先週に引き続き、予備勤務のときに乗務した列車を、模型で再現しながら当時のことを振り返ってみたいと思います。
昭和59年11月1日
東海道本線回9106M(運転区間:大阪~品川)
乗務期間 名古屋16:21~浜松17:52
クモハ115-319 西ミツ
モ ハ114-355 西ミツ
ク ハ115-400 西ミツ
クモヤ145-117 西ミツ
中央東線用スカ色の115系にクモヤ145がくっついた編成です。東海道本線で西から上ってきた列車を名古屋で乗継ぎ、浜松で他区乗務員に引継ぎました。
東海地方では115系は通常、湘南色しか見られないので、スカ色の115系は珍しいものでした。また乗務区間内でも湘南色の定期列車115系の乗務は他車掌区が担当していましたので、115系自体に乗務することはありませんでした。ただ、乗務した編成は乗務位置が最後尾のクモヤ145でした。貫通扉は閉鎖されていましたので、このときは115系には乗り移れませんでした。
クモヤ145は電車区構内の入換作業や、こうした回送車両の牽引や控車として使用される事業用車両です。特にこの100番台車は救援車の機能も兼ね備えたものなので、緊急時の出動に備えて車内にはチェーンブロック付のクレーンが装備されるなど、電車らしくありません。一方、運転室は個々の機器が規格化されていましたので、クモニと大差はないようで、印象に残っていません。
写真は中央東線の115系です。国鉄当時は長い編成が当たり前でした。
当時は電車の中間車に運転室を取りつけて、長編成を複数の短編成に組み替える方法で、電車を新製せずに運転本数を増やすという手法が流行していました。
乗務した東海道本線回9106M列車も、この方法で三鷹電車区の改造タネ車となる中間車サハ115を運転室付のクハ115に改造するために、どこか西のほうの鉄道工場へ送り届けた帰りの回送車だったのでした。
中間車で、しかも動力を持たないサハ115だけでは運転することができないために、こうした編成が組まれたのです。私がこのとき乗った編成は、その帰路だったわけですが、往路はクモヤと115系3両の間に、改造予定車のサハ115が何両かサンドイッチされて回送されていったものと思われます。

この記事へのコメント
アルヌー
普段は、あまり意識しませんが、こういった回送列車の乗務も車掌さんのお仕事なんですねー!
クモヤ145を実際に見た記憶は無いんですが、一般にはなかなか馴染みが無い車両ですよね?
救援車の装備にも凄く興味があります。
長編成の115系の写真がカッコいいです~(^o^)
先頭車だけを改造で増やして編成の柔軟性を増していた事は知りませんでした!
ちょっと話しが逸れますが、模型の写真に写っている架線柱、僕だったら確実に折って壊してしまいそうです(^_^;)
子供の頃、軍艦のプラモデルを造った時に、真っ先に壊すのが細いマスト類でした(^_^;)
プラモデルとは品質や頑丈さが違いますよね?
失礼致しましたm(__)m
しなの7号
いつもコメントありがとうございます。
今では回送など乗客が乗らない列車は貨物列車同様に車掌省略というのが一般的だと思います。
この時代は、EB装置や列車無線設備など保安上の整備が今ほど完備されていなかったので、こういう列車にも車掌が乗務していました。
クモヤはJR東海からは姿を消しましたが、JR東日本や西日本には多くが残っていると思いますので、車両基地の公開時などに車内が見られる機会もあるかもしれません。
架線柱の材質はプラモのよりも弾力性があって、折れることはあまりありませんよ。
もーたろう♪
115系スカ色が大阪から東海地区に・・・
んんん
全く想像がつきません(^^;)
サハ115のクハ化
最近は鉄道模型もただ完成品を買うだけ、というのに飽きてきてますので、実物に倣ってこうした改造をするのもいいかもと思っています(^-^;)
しなの7号
コメントいただきありがとうございました。
私は「東海道本線回9106M(運転区間:大阪~品川)」と本文中に記載いたしましたが、この列車が大阪まで何処をどう走ってきたかは不明です。同様に品川から先は三鷹まで列車番号を変えて運転されたものと思われますが、その経路も不明です。
同じ車両で組成されていても、運転される線区によって列車番号が変わることは普通にあります。また同じ線区内でも、ダイヤによって途中で列車番号が変わる列車もありますので、自分もこの列車の実際の始発駅はわからないのです。
