【202】 中山道宿場巡りの旅:はじめに

旧中山道は旧東海道とともに江戸と京都を結ぶ道で、五街道の一つです。
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明治初期に東京~京都間の鉄道を建設するにあたって、当初は旧中山道ルートで計画され、途中で東海道ルートに変更されたという経緯があります。垂井以西草津までの東海道本線は関ヶ原越えで中山道ルートに沿うように敷設され、旧東海道は遠く離れて関西本線の亀山経由で鈴鹿越えをしていますので、東海道本線という名称はこの区間に限っては実態に合っておらず、中山道本線とすべきかもしれません。そういう事情もあってかJR西日本では東海道本線のこの区間に「琵琶湖線」と愛称を付けています。

この中山道は私の実家がある岐阜県の東濃地方を通っています。通っていた中学校から歩いて10分程度のところにひっそりとある、自動車の行き違いもできないような細道が中山道で、社会の授業では実際に中山道にある馬頭観音を見に行ったりしましたし、同級生に明治天皇の通行の折に休憩された旧家の方がいたりしました。
また、近くには古い街並みが残る妻籠や、幕末から明治維新の激動の日本を伝える長編小説「夜明け前」の舞台となり、その著者島崎藤村の生家がある馬籠がありました。そのため私は中山道を身近な道と感じていました。

鉄道開通の前、徒歩交通が主だったころの主要幹線道路であった中山道の宿駅のすべてを、列車で訪れるというのも一興かと思い、私は2005年に中山道の宿場巡りの旅を開始しました。この時点では中山道を「線」として踏破するという目標は持っておらず、69ある宿駅と両端の江戸日本橋と京都三条大橋を入れた71か所を「点」として訪れるということでした。

そのころの私は、当時残存していた旧国鉄線のほとんどを乗りつくし、旧国鉄線全線完乗は、「その気」になれば、いつでもできるといったことになっていましたが、鉄道に乗りつくすことだけが目的でなく、鉄道に乗る用事が欲しかっただけのことです。
手段として鉄道に乗れば、ふだん利用しない線区や駅へ行けるわけです。
また、旧国鉄線全線完乗は、その未乗線が九州にあるため手軽にはいけません。まだ「その気」になっていませんので、未だに放置です^_^;中山道なら関東地方なら1泊、あとは日帰りも可能なので手軽です。

さて、旅立つに当たり、自分なりにルールを決めました。

各宿場町最寄りの駅から宿場町中心部までは歩いて往復。
東京日本橋から京都三条大橋まで順に宿場を訪問する。
交通手段は鉄道を主として利用し、一切タクシーは利用しない。路線バスは使用可。
宿場最寄り駅では駅名標と駅の写真を撮る。
宿場の中心部で宿場名が入った写真を撮る。


このようなルールですが、難点も多々あります。
前述のとおり、東京と京都を結ぶ鉄道は東海道ルートになってしまいましたので、中山道には鉄道路線が近くにない区間が長野県内と岐阜県内を中心に存在するのです。
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こういうところは、宿場間の移動もバスまたは徒歩しかありません。この場合、駅名標や駅の写真は撮れないので、バス停の写真を撮ることにしました。
また、中央西線並行区間(木曽路)は、列車の本数が少ないので、いったん降りたら、次の列車まで2~3時間は空いてしまいます。さらにその先大井宿から御嵩宿までの間は前述のように鉄道も、他に利用できそうな交通機関もありません。しかしながら、この辺りは自宅から近いエリアなので、あえて塩尻から先は関ヶ原あたりまでについては、「往復には交通機関を使うものの、宿場間の移動はすべて徒歩」とすることに決めました。

こうして、2005年5月に第一回目を始めました。結果的に71か所すべての訪問に延べ29日かかりました。意外に長くかかったのは、途中で方針転換があって、塩尻以西については、関ヶ原からさらに先にある草津宿までの中山道を、すべて徒歩で踏破することに変更したことによります。

草津宿から先の中山道は東海道と合流しますので2つの街道の重複区間となります。草津宿から大津宿をはさんで終点三条大橋までの徒歩による踏破は後日のお楽しみとして取っておき、塩尻から草津宿まで完全踏破のあとは、塩尻以東、それまで宿場だけの点としての訪問だった中山道も、すべて宿場間を徒歩によって線として訪問しなおすこととし、つなぎ合わせると日本橋~草津間の中山道単独区間すべてを徒歩で踏破する目標に変更しました。その結果、さらに延べ14日を要して、最終的に2009年12月に合計所要日数延べ43日で中山道の日本橋~草津宿の約514㎞を徒歩による完全踏破にこぎつけたのでした。
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ここでも、東海道合流後の草津宿から三条大橋までは「その気」にさえなれば1日で歩けるわけですが、どうも冒頭部分での旧国鉄線完乗直前で放置したままであるのと同様に、完璧の前に立ち止まってしまう私の癖が出ているようで、この区間も徒歩による踏破はまだです。

