キハ35系は通勤型のディーゼルカーでした。
片側に3つの両開き外吊りドアを持っていて戸袋がない異色の車両でもありました。
通勤型なので車内はロングシートで旅行向きではなく、この車両に好んで乗る人は少数派だと思います。
私が乗客としてキハ35が連結されている列車に乗るとき、他の車種と混結されている場合は、必ず他の車両に乗りました。そんなキハ35系ですが、仕事では何度も乗ることになりました。
私がこの系列に乗務していたのは、
東海道本線~武豊線(名古屋~大府~武豊)
関西本線(名古屋~亀山)
伊勢線((四日市)~南四日市~津)
以上の区間でした。
【武豊線】
朝夕に急行間合い運用の急行型が入ってくるのを除くと、すべて名古屋第一機関区のキハ35によって運行されていました。
3両編成と4両編成とがありましたが国鉄末期になると、1両ずつ減車されました。
昭和57年11月16日
武豊線~東海道本線921D
運転区間・乗務区間とも 武豊~名古屋
キハ35 91 名ナコ
キハ35 53 名ナコ
キハ35 48 名ナコ
キハ35 50 名ナコ
キハ35 52 名ナコ
キハ35 54 名ナコ
(前3両・後3両とも名52)
この編成は朝1往復半だけ存在した、3両編成を2編成連結して6両とした列車です。
この921Dは武豊駅の一番列車です。発車前に前夜からホームに留置してある3両編成に、側線の3両編成を連結する入換作業がありました。この入換作業も車掌の仕事の一部になっていました。
これで名古屋地区ではキハ35系だけで組成された列車では最長編成になります。たった6両でも武豊線内ではホームから列車がはみ出してしまう駅がありました。
名古屋第一機関区のキハ35は国鉄末期にはキハ58系に置き換えられ廃車されました。
【関西本線】
非電化時代は客車列車と気動車列車が混在し、いずれも雑多な車両群で運転されていました。亀山機関区にはキハ35が多く配置されていたのでよく当たりました。
昭和57年の亀山電化で113系電車に置き換えられました。
昭和56年11月26日
関西本線 629D
運転区間・乗務区間とも 名古屋~亀山
キハ35 192 天カメ
キハ35 191 天カメ
(亀51)
昭和57年1月5日
関西本線 622D
運転区間・乗務区間とも 亀山~名古屋
キハ35 149 天カメ
キハ35 189 天カメ
キハ40 2031天カメ
(前2両は亀52 後1両は亀41)
このような編成では、乗客はキハ40に集中します。最後部がキハ40ですので車掌としてはラッキー♪な編成です^^
【伊勢線】
開業後普通列車は伊勢運転区の2両編成で運用されていました。伊勢運転区もキハ35の配置が多く、ほとんど毎回キハ35でしたが、下の例のように運がいいとキハ45が入りました。
昭和57年1月8日
伊勢線 121D
運転区間・乗務区間とも 四日市~津
キハ35 84 天イセ
キハ45 11 天イセ
(伊14)
伊勢線は非常に乗客数が少ない線区で、昭和59年2月のダイヤ改正で普通列車は全部1両編成になってしまいました。同時に車両の受持ちが伊勢運転区から亀山機関区へと変わりました。
昭和59年3月6日
伊勢線 121D
運転区間・乗務区間とも 四日市~津
キハ30 52 天カメ
(亀71)
両運転台のキハ30に乗務したのはこの線区だけでした。困るのはトイレがないことです。
この運用ではキハ40も運用に入ってきましたので、キハ30だと大ハズレということになります。
(写真はキハ30ですが、伊勢線ではなく八高線での撮影です)
キハ35系の最大の欠点は暖房の効きが非常にわるいことでした。まして構造上3ドアですからドアを開けるたびに冬場は北風が吹き込みますし気密性もわるいので、暖房がないに等しいくらい客室内は冷えました。
保温のため苦肉の策で、武豊線では冬場に限って3つのドアのうち、中央ドアを締切扱いにして。締め切ったドアには「このドアーは開きません。左右のドアーをご利用ください」と書いたステッカーが貼られました。
暖房方式は自動車と同じでエンジンの冷却水を座席の下に循環させる温水暖房でした。自動車と違うのは放熱のためのファンが付いていないことで、自然放熱でした。アイドリング状態では冷却水はあまり暖まりません。ある程度走って冷却水が暖まった後にしか暖房は効いてきません。
