前回記しましたように、車掌のほとんどが好まない旧型客車でしたが、私を含め、鉄道好きの車掌は楽しんで乗務しているのがわかりました。全国的にみれば、客車でも50系が増加してきていましたし、客車そのものが減る傾向にあったのに、昔ながらの汽車の面影を濃く残した関西本線の旧型客車に乗務できることで、たいへんうれしい思いをしていたのです。
面倒な操作の一つ一つも、自分がこの列車を動かしているという実感が湧くのです。
客車列車では貨物列車同様、運転取扱駅では駅の助役が発車合図をしてくれます。機関車はピョーと汽笛一声。自動連結器特有のガックンという振動のあと、しずしずと走りだすのです。自動ドアではないのでドア扱いも不要です。その点は車内巡回中でも乗務員室へ戻ってドア扱いをする必要のない客車は落ち着けます。
客車独特のゆっくりした加速のなか、乗務員室の列車監視窓からホームの助役に敬礼し構内を出るまで監視をします。車内巡回中だと中間の開け放たれたデッキで監視することもありました。直立不動の助役が立つホームが遠ざかっていくのは映画の1コマみたいで風情があります。
主要駅では発車してポイントを渡るガタゴトと不規則な振動がなくなったころに、あの「ハイケンスのセレナーデ」と呼ばれるチャイムを鳴らしてから車内放送を始めるのです。これは現在でもわずかに残るブルートレインを含む客車で生き残っているメロディーです。メロディーが思い当たらない方は「ハイケンスのセレナーデ」でクーグル検索すると試聴できるサイトに行き当たると思います。私の場合は、客車の「ハイケンスのセレナーデ」のチャイムは乗務すると主要駅発着時の案内放送では必ず鳴らしたものです。始発駅ではあれを聞くと旅に出る気分が高揚してくるものです。
あたりまえの放送とともに、客車列車では「よく止まってからお降りください。」「飛び乗り飛び降りは危険ですのでおやめ下さい。」という放送が必要でしたが、通勤列車では守られることはなく、乗客は皆、飛び降りをしていましたし、駆け込みの飛び乗りも見られました。
関西本線の客車には名古屋客貨車区(名ナコ)と亀山客貨車区(天カメ)の所属のものがありました。暖房装備は亀山客貨車区所属の車両はSG(蒸気暖房)の暖房管のみの装備でしたが、名古屋客貨車区所属の車両は中央西線の夜行急行「きそ」にも使用されることからEF64のEG(電気暖房)にも対応した電熱配線も併設されていました。関西本線ではSG装備のDD51が牽引するので電気暖房を使用する機会がありませんでした。
また亀山客貨車区にはナハフ10のトップナンバーが配置され、名古屋客貨車区にはナハ10試作車のトップナンバーナハ10 2901が配置されていたことが特筆されます。901のナンバーに電気暖房併設改造を受けたため2000がプラスされて2901というナンバーになっていました。
昭和56年9月22日
関西本線 922列車(亀山~名古屋間乗務)
DD51 746(稲一)
オハフ46 2007 名ナコ
オ ハ46 2497 名ナコ
オハフ46 2009 名ナコ
ナ ハ10 2901 名ナコ←試作車
オ ハ46 2669 名ナコ
スハフ42 2287 名ナコ
スハフ42 2298 名ナコ
運用番:前2両 名ナコ=名附11
後5両 名ナコ=名11
現車=7 換算25.0
この922列車は津始発の亀山経由名古屋行でした。途中の亀山駅からの乗務で、津から乗務してきた車掌から上の写真のような「旅客列車引継書」を受け取ります。亀山では進行方向が逆になるとともに機関車も変わりますので、これをもとに前回のブログ記事でご紹介した「旅客車編成通知書」を記入作成して、機関士に現車両数と換算両数を通知するのです。

この記事へのコメント
アルヌー
まさに映画のひとこまですねー。DD51が牽く旧型客車を乗務員として経験された事は本当に素晴らしい事だと思います。
普通の自動連結器の感触や、ゆっくり走り出す機関車牽引列車の感触も今ではほとんど体感出来ない事ですもんね?
開いたドアからの飛び降りや飛び乗りなんて想像もつかないですが、通勤時間帯などでは現実にあったんですね。
ハイケンスのセレナーデ、僕も大好きです!