今後、日本橋から三条大橋へ向けての行程と、その時見たり乗ったりした列車の写真を中心に鉄道関係の写真をアップしていきたいと思います。中山道そのものにはあえてほとんど触れず、鉄分含有でいきますので、お付き合いいただければうれしいです。
次回は【204】 中山道宿場巡りで見た鉄道風景(1):日本橋~新町宿です。

この記事へのコメント

  • くろしお1号

    しなの7号様、こんばんは。明日は休みなので、TVのCMに倣って、今夜はプレミアムモルツを奢りました。しなの7号様が現役、私のくろしお時代にはビールはビールだったのに、今や普段のビールは「もどき」ばっかりです!
     しなの7号様の鉄道への深い造詣は、いつも味わいある文章と貴重な写真から、とてもよく伝わってきますが、鉄道以前の交通までこんなによく研究されているとは、本当に感嘆するばかりです。それも、安易な自動車利用でなく、公共交通機関と徒歩による探訪!更にハードルを上げて、徒歩による踏破!!時間や距離感が最もリアルに感じられたものと思います。
     しなの7号様には、宮脇文学の素晴らしさを教えていただきました。たくさんの作品を読みました。そして、貴ブログを拝読した後は、宮脇作品を読んだ後の充実感と、また次を読みたくなる…同じ感覚を抱いていることに気付きます。鉄道、地理、歴史が幅広く描かれていて、とても読み応えがあります!中山道編、続きを楽しみにしております。
     前回の荷物車シリーズ、時間がなくコメント出来ませんでした。旗振り時代の記憶に、関西線には4041、4042列車(名古屋~百済)という荷物列車がありました。これは、57.5電化による客車列車廃止によって荷物車を集約したものと認識していましたが、電化以前に亀山以西へ向かう荷物列車の記憶がありません。お教えいただけましたら幸いです。
    2011年09月16日 00:22
  • しなの7号

    くろしお1号様
    休日の前日、仕事が終わってのビールはいいですねえ。
    今日は私が「その日」ですが、あいにく安酒。ただし、そこらにはない福島の地酒であります^^
    近くの酒量販店で発見したやつです。
    明日から3連休です(^o^)丿

    ところでお褒めのお言葉を頂くほどのものではございません。駄文に下手な写真でお恥ずかしい限りです。
    今回は鉄分少なめですが、鉄道によって衰退していった徒歩旅行の時代の遺構に触れてきたわけですが、旅の中でも鉄分は抜けません。来週からは中山道の旅に名を借りた鉄道話をサラッと流したかんじで進めます^^

    関西本線の荷4040代の荷物列車は、すでに53.10ダイヤ改正時に登場していて、名古屋~亀山間の客荷分離が電化前に行われています。亀山以西はさらに早く、昭和40年代のSL時代に完了していました。2けた40代の列車番号でした。名古屋からの荷物車は旅客車と併結で亀山まで来た後、荷物車ばかり3~4両の専用列車に仕立てられ百済へ向かっていました。
    2011年09月16日 20:50
  • くろしお1号

    お仕事お疲れ様でした。週末のお酒…その産地を想いながら(勿論、そこへ至る路線も)いただくと、味わいもひとしおと思います。
     荷物列車の件、ありがとうございました。旗振りを始めたのは電化1年前だったので、その時すでに運転されていたのですね。全く記憶がなく、お恥ずかしいばかりです。亀山で機関車交換があったと思われるので、着機を迎えに行っているはずなのに…亀山以西の客車列車は、京都行きの一番しか覚えていません。
     当時の機関区日報などを残しておくべきでした。しなの7号様の、まるで昨日の事のように正確な記録には、本当に敬服いたします。
     二度投稿、失礼いたしました。
    2011年09月16日 21:55
  • しなの7号

    くろしお1号様 おはようございます。
    地酒は当たりはずれがあるのですが、安酒ならそれほど期待せずに買うので、はずれでも気になりません^^;
    酒は好きですが、まったく量が飲めないほうなので情けないですが、見慣れないラベルを見ながらその地を想いながら飲むのはいいものです。

    私が荷物列車に乗っていたのが昭和54年までで、昭和57年の関西線電化前でしたので間違いないです。京都行きのは最後は50系だったと思いますが、私は50系客車はマニ50とスユニ50以外に乗務経験がありません。名古屋鉄道管理局にはオハフ50やオハ50の配置がなかったので、亀山に行くと見る真新しく赤い車体が新鮮でした。
    2011年09月17日 05:22
  • hmd

