※それまでも一部区間に静岡の111系が入っていました。
配置されたのは新車ではなく、首都圏からの転属車でしたので最初は湘南色と横須賀色が入り混じった編成も見られました。以下の写真はすべて画像は転属間もない中央西線での横須賀色113系です。
走っている自動車やバスにも時代を感じます。黒塗りの自動車はセドリック、右端の白いのはクラウンの2ドアHTでしょうか。
少しずつ湘南色に塗り替えられていったので横須賀色は減ってゆき、この写真が最後の1両だったと記憶しています。
それまで中央西線の電化区間は中津川まででした。名古屋口で運用されていた主な電車は70系や72系で、これらは横須賀色でした。私は113系も当然横須賀色になるものと考えていたのですが、実際には湘南色へ統一されました。神領の113系は東海道本線にも乗り入れていましたので、今思えばこれでよかったのでしょう。
国鉄在職中に私が113系に乗務した線区は、
東海道本線 米原~浜松
大垣~美濃赤坂
中央本線 名古屋~南木曽
関西本線 名古屋~亀山
岡多線 岡崎~新豊田
以上のように乗務担当区間のうち電化区間の大部分にあたります。
前回のブログで記しましたように、中京地区の113系は神領電車区と大垣電車区所属の車両が大多数でしたが、朝晩のみ京阪神地区から直通で大垣まで乗り入れる網干電車区の113系が存在しました。民営化を前提にした昭和61年11月の国鉄最後のダイヤ改正後、その網干電車区の113系に、米原~大垣間のみ乗務することになりました。米原を境にJR東海の管轄になることを意識してのことだったのでしょうか。
昭和61年12月24日
東海道本線788M
運転区間 西明石~大垣
乗務区間 米原19:32~大垣20:09
クハ111‐154 大ホシ
モハ113‐131 大ホシ
モハ112‐131 大ホシ
クハ111‐414 大ホシ
クハ111‐149 大ホシ
モハ113‐ 58 大ホシ
モハ112‐ 58 大ホシ
サハ111‐2022 大ホシ
モハ113‐225 大ホシ
モハ112‐225 大ホシ
クハ111‐497 大ホシ
前4両 網076
後7両 網023
網干の編成には中京地区に配置のなかったサハ111が組み込まれているのが目新しく感じました。
初めての乗務ではサハの車内を確認したいため、用もないのに車内巡回に出かけ、車内のプレートを確認し、納得?して再び乗務員室に戻りました。
それから、正面の字幕も当然関西地区の駅名ばかりで、この内容にも興味津々といったところでした。
<2019年3月27日追記>
2016年3月のダイヤ改正によって、JR西日本の普通列車の大垣乗り入れが廃止されました。
このように私が在籍したころ国鉄の主力だった113系も、中京地区では分割民営化後211系の増備で初期車が廃車されたあと、2000番台が残り近年まで活躍を続けました。
<<続きます>>



この記事へのコメント
hmd
天気は回復しましたが、秋晴れに中々ならないです。
今でもこちらの中央東線がスカ色健在なので湘南色はこう見ると意外です (^_^)
昭和48年までは中津川まで電化ということで、中津川以北の普通列車はキハ20・35系だったのでしょうか?
2枚目の写真を見るとこんなに昔からだったのか・・・と思いました。まだこちらでは走っているので尚更そう感じるのかもしれないです (^_^)
アルヌー
湘南色と横須賀色の混結が面白いですねー!