当時は、まさにNゲージの車体切継ぎ改造と全く同じ工法?で、新製した運転室部分と車端部を切り取った改造種車を結合する方法で、多くの中間車が先頭車化されていました。それを全国に散らばる国鉄工場で分担して施工していたのです。
hmd
こちらは急に気温が下がり、北風と霙も降る寒い一日でした~風邪を引きそうです
こちらの中央東線では今でも スカ色王国 なので、違和感がないのですが、昔の急行アルプスはミカン色だった記憶があるので、妙な時代の区分け感があります(笑)
クモヤ、クモニも小学校低学年の時に見ただけなので、記憶があやふやですが、確かに太いチェーンみたいのをその車内で見たような記憶があります(当時は確か東京方に連結さていた記憶があります)。
長編成の短編成化は車時代へのシフトと国鉄の合理化に当時はマッチしてした産物ですよね (^_^)
当時の国労などが、形式が増えて、その分の形式ごとの運転操作の違いが増えるを嫌って、新形式の新製車両(電車、機関車)の新造を嫌っていたとも聞いていますが、どうだったのでしょうか? (^_^)
しなの7号
こちらは晴れていたのですが、北風が強く吹き寒い一日でした。今夜は冷え込みそうです(+_+)
中央本線の電車は70系からスカ色が似合う気がしますが、東海道はやっぱり湘南色。そういえば先日、相模線にスカ色115系が入線し東海道を熱海まで走ったそうです。
東海道にスカ色115系というのは、やっぱり違和感です(^_^;)
国鉄時代、新形式に対する組合の対応は積極的とはいえなかったと思います。EF64の1000番台などでよく言われることです。その他の車両でも組合の要求によると思われる車両設備や装備で思い当たることはあります。このブログでは労働組合の本質的な議論等は、したくありませんので、そのへんのコメントは差し控えますが、組合のことは国鉄の分割民営化とは切っても切れないですから、今後、断片的にはお話しすることも考えております。
200系
ふと検索してみたら・・・
便利な世の中になったものです。
h ttps://raillab.jp/car/12659
しなの7号
そのサイトによれば、1984年7月にクモハ101-196からクモヤ145-117に改造され西ミツ配置とされていますから、この時点で改造後3ヵ月程度も経っています。
Wikipediaでも「クモヤ145-117 ← クモハ101-196 NN (1984/07)」とありますし、改造施行工場は長野工場とされていることから、東海道経由というのも不自然ではないでしょうか。
200系
クモヤ145の詳しい日付までは同サイトで確認していなかったのですが、同サイトでは、115系3連の改造履歴は見つかりませんでした。
また、クモヤ145単車では筋に乗らないため、伴走車が付いていると考えました。
よって、改造後のクモヤの回送と判断したのです。
当時の雑誌だと落成日が掲載されているはずなので一番正確だと思います。(資料を持っていないのに重箱の隅を・・・)
ちなみに、wikiの115系の改造の項目では元配置三鷹区の改造種車はなさそうです。種車は松本あたりかもしれません。
200系
Wikiでは省略されていますが、種車は三鷹のようですね。
改造後の車番で検索すると履歴が出てきました。
お騒がせしました。
しなの7号
解決済ということでよろしいですね。
このサイト↓をご覧いただいたのでしょうか。
ttp://kihayuni.jp/EC/115/115-07.html
そこをご覧いただくと、1984年11月1日に運転されたこの回9106Mは、時期的に考えてクハ115-613~619(1984.12.26~1985.3.5改造)の改造タネ車になった西ミツのサハ115のうちどれかを後藤工場へ送り込んだあと、三鷹へ戻る伴車4両の回送編成ではないかという推定ができます。
元珍ドコ会
【804】のコメントをひと区切りしましたので、臨時列車乗務のカテゴリを初めから順に読ませていただいております。そこでさっそく、115系3両+クモヤ145という、模型写真を拝見するだけでうれしくなるような列車乗務の様子を拝読しました。