    しなの7号さん、こんばんは。
    相変わらず、残暑が厳しいですね。

    旧街道シリーズ開始ですか (^_^)/ 中山道は、とても雰囲気が良いですね。私も旧街道大好きです。それも、しなの7号さんの鉄道を使った歩きつぶしとは凄いです。自分は、自動車でピンポイント旧街道歩きが多いので・・・(汗)
    鉄道有史以前の街道時代(徒歩時代)は、その町や鉄道敷設の歴史にも大いに関連や影響をしていますので、非常に面白い分野だと思います。歩いていると、鉄道のなかった頃の時代を、しみじみと感じます(鉄道が、とてもありがたく感じます 笑)。
    しかし、鉄道ファンの大多数は鉄分が無いので、興味が無い人が多いですが・・・。
    続きも期待しております。
    p.s. 天浜線の後に、鉄道利用で新居宿~舞阪宿を歩きました。
    2011年09月18日 20:41
  • しなの7号

    hmd様 こんばんは。
    今日も昼間は暑かったです。それでもちょっと鉄分補給で、太多線に乗って美濃太田まで行ってきました(^o^)丿

    鉄道ができる以前の旅を想う時、歩いてみないとその大変さはわかりません。新幹線に慣らされてしまうと在来線のその良さが忘れ去られますね。
    運動不足解消の意味もあって途中から歩数計も買い込んで歩きました。鉄道利用なので鉄分を含めて行程をお伝えしたいと思っていますのでよろしくお願いします。

    東海道は新居宿付近のように海に近くて中山道とはまったく違った旅ができそうですね。いまのところ私には無理そうですが…
    2011年09月18日 21:08
  • 南駒ケ岳

    太多線ご利用ありがとうございます。NHK連続ドラマ「ひまわり」は安曇野が舞台で当地は大変賑わっています。その安曇野の燕岳(つばくろだけ)に日帰り登山に行ってきました。本来は3連休の2日を使い、裏銀座と言われるコース(高瀬ダム→ブナ立尾根→野口五郎岳→水晶岳)を予定していましたが、台風予報に振り回され断念しました。水平方向の歩行は苦手でも縦方向は結構いけます。中房温泉登山口から合戦小屋まで35人抜き。(出始め「山ガール」が多いため?)しかし昨年より登り下りとも5分遅くなりました。さて本題ですが、太多線も車種(キハ11、40、47、48、85)が豊富で楽しめます。お薦めはキハ11です。車両が小さく導入当初はレールバスと言われましたがボックスシートの掛け心地は快適です。メンテナンスも行き届き車両のゆれや窓のがたつきもありません。ただ変速時のショックはあります。他の大型DCの変速時には「間」があるためそう感じるのかもしれません。ボックスシートのピッチが狭いのはキハ47で人気がありません。今日は珍しくキハ47オールの4連が走っていました。今後は、武豊線電化で都落ちした車両が来るとのことですが楽しみです。ホームの段差がもっかの課題かな。著名な作家氏は太多線は何の特徴もないと素っ気ない感想でしたが、多治見駅での中央線との併走、可児駅での名鉄との併走、美濃川合の木曽川橋梁は見ものですよ。美濃太田機関区の謎の車両群たちも鉄分補給にはもってこいです。終着駅がないので旅情といった感傷みには欠けるのかもしれませんね。
    2011年09月19日 20:05
  • しなの7号

    南駒ケ岳様 おはようございます。
    連休中は日帰り登山でしたか。私は遠出する気力がありませんので、美濃太田まで行って旧国鉄色のキハ40、48を見てきまして、太多線は往復キハ11に乗ってきました。
    古井駅で写真を撮り、帰路は美濃川合まで歩いて乗りました。長い鉄橋を間近に見る夕方の無人駅での列車待ちはなかなかよかったです。謎の車両群?の様子も見てきました。
    宮脇俊三さんの著書「途中下車の味」のなかで太多線に乗った記述がありますが、そのことですかね?
    混んでいる列車でひたすら我慢の乗車だったようですね(^_^;)
    このとき宮脇氏は木曽福島と妻籠に途中下車をして飛騨小坂の温泉で泊っています。
    太多線は短い線区で乗り甲斐がないように思われますが、おっしゃるとおりで見所は凝縮されてますね。車種が多いのも国鉄時代と同じです。
    その日も旅行者のご夫婦が乗っておられ、可児駅あたりで沈む夕日を写真に撮っておられました。その乗った時の印象はその時ごとに違うというのは宮脇氏ご自身が言っておられますが、そのとおりだと思います。

    キハ11は参宮線などでよく乗る機会がありますが、JRの軽快DCのなかでは良い部類だと思います。それでも自分としては、やっぱり乗り心地の悪いキハ48などに乗ってみたいと思っています。
    2011年09月20日 07:09

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