ナハ10系客車には乗った事が無いですが、車内は12系と似た感じでしょうか?
洗面台のデザインは他の旧客と同じなんですか?
小さな蛇口とボタンを押すと水が出るタイプが旧客には多かったと思うのですが。照明も丸い蛍光灯がついてましたか?
内装がとっても気になります。\(^o^)/
たこすけ
このディーゼル機関車に牽かれてる
客車は本当に味がありますよね。
私が中学を卒業してからすぐに
友人と京都に行って山陰線で乗った
列車がこれでした。本当に懐かしいなぁ!
「ハイケンスのセレナーデ」検索して
聞きましたよ!横浜近辺では聞けないです。
でも聞いたら気持ちがすごく落ち着いたなぁ!
しなの7号
コメントいただき、ありがとうございました。
今日も昼間は暑かったですね。
旧客に乗務できたのは良き思い出です。
ナハ10系は、その軽量化が原因で意外にも早く現役を退きました。他の旧客とは違い近代的な内装で、私は好きでした。
座席の骨組も鋼製で、背もたれ横に枕がついていて、天井の高さと、その屋根のカーブの形から、12系とも在来の旧型とも違う、しいて言えば中間的な存在と言ったらいいのでしょうか。洗面所のほうは、申し訳ないですが、記憶がありません。
ナハ10、ナハフ10は丸い蛍光灯2列でした。名古屋には当時は配置がなかったですがナハ11、ナハフ11は短い直管蛍光灯だったと思います。
しなの7号
コメントいただき、ありがとうございました。
今日も昼間は暑かったですね。
山陰の旧客は遅くまで残って、人気がありましたね。
国鉄時代ですが、私も夜行の「山陰」に乗ったことがあります。京都を出ると「ハイケンス…」が流れ、その車内放送は次の丹波口駅到着まで延々と続きました。とても懐かしいです。
hmd
今夜は涼しいですね
しなの7号さんが楽しんで旧客に乗務されている様子がよく判りました^^
オルゴールも一部の列車以外、いつしか聞くことも出来なくなり寂しい限りです・・・本家が九州ですので、夏の帰省時に乗車した「はやぶさ号」のオルゴールが今でも脳裏に焼き付いています^^
懐古的ではありますが、普通列車までがスピードと合理化に突き進む現代の運行方針は何か考えさせられる気分です^^
貴重な写真や実物の書類を拝見させていただき、ありがとうございます。
p.s.
「山陰号」にも乗りました。既に12系の頃でしたが・・・その後にすぐ廃止になったので、あの時無理にでも乗ったのがいい思い出です(当時、中学生です)。
しなの7号
コメントいただきありがとうございました。
当時は普通列車ばかり乗っていたこともあって、旧客の乗務は変化があって面白かったです。
やはり、乗務員に限らず、好きな仕事をするというのは大切なことと思います。
ハイケンスと旧客、国鉄の面影の最たるものの一つと思います。
スハ32
しなの7号
当時はナハ10系客車が古いスハ43系に先立って淘汰されていたのに、残った10系のなかにナハ10901が含まれていたことは奇跡のようでした。ここまで残ったのに惜しいことをしました。
名古屋の旧形客車が昭和57年になくなったあとにも、昭和60年以降に臨客14系で「ハイケンス」に出会えましたが、すでに電子音タイプが出回り始めていました。その澄明な音色には惹かれるものがありましたが、今録音で聴くと、オルゴールのアナログ的な音色が客車にはいちばん似合うと思いますね。
七夕伝説
JRの旧客は半自動ドアに改造されています。(ロックと電磁石は車掌スイッチで操作)
■開扉
1 ロックが解除される
2 旅客がドアを全開すると電磁石で固定される
■閉扉
1 電磁石が解除される
2 クローザーによって扉が閉まる
3 扉がロックされる
しなの7号
ドアを開けたまま走るというのは現在の常識では考えられないですから、ドアロックが必要になってきますね。
国鉄時代は20系客車が鎖錠装置を設けていました。
鉄道郵便車保存会 会長
【1389】の郵便車ドアが走行中に開いた話でコメントしましたが、旧型客車は開いているのが日常の光景でした。
名古屋から関西線旧客がまだ発車していたころ、大阪や姫路からも当たり前のように手動ドアの旧客列車があり、駆け込み乗車ならぬ飛び乗り、飛び降りをしないで、という駅放送もよく聞かれました。
また、郵便車も手動開閉なので、乗務当時、積み降ろしが終わると速やかに側扉を閉めましたが、到着するときは完全に停止する直前、1~2m手前から開けることが、いつのまにかクセになってしまいました。それを国鉄職員や駐在員に注意されるわけでもなく、早めに扉を開けて台車を押す受渡員にあいさつなんかもしていました。
