中津川機関区に所属していた機関車で保存された機関車3台について、お話したいと思います。
初めはD51101号機
中津川機関区で廃車されたあと、静岡県島田市の中央小公園に保存されました。
撮影は1997年です。よく見ると転落防止用の金網が羽のように溶接されています。中津川機関区の晩年の標準装備だった長工式集煙装置は外されています。
<<履歴>>
昭和13年6月2日 汽車會社で誕生
この間、昭和22年9月15日一関水害のため不明
昭和22年8月1日 一関機関区
昭和34年11月7日 酒田機関区
昭和47年10月28日 中津川機関区
昭和48年 用途廃止
中津川では最末期に転属してきた機関車で、もともと東日本の機関車です。履歴簿が水害でなくなったらしく、昭和22年以前の履歴は不明です。炭水車上部サイドのS字の切り欠き形状が他機より深いのが特徴でした。
最終期の臨時快速「木曽路」でよく使用され、1日だけデフにつばめマークを貼りつけて運転されました。
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続いてD51125号機
これは中津川機関区で電化直前まで活躍後、長門機関区へ転属し山陰の地で廃車になっています。
その後、新製当時の活躍地である首都圏の船橋市の郷土資料館に保存されました。
<<履歴>>
昭和13年7月22日 日立製作所で誕生
昭和13年7月31日 新鶴見機関区
昭和19年8月18日 静岡機関区
昭和24年9月16日 中津川機関区
昭和48年6月15日 長門機関区
昭和48年? 用途廃止
中津川機関区に20年以上にわたって在籍した「中央西線の機関車」と言ってもいい機関車で、私も馴染みの機関車です。保存地が遠いところではありましたが、ぜひ再会したいとの思いから1999年に船橋まで出かけました。
長門機関区でが集煙装置は不要だったとみえ、取り外されて活躍したようですが、長門の地での再会は果たしていません。
写真は中津川機関区内で入換中の様子です。
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続いてD51155号機
撮影は1997年です。
中津川機関区で廃車されたあと、長野県塩尻市の塩尻市役所に保存されました。
中津川機関区の晩年の標準装備だった長工式集煙装置は外されています。
こちらの機関車は転属が多いながらも、ずっと中部地方で過ごした機関車でした。
<<履歴>>
昭和14年2月10日 日本車輛で誕生
昭和14年2月10日 米原機関区
昭和20年11月20日 大垣機関区
昭和25年5月13日 上諏訪機関区
昭和39年3月4日 長野機関区
昭和45年1月15日 稲沢第一機関区
昭和45年11月26日 中津川機関区
昭和48年2月3日 用途廃止
この機関車の現役時代の写真がこんなものしかありません。
2枚とも中津川機関区での撮影です。
この記事へのコメント
京阪快急3000
中津川機関区に所属していた3両のSLが、現在も大切に保存されているのですね。
SLをあまり知らない若いファンの方々など、SLの素晴らしさを後世に渡り、いつまでも残しておいてほしいと思いました。
しなの7号
なかなか、進まない保存車両訪問記事ですが、それぞれの地で大切にされているとうれしいものです。
訪問してから、さらに時が流れているので、現状はまた変わっているかもしれません。
ありがとうございました。
くろしお1号
私の印象では、東海道線や中央線に非電化の時代があったのが、どうしてもピンときません。特急紀伊号で国鉄線を知った頃、関西線はまだ「喝采」の時代。蒸機こそすでに引退していましたが、唯一の特急は老体に鞭打って紀伊半島を巡ったキハ81でした。その時すでに真新しい381系が疾走していた中央線は、とてもドライなイメージでした。
数年前、定年も近くなった大先輩が、職場内誌へ機関助士時代の思い出話を寄稿してくれました。中央線槙ヶ根トンネルでの死闘が生々しく描かれており、中央線にそんな時代があったことを初めて知った次第です。
折りしも、先日梅小路へ出掛けたくさんの蒸機と出会い、また高崎ではC6120が見事に復活し、D51498と共に誇らしげに上州路を疾走する姿を、駅のポスターなどで目にすると、この地方でもこんなプロジェクトが動き出したら素晴らしいな…と心から思いました。
