写真はヨ2000です。
ヨ2000が時速75km対応なのに対し、ヨ5000とヨ6000は時速85km対応となっていました。
ヨ2000は戦前製の非常に古めかしい車両で、リベットが多く、4つの側窓がやや高い位置にあって中央に寄っていました。デッキの連結面も鋼材の丸棒で造られていたのが、この形式の特徴でした。この形式では石油ストーブ装備の車両を見たことが一度もなく、
《2016.8.7追記》
私が乗務していた1980年前後に、他形式の緩急車に石炭ストーブから石油ストーブ化した改造車が増えつつありましたが、旧型車であるヨ2000とワフ21000・22000に石油ストーブ車を見たことは一度もありませんでした。ところが、Kiyo様から、石油ストーブ車を示す白線があるヨ2000の画像が残っていることをコメント欄でご教示いただきました。戦後装備した石炭ストーブを石油ストーブ化改造したものと思われ、石油ストーブ装備のヨ2000は存在したことになります。
ヨ2000は他形式の「ヨ」に比べて少数でしたから、あまり乗る機会がありませんでしたが、その編成例です。
昭和55年8月21日
東海道本線(名古屋港線)1678列車
運転区間 稲沢~名古屋港
乗務区間 稲沢17:39~名古屋港18:08
DD51822(稲一)
オトキ 29300 ―(車票なし)
オトキ 28311 ―(車票なし)
ハワム 82016 播州赤穂~堀川口
ハワム584154 鳳 ~名古屋港
ハワム184254 水俣 ~堀川口
ハワム 87597 水俣 ~堀川口
ハワム286229 大竹 ~堀川口
ハワム 83606 大竹 ~堀川口
ワム 71323 ―(車票なし)
ワム 71662 ―(車票なし)
ワム 63981 ―(車票なし)
ワラ 12307 ―(車票なし)
ワラ 6186 ―(車票なし)
オトキ 28324 稲沢 ~名古屋港
ヨ 2093 (高タソ)
現車15
延長19.2
換算25.6
この形式を基本にして、ヨ3500~ヨ5000~ヨ6000が順に製造されていったことになります。
ヨ5000にはヨ2000の後継車であったヨ3500からの改造車と新製車が混在していました。そのヨ3500は時速75km対応であったために、東海道本線で時速85kmの特急貨物列車が走り始めた1959年(昭和34年)に12両がヨ3500から改造されたことで新形式となって誕生したものです。その後、1962年(昭和37年)にヨ5000として新製された車両があり、これら「5000番台」のうちの一部は東海道本線のコンテナ特急に使用するため、外部をグリーンの国鉄コンテナ色に塗られた車両もありました。コキフ10000登場後はその用途は終わり一般車と混用されましたが、非常に目立つ存在でした。
このグリーンのヨ5000には1度だけ列車掛見習のときに乗務しました。その後は黒に塗り替えられてゆき、見かけなくなっていきました。黒く塗りかえられたヨ5000のなかには、「特急たから」で使用されたと思われる行燈式テールマーク掛の取付金具と電気配線が残っている車両も見かけたことがありました。
下の写真がグリーン色のまま中央西線の貨物列車に使用中の姿ですが、前述のテールマーク取付用の金具はないものです。
さらに1967年(昭和42年)に時速85km対応改造を施工したヨ3500が、新たにヨ5000へ編入されました。このグループでは、ヨ3500時代のナンバーに10000を加えるだけといった付番方法でしたので、ヨ5000を名乗りながらもナンバーは「13000~14000番台」で、ナンバーからはヨ3500形式のような錯覚さえ起こしてしまいます。
ヨ3500自体に多くの形態がありましたので、ヨ5000を名乗っていても細部に違いが見られました。
ヨ5000形式のなかには、ヨ2000に似た、リベットの多い古めかしい形態で側窓位置が高く中央に寄ったものから、側窓位置はヨ5000新製車と同じ低い位置なのに中央に寄ったものや、全溶接構造のような近代的なものまで形態のバリエーションがありました。車内も石炭ストーブであったり石油ストーブであったり、長椅子も長いものであったり短いものであったりしました。
