期車とは雲泥の差がありました。
2000番台車は冷暖房とも完備しているという以外に、ユニットサッシと屋根上の押込型通風器によって隙間風も減少しました。乗務員室も広くなって、客室との間仕切りにあるガラス窓も小さくなって、覗きこまれることが少なくなりました。
下に示した編成例(後部4両)のように、2000番台と0番台の併存する編成もときには出現しました。
昭和61年4月5日
東海道本線428M~中央本線629M
クハ111- 7 名シン
モハ113- 36 名シン
モハ112- 36 名シン
クハ111-306 名シン
クハ111-2127名シン
モハ113- 98 名シン
モハ112- 98 名シン
クハ111-2027名シン
(神55+神46)
米原~神領間乗務
113系はこの地方ではいつでもどこでも見られたものです。それ自体、空気のように当たり前に存在しているものだった気もしますが、国鉄時代でも国鉄線のみならず、私鉄への乗り入れも見られました。
こちらの写真は東海道本線から大井川鉄道に乗り入れていたころの姿です。
同鉄道千頭駅での撮影です。手前に転車台があるのがお解りいただけるかと思いますが、hmd様のブログ「hmdの鐵たびブログ ローカル線の旅」の「【95】木造レトロ駅めぐり?大井川鐵道2011(5)千頭駅 その1 駅紹介編」の中で、この転車台の経歴をはじめ、現在の千頭駅の様子をご紹介されておられますので、ぜひご覧ください。
現在の大井川鐵道では、金谷駅にあったJR線との連絡線が取り外されてしまったので、こうした乗り入れは不可能となってしまいました。
113系電車はその外部色から、東海地区ではかぼちゃ電車とも呼ばれていたのですが、すでにJR東海からは引退しています。
<<次回へ続きます>>
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- Excerpt: こんにちは。先日の続きの旅日記を投稿します。 写真を中心に「見る紀行文」で連載中です。 写真は素人腕のコンデジ撮影です。ご容赦下さいませ。 ----------------------------..
- Weblog: hmdの鐵たびブログ ローカル線の旅
- Tracked: 2011-05-21 15:48
この記事へのコメント
アルヌー
湘南色の電車、懐かしいです。僕は何度か、数える程ですが、高崎線で115系に乗りました。
運転台が高くて、前から見ると大きく見えました。
15両編成の長い湘南色の115系が凄いモーター音を響かせて踏切を通過するのを見た時は、迫力があるな~と驚いた事を思い出します。113系と115系は顔の色分けが少しだけ違う事でしか見分けられません(^_^;)。目が大きい時代の顔も、なんとも言えない良い顔ですよね。
近郊型電車は身近にあって気軽に乗れるクロスシートの電車だったので、たまに乗ると知らない人と向かい合う緊張感もありましたが、ちょっとだけ旅気分が味わえる電車でした。
今の電車と比べると鉄の塊って感じですね~(^_^;)
しなの7号
いつもコメントいただきありがとうございます。
高崎線は115系でしたね。113系とは兄弟みたいでした。中央西線も中津川以北の木曽谷は115系でしたが、私の職場では115系定期列車の乗務はありませんでした。
低いモーター音は重厚で重量感のある国鉄電車らしくていいですね。初期の大目玉の顔は「国鉄の顔」の代表格。
私は空いているとき(立ち客がないとき)のドア横にある2人掛ロングシートが好きでした。
hmd
こちらは久々に雨が降っていない朝です。
先程はコメントを頂き、ありがとうございます。
当時の中央西線や東海道線の運用の様子がよく判りました
全国の中長距離直流線区の王者ですが年々少なくなり残念です。気分転換にDCに乗り、JR八高北線で高崎に到着すると、湘南顔の115系が出迎えてくれて国鉄時代に一瞬戻ったような気がいつもします
中央東線のスカ色115系もまだ動いていますが、お友達のDD16303のお話だと更新の話も出てきているようなので心配です(快速むさしの号に話が・・・)。
走行中にやたらガタガタ揺れる乗降扉、すきま風が多く冬場は寒い車内、唸るMTモーターと無骨ながら魅力が多いですね
hmd
本文中「DD16303さん」です。
訂正致します m_ _m
しなの7号
