【177】 乗務した車両:貨物列車の緩急車

列車掛になったとき、乗務する貨物列車には「緩急車」が連結されていました。
今では貨物列車はワンマン化されて、めったにその活躍を見ることはないですが、列車掛が機関車の後部運転台に乗務するようになった昭和60年3月のダイヤ改正までは、一部の例外を除いて貨物列車の最後部には「緩急車」がぶら下がるように連結されていて、列車掛はその「緩急車」に乗務していたのです。

※「列車掛」については拙ブログ「【3】貨物列車」に簡単に解説しています。
 また、「緩急車」については、拙ブログでは以前にも「【30】 列車掛2:乗務範囲と緩急車」で、その概要をご紹介していますので、そちらもご参考にしてください。

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写真の模型は16番ゲージのワフ22000です。かなり前にホビーモデルのプラキットを組んだものです。
ベーカーカプラが何とも言えないですがお許しください。他の古~い貨車との互換性重視でこのようなことになっています。ナンバーもまだ表記できないまま実家に放置されています(^_^;)

そもそも緩急車とは何でしょう?
それは国鉄が定めた運転取扱基準規程に、定義が明確にされています。

【「緩急車」とは、貫通ブレーキ用のブレーキ・シリンダ、車掌弁、圧力計、及びハンド・ブレーキを備えた車掌の乗務室の設けてある旅客車又は貨物車をいう。】

このような車両のことで、連結位置は一部の例外を除いて原則最後尾とされています。私が乗務しているころの貨車の緩急車には規定上の設備のほかに、尾灯、手歯止め、列車防護に必要な信号炎管、信号雷管、軌道短絡器が備え付けられていました。ほんらい備品として必要な工具や無線機は盗難の恐れがあるので、備え付けられておらず、工具は列車掛に貸与されており、また無線機は車掌区から乗務の都度渡されました。

ご承知のように形式の最後に「フ」がついていて、ワフ、コキフ、オハフ、スハネフなどは いずれも車掌室がある「緩急車」です。貨車にはこのほかに車掌が乗務するだけの目的の「ヨ」という車掌車がありましたが、これも機能上「緩急車」の一部です。

「貫通ブレーキ用のブレーキ・シリンダ」とは、先頭車から車両ごとのブレーキ管がエアホースでつながっていて、先頭車両(機関車)のブレーキの増圧減圧によって最後尾まで貫通しているブレーキ回路によって作用するブレーキ装置のことです。
「車掌弁」とはその貫通ブレーキの減圧をするための弁で、急激な減圧によって機関士に異常を知らせるとともに非常ブレーキをかけるための設備です。

貨車の緩急車には非常に古いタイプのワフ21000から、当時の最新型ヨ8000までがありました。列車の速度種別による用途によって使用車種が限定されるのですが、一般的な時速75km以下の貨物列車ではどのような形式に当たるかが事前に全くわかりませんでした。どのような形式でもよいかというと、決してそんなものではありませんでした。

形式によって車内設備が違っていて、居住性が大きく違うからです。
さきほどのワフ22000の模型で、室内を覗いてみましょう。
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左側は貨物室で、右側は乗務員室です。間仕切壁に向かって2人用の事務机があって、窓際にはロングシートがあります。
乗務員室の中央にあるのは石炭ストーブとその煙突で、このストーブは丸い形をしていたので、「だるまストーブ」と呼ばれていました。
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室内の配置は形式ごとに異なっていて、この形式の後に製造または改造された緩急車は片側の窓際に事務机が取り付けられるようになりました。

冬場ですと、ストーブの種類によって、手間や暖かさに大きな違いがありました。
もともとの標準設備は石炭の「だるまストーブ」でした。これは大変暖かいのですが、着火と火種の維持が大変でした。着火には、オガクズを固めた10cm程度の棒に油を浸みこませた「ツケール」という安直なネーミングの製品を使っていました。
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写真は某所に保存されていたワフの車内にあった実物の「だるまストーブ」です。
この「だるまストーブ」を改造して、燃料を灯油にした石油ストーブの車両もありました。これは着火こそ楽ではありましたが、発熱量が不足で寒いものでした。また、バーナー部分からの灯油漏れがあったりして、室内が灯油臭い車両も多くありました。
もっともいいのは下の写真のようなポット型の石油ストーブでした。
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写真は鉄道博物館に保存してあるレムフ10000の乗務員室のものです。
このポット型の石油ストーブには、改良型があって、不完全燃焼防止用の電動ファンが付いたものもありました。
どの車両も隙間風がひどく、こうしたストーブなしには過ごせない寒さで緩急車を「寒泣車」という当て字を使ったりもしたほどでした。

