ヨ6000はヨ5000の後継車で、1962年(昭和37年)から1969年(昭和44年)までに新製されています。
これまでの車掌車と基本的構造は変わりません。しかし実態に合わせたのか、車内は事務机が小さくなり2人分(ヨ5000は3人分)となり、長椅子も短くなっていました。
外観もヨ2000とヨ5000は側窓が4つ、ヨ6000が3つだったので、外観からすぐ区別がつきました。
これまでご紹介したワフとヨには、いずれの形式にもトイレがありませんでした。また、暖房方式は石炭ストーブ(だるまストーブ)が標準でしたが、室内の石炭置場の位置に石油タンクを取り付け、だるまストーブに石油のバーナーを設置して石油ストーブに改造した車両のほか、ストーブそのものをポット式の新品に交換した交換した車両も増えていきました。ワフ21000、22000、ヨ2000といった古い形式では石炭ストーブ車しか見たことがありませんでしたので、廃車間近の車輛にはこうした改造はされなかったものと思います。
昭和55年7月18日
関西本線 5295列車
運転区間 (関)富田~亀山操
乗務区間 (関)富田22:30~亀山操23:28
DD51 820(稲一)
ヨ 14340 (北オオ)
コタキ 71998 東藤原~宮川
コタキ112461 東藤原~宮川
ホキ 25732 東藤原~宮川
コタキ112458 東藤原~宮川
ヨ 6477 (北オオ)
現車 6
延長 8.0
換算24.0
この列車は、以前「乗務した車両:ワフ21000・ワフ22000有蓋緩急車」でご紹介した同じ列車の別の日の編成例です。
その時の貨車の行先は膳所行でしたが、この日は宮川行でした。
牽引機は、関西本線~伊勢線でお召列車を牽いた経歴がある名機「DD51 820」でした。
前部に連結された緩急車(現場では前緩(ゼンカン)と呼んでいました)はヨ5000形式です。5000番台車ではなく、ヨ3500からの編入車であることは以前お話しいたしましたが、そもそも貨車の形式はナンバーだけでは判りにくいものです。この編成中の「コタキ」はすべてタキ1900形式なのですが、これも判りにくい例と言えましょう。なお1両連結されているホキはホキ5700形式です。
最後尾の緩急車(現場では後部緩(ゴブカン)と呼んでいました)がヨ6000形式ですが、これはナンバーからお判りいただけると思います。緩急車には所属区名があって、この例ですと2両とも大宮客貨車区の車両です。
貨物列車の緩急車は、線路がつながっていなかった北海道と四国以外は、一部の線区、一部の列車を除いて全国共通運用でしたので、どこの所属車が連結されてくるかわかりませんでした。
++++++++++++++++++++++++++
++++++++++++++++++++++++++
さて、続いて紹介するヨ8000形式は、昭和50年代の国鉄貨物列車に使用されていた緩急車のなかでは最新鋭で、乗務員にも好評な車両でした。ワフ21000、22000、ヨ2000といった戦前~戦後初期の旧式の緩急車取り換えのために昭和49年から6年間に1000両以上が製造されています。
これまでご紹介してきた戦前製のヨ2000からヨ6000までは基本的な設計はほぼ同じでした。執務用の机と回転いすが2~3人分のほか、長椅子があって、製造時ストーブは石炭のだるまストーブという車内設備で、車体も通常の屋根付き貨車の構造と同じでした。それに対してヨ8000の車体はその前から製造されていたコンテナ専用列車用の緩急車コキフに採用されていた5トンコンテナ1個分のサイズの車掌室ユニットを基本にしており、これを車台にボルトで固定した簡易構造でした。
そのため、車掌室の面積が小さくなったのに加え、ユニット式トイレを装備したことで、大変狭くなりましたがトイレがあるということは乗務員にとっては有難いものでした。
執務用の机は1人用になり、長椅子はなくなった代わりにテーブルをはさんで向かい合う固定クロスシートがありました。ストーブは新製時から石油のポット式で、室内が狭いことからも暖房効果はよく、在来の緩急車とは格段の差がつきました。
妻面には後方監視窓も設置され、流れゆく景色を展望車のように眺められました。広いデッキはバルコニーみたいで、夏場はデッキに出ると気持ちがよかったものです。
昭和56年1月16日
関西本線 1564列車
運転区間 稲沢~白鳥