上の2枚のヨ5000の画像では妻面左右に白線、側面の運用番の下端に細い白線が描かれていますが、石油ストーブ装備車を示すものです。ヨ2000にはその表示はありませんので石炭ストーブ装備車ということになるのです。
昭和55年9月9日
関西本線 262列車
運転区間 亀山操~(関)富田
乗務区間 亀山操8:33~(関)富田9:53
DD51 816(稲一)
ヨ 14530 (盛アソ)
コタキ 81912 膳所~東藤原
ホキ 25756 膳所~東藤原
コタキ112462 膳所~東藤原
コタキ 81900 膳所~東藤原
コタキ 91944 膳所~東藤原
ホキ 25760 膳所~東藤原
コタキ111937 膳所~東藤原
ワキ 5581 久留米~塩浜
ヨ 14123 (名イナ)
現車10
延長14.5
前後の車掌車は、いずれもヨ3500からの編入車なのでヨ3500時代の旧番号に10000を加えたナンバーです。ヨ5000として新製されたヨ5000を含んだ列車の編成例は、以前に「【179】乗務した車両:ワフ21000・ワフ22000有蓋緩急車」の記事でご紹介したセメント専用列車である関西本線5295列車をご覧ください。その前部に連結されています。今回紹介した262列車はその5295列車のコタキやホキが膳所から戻ってくる列車なのでしょうか。これらは空車なので余力があるからか、この列車の列車番号も専用貨物列車を示す5000番台ではなく、四日市行一般貨車も連結されることになっていました。最後部のヨの直前に連結されている塩浜行ワキは四日市で切り離されるのです。



この記事へのコメント
京阪快急3000
記事、じっくり拝見させていただきました。
その中に誤記を見つけました。
ヨ3500のコキフ10000登場時による改番の部分が「130000~140000番台」となっていますよ。
その次の写真を見て「あれ?」と思いました。
あと質問ですが、「オタキ」、「ハワム」の「オ」と「ハ」は、何を意味するのですか?
くろしお1号
いよいよ、正真正銘の「嫁さん」登場ですね。対して、ワフはどう呼ばれていたのでしょう?まさか「ニュー○○フ」では…
ヨ2000はとてもクラシカルですね。デッキの腰板も板ではないことも、解説を読み写真をよく見て、なるほど納得です。
一方のヨ5000が車掌車標準スタイルに思えるのは、やはり一般的な鉄道模型で見慣れていたからでしょうか。折りしも模型量販店の新製品情報に、KATOから再生産とありました。
実際に乗務されて、ワフとヨに何か好き好きなどおありでしたか?経験のない者の感覚では、ヨの方が広々していて過ごしやすそうです。逆向きワフなど、それこそ独房のようです。でも、暖房は余り広くない方がよく効くでしょうし…そもそも、ヨとワフが両方あったことに、それぞれどのような意義があったのか、そこも興味があります。
そう言えば、河曲駅の駅舎として長年君臨?していた嫁さんもいつの間にかいなくなってしまいました。鈴鹿と言う大きな駅名を奪われ嫁にも逃げられ、かろうじて立派なトイレが駅としての体面を保っています。
脱線しました。失礼しました。しなの7号様が乗務されていたのは、お嫁さんがやって来る前…まだ立派な駅舎が残っていた時代ですね。紀伊号も921列車も健在で…沿線で見つめていた憧れの列車たちの中に、しなの7号様をお見掛けしていたのは間違いありません。
しなの7号
こんばんは。誤記のご指摘ありがとうございます。さきほど修正いたしましたm(__)m
オトキの「オ」は「標記トン数が36tと標記してある無蓋車」に冠する特殊標記符号ということです。ほかにも「車体の長さが16mをこえるタンク車」、「 車体の最大長さが12mをこえるホッパ車」にも「オ」が付きます。いずれも普通の積載量やサイズより「おおきい」車両に換算両数、延長換算の算出に必要なので区別されているものと思います。ハワムの「ハ」も同様で「標記トン数が15tのパレット荷役用有蓋車」になります。用途と延長換算に必要な区分です。パレットの「ハ」からきている符号だと思います。現場では「パワム」と呼んでいました。