冒頭のネーム「珍ドコ会」は、私を含む神戸~姫路の撮り鉄仲間が数名で国鉄末期に結成した会で、平成中期に自然解散するまで、通常の営業列車では見られない編成を撮影するため情報入手と撮影活動をしていました。かつては、今回紹介していただいた、クモヤ(90又は145)が牽引、推進する編成が白昼堂々と本線を走るのを多く見ることができました。会の情報担当が臨時列車の運転を事前にチェックしており、クモヤが含まれる編成のうち、新製車両、改造車両、廃車車両などを比較的長距離回送する列車は、列車番号が大体9000台で、時刻のほか編成内容まで事前に把握でき、沿線で待ち構えたものです。また、車両工場、車両区の間を入出場、試運転のため運転される列車は列車番号が予定臨である6000台で、月末になると翌月の運転日と区間が列車番号ごとに把握できましたが、どんな編成になるかは「来てのお楽しみ」でしたから、その時間に沿線で張って結果に一喜一憂したものです。今回ご紹介の列車は、この分類だと前者に当たり、おそらく沿線で事前察知した人たちが撮影したかも知れませんが、この時代はまだ、このような列車の情報を知り得なかったころで、荷物列車等を撮影していて、偶然遭遇すればラッキー!という存在でした。
クモヤが最後部になると車掌さんが乗務しており、ホームでの監視や乗務交替するところを見たことがあり、乗客が乗らない列車では何をしているのかな、などと撮影待ちの時間に話題にしたことがありますが、外の者には乗務で何をするかまではわかりませんでした。
しなの7号
こうした回送列車は、遠隔地の配置車両が見られたり、営業列車ではありえない編成だったりで、とても気になりましたね。特に60.3ダイヤ改正から全国で広まった編成短縮による増発に必要な先頭車化改造が盛んになったこの時期から、この手の回送列車が増えたように思います。カメラを向けたくなる気持ちはわかりますが、運転情報の把握が難しかったですね。今のようにSNSによる情報もなかった代わりに、現場に行けば情報収集も不可能とも言い切れなかった時代です。私が高校生の頃には、学校帰りに最寄り駅で情報収集をしたこともありますし、私の職場にも、ちょうどこのころあたりから、熱心に局報の臨時列車運転の時刻を書き写していく高校生がときどき来ていました。しかし分割民営化間近になると、部外者はシャットアウトされるようになりました。
元珍ドコ会
情報のほとんどは国鉄駅など現場に配布される局報(JRは運転報)で、閲覧させてもらえるコネ(?)がある場所があることが撮り鉄にとってのステータスである、とその道の先輩から教わったものです。これは当時、撮影場所の制限や行動への規制がゆるかったことと同じで、現世では通じない昔話であることは言うまでもありません。雑誌の情報には限界がある中で、仲間とグループができると、1人か2人、閲覧しに行けばよく、みんなに伝達する、そういうことが長年できていましたが、私の周辺では尼崎事故をきっかけに駅事務室への自由な出入りができなくなり、そのころから情報網が崩壊していった感じです。もっとも、入れてもらえることは当たり前ではなく、特別なことだと自覚はしてきたのですが、周囲の仲間も次々と情報が入らなくなり、閲覧できるごく一部の人だけが情報を知れる現代では、情報を有料で公開されている事実もある一方で、逆にSNSで善意の公開をしてくれたり、情報を握る人それぞれのやり方があるので、受取る側もムキになにらずに与えられた範囲で活動する、との割り切りでやっています。
回顧すれば、珍しい編成の回送列車は、そうやって与えられた情報から把握しながら、記憶しきれないほど数多く撮影しましたが、いつも思うのは、クモヤは「牽引車」とも言われるゆえ、今回ご紹介の編成のように最後部なのはなぜ?という疑問でした。115系の最後部がモハ等の中間車ならわかるのですが、両端がクハ115であるなら、クモヤは先頭に連結して115系を牽引するのがサマになるかと思われますが、最後部にするのは何か理由があるのか、ご存じならお教えいただければさいわいです。極端な例ですと、過去の目撃では113系の中間にクモヤをはさみ、両端はクハ111という「超珍ドコ」な編成もありました。
しなの7号
撮り鉄事情も、その時代とともに常識が変化してきましたね。情報収集のしかたもそのうちの一つですが、人脈が絡むのはいつの時代も変わらず同じような気がします。ついでに言えばアンフェアだったり自己中心的な行為が目立ったりすることも、変わらないように思います。今は地元でコンデジをポケットに入れて自転車や徒歩で地元沿線で撮影する程度の私なので、こうした臨時列車を撮影をする機会はなく、今の撮り鉄事情を語ることはできません。
今回の編成ですが、本文と以前のコメント欄に書いたようにクハ化改造される三鷹のサハ(2~3両?)をクモヤ145と115系の3両ユニット(クハ・モハ・クモハ)の間にサンドイッチして後藤工場へ回送した帰路だと思われます。中間のサハを後藤工場で解放してそのまま戻せば、帰路の先頭はクモハ115になるという経過ではないでしょうか。
クモヤは機関車ではないので規定による連結位置に対する制限は少ないように思います。