当然乗務員室も寒いわけで、職場からは改善要望が出されますので、武豊線用キハ35全車の運転室座席下に運転室用に放熱ファンが取り付けられていました。これで少しは何とかなったのですが、寒い客室で我慢している乗客にも知っている人がいるらしく、乗務員室の放熱ファンの音がすると「客室が寒いのに運転室だけ温めておかしいがや」と言われた話を聞いたことがありました。もっともな話ではあります。
武豊線がキハ58に置き換わったのも極端な車種変更で驚きですが、他線区でも通勤型3ドアである必要性はあまりあるとは思えず、晩年のキハ35系列にとっては不本意な職場であったことでしょう。
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この記事へのコメント
アルヌー
キハ35懐かしいですねー!僕は八高線と川越線で何度も乗りました。
あの妙に柔らかクッションの座席と、ぐらぐら揺れながら開くドアが印象的でした(^_^;)
東海道本線にもキハ35か走っていたなんて知りませんでした。
キハ35の6両編成は迫力ありそうですね~(^_^;)
川越線では2両編成が多かった様に記憶しています。
ドアにボタンがついていて、乗る時に押して開けてました。
車両ごとの個性だったのかもしれませんが、ブレーキが急にギューッと効いた記憶もあります。
ラッシュの時などは、お客さんが倒れそうになってました(^_^;)
しなの7号
いつもコメントをありがとうございます。
私の乗務範囲では、押しボタン開閉式の車両はありませんでした。
ガックンブレーキはキハ35に限りません。国鉄型DCは皆同じです。今の電車よりブレーキ操作は難しく運転士のクセや技量が伝わってきました。
hmd
天気がいいですね。
キハ35系、アルヌーさんと同じで八高線の印象が強いです (^_^)
確かに冬場は隙間風も多く、凄く寒い車両であったのを小さいながらに覚えています(自分が小学生位の頃です)。
寒いのも、そういう理由だったのですね
高度成長期&大量輸送時代の通勤型DCですが、今思うとかなり異端なDCだったとも思います。
今や、八高線も高麗川駅まで電化され、その先もキハ110系になって快適になり、あの頃がある意味で懐かしいです (^_^)
しなの7号
こちらも穏やかな天気でした(^o^)丿
八高線や相模線は国鉄時代のキハ35使用線区として有名ですね。本文中の八高線の写真も、途中の金子駅以北の未乗部分の踏破とキハ35があるうちにもう一度乗っておこうということから平成7年に出かけたときに撮った写真です。翌平成8年に電化によって八高線から引退したはずです。私はこのほか乗務以外でも名松線や信楽線といった全く似あわない線区で乗車したことがありました。
ラモス
思い切って四日市まで乗って見たとき、車掌さんがびっくりしていたのを思い出します。
あの頃の記憶ではキハ40の単行ばかり、たまに南紀が駆け抜ける…そんな感じだったですね。
ふと昔を思い出してしまいました☆
しなの7号
ご覧いただきありがとうございました。
伊勢線はほんとうに乗客が少ない線でしたね。
唯一立ち客が出るのが1月15日あたりに高田本山へ詣でる人々が乗ってくれるときだけでした。
高田高校の学生さんが東一身田の利用客のほとんどでした。
一昨年、亀山駅でキハ181の展示があったので、見に行った帰りに一身田で降りて専修寺を通って懐かしい東一身田駅にたどり着き、帰路は伊勢鉄道を利用してみました。
運転士さんはびっくりしていたかどうかわかりませんが、とにかく乗ったのは自分一人だけでした(^_^;)
野良太朗
しなの7号
キハ35は、評判の良い車両ではなかったです。武豊線でもキハ58,28に置き換えられましたが、これもまた両極端な性格の車両同士の置換えで、通勤時の使い勝手を考えると一長一短であったと感じます。
私も子供の頃、国鉄色の中央西線で乗ったことがありますが、キハ17とか25といった車両に混じっての運用でした。
ヒデヨシ
内容的にはこちらでした。
キハ35で未だに何だったのかお聞きしたいのですが・・・
私が共和駅で列車扱いをしていたとき
(当時26才の運転掛、赤金の帽子着用で格好だけは助役)
た武豊線直通のキハ35編成が進入してきました。
その内1両の車外知らせ灯、黄色の点滅でした。
車掌は扉扱いで承知しているのは判っているはずです。
発車時自分の前を通過するとき声掛けましたが、あれは何だったんでしょうか?
