「専務車掌(乗客扱)」の続きになります。この「専務車掌(乗客扱)」に関する直前の記事は「【127】専務車掌(乗客扱)2:乗務範囲と机上講習」です。
客専班に指定され、4日間の講習を終えるとすぐ線路見習がありました。
線路見習(略して線見)とは本務の専務車掌に付き添ってもらってひと通り、未乗区間を乗務することをいいます。これで停車駅の出発信号機や標識の位置、作業手順、出先での出勤箇所や乗務員宿泊所の場所を覚えるのです。
そのときの線路見習は定期列車での行路がない東海道本線の米原以西だけは行われませんでした。この車掌区では季節列車と臨時列車の行路しか受け持っていなかったからです。しかし、見習者すべてが、かつては列車掛で吹田まで乗務経験があることと、本務で宮原(操)まで乗務する行路は、すべて2人乗務であるので問題になりませんでした。
上の画像が、私が線路見習すべき区間でありました。これも講習時に配られた資料ですが、この画像でおわかりのように、山陽本線と鹿児島本線がまっ線で削除されています。この約1年半前の昭和57年11月のダイヤ改正で博多行の581・583系特急金星号が廃止となったために、大阪以西の乗務がなくなってしまったので削除されたのでした。これはほんとうに残念なことでした。
個人的には私は国鉄就職時にはこの職場で乗務掛(荷扱)だったことで、駅出身の車掌と違い、乗務したとことがない区間は、高山本線、北陸本線、信越本線の3線区だけでしたが、車掌または列車掛としては乗務していないので次のような列車で線路見習がありました。
高山本線=急行のりくら(28,58系気動車)
北陸本線=特急しらさぎ(485、489系電車)
※画像は民営化後の撮影
信越本線=急行赤倉(165系電車)
紀勢本線=急行紀州(28,58系気動車)
関西本線(亀山以西)=普通列車(35系気動車)
私はこのあと退職までの3年弱をこの職場の専務車掌として過ごしましたが、線路見習のあと実際に専務車掌として本務で乗務できた特急急行列車は中央本線・篠ノ井線・信越本線の北長野までと高山本線の岐阜~高山間だけで、そのほかの区間は線路見習をしただけで終わってしまいました。従って、その間に乗務した特急列車は、そのほとんどが中央西線の381系電車しなの号でした。
最初で最後のしらさぎ号の線路見習としての乗務は、名古屋を10:15に発車する「しらさぎ3号」で始まりました。終点富山には14:14着。そのまま回送列車として東富山まで往復し、折り返し「しらさぎ12号」で富山を15:28に発車し名古屋着が19:31というものでした。
「チーフ」と呼ばれる車掌長と「特改」と呼ばれる専務車掌(運用上車掌長職)、そして専務車掌の3名が本務で、線路見習の私を含めて計4人が乗務しました。
車両は金沢運転所所属の485・489系の12両編成でした。当時はグリーン車が2両連結され、食堂車も連結された中部地方では最も特急らしい特急列車であったといってよいかと思います。しらさぎ3号の列車番号は「3M」。1桁の列車番号は優等列車中の優等列車を思わせます。
往路の「しらさぎ3号」は途中13:27金沢に着きます。多くのお客さんが下車し、車内も空いてきます。我々乗務員は食堂車で遅い昼食の時間です。金沢を発車するとグリーン車の車掌室に乗務するチーフさんと特改さんが、そして最後部の運転室から本務の専務車掌と見習の私の計4人が6号車の食堂車に集結し、次の停車駅高岡までの約30分の間に食事をします。事前にチーフを通じて食堂車の従業員には注文をしてありました。私がそのとき注文したのは牛丼でした。ほかのメニューもいくつかあったのですが、私は食べる速度が遅いので簡単に食べられるメニューにしたのです。食堂車では乗務員は定価の半額で食事することができました。
このころの食堂車はすでに全盛期を過ぎていました。豪華さはなく牛丼の丼はスチロールの使い捨てタイプだったのがちょっと残念でした。
「【137】専務車掌(乗客扱)4:勤務形態と臨時列車乗務」に続きます。
この記事へのコメント
アルヌー
見習で乗務された列車が、どれも懐かしいですねー!どれにも乗った事が無いですが(^_^;)
485系のしらさぎは、どこで撮ったかわかりませんが一枚だけ写真を持っています。
ベッドマークが懐かしいです。
12両編成でグリーン車が2両、食堂車まで連結されて、列車番号が一桁なんて特急列車らしい列車ですね。名古屋と金沢・富山という大都市を結ぶまさに優等列車という貫禄を感じる列車だと思います。
お仕事とはいえ、覚える事が膨大な量で乗務員の方の大変さが垣間見えました。
「金星」という列車名久しぶりに見ました。
583系としては長い距離を走る列車でしたよね?