ウィキペディアで「国鉄貨車の車両形式」の項で他の記号についても記述があります。
しなの7号
当時の最新式ヨ8000の別格とすれば、国鉄の最もポピュラーな緩急車がヨ5000でしょうか。広くてばねも柔らかい「ヨ」のほうが「ワフ」より全般的に優位でしょうか。ワフは少しでも多くの貨物を有効に運ぶ必要性があった国鉄貨物全盛期の遺物のような気がします。私が乗っていた頃は運用上は速度制限以外の面ではワフでもヨでもよかったように思いますが、荷物列車がないようなローカル線ではワフも重宝されていたのかもしれないです。
河曲駅にあったヨの車体を利用した待合室は、2003年に写真を撮ったことがあります。伊勢鉄道の鈴鹿駅から歩いて訪問しました。嫁さんがいなくなったあと河曲駅には降り立ったことがないです。国鉄時代の駅舎はがらんとしてくたびれていましたね。駅前のさびしさは今でも変わらないのでしょう。
貨車区一貧乏
いつも感心するのは現車、延長、換算はもとより 車籍、車票まで記録されていることです。
おかげでS55年当時 青森や高崎の緩急車も交番検査以外どこでも行ってたことがよくわかります(北海道を除く)当時、南タシの緩急車には乗車されていませんか?
ヨ2000は正直、存在もわかりませんでした
5000は多分乗務回数が一番多かったように記憶しています。
余談ですが 今でも一年に一度くらい、欠乗の夢を見ます。場面は一人立ちの深夜の操車場、何かの理由で遅れて出場。ようやく乗ろうとした瞬間列車は発車、全力疾走で列車を追う・・・
走っても追いつかない!・・・ってところで目を覚ます^^;
寝汗かきまくってました。列車掛、車掌時代には欠場などの運転事故に細心の注意をはらってましたよね
ハワムの件ですが、我々も「パーム」と呼んでました。
緩急車はヨ太郎と言うことが多かったです
しなの7号
貨物列車の緩急車は旅客車とちがって、北海道と四国を除けば全国で運用されたわけで、どこのどんな形式の緩急車に巡り合えるのか楽しみでありましたし、なにぶんにも始発検査の時間などで余裕がありましたから、こうして記録をしていました。関西本線や支線系の記録が多いのもそのためで、東海道の高速貨では乗り継ぎで中間駅での長時間停車もないので、編成の書き写しは困難でした(^_^;)
残念ながら南タシの緩急車には乗務したことがありません。南局では南ツソ、南トメくらいしか思い当たりませんね(-_-;)
欠乗の夢は乗務員の定番?のわけですが、私も1年に1回くらい見るか見ないかといったところですが、やはりありますね。あれは乗務員でないとわかんない悪夢ですね^^;
私どもの職場で「ヨ太郎」という呼び方は一般的ではなく「ヨメサン」でした。地方によって呼び方も違うんでしょうか。パーム、パワム…これは同じか方言的な違いと言えましょうか?
コメントありがとうございました。
くろしお1号
「嫁さん」は、新採研修で配られた専門用語解説集にありました。ハダシ=脱線の他、アカタイ=関西線快速、アオタイ=阪和線快速といった地域色濃いのもありましたが、「嫁さん」は全国区だとずっと思い込んでいました。そんな文化も、何か形にして残していきたいですね。
しなの7号
「ヨ太郎」VS「嫁さん」日本は広いですね。他にも鉄道内部用語で地域限定の愛称があるかもしれませんね。こういう研究?は未開拓分野かも。
ちなみに「8番線」を「タコ番」というのは全国的でしょうか?稲沢駅構内では実際に常用されていたようです。
新採研修にそんな専門用語解説集があったのですか。自分たちはなかったと思います。「ハダシ」はわかるとしても、さすがにアカタイ、アオタイは存じませんでしたね。
貨車区一貧乏
もちろん「嫁さん」でも通用しますので・・・
私は国鉄最後の採用でしたが内部用語はありませんでした^^「
タコ番」ですか 申し訳ないですが存知ませんでした
逆に、方向を表す用語でスキーの山足、谷足のように
「東京方」「沼津方」「山側」「海側」東海道線を基点に考えられて方向表していましたが 名鉄管内はどのよにされていたのでしょうか?