今ではあり得ない、遠くからの転属だから成り得たという事なんですね。
二枚目の画像の車ですが、携帯からだと、はっきり車種が確認出来ませんが、黒い車の見事な箱形とリアのオーバーハングの長さ、高い車高などから年代がわかりますね。右側の白い車はリアピラーの太さが、クラウンHTっぽいです。
車掌さんでも、気になる車両があると見に行っちゃうんですね(^O^)。
分割民営化に備えて、境になる駅までの乗務に切り替えていたというのは、初めて知りましたが、確かに準備は必要ですもんね。なるほどな~、と思いました。
しなの7号
いつもコメントいただきましてありがとうございます。
ちょっと明るくなってきましたが、一面の曇り空。
今日あたり運動会の学校も多いと思われますが、なんとか持ちこたえてほしいものです^^
2枚目の写真、画像がもとからはっきりしていませんので申し訳ないです。自動車やバスが写りこんでしまった失敗作だったのですが、こうして時を経てみると時代がわかっていいものだと思いました^^;
鉄分の多い車掌しか、わざわざサハなんか見に行かないですって^^;
このころはすでに転職を決めていたので、見れるものは見て、乗れるものは乗って、編成もなるべく記録しておいて、というつもりで乗務してました。
61.11ダイヤ改正は民営化前提のダイヤ改正でしたので、乗務員も車両も、それに合わせた変更が伴いました。
米原なんか、民営化前提で、乗務員宿泊所も大阪局と名古屋局の乗務員で別々の場所になりました。
大垣夜行もこのダイヤ改正で乗務員が途中で交代するようになりました。
しなの7号
いつもコメントいただきましてありがとうございます。
こちらは曇り空の朝です。
中央本線も西線と東線では国鉄時代から「全く別の線」という印象を持ってます。
全線電化時には木曽地区は湘南色80系になり、西線は湘南色、東線はスカ色になったといっていいのでしょうか。
電化前の木曽地区の普通列車のメインは客車でした。補完的に美濃太田機関区や松本運転所の気動車列車が入っていました。雑多な形式でなんでもあり状態でキハ17、20、25、26(キロハ25改300番台を含む)、35、51が記憶にあります。
中央西線
1975年3月頃転属してきた。クハ111-479。
しばらくスカ色でしたが車輪がフラットスポットに
なっていてガタガタ五月蝿く乗り心地が悪かった。
しなの7号
個別の車両に、それぞれ思い出があるのものですね。
元JR西日本の駅員
1986年11月の国鉄ダイヤ改正で、当時大垣駅20時49分に2番のりばに三島発大垣終着列車【静岡運転所113系6両】・4番のりばに大垣始発島田ゆき(日によっては静岡ゆき)【神領電車区113系4両】・5番のりばに姫路発大垣終着列車【網干電車区113系11両】が揃った時はびっくりしました。当時の東京・名古屋・大阪で活躍する113系であり車内広告も3大都市【東京・名古屋・大阪】を大垣で拝める事でしたね。でも今は静岡は静岡地方広告や運転区間が変わり迫力がなくなりましたね。
しなの7号
はじめまして。
当時の時刻表、改めて眺めますと20時代の大垣駅には、東西の113系が集結したのですね。当時はそのようなことは特に考えもしませんでした(^_^;)
美濃赤坂から豊橋行562Mが20:42着
西明石からの794Mが20:46着
それを受けて上記豊橋行き562Mが20:49発
三島からの1543Mが20:49着
なお島田行は20:11発で、これも西明石始発の20:09着788Mを受けての発車でした。
(61・11ダイヤ改正)
このダイヤ改正では、大ホシの113系に乗務できるようになった代わりに、165系による静岡乗務行路が消滅し、乗務範囲が狭まってしまいました。
当時、気付かなかったことも、こうして時刻表をひも解いて振り返ってみるのも楽しいものです(^_^;)
コメントありがとうございました。
元JR西日本
記憶から思い出しましたので間違いだらけで当時の時刻表は阪神の地震で行方不明になりましたので失礼しました。m(__)m
名古屋へ遊んでからの帰りによく名古屋駅20時06分発?の三島発大垣ゆき【浜松車掌区担当】をよく利用して見つけましたので…
夜間なので車内で当時の東京の広告を拝みながら退屈せずに大垣まで利用しました。(笑)
ちなみに余談ですけど、当時JRダイヤ改正で大垣夜行からの接続列車は姫路ゆき(網干電車区の113系7両)ですが姫路到着後、青春18きっぷ期間中で113系時代のみは姫路から前面表示は【普通】で横の表示はサボを取り付けて山陽線経由三原ゆきに化けて使用してましたわ。
通常は大垣発の姫路ゆきは姫路到着後、網干まで回送します。姫路発三原ゆきは岡山の115系4両です。
