旧型客車の乗務では、貨物の列車掛と同様に必ず携帯用無線機を持ちました。これも気動車や電車の乗務では必要のないものなので、旧型客車が車掌に嫌われる一因でもありました。
無線機は客車に備え付けておけばいいようなものですが、盗難の恐れがあるので、乗務のたびに、職場から持ち出し、乗務終了後は返納するのです。盗まれて使用されると列車の運行に影響があります。国鉄時代でも、現実に妨害電波で周辺の列車が非常停車した事例がありました。
今の無線機なら小型軽量なのでしょうが、当時の無線機は重いし、何より管理に気を使います。車補のような有価証券のほかに、無線機も持ち歩くというのは気が重く、出先での拘束時間内に食事に出る時などにいちいち預けたり、場合によっては充電も依頼する必要がありました。
無人駅など運転取扱がない駅では車掌が機関士に対して無線機を使用して出発合図を送りました。電車や気動車のように電気的な引き通しが機関車との間にはありませんので、無線機に頼ります。
これは旧型客車に限らず、新型の12系14系ほかの客車も同様です。もちろん機関士とそのほかの連絡を取るのにも使用します。
客車列車の場合は、電車や気動車とは異なり運転取扱をする有人停車場を発車するときの出発合図は当務駅長が行いましたから、逆に車掌は楽なわけです。しかし無人駅と運転取扱要員がいない駅では乗降終了と時刻、出発信号機の現示を車掌が確認してから、無線機を使用して出発合図を送ると「ピョ~~」と汽笛で応答するといった手順でした。
余談になりますが、この「ピョ~~」という表現には違和感があるかもしれませんが、DD51の汽笛は電気機関車のそれよりも、音程が外れるというか、頼りないような音色に聞こえました。
※上の写真は以下の記事の内容とは異なる列車ですが、関西本線の列車です。
昭和56年7月5日
関西本線 222列車(亀山~名古屋間乗務)
DD51 714(稲一)
ナハフ10 1 天カメ
オ ハ35 610 天カメ
オハフ46 2008 名ナコ
ナ ハ10 2021 名ナコ
ス ハ40 2117 名ナコ
オ ハ35 3070 名ナコ
オハフ45 2105 名ナコ
運用番:天カメ=天附5
名ナコ=名11
現車=7 換算24.0
前回のブロク記事でご紹介しましたように、亀山客貨車区のナハフ10のトップナンバーが連結されています。
この222列車は亀山を朝6時40分に発車し、各駅に停車して終点名古屋へ8時14分に着く列車でした。
特に四日市~名古屋間は近鉄が近くを並行しており、列車本数、運賃、所要時間のどれを取っても国鉄が劣っていましたが、通勤通学時間帯を走るこの列車は、席が埋まり、一部区間では立ち客も出る列車でした。
この列車では冬場は寒い思いをしました。
亀山は意外に寒いところです。鈴鹿颪(すずかおろし)と呼ばれる北西風が列車を襲います。一晩留置されていた客車はすっかり冷え切っています。発車前の10分や15分程度暖房しても車内は暖まりません。
ある日の発車前の車内温度は4度。外はもちろん氷点下です。暖房管のバルブは全開で亀山を発車しますが、約35分後の四日市でやっと車内温度は10度。終点の名古屋に着くころにようやく適温の20度になるといった具合でした。この列車にはいつも暖房の苦情が多く寄せられました。亀山駅でもっと早く機関車を連結して暖房をするよう申し入れもしていましたが、亀山駅は当時天王寺鉄道管理局。名古屋鉄道管理局に入る列車のことは後手後手に回っていたのかどうかは私の知るところではありませんが、とにかく当時は「国鉄はサービスが悪い」と、ことあるたびに言われていた時代でした。

この記事へのコメント
アルヌー
僕もブルートレインの「ゆうづる」に乗った時に、肩に四角い無線機を掛けて歩いている車掌さんを見た事があります。
普通列車は停車駅が多くてお客さんもたくさんいると思うので、きっと大変だったんでしょうね?
電気機関車の汽笛はピーッ!と鋭い感じですが、DD51はピ~なんですか?
貨物ターミナルにいるDE10なども同じような汽笛なんですかね~?
大宮駅にもDLが常駐しているので、今度行ってみようかな~?と思います。
近鉄と競争しなければならないのに、旧客で暖房が効かない列車だと、お客さんも寒くて辛かったかもしれませんが、乗務していた、しなの7号さんも、いろんな意味で大変だったんですね~。
たこすけ
DD51の牽く客車は、お客として
乗ってるのはいいのですが、裏では
車掌さんがとても大変だったのですね。
亀山はローソクで有名で知っていましたが
あそこがそんなに寒いのは知らなかったです。
しなの7号
すこしは快復されましたでしょうか?
