【140】 臨時列車の乗務(1):キハ52

客専班になって初めての予備勤務に指定されたのは、約5カ月が経過した昭和59年10月下旬からでした。12月上旬までの間、いつも乗務していない列車を中心に乗務することになり、臨時列車にも乗務するようになりました。

その時乗務した列車を振り返ってみたいと思います。
基本的には遊びでなく(ホント?)、仕事なのでカメラ持参で乗務することはほとんどありませんでしたので、乗務時の写真は一部例外を除いて撮っていません。そのため、掲載する写真は類似の模型で再現してみたいと思います。実際とは多少違っていたりするかもしれませんが、その点はご容赦ください。編成のメモくらいは残してありますので、掲載しておきます。

昭和59年10月27日
中央本線回8526D(運転区間:中津川~多治見) 
乗務区間 中津川10:56~多治見12:10

キハ40 2131 名ミオ
キハ52 136  名ミオ

画像


当時明知線で運用されていた気動車は美濃太田機関区所属でしたが、通常は中津川機関区に常駐して給油や検査を受けていました。大きな検査があるときだけ、所属の美濃太田機関区へ帰っていました。
電化されている中央西線を走るこの気動車列車は、そのために不定期運転されていました。明知線は私の所属する車掌区での受け持ちではなく、中央西線内で運転される回送だけを受け持っていましたので、この臨時列車のほかにはキハ52に乗務できる機会はめったにありませんでした。

さらにこの明知線のキハ52は、定期運用として中津川機関区への入出庫を兼ねて中津川~恵那~明知の直通運用が1日1往復存在しました。短い区間ですが中央西線に毎日乗り入れるのです。
編成はキハ52が2両とキハ20が1両でした。私は高校生のころには帰宅時に、この明知線直通の列車を何度となく利用していましたので、その同じ車両に回送とは言え仕事で乗務することに感慨深いものがありました。
画像

まだ、首都圏色になる前の明知線直通の中央西線のキハ20+キハ52+キハ52

画像

私が客専班になったころには、キハ20はキハ40に変わり、キハ52は首都圏色に塗り替えられました。しかしキハ52は美濃太田所属のまま1両たりとも転属はなく、ずっと同じ車両(キハ52の120、121、122、123、136、137の6両)が配置されていました。

さて、回8526Dの乗務が終わる多治見では太多線の車掌との乗継ではなかったので、おそらく太多線内は美濃太田まで定期列車に併結されて回送されたのだと思われます。

それにしても、キハ52がつい最近までJR線で活躍していたことは、国鉄車両がいかに頑丈に造られていたのか思い知らされるものです。さらに驚くべきは、いすみ鉄道でキハ52をJR西日本から譲り受けて運転させるということです。末永く国鉄時代の姿で、そのエンジン音をも残していただきたいと思います。

<2016.6.6追記>
この乗務から10年後の1994年、旅先の熊本で知らず知らずのうちに、このとき乗務したキハ52 136に再会していました。【693】鉄旅1994年7月「787系つばめ・熊本のキハ52・豊肥本線」に、そのへんのいきさつを書いています。

この記事へのコメント

  • アルヌー

    しなの7号さん、こんばんは!
    いすみ鉄道にキハ52が来ると聞いたときはビックリしました!
    出来ればエンジン等はそのまま使って欲しいですよね。
    先行して撮影会が行われたみたいですが、走り出したら僕も乗りに行きたいと思っています。\(^o^)/

    キハ52は朱色より二色の塗り分けの方が似合いますね。

    写真が美しくて、流石だなーと思いました。

    国鉄型の車両は意外とまだまだ走っていますね。

    キハ40系はまだまだ活躍しそうですね\(^o^)/
    2011年02月21日 22:14
  • しなの7号

    アルヌー様
    コメントありがとうございました。

    キハ52がこれからも見られるというのはうれしいことです。
    国鉄の一般色と急行色は、リアルで国鉄をご存じない世代の方にでも受け入れられる塗装だと思います。
    自分にすれば、キハ52は通学にも撮影旅行の足にも乗務にも関わったわけで、愛着一入といったところです。
    2011年02月22日 07:25
  • hmd