現在大垣発7時台のスジは加古川ゆきに短縮、岡山方面が相生発に変わりましたので、消滅しました。
今は名古屋から神戸の往復は近鉄と阪神を利用しています。(笑)
しなの7号
国鉄時代は、今では考えられないことが当たり前にあったことを改めて感じますね。
そうして、今は近鉄と阪神利用ですか。
関西圏へ行く場合、自分は元乗務区間の様子を見たいためJR利用が多いですが、近年は近鉄を利用することも増えつつありますね。
113
国電がめじろおしでした。72系については「さよなら」
行事はなく70系はささやかながら神領区の職員により
実施され80系については中央西線、東海道線で「さよなら」運転が実施され幸いその頃には活動は復活していました。そして遅ればせながら神領への113系の記録を残そうと趣味誌車両の移動などから調査して転入日、車号などまとめることが出来ました。昭和48年に60両、昭和
50年に16両でした。しなの7号様は当時高校生でありながらすでに撮影されていたとか。うらやましい限りです。何れも大船からの転入ゆえスカ色が多かったと思います。しなの7号様の撮影記録あるいは編成記録等から
スカ色での転入車号分かりますか。中央西線様も観察されていたようですので同じくお尋ねいたします。私のライフワークでもあります名古屋地区国電・JR電車の記録史のためにこれからもご協力お願いします。
しなの7号
誰しも鉄分が少なくなる時期を何度も経験していますね。私も同じで、戻ってきてから空白期間を実に恨めしく思うものです。
子どものころから中央西線沿線に住んでいましたので、その移り変わりを見て来た私でありますが、鉄分の配分?もその時ごとに違っていて、編成を拾うと思えば、撮り鉄に走ったり、乗り鉄に…と、私のプロフィール欄に記載のとおり、「趣味は、鉄道に関すること一般 (乗り鉄、撮り鉄、収集鉄、模型鉄など多くのジャンルに広く浅く。)」と浮気ばかりしていますので、一貫して調べ上げたりすることができません。そのようなわけで、あいにくご希望される情報は何も持ち合わせておりません。ご要望に添えず申し訳ございません。ここに掲載した写真も原版から車号を読み取ることができませんでした。
70系最終運転日は乗務明けでしたので、運転中の写真を撮ることはできず、運転終了後に神領電車区へ行きました。
80系の時は地元で走行中の姿を見ることができました。
113
72系70系スカ色は中央西線にお似合いでした。113系の
スカ色見たかったなあ・・・・。
しなの7号
首都圏や関西圏に比べると、往年の中京圏の国鉄に関する情報は少ないと思います。埋もれていく前にその歴史を残すには、特に昭和40年代以前の状況について、すでにリタイアされた方々からの知識と資料の公開が待たれるものです。
分割民営化で、現場や管理局に死蔵していた貴重な資料が、相当数処分されてしまったと想像されます。せめて今残っている中部の鉄道の歴史に関する資料を一括して扱う資料館的なものを望んでいます。リニア鉄道館あたりに、資料の収集と公開を積極的に行ってほしいものだと考えるのですが、新幹線を中心としてスピードに特化した見世物的に思える運営(違ったらごめんなさい)では、多くを望めないように思ってしまいます。
113
大変参考になります。今後も貴重なブログの発表期待していますのでよろしくお願いします。
denwaban
記事を初めから読んで一巡し、再びここまでやってきました。
鉄を自負しながら湘南型は111、113、115系を見分けるというのは苦手なので、東海地区と関西地区の113系を見分けられたしなの7号さまの眼力にプロ根性を垣間見た様な気がします。
223系や225系といった西日本の車輌に東海の乗務員さんが乗って運転扱いをされてるシチュエーションは時代が変わっても国鉄的な雰囲気だなぁ…と思ってたのですが、28年3月改正で大垣行きは米原にて打ち切りになってしまいました。
しなの7号さまが乗務された網干行きも昔語りになってしまい、一抹の寂しさを感じました。
しなの7号
隅々までご覧いただき、ありがとうございます。
基本的に全国(北海道は特殊性が強いですが)標準化された国鉄形車両に、地域による特徴を見出すことは趣味的には面白く、全国組織の国鉄ならではのことでした。今年春のダイヤ改正前に大垣乗入れのJR西日本の普通列車に乗ってきました。
【684】JRダイヤ改正で思いだすこと⑤~京阪神・大垣間直通普通列車
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201604article_2.html
ダイヤ改正のたびにJRグループ間のつながりが薄くなってきますね。