乗務区間 稲沢16:12~白鳥16:41
DE11 1016(稲一)
レム 6282 鮫 ~白鳥
レム 5406 鮫 ~白鳥
レム 6082 鮫 ~白鳥
ワム 64373 日立~白鳥
オトキ 25192 勝田~白鳥
ハワム286880 喜多方~白鳥
ハワム181049 岩沼~白鳥
ハワム 87585 岩沼~白鳥
ハワム 87212 岩沼~白鳥
ハワム280027 岩沼~白鳥
ハワム188344 岩沼~白鳥
ハワム285917 八代~白鳥
ハワム182929 岩沼~白鳥
トラ 71059 常滑~白鳥
ヨ 8290 (秋アソ)
現車15
延長17.6
換算33.6
東海道本線の貨物支線である「白鳥支線」の「白鳥」行の貨物列車の例です。
稲沢から東海道本線の貨物別線(通称稲沢線)を経由し、名古屋からは一旦中央西線の本線上を走り、山王信号場で「名古屋港線」に入り、途中「八幡信号場」から分岐して2キロ足らずの貨物線の終点が白鳥駅でした。この駅は貨物専用駅でしたが、私が列車掛から車掌になって旅客専門の職場へ転勤した1年後の昭和57年にはこの「白鳥支線」は廃止されました。白鳥駅の跡地には名古屋国際会議場が建設され、周囲も再開発されました。
新しいヨ8000でしたが、昭和60年3月のダイヤ改正時から、列車掛が機関車の後部運転室に乗務することになり、最も新しい車両の場合わずか6年で車掌車としての本来の使命を終えることになってしまいました。一部車両は添乗用など特殊な用途のために民営化時にJR各社に引き継がれ、現在もその姿を線路上で見ることがあります。
上の写真は、昨年1月に特大貨物輸送の時に、シキ800に付随して春日井の愛知電機専用線に姿を見せたヨ8000です。
また、国鉄越美南線を引き継いだ第三セクター長良川鉄道では、一時期、ヨ6000とヨ8000とトキ25000を組み合わせたトロッコ列車を運行していたことがありました。その写真は「【32】 鉄道あちこち訪問記2:国鉄越美南線(現長良川鉄道)後篇」で紹介していますので、よろしければご覧ください。
この記事へのトラックバック
- 【192】 3両目のヨ6000
- Excerpt: ひさしぶりに鉄道模型のお話をしましょう。
- Weblog: 昭和の鉄道員ブログ
- Tracked: 2011-08-11 05:50
- 【354】くるくるくるり・・・JR久留里線(4)[車窓編]横田から、馬来田へ&馬来田駅。
- Excerpt: ++++++++++++++++++++ 横田0937===東横田===0947馬来田 下り久留里行(キハE130形101・単行) ++++++++++++++++++++ 横田駅から、ふたつ..
- Weblog: hmdの鐵たびブログ ローカル線の旅
- Tracked: 2017-06-30 14:35





この記事へのコメント
京阪快急3000
ヨ8000車掌車は、自分も知っています(実車を見た事はありませんが・・・)。
「長良川鉄道のトロッコ列車」の記事も拝見しました。
きれいに「お色直し」がされていますね。
しなの7号
ヨ8000はまだ現役車がありますから、見る機会があるかもしれません。そのほかの形式でも保存車や駅の待合室に転用されたものなら見ることができます。もちろん、その多くはお色直しがされてますけどね。
貨車区一貧乏
緩急車も残り少なくなってきましたね
ヨ6000の想い出は とにかく車重が軽かった・・・
乗務線区だった武蔵野南線(貨物線)には スラブ軌道で長大トンネルが多数あり、代表的なのが生田トンネルという約10kmの区間がありまして、そこを走行すると車重が軽いのでトンネル走行音反響がひどいのと さらにスピードを出すと動揺が増して列車無線なんて聞ける状況じゃなかったです(^_^;) でも比較的きれいな車両が多かったので 自分は嫌いじゃなかったです
ヨ8000に関しては 言うこと無しで坦バネでも乗り心地良し!
防音、暖房も良し!
前方、後方、通過監視は本当にしやすい車両でした
私が列車掛だった緩急車末期頃には トイレは黄害の関係で使用禁止で施錠されていました(涙)
唯一の弱点?と言ったらブラインドを下ろすとイタズラ書きがあったことかなぁ
そういえば 緩急車のイタズラ書きで「よしこ」さんって名前のが非常に多かったと記憶してますが しなの7号様は憶えていらっしゃらないですか?