    しなの7号さん、こんばんは。
    今日の日中は少し暖かかったです。

    明知線にキハ52が所属し、運用されていたのは存じていましたが、キハ52+キハ20+キハ52の3編成のまま恵那~明知を走破していたのでしょうか? 若しくは恵那で分割だったのでしょうか? あの急勾配と急カーブを3連でならば、格好いいですね (^_^)/
    夷鉄のキハ52も塗装変更が終わったそうですが、エンジンの修理に時間がかかっているようですね  何とか菜の花の期間中に間に合って欲しいです (^_^)
    2011年02月22日 20:47
  • しなの7号

    hmd様 こんばんは。
    コメントありがとうございました。
    こちらは日中、春のような陽気でした。

    明知線は通常キハ52だけの2両編成でしたが、朝夕のみ中津川直通のキハ20(キハ40)が増結されてキハ52+キハ52+キハ20の3両編成がありました。明知線内ではホームにかからない車両が出ました。
    明知線では団体輸送や、地元イベント時に、ごく稀に最高4両編成を見たことがあります。
    2011年02月22日 21:43
  • ますけ

    しなの7号様こんにちは。
    過去の記事に突然のコメント、お許しください。
    私は1981年に明知線沿線で生まれ、育ち、幼い頃の鉄道の記憶は真っ赤な明知線のキハ52で始まりますので、
    こちらの記事をたいへん懐かしく拝読しました。
    明知線は1985年に廃止、明知鉄道に転換されますので、私のキハ52の記憶は4歳までのものですが、それでも鮮明に覚えています。

    母の実家が落合でしたので、明知線内から朝の中津川行きによく乗りました。
    特に、恵那駅での転線の様子はよく覚えています。

    恵那駅では、折返し用の切り欠きホームではなく、明知方からそのまま直進して1番線に到着しました。
    一旦下車して中津川方面の3番線から乗り直すよう、放送があり、多くの乗客はその通りにしていましたが、
    母は私に「降りなくても大丈夫」と告げ、
    他の勝手知ったる乗客も座ったままでした。

    程なく扉が閉まり、名古屋方に走り出すと本線上で停車します。
    通路を乗務員の方が通り抜けると、逆方向に走り出して転線、3番線で客扱いをして、中津川に向けて出発しました。

    一旦乗客を降ろすのは、本線上で停止するため安全の理由からかな、と勝手に推測していましたが、いかがでしょうか。

    他の記事も楽しく拝読おります。
    偶然、こちらのブログを見つけましたが、中央西線はじめ国鉄時代の貴重な記録が多く、今では考えられないような運用など、感心するばかりです。

    これからの更新も楽しみにしております。
    2023年06月01日 19:20
  • しなの7号

    ますけ様 はじめまして。
    ご覧いただきありがとうございます。
    その列車でそういう転線作業をしなければならないことは承知していても、私はその列車に明知線内や恵那から乗車した経験がありませんので、恵那で乗客に対し一旦下車して中央本線下りホームから乗り直すよう放送があったことは知りませんでした。
    列車番号こそ変わりますが、時刻表上は「明知発中津川行」と明記されているのに、なぜそんな放送をする必要があるのか?そして放送に従わず乗ったままでもなぜ咎められないのか?私にもわかりません。

