国鉄に就職してから最初は乗務掛をしていまして、いつも荷物車に乗務する仕事でした。
マニをはじめとする荷物車は分類上客車なのですが、乗客が利用するわけではないので、一般にはなじみが薄い客車です。これまで続けてきた「乗務した車両」シリーズで、これから荷物車についてお話するにあたって、荷物車がたくさんつながった「荷物列車」について、ちょっと触れておきましょう。
荷物車と乗務掛の仕事の概要は、かつての拙ブログ記事で「【17】 乗務掛2:荷物車について」の記事をはじめ、いくつか紹介しました。
(パソコンでご覧いただいている場合は、画面右側の「ブログテーマ」の中の「荷物列車」の文字をクリックすると荷物列車関連の記事だけが抽出できます。)
貨車の緩急車が北海道と四国以外をランダムに運用されていたことに対して、客車である荷物車や郵便車は一般の客車同様きちんと運用表に従って運用されていました。その運用線区によって電気暖房の設備がある車両が限定使用されました。
客車の多くが編成単位で運用されるのに対し、荷物車は1両ごとに運用されていました。荷物は人間様と違って終点でも勝手に乗り換えてくれませんから、荷物車の場合は積みかえの手間を省く意味でかなりの長距離運用が存在し、連絡船による航送運用もありました。
こうした1両単位の運用車両をつなげたのが荷物列車です。荷物車は、もともと旅客列車の端っこにつながれていることが多かったのですが、旅客列車が電車や気動車に置き換わって、こうした専用列車化が進んでいったのです。
その荷物列車の一例をあげてみましょう。車番や所属は記録してありません。
昭和50年3月10日改正
東海道本線上り 荷30列車
運転区間 東小倉~汐留
<<編成は汐留駅到着の時点のもの>>
乗務区間:名古屋~汐留
機関車 EF58
スニ 熊荷205 (熊本~東小倉~汐留)
ワキ 熊荷204 (熊本~東小倉~汐留)
マニ 熊荷1 (熊本~東小倉~汐留)
マニ 南東荷6 (博多~東小倉~汐留)
オユ 門郵5 (東小倉~汐留)
スユ 南東郵303 (東小倉~汐留)
オユ 門郵3 (東小倉~汐留)
マニ 名荷1 (名古屋~汐留)
形式の後に書いたのは運用番です。車両運用を担当する鉄道管理局の頭文字に番号が付けられています。編成はどの列車でもこのように決められていて、一両ごとに運用番が異なり、車両の行先はもちろん、積載する荷物の種類や着駅の方面別にそれぞれの車両で異なっていました。
乗務掛はこのような編成のうち行路ごとに指定された運用番の車両に乗務して仕事をしたのです。この荷30列車の場合、私どもが乗務していたのは最後尾の「名荷1マニ」でした。その「名荷1マニ」の積載方も次の写真のように決められていました。
荷物輸送では、パレット輸送と言って、専用の「パレット」と呼ばれる台車へ発駅で荷物を事前に中継駅ごとに仕分けして載せ、そのパレットごと荷物や郵便を車両に積載し、指定駅でパレットごと取り卸す方法も併用されていました。その運用には専用車両が使用されていましたので運用番が区別されています。運用番が200番代のスニやワキ、300番台の郵便車スユがそれです。パレット輸送車両は無人なので、車内での仕訳作業はしません。そのため決められた駅以外での積卸は不可能でしたが乗務掛が不要なので人件費削減の意味合いから徐々に増えていきました。
乗務列車は同じでも、行路が複数あって、その行路によって乗務する車両が違う場合もありましたし、私が所属していた車掌区では他にも複数の列車、複数の路線を担当していたので、私が乗務した荷物車の所属区は以下のように多数ありました。
汐留客貨車区(南トメ)
向日町運転所京都支所(大キト)
名古屋客貨車区(名ナコ)
竜華客貨車区(天リウ)
長野運転所(長ナノ)
高松運転所(四カマ)
秋田運転区(秋アキ)
盛岡客貨車区(盛モカ)
昭和52年2月15日 盛岡客貨車区のマニ362035の写真です。
荷物車は不要になった一般の客車から改造車も多くあります。作業衣姿の荷扱専務車掌氏(ニレチ)が乗っているマニ36は「丸妻車」と呼ばれる形状で、車端部の屋根と車体左右が絞られています。その後ろの車両はマニ60で、「切妻車」です。車端部の断面が違うのがよくわかる写真です。このようにいくつかの形式の荷物車に乗務する機会があったので、来週から荷物車について形式別に「乗務した車両」シリーズを始めることとします。



この記事へのコメント
TOKYO WEST
荷物列車というのは私自身もなじみや関心も薄かったのですが、昭和53年頃の鉄道ジャーナルでは東海道本線の荷物列車の列車追跡が掲載されていて、なかなか面白かったことを覚えています。東京車掌区汐留支区受持ちの列車でしたが、専務車掌のほか車掌補と乗務掛も乗務しており、昭和51年の寝台車への車掌補乗務廃止以降も荷物車にはまだ車掌補が乗務していたこと知った次第です。
ところで、1件お尋ねしたいのですが、荷物列車に乗務していた専務車掌で運転担当となる者は、旅客列車と同様に「乗客専務」の腕章を着用していたのでしょうか。荷扱いで「乗客専務」というのも?なのですが、服制及び被服類取扱基準規程でも車掌職の腕章は「車掌長」「乗客専務」「車掌」の3種類しかなく、「乗客専務」の腕章の着用対象は規程上では(客扱、荷扱を問わず)専務車掌とされていたはずですので、以前から気になっていました。ご教示願えると幸いです。