それと緩急車の通称「よめさん」「ヨ太郎」などは もしかして営業職場、運転職場によって若干言い方が違うんじゃないかという説も現役の先輩が言ってました。
しなの7号
生田トンネルのあたり、定期旅客列車が毎日走っているわけではないので、乗ったことがありません。貨物線にいつも乗れるというのは貨物列車乗務員の楽しみですね。スラブ軌道のトンネルと緩急車の組み合わせは最強にうるさい環境でしょうね(^_^;)
末期はヨ8000のトイレも施錠されてましたか?
私が乗っていた頃は冬期間は凍結防止のため水を抜いてしまうので使用停止という制限はありました。
ヨ8000の乗り心地は2軸車独特のヨーイングという揺れで前部と後部が交互に左右に揺れていましたが、2段リンクの位置からだと思うのですがキュッキュッと軋み音がしていたのが記憶にあります。
緩急車の落書きは多かったので、いずれ実例?を記事にアップしたいと思っていますが、「よしこ」さんは記憶にないです(^_^;)
「よめさん」「ヨ太郎」の呼称のお説も、あり得ますね。身近に貨車区出身の方が居りませんのですぐには調べようがありませんが…
コメントありがとうございました。
くろしお1号
ヨ6000は、余り記憶にないなぁ…と、よく考えてみると、ヨ5000と混同していたようです。貨車に縁のないまま過ごしてきたので、窓数の違いとかも貴ブログで初めて知りました。
ヨ8000の構造は、上下が別々だったのですね。これで、気になっていた謎が解けました。実は、名古屋工場の入換動車に、控車のような変な無蓋車がいつもくっついていました。デッキ部の腰板には白線があり、以前拝見した石油ストーブの識別マークみたいです。これは一体何だろう…と、いつも眺めていましたが、上下分割のヒントを頂き、「そうか!ヨ8000の下半身だ」と気付きました。上半身は、どこかで詰所にでもなっているのでしょうか。
貨車区一貧乏様のコメントも合わせ、貨物車掌の乗務は体育会系でもあり、しかし詩情溢れる芸術の世界のようにも想像されます。
「よしこ」さん…いろいろ妄想をかき立てられますね。男社会独特の暗号?一人勝手に解釈してしまいます。そう言えば旗振り時代、入区する機関車の留置線を
「とめさん(留置3番)」と機関士に通告したら、頭文字の子音を省略して復唱され、次の言葉に難儀したことを思い出しました。
カラカラにドライな今の鉄道職場から見れば、こんな品のない打合せさえ一つの文化とも思えてしまいます。
しなの7号
名古屋工場のヨ8000の下半身、存じてます(^O^)/
先週も八田まで久しぶりに出かけたのですが、健在なのを車窓から確認しました。
男ばかりの国鉄時代、貨車や荷物職場では特に男の職場ならではの「文化」があったということを今更ながら思いますね。当時は冗談で済んだことや、コミュニケーションの一環であった事柄が、今は無くなっていることも、外部の人間になった私にも想像に難くありません。良くも悪くも当時が懐かしく思い出されます。
コメントありがとうございました。
hmd
連続コメントですみませんです。
言われて見れば、窓数が・・・意外にも認識しておりませんでした (^_^;) ホーム端や編成端にある遠目からも、今日、乗務する形式が一発で判りますですね(笑)
緩急車は改造や編入車両が多く、広域運用だったとのことでその研究は奥が深そうですね。
模型の世界でも独特な雰囲気がありますし・・・誰か特定車番の工作もしていそうです(相当、マニアックかと思いますが 笑)
国鉄末期、短命だったヨ8000はそういう構造だったのですね。乗務中のトイレと暖房事情、本当に切実だったと感じました。
また、機関士さんは暖房は問題ないとして、トイレ事情は同様だったのでしょうか?