自分で動かしてみたいのは勿論ですが、志しある女性運転士が挑戦すれば、日本が元気になるきっかけになること間違いなしです。
保存されている蒸気機関車も、管理の仕方で状態が千差万別のようです。ご紹介いただいたD51が、いつしか命を甦らせたら…という夢を見たいばかりです。
しなの7号
コメントありがとうございました。
中央西線の近代化は私が小学生のころから始まり高校1年生の時の全線電化までで一区切りでしたので、単線、SL、通票閉塞の時代から、その移り変わりを見てきました。そういう時代に活躍したD51は地元の風景の一部でもありました。
国鉄に就職して紀勢本線に乗務した時は、蒸機こそなかったものの、DF50が健在でまだ通票閉塞でしたから、近代化が遅れている印象を受けたことは確かですが、鉄道の原点に触れた気もして、新鮮な感覚で乗務していました。
SLでの槇ヶ根越えは乗客として何度も体験しました。ほぼ毎週この恵那~武並間を乗客として乗る機会があるのですが、そんな死闘があったことなど想像もできないくらい時が過ぎ、電車は淡々と走っていくのですが、そのトンネルは当時のまま上り線で使用されていますね。
こうした静態保存機たちが、地元中央西線で甦るというのは永遠の夢ですね。
北恵那デ2
さて、私はあまり各地に訪れてはおりませんが、たぶん中津川在籍D51の保存機のうち解体されたのは長島温泉の192号だけだと思いますし、集煙装置付きは蒲郡の201号かな。それにしてもどこのD51も集煙装置外したら短縮されたままの煙突が気になってしょうがないのですが。まあC57の7番ほどは気にならないですが。保存機の訪問記、今後も楽しみにしてます。
しなの7号
私は中津川のD51現役時代については、中津川機関区最末期しか写真の記録がないですから、長工式集煙装置装備の姿が自然に思えてきます。おっしゃるように多くの保存機が集煙装置を外したまま煙突が短くなっている姿は中途半端で気になりますね。
最近の模型も精密化が進んで、たとえば「小樽築港機関区時代のC62」というふうに、特定ナンバーの特定時代設定がされてくるようになりましたが、保存機もそれぞれ、現役時代の異なる時代設定に復元して保存されるとよいですね。
貨車区一貧乏
静態保存されてる車両ですが、自動車なども一緒ですが
屋根付きと野ざらしは、やはり屋根付きが圧倒的に保存状態が良いですね~
しなの7号
私は一時期、保存機関車巡りをしていたのですが、写真を撮るには屋根が邪魔なのですが、保存状態を考えるとやむを得ないところです。
野ざらしでとんでもない醜い状態の機関車にも出くわしたことがありますが、近年になって志ある方々のお力で甦った例も聞いております。自分で何にもやらないで偉そうには言えませんので、その方々には頭が下がる思いがいたします。
hmd
台風の影響で天気が悪いですね。
当方ブログにコメントを頂きまして、ありがとうございます。
中津川機関区で活躍した蒸機が三両も静態保存とは、なかなか贅沢なのかもしれません。うちの近くの某路線ではc58がメインだったらしいのですが、保存機の話を聞いたことがないので、どうなっていることやら・・・。
市立公園にD52が柵と鍵付き(管理事務所で公開時間が限定)で保存されいていますが、北海道の車両らしいです。
しなの7号
中津川機関区には晩年D51とC12が配置されていまして、実はこの記事の続編ができるほど保存車は多いです。
時期的に遅くまで活躍しましたから、もう転属先もなく、その代わりにあちこちから保存誘致のお話があったようです。
takeーy
ツバメマーク付きの写真は初めて拝見しました(^o^)
しなの7号
つばめマークの画像は1973年5月3日、臨時快速「木曽路」の仕業終了後の撮影です。「木曽路」は5月5日まで運転されました。4日は学校があり撮影していませんので、4日はどういう状態だったか不明ですが、5日にはつばめマークはなくなっていました。
島田を訪れてから20年も経ってしまいましたので、また、101号機に会いに行きたいと思っています。
take-y
レプリカナンバープレ-トを設置して見栄え改善もしていますのでまたぜひいらしてください(^^)。
https://blogs.yahoo.co.jp/takeyyl/15029839.html
しなの7号
ナンバープレートがあるだけで、生きた機関車に近づきますね。GJ!!