
当時車掌として勤務していた車掌区は中部地方では一番の大所帯で400人以上もの職員が所属していました。
そのほとんどが乗務員で、職種別に次のように班別指定されていました。
庶務掛、運用教導掛など内勤者で構成される「内勤班」
荷物列車に乗務する乗務掛(荷扱)、車掌補(荷扱)で構成される「乗荷班」
荷物列車に乗務する専務車掌(荷扱)と車掌長(荷扱)で構成される「荷専班」
主に普通列車に乗務する車掌で構成される「車掌班」(通称「普通班」)
あらゆる種類の旅客列車に乗務する専務車掌(乗客扱)と主に特急・急行列車に乗務する車掌長(乗客扱)で構成される「客専班」
ここに列車掛の職名がないのは、この車掌区では貨物列車の受け持ちがないためでした。多くの中小車掌区では貨物列車も乗務していましたから、列車掛になって何年も経つと専務車掌兼列車掛のような職名になりました。
内勤班を除くそれぞれの班には、A組から始まる組別の指定もあり、勤続年数や車掌歴など年功序列の基準があって、各班のA組が最上位の組でした。このうち客専班のA~C組は車掌長で構成され、乗務列車のほとんどすべてが特急や急行のいわゆる「優等列車」でした。
各組ごとに3~4週間程度で一回りとなるスケジュールが組まれ、これを交番(または乗務割)といいました。そのスケジュールを一覧表にしたのが交番表(または乗務割表)といいました。
乗務掛は年数がたつと仕事の内容は同じまま車掌補という職名になりますが、試験を受けなければそこまでで、列車掛や車掌にはなれません。しかし試験を受けて列車掛や車掌になってしまえば、年数が経てば専務車掌になり車掌長にもなることができました。いずれも定数があって、要員需給上、運が良ければ早く専務車掌になることができます。私も当初は30代半ばくらいで専務車掌になれるかなと思っていたのですが、大量退職があった時期だったり、合理化による人員削減の見返りとして専務車掌の定数の増加があったりして、私の場合は、はからずも車掌を3年ほど勤めただけで26歳のとき専務車掌を拝命しました。
上に職名と班の種類を記しましたが、専務車掌の定数が増えても、乗る優等列車が増えるわけではないので、通称「無指定専務」と言って「(乗客扱)」の指定がなく車掌班のまま普通列車の仕事を務めることがあります。私の場合は、無指定の専務車掌になった少し前に、それまでF組までしかなかった客専班に新たにG組が設定されたことから、無指定期間はわずか1ヵ月程度で客専班の最も下位班であるG組に指定されました。
職場で全員に配られる車掌区報に人事異動情報として組別指定の変更が掲載され、車掌区内の掲示板にも同様の掲示がされ、区員に周知されました。
客専班G組への辞令が出て、晴れて優等列車に乗れるようになりましたが、客専班でも付け足しで設定されたようなそのG組の交番上には優等列車が名古屋~長野間のしなの号1往復だけしかありませんでした。そのため仕事の内容としては普通列車の本線系の列車が増えたくらいのことで、仕事の内容は月に1回程度のしなの号乗務のとき以外はそれほど大きな違いはありませんでした。
この客専班G組の交番上唯一の特急行路の下り列車こそが、名古屋を10時ちょうどに発車する「しなの7号」でありました。
「【127】専務車掌(乗客扱)2:乗務範囲と机上講習」に続きます。
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
<お知らせ>
元日のブログで、お伝えしたとおり、今回も月曜日に定期更新いたしました。「予定臨」としての木曜日も当面毎週更新していく予定です。なるべく月曜日の定期更新は国鉄の話題で、「予定臨」木曜日にはその他の話題で進めたいと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。

この記事へのコメント
アルヌー
乗務員の方の職種がこんなに細かく分かれている事を初めて知りました。
班があって、更にその中で組分けされていたなんて、車掌さんの勤務の実態が良くわかりました。
しなの7号さんが勤務されていた頃は、今より優等列車が多かったと思いますが、その頃でも優等列車に乗務する機会は少ない事だったんですね。
特急列車に乗った時に「車掌長」や「専務車掌」の文字を見ると「カッコいいな~」憧れていました。
僕が子供の頃は、車掌さんが腕章をつけていたイメージがあるのですが、しなの7号さんも特急列車乗務の時はつけていましたか?
勘違いかもしれません(^_^;)
しなの7号さんの名前の由来は、そういう事だったんですね~\(^o^)/
しなの7号
いつもコメントいただきありがとうございます。
以前、大雑把に私の国鉄時代の経歴を記した記事の中で、
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201005article_6.html「【6】特急列車・急行列車」
で、実際に最後に着用していた腕章の写真をアップしています。またパソコンでご覧いただくとトップページに同じ腕章の写真が掲載してあります。(携帯版では見れません)
JR移行後も少しの間は各社とも、この腕章を使用していました。この上に「車掌長 Chief Conductor」の腕章がありましたが、私がこれを着用することはありませんでした。
優等列車に乗務する機会は配属先の職場によって左右されます。職名が車掌長になっても普通列車しか受け持たない職場では車掌の腕章のまま普通列車専門に乗務することもありました。
私の場合は、所属する職場では多彩な優等列車を受け持っていましたが、専務車掌の人数も多くて、最下位組にはおこぼれとして「しなの7号」を受け持たせてもらったようなものでした。
hmd
こちらは北風の空っ風が強くて、とても寒い一日でした。
車掌の乗務の仕組みとローテーションはその様になっていたのですね。良く判りました (^_^)
普通列車乗務と優等列車乗務の班に分かれていたとのことですが、現在も大凡同じシステムなのでしょうか?