木田 英夫
最近のコメントの目次からこちらに入りました。本文とは直接関係しませんが、コメントの情報収集の件、興味深く読ませて頂きました。
通勤で利用している駅の行先案内に、普段は見られない時間に通過の表示が出ていたり、あるいは回送、試運転、団体の表示が出ていると、鉄道マニアとしては、「何か変わった列車が来るのかな?」と気になってしまいます。
さすがに仕事の行きがけでは遅刻してしまいますので、そのまま行きますが、帰り道では、その列車が来るまでホームで待っていたりすることもあります。そして、「どんな列車が、何が来るんだろう」とワクワクしながら待っていると、見慣れない列車が来た。というわけです。
情報収集と言う程のことではありませんが、鉄道マニアとしての、通勤時間の楽しみの一つとして紹介致しました。
いつもありがとうございます。木田英夫
しなの7号
都市部だとそういうお楽しみがあるのですね。
田舎でも毎日同じ列車で通勤していると、臨時列車と行違う区間や、待避している駅がわかってきて、そのスジが読めてくることがありました。今日は運転されるのかなと列車内から注意してみるのも通勤列車内でのお楽しみで、今日あたり運転されるかもと予想して、行き当たりばったりで撮影したこともあります。
元珍ドコ会
クモヤの役目が機関車に見えてしまうのでどうしても先頭であってほしいと思うのですが、動画派からは「最後部もまたいいものでクモヤらしい」という声もあります。
おっしゃるように、往路で運転した回送列車から回送車両を解放したあとの復路で余計な入れ換えをしないで組成すればクモヤが最後部もあり得るわけですし、砕いて申すなら、発駅(区)、着駅(区)の業務の都合や配線、途中駅の解結により、クモヤの連結位置は自由にどこでも持っていけるわけですから、使い勝手がいい車両なのでしょう。
しかも後藤工場入出場では自連カプラーで客車まで牽引しますから万能選手ですね。そう言えば、水害で新宮に残されたくろしお車両を紀勢東線経由で吹田工場に戻したとき、また今では金沢で廃車になった413系などを吹田工場へ廃車回送するとき、いずれも機関車牽引で、クモヤが自連・密連のアダプターとして挟まれており、万能ぶりを発揮しています。
しなの7号
今回の回送列車が改造されるサハを工場に送り込んだ帰路なら、115系3両がクモヤの代用をしていることになりますから、クモヤがもう1両調達できたなら,この列車はクモヤ2両での回送となったかもしれないですね。
「くろしお」の救出もあったですね。クモヤの入った編成のバリエーションは、そのクモヤの万能ぶりを示す結果かと思います。客貨車と違って系列ごとに運転する前提で生まれた電車との連結運転を可能にしているだけでなく、事業用として様々な場面で使用でき重宝されるのですから、職用車の名にふさわしいと思います。電車区に必ず1両はあったと言ってもよいクモヤでしたが、当地ではもう過去の車両と言う感覚で、久しく見たことがありません。もはやそういう車両を必要としないほど時代が進んだということなのでしょう。
元珍ドコ会
クモヤを中心にいろいろな車種を連結する回送、入出場列車は、情勢の変化で激減しています。旧型国電はもちろん、新製能国電と言われた各形式も、回送ではなんでも連結の様相でしたが、近畿圏では201系、221系以降の各系列は混結はもちろん、クモヤとの連結で本線に出ることがほぼなくなっており、どういう理由なのかはわかりません。
今回ご紹介の列車にクモヤが2両使われていたなら、おそらく両先頭車両となるよう組成されたものと思われます。これは「クモヤサンド」と言われ、今では福知山所の115系が吹田工場に入出場する際に見られるくらいでしょうか。
クモヤ(救援兼用)はまとまった電車がある車両区には必ずあると認識していますが、東海地区の車両区では少なくなっているのでしょうか。確かに名古屋周辺でクモヤを使った同種列車の話を聞きません。
しなの7号
JR西管内とは違って、JR東海では国鉄からの引継いだ車両は現在は皆無で、全車JR世代の車両に置き換わっています。クモヤ145も十数年前に全廃された記憶で、自分の中では、他の国鉄形車両とともに、すでに模型の世界の車両となってしまいました。工場入出場は編成単位でされていますので牽引車は不要になったということでしょう。冬季の霜取りは営業用電車の2パンタ化で解決し、救援時の牽引には営業用電車を使用し、復旧作業には、自動車を使用しているように見えますから、クモヤの後継車が不要になったということなのではないでしょうか。