客車に話を戻しますと、小学校社会科の授業で鉄道の使い方を教わった日に、先生が「ここらの電車は自動でドアが閉まるが田舎の汽車は走っているときもドアが開いているから落ちないようイスに座りなさい、またトンネルで窓を閉めないと煙が入る」と教えており、「田舎の汽車」がこわい乗り物のように感じましたが、6年生の修学旅行で伊勢志摩まで旧客に乗ったときにその正体を知ります。このときも説明会で「走っている間はドアに近寄らないこと」とうるさく言われましたが、好奇心旺盛なガキどもは手動扉が気になってドアノブに手をかけて遊ぶので車掌と引率教師が頻繁にデッキに行き連れ戻していました。今にして思えば旧客が小学生集約臨に使われたことに時代を感じます。牽引機は明石草津間はEF58、草津線~参宮線はD51(一部C57)だったと記憶します。
しなの7号
荷物車でも荷扱がある駅の到着時に、列車が停車するのを待たずにラッチを解錠状態にして大扉を開けてしまうことはありました。どの程度の荷物がホーム上の台車に積まれて待ち受けているのか早く知りたいという気持ちが影響していたのかもしれません。もっとも満載で取り卸すべき荷物が大扉をふさいでしまっているときはそんなことはできませんが。
小学校の授業で鉄道の乗り方使い方を教わったり、学校の行事等で鉄道を利用した記憶はありません。引率する側としては旧客が当たり前の鉄道なんて恐ろしかったことでしょうから、小中学生時代の遠足と小学校の修学旅行はバス。中学の修学旅行だけが159系「こまどり」でした。沿線が電化されたのが5年生のときで、電化後も普通列車の半数程度はEF64牽引の旧客でした。それでもトンネルで窓を閉める必要がなくなり近代化されたと思ったものです。旧客は高校進学後まで残っており3か月ほどは主に往路に旧客で通学しました。他の記事のコメント欄に書いたことですが、扉を開放したままデッキの床に置いていた学生かばんを列車の動揺で線路上に落としてしまった者がいました。探しに行ったら無事に線路端に落ちていたということでした。
これまで同じ世代の方々からさまざまなコメントを頂戴しましたが、昭和30~40年代の都会と田舎とでは鉄道だけでなく生活全般にわたってギャップを痛感することが多いです。
鉄道郵便車保存会 会長
修学旅行は「こまどり」でしたか。私も「ひので」「きぼう」に乗りたかったのですが、かなわずじまいでした。
関西の小学校からは伊勢が定番で、大阪近辺だと近鉄あおぞらと聞いてましたが、他は国鉄のシェアが大きく、大阪万博以後に12系が台頭するまでは旧客か急行形キハだったようです。
小中学校のころ同級生が盆正月に帰省するため九州への夜行急行に乗った話をよく聞きました。親に九州出身者が多かったためで、寝台車に乗るカネがない、取れなかったとかで座席夜行はしんどかったこと、ドアが手で開けられるが、デッキにいると車掌さんに席に戻るように促された話もあり、機関車が赤かったり(交流機)、黒かったり(蒸機)…なんて話を聞き、あこがれたものでした。やはり、子供連れが多い時期の客車急行に乗務する車掌さんは、デッキで遊ぶ子供は要注意だったのではないでしょうか。
しなの7号
荷物車内の作業では、次駅で直ちに取り卸し作業ができるように次駅取卸荷物は前駅発車後にはホーム側大扉の前に移動させていました。「ホームに向かって車内から次々と手鉤で投げ出す」とご覧になったのは駅の小荷物係のしわざであり乗務員ではありませんでした。乗務員の作業範囲は大扉の内側まででしたので。
では荷物車内の仕訳作業が丁寧かというとそうではなく、鉄道荷物の取扱いはたいへん雑であったことは確かです。丁寧な扱いをしていては仕事にならなかったというのは言い逃れになるでしょうか。
「こまどり」の修学旅行のことは、
【963】中央西線を走った車両19:159系・155系・167系・169系電車
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201902article_8.html
の前段で触れています。
私たちの修学旅行は小学校が京都・奈良、中学校は箱根・東京でした。
初めて旧客に長時間乗ったのは小学3年生に進級する直前の春休みに善光寺参りに行ったときで、