しなの7号
おはようございます。
荷物列車が鉄道雑誌に記事として取り上げられたことは少なかったと思われます。寝台車の乗務掛や車掌補に比べるとたいへん地味な職種でした。
ご質問の件ですが、私は規定上のことは存じていないわけで、私どもの職場の実態ということで回答します。
私が所属した職場では専務車掌(荷扱)のほか車掌長(荷扱)の職名がありましたが、交番上も区別することなく共通で乗務していました。車掌長(荷扱)であっても専務車掌(荷扱)であっても運転兼掌として乗務するとき着用していた腕章は「車掌」でした。
もちろん運転兼掌でない場合には着用しません。
TOKYO WEST
やはり「車掌」の腕章でしたか。規程云々はともかく実際の様子を以前から知りたくてお尋ねした次第です。
大変参考になりました。
しなの7号
おはようございます。
腕章ひとつとっても奥が深いですね。乗客扱の車掌長で車掌長行路乗務の際にも常に専務車掌の腕章を着用していた車掌区もありましたし。
荷物列車では、運転兼掌なのに腕章をしない人もあったのですが、これはただの横着なんでしょう^^;
hmd
実は、荷物列車だけという編成は見たことがありませんです (^_^) 物心ついた頃には、殆ど、無くなっていたのかもしれないです(唯一、中央東線の湘南色?のクモニ位です)。
勤務している周辺の駅の荷物を積載している車両では、載せ降ろしが頻繁にあったと思いますが、遠い方面の車両(パレット車以外)も、結構、載せ降ろしがあったのでしょうか?
しなの7号
国鉄の荷物輸送は昭和61年までに一部を除いて廃止になりましたが、それまでも地味な列車でしたからご存じない方が多いのは無理もありませんが、交通公社の大型時刻表には主要な荷物列車の時刻が載っていました。
荷物車の積載方はうまく作られていて、東海道本線の荷物車の場合、たとえば山陽方面から東海道本線内への荷物を積んできた荷物車には、東海道本線内に入ると、その荷物車の終点汐留以遠の荷物を積めるよう決められたりしていて、積んでは卸しの連続になりました。しかし、車両ごとに積載量を平均化するのは難しいようで、忙しい車両とヒマな車両とがありました。
ラモス
自分も荷物車についてはほとんど記憶の無い世代です。紀勢本線の客車列車で津よりも南に下る列車には一両くらいは連結されていたと思いますが…
私も昔から気になっていた事を質問させていただいてよろしいでしょうか?
荷物列車や車掌車に乗っている車掌さんは走行中何をしていらっしゃるのでしょう、切符を切るようなことも無いでしょうし…何か事務仕事でもあるのでしょうか。
変な質問なのですがご教示願えると幸いです。
しなの7号
そうです。紀勢本線では荷物専用列車はなくて客車に連結されていましたね。参宮線のディーゼルカーにもキユニという車両が走っていました。
ご質問の件ですが、一緒に乗務する荷扱専務車掌はその車両の責任者になります。積卸する荷物の授受個数をチェックして授受証という駅への引継伝票を作成します。その他、国鉄部内の文書や配布物も輸送しましたので、その仕訳、もちろん乗務掛の荷物の仕訳にも手を出してくれました。貴重品や急送品の荷物の管理もしていました。
荷物専用列車の場合、1つの列車に複数の荷扱専務車掌が乗務している場合、そのうち1人は運転業務を兼掌し、列車全体の運転上の責任者となりました。
運転業務についてと、貨物列車の場合については、以前拙ブログで書いておりますので、よろしければ参考にしてください。
【27】 貨物列車に列車掛(車掌)は必要?
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201006article_13.html
【33】 列車掛3:その仕事の概要は…https://shinano7gou.seesaa.net/article/201007article_4.html
貨車区一貧乏
荷物列車との接点は横浜羽沢と汐留。59.2ダイヤ改正時に大宮操で廃車待ちをしていた車両群でした。
荷物車の車内を見たことがなかったので、大宮操に到着し車掌区までの間に留置していた車両を密かに探検してみました。深夜の電気の点いてない車内は、ちょっと不気味で、そそくさと切り上げました。
荷物列車は急行でしたよね?
横浜羽沢では数分の停車で、発車してた記憶があります。
当時の私は、お客さまと接するのがちょっと苦手なので列車掛廃止になったら 荷物列車にのりたいなって本気で考えましたが同時期に廃止でした
しなの7号
実は私が荷物列車に乗務していたのは昭和54年の横浜羽沢開業前のことでした。横浜羽沢の開業時にはパレット化や乗務員が乗らない締切化による合理化があって人員削減がありました。東海道本線の荷物列車のほとんどが急行で、各駅停車の荷物輸送は電車に併結のクモニやクモユニで運用されていましたね。
そういえば59.2以降のダイヤ改正のたびに余剰車両が各地で留置される姿が展開しましたね。鉄道と自分の先行きに不安を感じるようになった頃でした…
あえてカレチの道を選ばず荷物列車のニレチとして過ごす方も少なからずありました。自分の父親もその一人です。
コメントありがとうございました。