ストーブはすべての緩急車に装備されましたが、トイレはヨ8000とコキフ、レムフ以外の緩急車にはありませんでした。
このような点で、一般的な貨物列車に乗務するとき、当時の新鋭ヨ8000に当たるとこの上なくありがたく感じたものでした。
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来週以降数回に分けて貨車の緩急車について1~2形式ごとにまとめて、形式ごとの違いや特徴とともに、その緩急車が連結されていた乗務列車の編成例をご紹介することにします。

この記事へのコメント

  • 京阪快急3000

    おはようございます。
    そういえば、昔の貨物列車には最後尾に「緩急車」が必ず連結されていましたね。
    緩急車も車種が複数ある事は知りませんでした。
    また、模型や写真で室内の様子も始めて知りました。
    続きも楽しみにしています。
    2011年06月20日 07:21
  • しなの7号

    京阪快急3000様 こんばんは。
    コメントありがとうございました。

    一般の乗客の方は乗る機会のない貨車の緩急車。
    緩急車とは何者かを最初に知っていただく必要があろうかと思い、車種別のご紹介の前に今回の記事を作成いたしました。今後ともよろしくお願いします。
    2011年06月20日 21:21
  • くろしお1号

    しなの7号様、こんばんは。
     今回も冒頭の写真に釘付けです!ベーカーカプラーのワフ、そして線路はカツミの金属道床、それも犬釘?の数が少ない旧タイプ…懐かしさで一杯です。小学生の頃、鉄道模型が欲しくて、でもそんなお金はなくて…エンドウのワム23000を1両だけ買ってもらったのを、鮮明に思い出しました。母が「23000円もするのか!」と、勘違いして驚いたものでした。
     今では、当時とは比較にならない実感的な製品が数多く出回り、また給料がもらえて編成単位で購入することもでき、ありがたいことと思いながら、手にした時の感動…寝る時はずっと枕元に置いておくなど、心の底からの感動は薄れてしまったような気がします。立派なベーカーカプラーは、そんな思い出の象徴です。
     これまでも、たくさんの車両をご紹介いただきましたが、貨物列車にも乗務されていたのですね。旗振り時代、操車場に置いてあった緩急車を探検しましたが、硬そうな椅子にダルマストーブと、厳しい職場環境だなぁ
    と感じました。トイレのない車も主流派のようでした。列車掛の経験のある先輩方からも、ストーブで用便後の焼却処分…「焼け糞」など、切実な話しをたくさん聞きました。
     「ヨ」形式の車掌車を、頭文字から「嫁さん」と呼んでいたそうですが、孤独な男の職場にこの癒しの呼び名は、何と的を得た情緒ある表現だろう…と、当時の国鉄諸先輩方の詩心あふれる芸術センスに脱帽するばかりです。
    2011年06月20日 21:23
  • 貨車区一貧乏

    しなの7号さん こんばんは
    ついつい緩急車には食いついてしまいます^^

    私は緩急車に実質1年、機関車後部席に1年(緩急車連結編成もあり)の乗務暦でしたが、やはりヨ8000は重宝でしたね^^夏はサウナ、冬は冷房状態ですよね~
    扇風機も電圧降下をビビッて走行中しか使用できませんでした。
     石炭ストーブへの着火は「ネオライター」というポネットティッシュ大の白い固形燃料でした
    当方、北海道産なので着火はお手の物でしたが、胴乱の中には必ずネオライターと新聞紙が入ってました…
     ちなみに今度、胴乱の中身なんかをテーマにお願いします(笑)

     北海道の冬季に釧網線でSL冬の湿原号っていうイベント列車が走ってまして、イベント用に改造されてました。そこで久しぶりに緩急車に乗車、もちろん保安装置は外されてましたが、あの最悪な乗り心地を体験してきました
     現役時代、出発合図をしたのち衝撃に備えて身構える習慣、あれはまだ必要でした^^;
     そのときの乗客の皆さん、緩急車はなぜ付いていたか興味をもたれてましたね

    追伸、電気機関車は、みな暖かかったです
    2011年06月21日 02:43
  • しなの7号

    くろしお1号様 おはようございます。
    エンドウの貨車は私も何台か持ってました。今も一部は残っています。子供の頃の「1両」には重みがありましたね。23000円!とは失礼ながら笑ってしまいました。スタンプで表現された形式番号が値段に見えるとは、一般の方の当たり前な感覚なのかもしれないですが。
    ワム23000は黄色い線が入っているやつでしたかね。これはうちにはなかったですが、同じ形のワム90000がほしくて長く探した記憶があります。90000円もしませんでした(*^^)v