続きも楽しみにしています。(^o^)/
しなの7号
こんばんは。いつもコメントいただきありがとうございます。
このあと全国で特急編成の短縮や食堂車の廃止に向かっていったので、このときのしらさぎ号は最終期の特急らしい特急だったと思います。しらさぎ号も9両編成になり、グリーン車1両、食堂車は廃止となっていったのです。
金星には乗りたかったなあと思います。
見習のお話は今回で終わりです。このあとは本務になってからのお話になりますので、またお付き合いくださいね。
貨車区一貧乏
しかし列車掛時代の線見は工臨も担当してたので東京南局のほぼ全路線と北局は大宮操、武蔵野操。西局は山手貨物の全区間が担当でしたので、線見は魅力的なものでした。
良い思い出じゃないけど、当時の指導助役と同期の3人で線見とS川客車区に行った時に、間違って新幹線D2運転所に入ってしまい、ピット線で検査中の新幹線に乗り込み、見つかってしまい、助役(故人)と3人で運転所の管理者にこっぴどく怒られたのが今となっては良い思いでとなっております。^^
もーたろう♪
これだけの距離の線路見習となると、見ただけで大変ですねって(^^;)
部外者の自分が見ても、想像がつかないくらいでしょうねぇ@@
そして食堂車が連結されていた頃のしらさぎですか。旬が過ぎていても1度、食堂車ってので食事したいです。
子供の頃、親父に連れられて100系新幹線の食堂車で食べたことはあるんですが、あんまり覚えてないんです(^^;)
しなの7号
貨物線の線見は、一般の乗客としては乗れない線や駅を経由するので興味深いですね。名古屋周辺にもわずかながら貨物専用線がありました。
首都圏の乗務はさらに遡って乗務掛時代しか経験がありませんが、新宿~大崎~新鶴見~と乗っていました。湘南新宿ラインの電車が走ることなど想像もつかない昔のことです。多くの線路が絡まってどこをどう走っているのかわからない気がしました。
新幹線にはS川の長い地下道から紛れ込まれたのでしょうか?駅裏のS川乗泊に何度も泊りましたので、S川の様子を懐かしく思い出してしまいました^^;
コメントいただきありがとうございました。
しなの7号
1回だけの線見で、すぐ本務で乗れと言われても簡単ではないですよねえ。何にも起らなければそれでよしなのでしょうけど。私は高山線に本務で乗る前に改めて個人的に線見?をしましたよ^^;
100系の食堂車、私ものぞみには敢えて乗らず食堂車目当てでグランドひかりに乗った思い出があります。
できれば、こだまみたいな列車でゆっくり旅を楽しめる新幹線食堂車として復活してもいいのではとおもうのですが。
コメントいただきありがとうございました。
TOKYO WEST
同じ職場で新幹線総局東京車掌所車掌(昭和56年の乗組基準改正前で、車掌長1、専務車掌2、車掌1の時代で、車掌の乗組みがあった時代)の経験があるの元上司からいろいろな話を聞いたことがありますが、関西人の客扱いには気苦労が多かったこと、博多まで通し乗務の場合には車補の発行が厄介だった(中国・九州地区の耳慣れない駅へ(から)の区間変更など)とのことです。
今となっては「国鉄」ならでは苦労といったところでしょうか。
しなの7号
コメントいただきありがとうございます。
長距離乗務は、接客面でもおっしゃるように、東西の人種(文化)の違いを実感するものです。鉄道を離れてからも、仕事の場面でそれを感じています。
知らない駅名が多いのももちろんですが、駅名のイントネーションもよく分からないので放送のとき困りましたね。
見習だけで終わった北陸・信越の駅名は未だに苦手なところですが、3年近くの乗務掛(荷扱)の経験は駅名の知識に役立っていました。
踏切警手
食堂車のお話を、とても興味深く拝読いたしました。
私も数回利用した事が有りましたが、学生時代は、都ホテル東京で食堂車の皿洗いアルバイトもしておりました。
八重洲の詰所から、マイクロバスで東京駅に向かい、独特のモーター音が響く新幹線ホームは、ドミグラスソースの香りが漂い本当に特別感が有りました。
通のお客様で、チーフコックの乗務を調べてわざわざ食べに来る方もおられたり、京都から新大阪だけ、カツカレーを必ず夕方食べに乗車する方も居て、今のようにネットがない時代背景を鑑みると、凄いことだったんだなと、改めて思います…
とても勝手な要望ながら、新函館北斗駅から西鹿児島まで食堂車連結の特別な新幹線直通列車を走らせてくれないものかと思っており、
今や車内販売まで無くなってしまって、本当に残念です。
しなの7号
サハシ455は地元中央西線でも急行玄海号の間合いの普通・快速で使用されていた時期があり、中学生のころに乗ったことがありました。
【965】 中央西線を走った車両20 :475系電車と72系電車
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201903article_2.html
中間車にある運転台のワイパーや警笛ペダルは、気動車列車でも助士席側で乗客が操作ができてしまう構造でしたね。そういう話は
【575】 思い出の乗務列車52:武豊線927D(後篇)
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201504article_4.html
のコメント欄でも読者の皆さんが書き込んでおられます。
踏切警手
過去ブログのご紹介、ありがとうございます。
まさか9年も前に、『懺悔のペダル』として、既に、皆さん盛り上がっていたとは思いもよりませんでした。
サハシも、非営業でも連結されていたのですね。中央西線でも同じような状況だったとは、改めて驚きました。
それにしても、国鉄全盛期は急行電車にまでビュッフェ車両が連結されていたなんて、今考えるととても贅沢で、特に153系の立ち食い寿司は、食べてみたかったです。
確か乗車されて寿司を握っていた親方が、静岡で、つばめ鮨を開店されていたと聞き、行こうと思った矢先にお亡くなりになられた事を知り、夢は叶いませんでした。
しなの7号
誰でもが「懺悔のペダル」を踏んでみたい気になるものですが、乗務中に無意識に踏んでしまってびっくりしたことは幾度もあります。
今では特急列車に吸収されてしまった急行列車ですが、今どきの特急など足元にも及ばない長距離急行列車がいくらでもあったことを、サハシの存在で思い知らされます。
つばめ鮨のことは存じませんでした。