やはり、特急列車の乗務はやはり花形の様子が感じられます。
その当時のお話から、しなの7号さんのハンドルネームの由来も判りました。何故、1号でなく7号なのだろう?と思っていました (^_^)
京阪快急3000
当時の車掌の勤務事情がよく分かりました。
「しなの7号」というハンドルンネームの由来の分かりました。
また、コメントしたいと思います。
しなの7号
今日は1日家で過ごしました。充電日です(^_^;)
私の勤務していた頃と今とは全く様相が変わっていまして、私も現在の乗務員職場の様子はよくわかりませんので、現状を論じられないので悪しからずご了承ください。
しなの7号と帰りの18号は思い出の列車です。
当時の特急乗務の話は、いずれ詳しくブログ記事にしますので、よろしくお願いします。
しなの7号
コメントいただきありがとうございました。
しなの7号って、国鉄時代も、今も名古屋発10時ちょうどなんです。20年以上経っているのに、なんか不思議な列車です。車両は381系から383系に変わりましたけど。
TOKYO WEST
私は昭和56年に国鉄に入社し、現在JR東日本に勤務しております。改めて書いてみると今年で勤続30年になるわけです。
さて、私も月並みですが、幼い頃から優等列車の専務車掌に憧れておりました。私の場合は東京在住のため東京の採用試験を受験するのですが、東京北・南・西の三局が合同で採用試験を実施し、各局に振り分けられる方式でした。願書には希望局を選ぶようになっており、当然ながら、三局の筆頭局で優等列車や普通列車のグリーン車の乗務多く、車掌長や専務車掌の定数が多いとされる東京南局を第1希望とし、東京北局を第2希望、優等列車が少ない東京西局を第3希望としました。
ところが、採用となったのは第3希望の東京西局でした。しかも、私には受験資格がない昭和57年の車掌見習採用試験が実施されて以降試験も途絶え、この試験の合格者が鉄道学園へ入所したのも3年余り先ということもあり、ちょうど分割民営化を控えたバタバタもあり、結局は車掌への道をあきらめた形となりました。
ちなみに、東京南局は毎年車掌見習採用試験がありましたし、東京南局・東京西局とは異なりもともと車掌見習採用試験がなく、列車掛を経て車掌へ登用する形態であった東京北局に入っていれば、”たられば”の話ではありますが、様子は変わっていたかもしれません。
ここ15年は日勤の非現業勤務で、めったに制服を着ることもありませんが、車掌を夢見て運転取扱基準規程や車内補充券の発行方を勉強したことを思い出すことがあります。
今後のブログ記事も楽しみにしておりますので、今後ともよろしくお願いいたします。
しなの7号
はじめまして。現役のJRの方からコメントいただくのは初めてです。ご覧いただきありがとうございます。
同じ国鉄とはいえ、各鉄道管理局ではいろんな部分で違いがありましたね。東京の3局のそうした違いも初めてお聞きするもので、参考になります。ありがとうございます。
昭和56年就職といいますと、すでに国鉄職員の採用そのものが少なくなっていた時期ではないでしょうか?
国鉄にもいろんな職種があるもので、入ってから一般に知られる、駅員、運転士、車掌以外の専門職は多岐にわたることを知りました。そうした部分に顔を突っ込めば、新しい自分の進むべき途が見えたかもしれませんでしたが、就職時から乗務員だった私は、そのままよそを見ることなく過ごしてしまったわけです。
非現業の道、運転主任の道など営業職場だけでもいくつも選択肢があったのですが、私の場合は試験に臨むつもりが全くなかったのも事実でしたが、結果的に分割民営化時点で退職、転職となりました。
あの昭和62年3月を、それぞれ遠い別の地で迎え、私もTOKYO WEST様もそれぞれの道を歩みここまで来たわけですが、まさに人生「たられば」で大きく変わってきたことは間違いないですね。
コメントどうもありがとうございました。
野良太郎
しなの7号様、質問ですが、乗客専務になると制服が夏は白の麻服、冬場はWになりますが、同乱は車掌の時から革のトランクを持って乗務してたましたか!教えてください!
しなの7号
名古屋鉄道管理局では、車掌区や貨車区所属の列車乗務員は学生鞄の変形みたいな胴乱と呼ばれる一枚革の鞄を貸与されていました。黒のトランクを持てるのは専務車掌(客扱)だけでした。
野良太郎
僕の地元の米子局の乗務員はJNRマークいりの革製の鞄を肩から提げて乗務してましたね!境、大社、倉吉、若桜線などに乗務する車掌さんは黒色のセカンドポーチに車補、早見表、電卓、検札鋏などを入れて、鞄無しで乗務してましたよ!米子局も乗客専務からがトランク使用が許可されていましたね
しなの7号
名古屋鉄道管理局では動輪マーク付の胴乱でした。しかし専務車掌(客扱)のトランクには国鉄らしい表示はありませんでした。
鞄なしで乗務はしませんでした。運転関係の用具は必需品と考えていました。鞄なしでの乗務は特別改札の行路だったのではないでしょうか?
野良太郎
しなの7号
もし、本当なら褒められた話でもないと思います…
クハ116-206
線路見習いは、長野と紀伊勝浦で、富山や大阪はぶっつけ本番でした。予備の時しらさぎを振られたので助役に文句を言った所。改札行路だから問題ない。と言われ、こわごわ乗務した事を思いだします。
しなの7号
時代が変わると、状況も変わるもので、国鉄時代のしなの7号は名古屋10時発。民営化後の編成短縮と増発で10時のしなのは11号になりましたが、今では国鉄時代と同じ10時発に戻りました。