    焼け糞も経験者です。「ヨメさん」はよく使った言葉ですが、一般に言われる「ヨ太郎」という言葉は、職場では誰も使っていませんでした。地域的なものでしょうか。

    コメントありがとうございます。
    2011年06月21日 06:18
  • しなの7号

    貨車区一貧乏様 おはようございます。

    緩急車のほか機関車にも乗務されていたんですか。私は機関車の乗務経験はないのですが、冬はいいですね。夜間や早朝の始発時点の寒さと言ったら、たまらないですからね。石炭ストーブに着火して始発検査を終えて緩急車へ帰ってくると火が消えていたなんてことになると、悲しいものです。
    「ネオライター」の言葉、ひさしぶりに聞いて思い出しました。初めは「ツケール」でしたが、は私どもの職場でも途中(たぶん昭和55年~56年の冬)から固形燃料の「ネオライター」が登場したと思います。
    動乱の中に「ツケール」をたくさん持ち歩いていた人があったのか、「ネオライター」に変わったあと、緩急車内の石炭置場に「ツケール」がたくさん置いてある(捨ててある?)車両に乗り継いだことを思い出しました。

    現役緩急車に乗りたいお気持ちはよくわかります。北海道はちょっと遠いので行けませんが、かつて運転されていた長良川鉄道のトロッコ列車ではヨ8000とヨ6000に乗車したことがありました。そのことはブログ記事「【32】鉄道あちこち訪問記2:国鉄越美南線(現長良川鉄道)後篇 」で少し書きました。
    北海道で現在も現役の車掌車が展望車として連結されているのは貴重なものと思います。足元をすくわれるような衝撃、ものすごい騒音、いいことなしの乗務も時が経つと懐かしく思えてきます。

    コメントありがとうございました。
    2011年06月21日 07:07
  • toseibom

    しなの7号さん、こんばんは。
    今回も楽しいお話を拝見させていただき、時間がたつのを忘れました。私は物ごころつくころは飯田線の伊那北付近の線路沿いに住んでいて毎朝7:30ころにとおる、新宿行き「こまがね」と長野行き「天竜」のキハ58の6両編成を見送るのが習慣でした。いつも見かける列車は4両が最大でしたが、子供にとって朝一番に見る堂々?の6両編成は大好きでしたね。そんな伊那の辺りの貨物列車にはワフがついていましたが、ヨは見た記憶がなかったのです。なので、祖母の家に行くときに乗る中央西線ではヨを興味深々で眺めていました。当時はD51がけん引に当たっていましたが、30両越えは普通でした。そんな中で、編成途中や最後尾につながれている両端デッキの車掌車がかっこよく見えましたね。ワフも入っていたのでしょうが、私の記憶は中央西線の貨物の車掌車といえばヨしか光景が浮かびません。幼心になんで、うちの近所の飯田線にはヨが来ないのかなと疑問に思っていました。本当は通っていて自分が見ているのは特定のスジの貨物だけだったのかもしれませんが。
    またちょくちょく伺わせていただきます。
    2011年06月21日 22:40
  • しなの7号

    toseibom様 おはようございます。
    その、朝の急行天竜は辰野で分割併合、塩尻で併合という列車だと思います。塩尻の併合相手は多治見(のちに中津川)始発の「きそこま」(のちにきそ1号)だったはずで、当時の国鉄の運用は本当におもしろいものでした。

    飯田線の車掌車は、自分の数少ない写真を見ても牽引機がED62に変わった直後あたりまではワフばかりのようですね。また中央西線でもワフも日常的に使用されていました。ただ、時速85キロの貨物列車も設定されていたと思われるので、そういう列車にはヨを連結する必要がありました。
    自分が乗務していたころ、緩急車は北海道と四国を除いて全国運用でしたが、一部の区間では専用運用もありました。飯田線がどうだったか存じませんが、たとえば明知線は専用運用で常にワフでした。しかしC12からDD16に牽引機が変わってしばらくして、専用でなくなりヨも入線するようになっていました。
    地味な緩急車でしたが、興味を持ってご覧になっておられた方がいらっしゃったんですね。コメントありがとうございました。
    2011年06月22日 07:06
  • toseibom