ヒデヨシ
元々小数で関東に多くいたイメージですが。
しなの7号
ニセ助役氏?がご覧になった橙黄色の車側表示灯は非常警報器が扱われた車両に表示されるものだと思いますが、その列車の車内で何があったのでしょうか? いたずらによるものであれば客車鍵で車掌がすぐ復帰させることはできたはずです。
ちなみに白色のはエンジン停止表示灯でしたので、こちらは車掌では何ともなりませんでした。
乗務でキハ36に出会ったことはないので、挙げていただいた3区には配置はないと思いますが、奈良には配置があり関西本線で見たことがあります。
オシ17
少し前、Oゲージのブログにコメントしたオシ17です。
1980年前後、私が毎日通学で使った相模線は、そのほとんどがキハ30で、時々キハ36が組み込まれていました。さらに極々まれにキハ35も見かけました。このキハ35のトイレは鍵がかかっていて、使用禁止でした。塗色は国鉄一般色からたらこ色(首都圏色)、相模線色と変遷しました。(転居もあり相模線色は馴染み無いです) 記憶は定かではないですが、前面強化改造は半数ぐらい、二つ目はかなりの車両が改造されていたのでは無いでしょうか?
暖房についてですが、外釣り式ドアの宿命、ドア近くは隙間風で寒かったですが、車内はほどほどだったように思います。相模線のキハ35系のドアは押しボタン式だったので、交換待ちも保温されてました。先代のキハ10、16、20は駅に着くとドアは解鍵される(2、3センチ開く)ものの、乗降客が手で開け閉めしましたので。
押しボタン式は205系500番台にも受け継がれてます。更に231系233系に引き継がれ、今は東海道線などの終端駅で活用されているのではないでしょうか?
しなの7号
キハ35系の思い出をご披露いただきありがとうございました。
通勤通学でご乗車されたときのキハ35系は機能的で、少なくともキハ17系よりは使いやすかったでしょうね。混雑時には気密性の高いキハ58系などは暖房を切っても暑くなるほど人の熱気で暖まりましたから、暖房に関しては冬場の閑散線区や閑散時間帯にキハ35系に乗られると、必ずや印象が変わると思います。寒い時には座席下の温気がほとんど感じられませんでした。私見ですがキハ35系は大きな扉が6か所もあって暖房放熱管の延長が短いと思われ、他車より不利だったと考えます。
1980年頃ですと、全国レベルで前面強化やシールドビーム2灯化が進められていましたが、配置区所別に小改造が施されていたケースも多かったようで、相模・八高・川越線の押ボタン式半自動化はその一つですね。名古屋区の車両の乗務員室には放熱ファン、デフロスタが完備していました。(寒冷地仕様500番台ではありません)
それでも寒くて少しでも暖めようと、これらと機関予熱器のスイッチもONにして涙ぐましい?努力をしていました。
近年は扉開閉押ボタンを採用する線区が増えてきて、その有効性を感じていますが、同じ会社の同じ系列の電車でも、線区や駅によって、またはワンマンかどうかによって取扱が異なるようで、ときに戸惑いを感じてしまいますし、とまどう乗客を見ることがよくあります。