脱線質問すみません<(_ _)>
しなの7号
タコ番は「ハチバン」と「イチバン」の誤認をしないため使ってたみたいですよ。公には「8」は「ハチ」であったのですが。「10」は「トウ」というのは公式ですね。
東海道本線の場合、名鉄局では「東京方」「神戸方」でした。「山側」「海側」も常用していました。間違いのない判りやすい用語だと思います。
ところで、何故「沼津方」なのでしょう?「熱海方」でないのは御殿場線経由のころから使用されていた用語なのでしょうかね。
toseibom
とても楽しい記事を拝読させていただきました。ヨめさんとかヨ太郎とか、面白いです。中央西線に緑のヨが通ったなんて知りませんでした。一度も見たことなかったなあ。窓も4つあるんですね。自分が子供のころに好きだったのは窓が3つ(ヨ6000)でした。なぜかというと、親に買ってもらったおもちゃの車掌車が窓3つだったからです。窓を減らして小型化すれば製造にかかるコストも抑えられるから車掌車はどんどん小さくなっていくんですね。
しなの7号
皆さんのコメントのおかげで、面白くなりました。
toseibom様はじめ、皆さんコメントありがとうございます。この場をお借りして御礼申し上げます。
toseibom様のおっしゃる「窓3つのおもちゃの車掌車」とはプラレールでしょうかね? プラレールも長寿の鉄道おもちゃで、私が子供のころからあります。もっとも当時のプラレールにヨはまだありませんでした。
グリーンのヨ5000は絶対数が少ないですが、コンテナ特急限定運用から退いた後は、北海道と四国を除いて全国運用とされていたので、神出鬼没でした。
Kiyo
いつも閲覧させて頂いておりますKiyoと申します
なかなか表に出て来ない貨物列車や荷物列車の話題を楽しく見させて頂いております
昔の貨車に興味が有り画像を見ておりましたらヨ2000のストーブ付き車の画像を見つけたので書き込みします
http://www.bekkoame.ne.jp/~tomoki/jrf/JRZIGYO/JRZIGYO.html
そう言えば最近稲沢に留置してある車掌車が前に比べて減っているような気がします
今の貨物列車も好きですがやはり車掌車か緩急車が連結されていないと物足りない感じがします
長文失礼しました
それでは失礼致します
しなの7号
国鉄時代の貨物列車や荷物列車の画像映像は少なくて、これまた少ない資料にあやしい記憶を重ねるしかないというの現状ですね。
たしかにご教示いただいたヨ2000の画像には、石油ストーブ搭載の白線が入っていますね。石油ストーブのヨ2000は見たことがありませんでしたので、全車が石炭ストーブ車なのだろうと思っていました。現車は戦後石炭ストーブを搭載した後に石油ストーブに改造したのでしょうか。私が乗務していた1980年前後に、ヨの他形式にはそのような石油ストーブ化改造車は増えつつありましたが、戦前製のヨ2000は改造対象ではないと思っていました。ご教示ありがとうございました。本文もその旨を加筆させていただくことにします。
ヨ2000は数が少なく、乗務記録を見ても約1年半の列車掛時代にヨ2000には3回しか当たっていません。
稲沢のヨ8000についてですが、記事末尾のアフィリエイト広告にある本に、稲沢のヨ8000購入記が掲載されていることから想像すると、用途不要車の売却をしたようですね。ヨ8000の在籍数は20両を割り込んでいるとのこと。二軸貨車が続く長い貨物列車の締めに緩急車を懐かしく思います。