    ところで、明知発中津川直通列車は、1975年から時刻表に記載されているようですが、実はそれより前の中央西線全線電化時(1973年)から同じ時間帯に恵那始発中津川行が運転されていました。明らかに明知線車両を給油のため中津川まで回送すべき列車を客扱とした列車でした。つまり、「明知発中津川行」の前身と言える列車はその時誕生したわけですが、時刻表上は別列車でしたから、その名残で、そんな放送があったのでしょうか???
    しいて言うなら「明知発中津川行」になってからでも列車番号が変わるので運転上は別列車。しかし旅客案内上(時刻表上)は直通列車ですから、そういう考えも、あまりに杓子定規ですね。
    なお一般的な話として、乗客を乗せたままの転線入換作業が禁止されているわけではありませんから、乗客を乗せたままの転線作業をする例には複数思い当たります。身近なところでは、例えば高山本線の下り「ひだ」の場合、大阪発編成と名古屋発編成との併合作業で乗客を乗せたまま、大阪発編成がいったんホームを離れる入換作業が行われます。かつては美濃太田でも下り「ひだ」と「北アルプス」との併合作業に伴い、「ひだ」がいったん長良川鉄道の本線に引き上げる作業がありました。
    懐かしい明知線から中央西線へ直通列車に乗車経験をお持ちの方に巡り合えるとは思ってもいませんでした。ご投稿ありがとうございました。
    2023年06月01日 21:29
  • ますけ

    早速のご返信、ありがとうございます。
    ご教示いただいた他の例から考えても、安全上の理由、というわけではなさそうですね。
    本線上での転線ですので、幼い頃の記憶とはいえ、長時間停車していたとも考えられず、
    やはり、列車番号が変わるため別列車として扱われていた、といったところでしょうか。

    これからも更新、楽しみにしております。
    2023年06月02日 11:11
  • しなの7号

    ますけ様 
    ところで、その恵那始発中津川行ができる前(中央西線全線電化直前)の時刻表を見ると、9時15分恵那始発多治見行という気動車列車がありました。これも明知線の車両を基地へ回送することを主目的とした旅客列車だと考えられ、そうだとすれば事実上明知発多治見行だった可能性があります。(直前に恵那に着く明知線の上り列車は8時51分着)こちらは転線する必要がないので、ちょっと停車時間が長すぎますかね・・・

    明知鉄道移管直前の時刻表によると、明知発中津川行は恵那着8時44分で、発車時刻は9時00分。この間の16分は楽しい時間だったことが想像されます。時刻表からは、その間に下りの特急が8時45~46分ごろ通過し、8時57分発の上り快速が来ますから、この間の約10分間の間隙を使って転線したのではないでしょうか。
    2023年06月02日 20:11
  • ますけ

    なんと、実質、明知発多治見行き、なんて運用があったのですね!私の生まれる前ですので、全く存じませんでした。
    また、明知発中津川行きの恵那駅での16分間、
    そこまでの記憶はありませんが、上りに下りに、列車が往来していたとは、なかなか賑やかだったのですね。

    私の弟妹の世代だと、もはや国鉄明知線の記憶はありません。私の世代が最後です。
    今でこそ明知鉄道も様々に取り上げられますが、その昔の姿である片田舎のちっぽけな国鉄支線のことを、知る人はほとんどいません。
    だからこそ、私にとっては大切な思い出ですね。
    2023年06月06日 15:36
  • しなの7号

    ますけ様
    考えてみれば、国鉄時代は常時改札ではなく列車別の改札だったので、停車時間が長く別列車として仕立てた恵那始発多治見行は、明知線内から恵那まで乗ってきた乗客は、いったんラッチ外に出された可能性が高いと思います。

    私はJR発足後すぐに愛知県に転居しましたので、明知鉄道より国鉄明知線の印象のほうが強く、馴染みもあります。(年寄やなあ~)明知鉄道は今でも駅や沿線風景が国鉄時代の面影を残しているので、とても懐かしさを感じさせてくれる鉄道だと思っています。
    2023年06月10日 06:52

この記事へのトラックバック

  • 【693】 鉄旅1994年7月「787系つばめ・熊本のキハ52・豊肥本線」
  • Excerpt: 4月の熊本地震で被災された皆様に、お見舞い申し上げます。 私には熊本に知人もおりませんし、観光旅行もあまりしませんでしたが、鉄道に乗るのが趣味であることから、複数回熊本県内に足跡をしるしています。 先..
  • Weblog: 昭和の鉄道員ブログ
  • Tracked: 2016-06-06 06:21

ブログ内ラベルリスト