木田 英夫
通勤時間のお楽しみとしてご理解ありがとうございます。列車から降りて、出口にも向かわずにウロウロしていたら、「あの人は何してるのだろう。降りる駅を間違えたか?」と思われるか、時節柄ホームに不審者がいると思われているかもしれません。が、止められそうにありません。
特に通過待ちの列車が停まる待避線(or副本線?)の方に回送の表示が出ている時は要注意で、普段は通過する特急列車や、こちらの記事のクモヤなど、なかなか見ることのできない列車が止まっていたりして、ジックリ眺めることができます。「写真撮影の方は、黄色い点字ブロックの内側からお願いします。」と言った放送が流れたこともありました。
何時もありがとうございます。木田英夫
しなの7号
大きなカメラを携えてホーム上や線路端をウロチョロしている撮り鉄の方々は、他人様からその目的がわかるので不審に思われにくいですが、私のようにコンデジ1つをポケットに入れてウロチョロしていると不審者そのもので、ホーム端に佇んでいるだけで、列車に飛び込みはしないか監視されているような気がすることもあります。
元珍ドコ会
この話題の機会に質問したいのですか、このような回送列車に乗務した際に、貨物列車のような解結通知書は渡されていたのでしょうか。
同種列車には途中の車両区で車両を増結、解放する列車もあり、クモヤ、クルクモルが牽引する日根野区~吹田工場の入出場列車があった当時、車両が森ノ宮区に立ち寄ると103系の解結がよく行われ、車掌には何らかの通知があった気がします。
しなの7号
一般に言う「解結通知書」とは「貨車解結通知書」が正式名称で、その名のとおり貨物列車又は混合列車に対して組成駅長が作成し、車掌(列車掛)が編成と内容を照合した後に機関士に交付することによって現車・換算両数などを通知するための書類になります。電車列車では使用されません。
貨車は日ごとに編成両数が違います。客車列車は編成両数が決まっていても、たとえば「スユかオユか」「ナハかスハか」によって重量が変わり、けん引定数以内かどうかを現場で確認する必要が出てきますので、車掌は編成を確認して「旅客車編成通知書」を作成して機関士に交付することによって現車・換算両数を通知していました。一方で、電車列車は電動車比率や使用される系列や形式、連結解放両数などが(臨時列車であっても)特定されていて、乗務員は事前に達示・点呼等で知っている編成内容が変わることはないのですから、「臨時に変更があったときだけ通知すればよい」こととされていました。そのため急な変更がなければ車掌は「旅客車編成通知書」を作成する必要がありません。余談ながら、国鉄末期には客車もすべて固定編成になりましたので、定期列車の場合は電車気動車列車に準じて、「旅客車編成通知書」が不要になりました。
元珍ドコ会
編成通知書のことなど、理解しました。前回書きました、日根野入出場列車が森ノ宮電車区で増解結を行う際の両数は前もって各区に通知され、車掌は事前に把握できていたと思われます。時には長い編成もありましたが、折り返しする安治川口駅有効長の制限内に収めていたようです。
ひとつ気になるのは乗務した場所で、今回はクモヤの最後部乗務員室でしたが、仮にクモヤが前で115系が後ろなら乗務位置はクハ115の最後部乗務員室となるものでしょうか。
以前見た入出場列車で、先頭クモヤの後位乗務員室に車掌さんがいて、後ろの113系最後部には乗っていなかったことがあり、乗務場所が絶対的に最後部なのか、あくまで牽引車に乗るのか、今さら疑問です。もう30年前の話ですが。
しなの7号
車掌は後方防護要員ですから、原則として最後部乗務員室に乗務します。しかし各駅で入換作業がある貨物列車の場合をはじめ、作業上、設備上の理由で前部緩急車に乗務することはありましたから、クモヤが先頭になった回送列車でも、そういうことはあると思います。ただ、具体的にどうような場合が考えられるかは、私にはわかりません。
まったくの想像で話をすれば、工場入場回送でジャンパで対応できない形式だとか故障車をクモヤが牽引する場合に、被牽引車の乗務員室との間で電気的に繋げられません。そうなると後部乗務員室ではブザー合図、車掌が使う緊急停止用の電磁ブレーキスイッチ、乗務員間の連絡電話、暖房等が使えません。また被牽引車が廃車前提の回送でしたら、列車防護用具など乗務員室に必需の備品が取り外してあるかもしれません。つまり後部乗務員室が緩急車として機能しない場合はクモヤの後部運転室が乗務位置として指定されることはあり得ると考えますがどうでしょうか?