長椅子のフカフカさがどうだったのかも気になったりします (^_^)
しなの7号
ヨ6000や8000といった比較的新しい緩急車は同一形式内での形態に大きな違いはなかったと思いますが、ヨ5000以前の車両については形態や経歴の研究をすれば奥深いものになろうかと思われます。
機関車にはもちろんトイレはありませんでしたが、乗務時間、乗務距離とも機関士の場合は短かったので、緩急車より救われていると思います。
ヨ6000の長椅子は寝るには短いのですが、ヨ5000にはその長椅子が2つ並べてある車両もあって、ベッドにして「ゴロンとシート」?として使えました。
あまりフカフカだと熟睡してしまいますね(^_^;)
たとえどんなにフカフカなシートだったとしても、ひどい乗り心地の車両ですから快適さはないですね。
toseibom
今回もとても面白い記事で楽しんで拝読させていただきました。私はヨ8000が最初とても斬新でかっこいいなと思いました。でも、だんだんヨ6000が姿を消していくのを感じて残念だなとも思っていました。ヨ8000は個室のオフィスみたいなんですね。おっしゃる通り、後方の景色が室内にいながらにして見えるのはワイドビューでうらやましい限りです。ヨ8000を改造してユニットバスとベッド・空調をつければ、なんともぜいたくな独り占め車輛ができますね。予約人数分だけ連結して移動すれば、面白い企画列車ができそうな気がします。最後尾の連結位置は取りあいでしょうけど。失礼しました、
しなの7号
今回、この場を面白くしていただいたのは、コメントを頂いた方々です^^;
ヨ8000でおっしゃるような企画列車が実現したらいいですね。ヨ8000は個性的なスタイルで、鉄道好きなら1両保有したいものですね。
私も考えたのですが、最寄駅にヨットハーバーのように留置させてもらい、旅に出る時は専有車として貨物列車の最後部に連結させてもらう契約(^◇^)
個人所有ということで、もちろん車内は改造OK。
こんな夢はいかがでしょう?
独り占めではなかったですが、小海線だったかで、ヨ8000たくさんとオハフ1両を連ねた企画列車が昔あったと記憶しています。
コメントありがとうございました。
toseibom
ネットを確認したら、小海線のトロッコ列車の画像がいくつかありました。2001年ごろの企画だったんですね。田舎のローカル線ならではのこんな企画は大好きです。
しなの7号
こういうのは一番リッチで楽しい「鉄」だと思うんですよ。実現したらほんとうにうれしいです。せめてワフを買い取って乗務員室部分をNレイアウト付のマイルームとして、貨物室部分を「鉄」収蔵庫にしたいと思った時期がありました。そのくらいならその気になれば実現できそうですが、こちらでは土地もなく(その前に金もなく)断念でした、で、残念でした(T_T)
うさお
ご無沙汰です。
このGWにJR北海道のSL大沼号に乗ってきました。
たまたま函館駅で知ったのですが、「ヨ」が連結されていて、それも狙いでした・・・。
車掌車は独特の揺れですね。あの中で、書類を書くなんて絶妙な技が入りそうな気がしました。
ちなみに隣の14系客車は滑らかかつ、揺れがないこと。
あまりの差に驚きました。
車掌車に乗務したはじめの頃は体が慣れなかったことと思います。
しなの7号
ヨ3500に乗車ですかぁ。いいですねぇ。
走行音もすごいですよね。座って字を書くことなど不可能で、走行中は立って字を書きましたね。
客車でもいいので、機関車牽引の列車に乗ってみたい今日この頃です。
レイアウトの参考に
編成記録が大変参考になりました。
・岩沼、八代発のワムハチということは紙だったのか?
・日立、勝田と似たような所や喜多方など、白鳥へ一体何を運んでいたのか?
・常滑発は近距離すぎるし空車の回送だろうか?
と想像が尽きません。
しなの7号
コメントありがとうございました。
乗務で白鳥へ行ったことは少なく、ほかの日の編成記録はありませんので、これ以上のことはわかりません。白鳥駅は、鮮魚などを扱う名古屋中央卸売市場関係と木材の取扱が中心の貨物駅という認識でしたが、乗務員には積荷で把握する必要があったのは、火薬(前後に介在車を必要とする)のような特殊なものを除けば関係のないことでしたので、まったく積荷を意識していませんでした。そのため中途半端な記録になってしまいました。
日本猫
偶然、このブログを見つけて拝見させて頂いております。
旅客列車に比べて貨物列車、その中でも車掌車の話は少ないので、大変興味深く読ませて頂きました。
私はいわゆる鉄道マニアという奴で、小中学生時代には家から数km離れた東北本線(現宇都宮線)まで出かけては、走って来る国鉄時代の列車を眺めておりました。
まだ貨物列車にも車掌車が付いていた時代で、子供の鉄道マニアなら一度は思うでしょうが、あの車掌車に乗ってみたいと憧れたものです。その後貨物列車から車掌車が無くなった時は、あるべき物が無い様な気がして寂しさを感じたことを憶えています。
しなの7号
ご覧いただきましてありがとうございます。
一般人が乗れない車両とは、どのようなものか興味をそそられるお気持ちはよくわかります。貨物列車の最後尾に付いているのが当たり前だったものが、全国で一斉に連結されなくなってから、あの赤い円盤を付けた貨物列車の最後部を見るたびに、中途半端な違和感が長い間抜けなかったのは私も同じです。