いつもコメントいただきありがとうございます。
まだ、残る国鉄の面影113系115系の顔を見ると、おっしゃるとおり国鉄時代に一瞬戻ったような気がしますね。
JR化によって外部色も多種多彩になりましたが、湘南色かスカ色でないとダメな私です。あの色彩と先頭部の造形は電車の顔の完成形だと思っています。
113
ありシンからカキへTc4 Tc'313の2両、カキからシンへMM'4・42
・74・87の8両でした。
1月29日 シンA56(8両編成)で1527Mでカキへ。その中間に連結されていたカキ転属のTc4とTc'313を切り離しシン転属の
MM'42を組み込み出区。臨A903 1532Mで浜松へ。当日の
編成は未調査で分かりませんが多分1月31日の編成がらみと私は推察します。本列車は所定では1月30日はシンA51で米原から532M~633Mでシン入区。ここで1月31日乗務の編成に組み替え回891Mで出区高蔵寺へ。臨A909か?。
当日31日は所定ならシンA52で8両編成の所シンA910 10両編成で中津川728Mから乗務された753Mに継承され758M釜戸でマルヨ。ダイヤ改正の2月1日シンA69A45 回847Mで中津川へその後所定へ。他の転属車は22118で臨回とやはり営業運転のまま転属しました。ダイヤ改正前後の変運用などパズルを解くようで、懐かしき良き時代まさに国鉄
時代でした。
しなの7号
ダイヤ改正時の移り変わり運用の解明ありがとうございました。
私どもは変更を告げられるだけですが、定期列車を上手に使って転属させるものですね。
実はこのとき
1/31 753Mのあと中津川-758M-釜戸(ヨ)
2/1 釜戸-回847M-中津川-728M-名古屋まで、
この編成とおつきあいしました。
113
何故29日か30日に撮影に行っていないのか記憶にありません。多分事後に情報が入ったのでしょう。編成が分かればと悔やまれます。
しなの7号
私の場合は「自分が乗務した記録」との位置づけに過ぎませんし、手持ちの資料も乗務時のメモと、貸与されていたもののうち、ダイヤ改正によって不要になって廃棄すべきものを一部保存しているにすぎません。お役にたてる記事はあまり書けないように思いますが、ヒントになるところがあればうれしいです。
風旅記
今日も楽しく拝見させて頂きました。
私個人は、関東から、東海道本線方面よりも東北本線や高崎・上越線方面に向かうことが多く、113系よりも115系の方が馴染みがありますが、どちらも近郊形電車の雄と言えるかと思います。自分で好きに旅に出るようになったときには、関東圏では既に211系やE231系の時代になっていましたので、どちらかと言えば信越エリアでよく乗った電車、というところかもしれません。
ご記載のある“隙間風”、冬には本当に寒く感じたのを思い出しました。真冬に、ドア横で立っていたときの戸袋から入ってくる冷たい風や、ボックスシートで感じる窓の隙間からの風、旅先で幾度も感じたことがありました。
今の新しい車両は、その観点では密閉度が上がっているのでしょうね。こちらの記事を拝見して思い出した“隙間風”、思えば久しく忘れておりました。
大井川鐵道に乗り入れている国鉄車の雰囲気もいいですね。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/
しなの7号
昔の電車は寒かったもので、昭和の歌、西島三重子の「池上線」の歌詞にも「隙間風に震えて」とあります。今どきの電車は窓が開かなくなった代わりに気密性がよくなり、冷たい隙間風が気になることが減りましたね。デッキがない近郊型111・113・115系初期車の先頭車に乗ると、乗務員室に客室の空気が吸い込まれて、乗務員室と客室とを隔てる扉の隙間から気圧差で空気が流れてビュウビュウとうるさい音がすることがありました。空気の流れが、「外気→客室→運転室→外」というように、電車内では進行方向とは逆に流れていました。つまり先頭の運転室は、客室内の多少は暖かい空気が入り、客室には冷たい外気があらゆる隙間から滲入するのです。逆に私が乗務した最後部の運転室は向きが逆ですから、寒い外気が直接入り、後部乗務員室の空気が客室へと流れます。トンネルに入ると一瞬空気の流れが変わったりはしますが、デッキのない113系では、おおむね後ろの乗務員室は客室より寒かったです。