元珍ドコ会
先頭の牽引車に車掌が乗務していた理由として、このたびのご見解はよくわかります。
やはり撮影対象としか見ておらず、被牽引車に車掌が乗務できない理由があることまで熟考しないでおりました。
この種の列車は始発、途中駅で組成作業を伴う点で、車掌が牽引車にいる方が理にかなう事もありましょう。
それ以上に、被牽引車の乗務員室に車掌業務の遂行に必要な機器が備えられていない場合には、事前に牽引車の乗務員室に乗るよう指示があったかと思われます。
しなの7号
再度9月29日にご投稿されたコメントを読み返して30年前の事例ということに気が付きました。その年代でしたら、すでに国鉄分割民営化後ということになるわけですから、その列車に車掌が乗務していたとは限りません。貨物列車の列車掛が省略されたのと同じように、国鉄末期(61.11)以後、電車でもEB装置、列車防護無線、列車無線が全国で使用され始め、それらが完備した回送列車・試運転列車・工事列車・配給列車は原則車掌乗務省略となっていきました。ご覧になった列車が車掌省略要件を満たしていた列車であったなら、クモヤの後部に乗っていたのが車掌ではないことになります。JR西ではどうであったかわかりませんが、今から30年前ですとJR東海では車掌の制服も変わって赤腕章は姿を消していましたから、その人物が車掌であるかどうか、遠くからだと判断しにくいとも思います。。。
元珍ドコ会
JRになった後の入出場、配給、試運転列車に車掌が乗っていたかは注視していませんでした。運転士以外によく見たのは、牽引車、配給車に設けられた、少し座席がある部屋や被牽引車(旅客車両)のどこかに業務上の便乗らしき作業服と作業帽の職員がおり、一目で車掌と見分けがつきました。
クモヤ後部の乗務を目撃したのは確か日根野区から吹田工場に向かう入場列車だったと記憶します。大阪環状線内回りを天王寺から安治川口に向かう途中、大阪駅で短時間停車した時に、先頭クモヤ後部の乗務員室窓から顔を出してホームを監視した職員がおり、車掌の制帽でした。いま思えば、便乗の管理職が制帽をかぶっていた可能性もありますから車掌と断定はできませんが、その時は漠然と、車掌なのだろう、としか思わなかったところです。この列車は、大阪駅発着時に撮影しにくいので「下見」をしておき、撮影したい編成ならば東淀川、吹田などに先回りできました。
しなの7号
運転士・車掌以外に工場への入出場列車に乗っているのは工場や電車区の職員でしょうから、ヘルメットを着用していると思われ、車掌と間違えることはないでしょう。しかも乗務員室窓から顔を出して列車監視をしているようなら、車掌である可能性は高いと思います。国鉄でも本社規程の下に鉄道管理局で規定されることはいくらでもあり、その線区だけの特例みたいなものも存在しましたから、JR西でどのような規定があったか知らない余所者の言うことはスルーで結構です。国鉄末期(61.11)以後でしたら、車掌が乗務してない回送列車等があるということがお伝えできればそれでよろしいです👌
元珍ドコ会
日根野発入場列車で大阪駅ホームを監視していたのは車掌でしたか。元珍ドコ会メンバーに聞くと、クル+クモルのみの配給列車でも車掌は乗っていたとの証言もあり、JRになってしばらくは、入出場列車等であっても車掌が乗務する列車があったようです。
数少なく現存するクモヤ+福知山115系を撮影している仲間によりますと、夜間に車内灯がついているが運転士以外は誰も乗っていない列車がほとんどだそうです。(クモヤのみ送り込みの場合も) 停車する駅では運転士が顔を出してホームの安全確認をしているようで、現在は車掌乗務しなくなったのでしょう。
貨物列車の車掌廃止から長年が経過し、旅客列車はローカル線でワンマンが当たり前になった一方で、幹線では入出場、試運転列車など、車掌は乗務しているもの、という先入観がありましたが、今回のコメントで、現在はこれらもワンマン化されていると知りました。
しなの7号
国鉄でも鉄道管理局や線区によって、取扱いが違うローカルルールがありましたから、旅客会社分割によって、ありとあらゆる場面で各旅客会社ごとの違いが一層顕著になっていることと思います。車両のことは、会社によって国鉄の車両を更新で寿命を延ばすか、さっさと新車に置き換えるかということでその会社の方針が目に見えてわかるのですが、保安面のことなどは外部からはわかりにくいですね。