そういえば発車するときの汽笛が廃止されて久しいですね。発車するときの長い汽笛をご存じない方も多いかもしれません。今は長い汽笛を吹くのを聞く機会はないですねえ。DE10とかの入換時の短い汽笛だと特徴がわかりませんね。DE10とは同じ汽笛じゃないかと思うのですが、電気機関車それとは違いました。空気圧のせいもあったのでのでしょうか?
当時の関西本線では、近鉄と駅が離れている駅からの利用だけといってもいいほどで、日中などは、どの列車も閑散としていました。
しなの7号
ローソクご存知でしたか。駅に入る手前に大きなローソクの形の看板があって、ああ終点だと思ったものですが、今でもあるんかな???
今、亀山にはシャープの工場があって、下りの名古屋発の関西本線に乗ると、そこが出張目的らしい人が多く見られます。朝晩の混雑もひどく時代は変わりました。
hmd
暑さが戻ってきて、バテています(笑)
なるほど、古い車両のことだけあって乗務の大変さがよく判りました^^
国鉄が急速に無煙化と同時に電化を進めたのも判る気がします(外国の無煙化はDC化が一般的らしいので)。
DD51の少し気の弱い汽笛も懐かしいですね^^
いまこちらの八高北線を走っているキハ110-200も
そんな汽笛なのですが、空気感のあるあの汽笛でないと
ダメなような気がします~国鉄時代の数少ないJRに継承された遺産だと思います^^
関西本線は宮脇さんの本を見て、中学生の頃に名古屋~奈良間を乗車しました。
既に電車と気動車(多分、113系とキハ40系)でしたが、
近代的なコンビナートを抜けて、亀山から峠越え、伊賀の山々の中を走り、加茂川を見ながら奈良に下る、車窓の変化がある様はとても印象に残っています^^
しなの7号
9月半ばだというのに、暑い日が続きますね。
宮脇さんの本を読まれて出かけたそうですが、「最長片道切符の旅」の19日め、しなの号で名古屋へ来た宮脇さんは18時00分発の関西線の客車に乗って津まで行っておられます。実はこの923列車にも乗務したことがありました。
「最長片道切符の旅」記述のとおり、「平日なのに座席が3分の1しかうまらない」「人生の落伍者になったようなうらぶれた気分になる」列車というのはわかる気がします。
亀山以西は早くからDC化されていましたが、私は残された荷物列車に乗務していましたので、何度も変化のある車窓を楽しみながら仕事をすることができました。
貨車区一貧乏
ふたたび過去ログ拝見中です
当時の本当に胴乱は重かったですね
無線機、合図灯は必ず携行でしたから軽くできませんしね
無線で機関士とのやり取りで、愛想のいい人、そうじゃない人、いろいろ個性があったなぁ
しなの7号
胴乱(車掌用のカバン)は重かったですね。荷物列車のときも、貨物列車の時も肩から掛けていましたが、車掌になった職場ではみんな肩から掛けるベルトを外して手で持っていました。外したベルトが掛っていたところに合図灯の取っ手を引掛けて持ち歩いていました。
終点で無線機使用終了の通話を機関士とすると、返事が無言で、無線機スイッチを入り切りするだけの人もいましたね。
「○○列車 無線機の使用終わります、ご苦労さんでした」
「ガジガジ」←スイッチ入り切りしたときに出るノイズ(;一_一)
野良太郎
僕の地元も国鉄末期は旧客の溜まりでしたね!さすがにナハフ10は配置はありませんでした!冬場は列車の出区1時間前以上から客留線でSGジャンパーを繋げて、余熱して、牽引のDD51を連結して出区する頃には完全に適温でしたよ!ホームに入線でするときは暑い位です!この方式は始発列車であろうと、昼間発列車であろうと、同じでした!
僕が旧客に乗って寒い思いをしたのは、今亡き、倉吉線での昼間の西倉吉行きでした!暖房が全く効いておらず、乗務してた若い車掌さんは防寒着に足元は長靴でした!
しなの7号
山陰本線は旧客の宝庫でしたね。倉吉線はSL時代に真冬一度乗りましたが、そのときは混合列車でしたので、暖房は客車自前のものだったのでしょう。寒かった記憶はありません。
亀山での222列車は前日から客車だけホームに留置していました。そこには地上の予熱設備がなく、機関車を早く連結して蒸気を供給するしか方法がなかったようです。
野良太郎
編成表の中にあるオハフ45 2105は最後は僕の地元、米ヨナの所属でした!
たしか名マイから転属してきて旧客全敗までの約2年間、山陰線で活躍しました!
しなの7号
手許の資料だとオハフ45 2105は米原で廃車。
その前後の2104と2106が米子で廃車になっているようです。