    こんばんは。たびたびスミマセン。幼少のころを思い出して、もうひとつ中央西線の貨物列車を不思議に感じたことがありました。編成途中にヨとワフが入っていたことです。飯田線の貨物列車で車掌車が中間に連結された編成は見たことがありませんでした(いつも5両くらいしかつながってなかったです。この短編成ではありえないと幼い私でも思いました。)しかし、西線では車端にあるべき車輛の後ろにさらに貨物がつながっているのでした。私は当時、これはきっと入れ換えが面倒なので車掌車を境に編成を分割して機関車をつなぎ換えてまとめていろんな方面に運んでしまうための処置だと勝手に思い込んでいました。実際は何のための中間への連結だったのでしょう?
     PS1私のブログにコメントいただきありがとうございました。実は操作ミスで一瞬削除してしまいした。通知メールが残っていたのでなんとか復活できましたが、事務局から何か連絡がいったとすればそれは私の操作ミスです。すみませんでした。
    PS2 「天竜」と「こまがね」の分割併合・・思い出しました。今でも覚えているのは、大昔に多分松本だったと思うのですが、キハ58の天竜で母と飯田線でかえるとき、松本のホームで待っているときに入線した編成は長い編成でした。ところが塩尻からそのほとんどが西線にむかってしまうのを知ってがっかりしたことがありました。さらに辰野で分割され飯田線に行くのはいつも見ている2両。なんで長編成のまま向かわないのか納得できなかったですね(笑)
    2011年06月22日 21:49
  • しなの7号

    toseibom様 おはようございます。
    事務局からは何も連絡はありません。ご心配なく(^o^)丿
    中間に挟まった緩急車の件は、理由は複数あろうかと思います。
    おっしゃるように編成分割に備えての場合。
    私も塩尻で実際に篠ノ井行と辰野行とに分割される貨物列車に乗務していました。こうした列車には組成方に緩急車が中間に入ることが指定されていたので、その列車には必ず中間に緩急車が入りました。

    そのほかの場合で、不定期に中間に入った緩急車はたいてい回送で、定期検査などで所属区へ戻るためか地域的な需給調整だと思われます。緩急車には所属区が決まっていましたが、本州九州の範囲で広域に運用されていました。
    中央西線はその両終端駅からさらに先へ東線や信越、または東海道、関西各線へ行く貨物の通過経路になっているので、貨車の行先や種類も多く、こうした緩急車の回送も日常にありました。飯田線は線内を縦断する貨物を扱っていませんでした。飯田線内駅対飯田線外の駅の相互間の貨車しか入らなかったために、こうした回送は見かけないものと思います。

    気動車の分割併合の運用はたいへんおもしろいものがありましたが、天竜号も篠ノ井線と西線電化後は神領電車区の165系に代わりました。
    その後松本の165系に代わっていきましたが、神領受持ち時代に、その天竜系統運用の車両が神領に帰区する回送列車に乗務したことがあります。いずれ簡単に本文中でご紹介したいと思います。
    コメントありがとうございました。
    2011年06月23日 08:20
  • ひとりかもねん

    おはようございます。

    興味深く拝見させていただきました。貨物列車の車掌が列車掛となり、機関車に常務していた時代があったとは存じませんでした。続きの記事も楽しみにしております。
    2011年06月25日 05:37
  • しなの7号

    ひとりかもねん様 おはようございます。
    コメントと気持玉もいただきありがとうございました。

    列車掛が機関車に乗務するようになったのはワンマン化に向けての「お試し期間」的な経過措置だったのでしょう。
    次回以降は貨物列車の編成例も紹介しながら進めますので、昭和50年代半ばの国鉄貨物列車の様子を味わってくださいませ。
    2011年06月25日 06:01
  • hmd

    しなの7号さん、こんばんは。
    今日は気温は低くなったものの、こちらは大荒れでした。

    緩急車・・・自分にとっては、知らない合間に廃止合理化された感じがします (^_^) あと、5年早く生まれていれば・・・とも思います。
    地元は国電区間なので、貨物列車を眺めるには専ら中央東線の西行き貨レであり、長い編成の最後の尾灯が印象的でした(模型も無いと、何故か締まらないと感じます)。
    しなの7号さんにとっては、職場であり乗務中は色々と使い勝手に苦労されたとのご様子ですが、多少の不便は今になっては懐かしく思えるのも、今の便利で効率的な物事と比べても感慨深いです (^_^)
    ストーブの種類も色々あったとのことで、驚きました。ヨ8000は独特なかっこ良さのありますが、側窓も少なく真夏はサウナ状態だったのでは?と思いました。
    やはり、男の職場ですね(笑)
    2011年06月25日 19:54
  • しなの7号

    hmd様 こんばんは。
    「あと5年早く生まれていれば」は誰しも思うものですね。自分もあと5年早く生まれていれば、金星号に乗務して南福岡まで乗務できていたはずです。

    緩急車の夏はたしかに暑かったですが、急行でも非冷房車があった時代ですから、暑いのも当たり前みたいなところはありました。長時間停車があると駅前の喫茶店に行くとかいうこともありましたです。

    模型では今でも緩急車が最後部にないとダメですね。あの赤い反射板にはどうしてもなじめませんでした。

    コメントありがとうございました。
    2011年06月25日 21:54

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