【867】52年前の家族旅行を辿ってみる
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201804article_1.html
で書いています。
どちらもずいぶん昔の話で、当時の出来事の大部分は忘却の彼方に消え去っていますが、そういう鉄道がらみのことだけは覚えています。
鉄道郵便車保存会 会長
新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
小荷物輸送当時の取扱い…郵便もご覧になっていた通りです。郵袋は車内では積み上げた上に乗務員が上がり(言い訳が許されるなら踏むのではなく、上に乗る)、またさらにその上に積み上げるので、頭が天井に着くこともたびたびあり、駅利用客の見ている前でも郵袋をホームで投げる、投げる…で、ごらんになる郵便利用者は、「小包はしっかり荷造りし、封筒に大事なものを入れるときは厚紙を当てる」と無意識に認識していたと思われます。手提げ紙袋のまま送れる今とは大違いでした。
引用のページも拝読しました。【867】のように旧客で家族旅行とはうらやましい限りです。
修学旅行のことなど、いずれ臨時列車のページからコメントさせていただきます。
しなの7号
新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
前回のコメントでは、駅の小荷物係の乱雑な積卸のことしか書きませんでしたが、荷物車内でも、始発駅からの乗り出したときや、締切車を開封した直後の車内は、天井まで乱雑に荷物が投げ込まれたままの状態になっていましたから、仕分け作業を始めるに当たっては、荷物の山を登り天井とのわずかな隙間を這って荷物室内を移動しなければならないこともありました。そういうときに踏まれて潰れたり、潰れないまでも靴底の模様がスタンプされた段ボール箱は必然的に発生しました。そういう荷物を受け取った方はどう思ったことでしょう。ほんとに今のような梱包ではとても耐えられない時代で、紐掛けは必須条件になっていましたね。
Aki
学生の頃夜行普通列車を乘り歩いていました。紀伊半島を周遊する921列車には1971年2月22日に乗車し、ナハフ10の1に乗ったという記録があります。この時和歌山から終着の天王寺まで暖房車が連結されていて、最初で最後の経験でした。中央線の新宿駅で煙を吐いていた記憶があるのですが、残念ながら記録にはありません。懐かしい記事ありがとうございます。
しなの7号
ご覧いただきありがとうございました。
1971年当時の紀勢本線921列車には暖房車も連結されていたのですか。ということはEF52の牽引ですね。私が最後に暖房車を見たのは1969年ごろの中央西線ですが、私も記録等していません。
乗車されたナハフ10 1、さきほど配置表を見ましたら1973年から1974年の間に竜華から亀山に転属していたことがわかりました。私が関西本線名古屋口の客車列車でナハフ10 1に乗務したのは亀山転属後の1981~1982年の廃車間際でした。
それにしても、旧客の長距離鈍行での旅は、今のどんな鉄道旅も比較にならないほど贅沢なものに思えます。
Aki
当時の記録によれば亀山からのDF50が切り離され、ED60に引かれたスヌ31が連結されました。
ところで下りの夜行には、南海難波からの客車が併結されていました。ブログにある貨物列車の解結ほどではないにしても、客車をくっつけるのも大変な作業だったのですね?電車や気動車の作業しか知らないので、客車列車が絶滅したのもわかる気がします。でも確実に鉄道の旅行がつまらなくなりました。
しなの7号
ED60が921列車に使用されていたとは知りませんでした。自分が見たことがある暖房車はマヌ34だけなので、スヌ31も見たことがありません。阪和線では、この列車だけのために暖房車とカマ焚き要員を用意し、ほかにも和歌山での機関車付替え、さらに天王寺の行き止まりホームに着いてからの転線の手間など、ちょっと考えただけでも電車気動車では不必要な作業がいくつも考えられるわけで、客車列車の弱点が露呈しますね。
それじゃあ、下りの難波始発の客車の南海線内の暖房は?と気になってWikipedia「南海サハ4801形客車」を読んだら、電車から600Vをもらう電気暖房だったそうです。
いただいたコメントから、いろいろ学びがありました。ありがとうございました。